時期外れだけど、DVD借りてきて、観てみました。
どうせ投資会社の差し金か何かで、タイミングよく生み出された投資促進映画(言ってみれば『facebook』称賛)の一種ではないかという先入観があったが、そうではなかったようだ。
一言で言うと、新しいタイプの青春群像、という感じかな。
創業者で大富豪となったマーク・ザッカーバーグが、極々身近な等身大の若者として表現されていた。親友のサヴェリンもそうだし、周りの若者たちもそうなのだ。大企業礼讃やベンチャー万歳(笑、むしろ、f●●●'n、か?)なんかじゃなく、「学園祭の後」っぽさがあるのだ。
思い出すのは、バカ騒ぎをしていた頃の、ホリエモン率いるライブドア、みたいなものだ。ああいう空気だ。
若者たちは、どういうチャレンジをしたか?
どんなヤツが、会社を興したのか?
そういう疑問に簡潔に答えてくれる映画なのだ。
若くして億万長者になるような人間なのだから、相当の変わり者なのかな、とか思うだろう?
どんな変人なんだ?と。
どれくらいヘンなヤツなのか、と。
いやいや、そこら辺にいる若者と同じように、バカをやったり、ふざけたり、悩んだり、迷ったりする、普通の人間なのだ、ということだ。マークはオランダ系ユダヤ移民の末裔
か?
双子兄弟は、バックボーンを持っていた。恐らく、マークは、持たざる者、だった。それが、あのクラブの話なのだ。持たざる者ゆえの、屈折したような、或いは劣等感のような何か、それがザッカーバーグの心のどこかに「引っかかり」のようなものとして存在していたのかもしれない。サヴェリンが劇中で言うクラブ入会に嫉妬したんだろう、というのが、友が感じ取っていたマークの劣等感の表象のようなものだったのではないか、と。友ゆえに分かることだ。双子兄弟は勿論、それを保持していた。生まれながらにして、コネを手にしていた者、それがあの双子だったのだ。マークにとって、それは越え難い壁だった。ボート部員というのも同じ。屈強な肉体は、そう簡単には手に入らない(笑)。195㎝、100kgのアスリートの肉体は、選ばれた者しか持たない、ということなのだ(ぼく自身もよく分かる、笑)。マークには、及びもつかない”高み”だった。
それゆえ、彼らへの反発心は強かったのではないかな。
冒頭のシーンで、クラブ入会という話題で揉めるのだが、マークが「どうして入りやすいクラブを尋ねるのか」ということに強いこだわりのようなものを示したことが、エリカにとっては何のことなのか分からなかったのだと思う。ただ「何となく」訊いただけ(女子にはありがちだ)なのに、そこに自分を侮辱されたかのような錯覚を抱いてしまうマーク。喩えて言えば、「東京6大学で、どこの大学に一番入りやすいの?」と尋ねられた時の心境、みたいなものだ。
そして、つい、うっかり「BU」と(本音を)言ってしまう。ボストン大なんて、ハーバードという一流大学に比べれば、楽勝じゃないか、と。「女の子」がどう思うか、ということよりも、自分の思っている「単語」をついつい出してしまう、というクセが出るわけだ。
最もありがちな、若かりし頃の過ちの一つだ。
相手がどう思うか、ということよりも、”自分”を主張することを優先してしまう、という典型的な誤りだ。大人になるに従い、言葉には衣をまとい、慎重に単語を選ぶようになる。若者ゆえの冒険的な表現は、使われなくなり、正直でなくなってゆく。それは同時に、女性を落とす時の、スキルとして役立つようになってゆくという寸法だ。マークは、まだそこまで大人にはなっていなかった。
作品中では、マークは美化されるわけでもなく、アメリカンなヒーロー像でもない。共感できるキャラクターか、と言われると微妙だ。憧れる対象かと問われると、それも疑問かもしれない。映画中では、誇大に表現されたり、偶像化されてもいないのだ。少なくとも、英雄ではない。新米の女弁護士に慰められる程度の、一人の若者として描き出されているのだ。
双子兄弟のような屈強な肉体もなく、金持ちでもなく、コネもないマークにとって、唯一勝負できる武器として「持っていたもの」は、彼の類稀な創造性だった。選ばれた者だけが持つ、プログラミング技術という最強の武器を、彼は持っていた。これで勝負しよう、と彼は考えたのだ。そう、勝負だ。
コーディングを愛し、彼の「子」或いは分身であるところのフェイスブックを、誰よりも深く愛していたのだ。
恐らく、友のサヴェリンは「プロジェクト」の一種か「新規ベンチャー」の仕事だったのだろう。ザッカーバーグにとっては「我が子」同然であっても、サヴェリンにとっては金儲けの手段の一つでしかなかったのだろう、と。現実世界では、確率的に圧倒的大多数がサヴェリンの予想通りなのだ。フェースブックのような結末は、そうそう転がっていない。確率的には、そうなのだ。麻雀で、役満の狙える手が入っているとして、それを狙いに行けるかと問われると、難しいのだ。しかも、この場合にはダブル役満かトリプル級だったのだから。それを狙いに行くのは、殆どの場合、無謀か愚か者だけだ。
ショーンは、そういう意味においては、恰好の山師だった。
以前ネット界隈で人気を博した「モチオ」を見るような目で、いたいけな若者がキラキラした目でショーンを見つめたとしても、不思議ではない。実務派のサヴェリンからすると、ショーンは「会社を破滅させる危険人物」以外の何者でもなかったであろう。それはそうだ。堅実なビジネスの場を考えれば、ショーンのような人間は「一発屋」でしかないだろう。だが、ザッカーバーグの心を捉えて離さない、カリスマを備えていたに違いない。颯爽とアポイントを取ってくる男の関心事は、金と投資家と時価総額だった。ホリエモン的な発想とよく似ているのだ。
若者にとっては、銀行家よりも冒険家の方が魅力的に映ることは間違いないからね。
ハーバードの秘密クラブに匹敵するか、それを超えるだけの「見たこともない世界」を見せてくれたのが、ショーンだったのだろう。マークにそれを与えてくれたのは、サヴェリンではなかったし、ルームメイトや特殊な世界しか持たないプログラマーたちではなかった。多分、マークは大人になったような気がしたに違いない。契約とか、特殊な用語とか、経済や法律的な用語やしきたりなんかに触れてゆくにつれ、「大人の世界」に足を踏み入れるワクワク感みたいなものを味わったのであろう。その先導役が、ショーンだったのだ。けれども、ショーンはやはり「溺れてゆく者」だった。金、女、ドラッグ、そういったものにドップリ浸かって、どんちゃん騒ぎをしてしまう人間だった。
マークは尊大な人間なのではないだろう。
多分、自分の解決できない問題には、あまり興味を持てないか、関心を示さないのであろう。自分の貴重な時間が奪われることや、自分にとってあまり意味のないことに煩わされることを嫌っていたのだと思う。けれど、それは「子供時代」だけに許された自由であった。規模の小さな、自分の趣味かそれに少し毛の生えた程度の範囲内の時代であれば、許されていたに過ぎなかった。
次第に、大人になる、ビジネスという場で生きねばならくなる、そういう環境変化によって、ノリでできた学生時代とは異なっていったのではないか。
オタクから企業経営者への脱皮という過程を必要としたのだろう。
Nerdから、CEOへ。
友と離れていったのは、「仲良しクラブ」が終わりを告げたということだった。
それと、facebookからは「the」が取れたのだが、映画タイトルの「the social network」には残してあるのだった。まあ、そういうものなのか。ソーシャル・ネットワークはフェイスブック以外にもあるからね。
邦題からは外してあるのだが(近年の題名には殆ど見られないかな)。
フェイスブックの創業者に共感するというよりも、ただの一人の男子学生であるマークには、「ああ、あるある」とか「何となく分かるような気がするよ」という共感や実感のようなものがある映画だった。映画らしい映画だった。もっと早く観ておけば良かったな。
どうせ投資会社の差し金か何かで、タイミングよく生み出された投資促進映画(言ってみれば『facebook』称賛)の一種ではないかという先入観があったが、そうではなかったようだ。
一言で言うと、新しいタイプの青春群像、という感じかな。
創業者で大富豪となったマーク・ザッカーバーグが、極々身近な等身大の若者として表現されていた。親友のサヴェリンもそうだし、周りの若者たちもそうなのだ。大企業礼讃やベンチャー万歳(笑、むしろ、f●●●'n、か?)なんかじゃなく、「学園祭の後」っぽさがあるのだ。
思い出すのは、バカ騒ぎをしていた頃の、ホリエモン率いるライブドア、みたいなものだ。ああいう空気だ。
若者たちは、どういうチャレンジをしたか?
どんなヤツが、会社を興したのか?
そういう疑問に簡潔に答えてくれる映画なのだ。
若くして億万長者になるような人間なのだから、相当の変わり者なのかな、とか思うだろう?
どんな変人なんだ?と。
どれくらいヘンなヤツなのか、と。
いやいや、そこら辺にいる若者と同じように、バカをやったり、ふざけたり、悩んだり、迷ったりする、普通の人間なのだ、ということだ。マークはオランダ系ユダヤ移民の末裔
か?
双子兄弟は、バックボーンを持っていた。恐らく、マークは、持たざる者、だった。それが、あのクラブの話なのだ。持たざる者ゆえの、屈折したような、或いは劣等感のような何か、それがザッカーバーグの心のどこかに「引っかかり」のようなものとして存在していたのかもしれない。サヴェリンが劇中で言うクラブ入会に嫉妬したんだろう、というのが、友が感じ取っていたマークの劣等感の表象のようなものだったのではないか、と。友ゆえに分かることだ。双子兄弟は勿論、それを保持していた。生まれながらにして、コネを手にしていた者、それがあの双子だったのだ。マークにとって、それは越え難い壁だった。ボート部員というのも同じ。屈強な肉体は、そう簡単には手に入らない(笑)。195㎝、100kgのアスリートの肉体は、選ばれた者しか持たない、ということなのだ(ぼく自身もよく分かる、笑)。マークには、及びもつかない”高み”だった。
それゆえ、彼らへの反発心は強かったのではないかな。
冒頭のシーンで、クラブ入会という話題で揉めるのだが、マークが「どうして入りやすいクラブを尋ねるのか」ということに強いこだわりのようなものを示したことが、エリカにとっては何のことなのか分からなかったのだと思う。ただ「何となく」訊いただけ(女子にはありがちだ)なのに、そこに自分を侮辱されたかのような錯覚を抱いてしまうマーク。喩えて言えば、「東京6大学で、どこの大学に一番入りやすいの?」と尋ねられた時の心境、みたいなものだ。
そして、つい、うっかり「BU」と(本音を)言ってしまう。ボストン大なんて、ハーバードという一流大学に比べれば、楽勝じゃないか、と。「女の子」がどう思うか、ということよりも、自分の思っている「単語」をついつい出してしまう、というクセが出るわけだ。
最もありがちな、若かりし頃の過ちの一つだ。
相手がどう思うか、ということよりも、”自分”を主張することを優先してしまう、という典型的な誤りだ。大人になるに従い、言葉には衣をまとい、慎重に単語を選ぶようになる。若者ゆえの冒険的な表現は、使われなくなり、正直でなくなってゆく。それは同時に、女性を落とす時の、スキルとして役立つようになってゆくという寸法だ。マークは、まだそこまで大人にはなっていなかった。
作品中では、マークは美化されるわけでもなく、アメリカンなヒーロー像でもない。共感できるキャラクターか、と言われると微妙だ。憧れる対象かと問われると、それも疑問かもしれない。映画中では、誇大に表現されたり、偶像化されてもいないのだ。少なくとも、英雄ではない。新米の女弁護士に慰められる程度の、一人の若者として描き出されているのだ。
双子兄弟のような屈強な肉体もなく、金持ちでもなく、コネもないマークにとって、唯一勝負できる武器として「持っていたもの」は、彼の類稀な創造性だった。選ばれた者だけが持つ、プログラミング技術という最強の武器を、彼は持っていた。これで勝負しよう、と彼は考えたのだ。そう、勝負だ。
コーディングを愛し、彼の「子」或いは分身であるところのフェイスブックを、誰よりも深く愛していたのだ。
恐らく、友のサヴェリンは「プロジェクト」の一種か「新規ベンチャー」の仕事だったのだろう。ザッカーバーグにとっては「我が子」同然であっても、サヴェリンにとっては金儲けの手段の一つでしかなかったのだろう、と。現実世界では、確率的に圧倒的大多数がサヴェリンの予想通りなのだ。フェースブックのような結末は、そうそう転がっていない。確率的には、そうなのだ。麻雀で、役満の狙える手が入っているとして、それを狙いに行けるかと問われると、難しいのだ。しかも、この場合にはダブル役満かトリプル級だったのだから。それを狙いに行くのは、殆どの場合、無謀か愚か者だけだ。
ショーンは、そういう意味においては、恰好の山師だった。
以前ネット界隈で人気を博した「モチオ」を見るような目で、いたいけな若者がキラキラした目でショーンを見つめたとしても、不思議ではない。実務派のサヴェリンからすると、ショーンは「会社を破滅させる危険人物」以外の何者でもなかったであろう。それはそうだ。堅実なビジネスの場を考えれば、ショーンのような人間は「一発屋」でしかないだろう。だが、ザッカーバーグの心を捉えて離さない、カリスマを備えていたに違いない。颯爽とアポイントを取ってくる男の関心事は、金と投資家と時価総額だった。ホリエモン的な発想とよく似ているのだ。
若者にとっては、銀行家よりも冒険家の方が魅力的に映ることは間違いないからね。
ハーバードの秘密クラブに匹敵するか、それを超えるだけの「見たこともない世界」を見せてくれたのが、ショーンだったのだろう。マークにそれを与えてくれたのは、サヴェリンではなかったし、ルームメイトや特殊な世界しか持たないプログラマーたちではなかった。多分、マークは大人になったような気がしたに違いない。契約とか、特殊な用語とか、経済や法律的な用語やしきたりなんかに触れてゆくにつれ、「大人の世界」に足を踏み入れるワクワク感みたいなものを味わったのであろう。その先導役が、ショーンだったのだ。けれども、ショーンはやはり「溺れてゆく者」だった。金、女、ドラッグ、そういったものにドップリ浸かって、どんちゃん騒ぎをしてしまう人間だった。
マークは尊大な人間なのではないだろう。
多分、自分の解決できない問題には、あまり興味を持てないか、関心を示さないのであろう。自分の貴重な時間が奪われることや、自分にとってあまり意味のないことに煩わされることを嫌っていたのだと思う。けれど、それは「子供時代」だけに許された自由であった。規模の小さな、自分の趣味かそれに少し毛の生えた程度の範囲内の時代であれば、許されていたに過ぎなかった。
次第に、大人になる、ビジネスという場で生きねばならくなる、そういう環境変化によって、ノリでできた学生時代とは異なっていったのではないか。
オタクから企業経営者への脱皮という過程を必要としたのだろう。
Nerdから、CEOへ。
友と離れていったのは、「仲良しクラブ」が終わりを告げたということだった。
それと、facebookからは「the」が取れたのだが、映画タイトルの「the social network」には残してあるのだった。まあ、そういうものなのか。ソーシャル・ネットワークはフェイスブック以外にもあるからね。
邦題からは外してあるのだが(近年の題名には殆ど見られないかな)。
フェイスブックの創業者に共感するというよりも、ただの一人の男子学生であるマークには、「ああ、あるある」とか「何となく分かるような気がするよ」という共感や実感のようなものがある映画だった。映画らしい映画だった。もっと早く観ておけば良かったな。