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日本のエネルギー政策を振り返る~通産省の国家プロジェクト

2009年11月09日 14時07分59秒 | 社会全般
これまでの政策的な取組みはどうだったのか、ということから振り返ってみたいと思う。

個人的にドラマ『官僚たちの夏』を楽しみにしていたことはあるけれども、別に礼賛したいわけでもないし、懐古趣味でもない。だが、いま目の前にある事柄の多くは、先人の歩んだ道の上にあるのだ、ということは感じるのである。国家的産業プロジェクトが「大したことはなかった、失敗ばかりで成果もなかった」というのは、そうなのかもしれない。しかし、歩んできた道のりを振り返ることに意義がないわけではないだろうと思うのである。


①環境問題に目を向ける時代へ

64年の東京オリンピック頃といえば高度成長時代を謳歌していた日本ではあったが、次第に公害問題が社会の関心を集めるようになってきていたであろう。成長の弊害が生じてきていたということでもある。72年に環境庁が誕生する少し前、日本の識者たちは知恵を集めて考えたようであった。それは、「8人委員会」というものだった。


②「8人委員会」の提言したこと

詳細は省くけれども、『日本にけるテクノロジーアセスメント』(吉澤、社会技術研究論文集Vol.6,42-57,Mar.2009)の記述によると、次のようなものだった。

8人委員会は、社会のあり方に関する政策提言を行うものとして70年に結成された。メンバーは、

渥美和彦(東大教授)
唐津一(松下通信工業取締役)
岸田純之助(朝日新聞論説委員)
白根禮吉(電電公社普及開発部長)
平松守彦(通産省)
牧野昇(三菱総研常務)
松下寛(野村総研取締役)
増田米二(経営情報開発協会理事)

といった有識者たちであった。
彼らは、

『地球という惑星生態系の長期的な維持・発展を期するため、在来の清算と消費を中心とした技術に、排出物処理の技術を加えた循環完結の技術体系と、地球有限の認識に基礎をおく資源節約型の技術を開発すべきである』

という提言を行っていたのだった。
70年当時だったから、まだまだ大量消費は推奨されていたであろう時代にあって、『循環完結の技術体系』と『地球有限の認識に基礎をおく資源節約型』という、まさに今の時代にピッタリと当てはまるものであった。この頃の有識者は、本当の意味において「有識者」ということであったのだろう。その重みという点においても。

8人委員会の提言には、先見の明があった、というべきだろう。


③「サンシャイン計画」始動

70年の8人委員会、72年には環境庁誕生、という環境とテクノロジーに関する一つの流れのようなものが出来つつあった。
そして、73年の通産省には産業技術審議会があった。審議会答申の素案や骨格が固められていったが、その中で生まれてきたのがこの「サンシャイン計画」だった。

大まかに言えば、石油消費を抑制して、他のエネルギーを使おう、石油以外の比率を高めよう、という目標を掲げるものだった。具体的には、石炭液化、原子力、太陽光、地熱その他などのエネルギー利用を促進し、2000年にはそれらエネルギーで2割以上を賄おう、というようなものだった。約4半世紀後の未来に目標を設定して取り組むという、まさに長期的なプロジェクトというものであったのだ。

この73年というのは、72年のミュンヘンオリンピック(札幌冬季オリンピック)の翌年であり、中東戦争勃発により第一次オイルショックに見舞われる年となったのである。丁度その時期に、エネルギー政策に関する検討が行われていたという、時宜を得たものとなった。こうして「サンシャイン計画」はスタートしていったのである。来るべき未来には、石油ではなく、太陽光や地熱や水素燃料などの利用をしましょう、という、長期的新エネルギー政策だったのだ。


④省エネと「ムーンライト計画」

サンシャイン計画は新エネルギー開発の長期的プロジェクトだったが、使うエネルギーをできるだけ節約しようとする動きも出てくることになった。これも、たまたま第二次オイルショックに見舞われたので、「省エネ」という運動に繋がっていったものであろう。そうした中で生まれたのが、この「ムーンライト計画」(78年)であった。サンシャイン計画とムーンライト計画という命名であるので、中々センスのあるうまいネーミングではある(笑)。

度重なる70年代の石油危機は、日本にこうした取組みを促進するのに大いに役立つこととなったのである。
これらエネルギー政策を主導したのは、他ならぬ通産省であった。8人委員会のメンバーにも所謂事務方的な役回りで通産官僚の平松氏が入っていたものと思われるが、通産省の働きの一端がうかがえるであろう。

この2つのプロジェクトは、93年に「ニューサンシャイン計画」として統合され、新たなエネルギー政策として生き残ることになったのである。

参考資料:通産省


⑤まとめ

これらの取組みがなければ、今の日本の効率的エネルギー利用やGDP当たりの石油消費量とかCO2排出量の少なさには繋がらなかったかもしれない。日本ほどの省エネ社会というのは、海外ではそう見られるわけではないのだからね。通産省が偉かったのかどうかは私には判らないし、これらがうまくいったお陰なのかどうかも判らない。

だけれども、70年頃の方向性とか認識として、資源節約志向、循環完結型社会を目指そう、といった長期的展望や目標を示すことは、大いなる意義があったものと思える。それを個別の政策としてトライをしてみて、うまくいった部分もあるかもしれないが、あまり成功とは言えないものもあるんじゃないかと思う。いずれも、今の日本にとって「無駄ではなかった」と思えるような気がするのだ。
ハイブリッド車とか、その他省エネ技術の成果にしても、30年越しでここまで来れたんだ、ということは、ちょっと心のどこかに留めておいて欲しいな、とは思う。大きな取組みというのは、成果が出るまでには時間がかかることもあるかもしれない、ということだね。別な言い方であると、未来なんてやってみなけりゃ判らない、何が必要・重要で何が無駄になるかは今すぐには判らない、ということはあるだろう。


でも、以前の日本人は、こうして知恵を結集して物事に当たっていたんだな、ということは知っておくべきだろう。現代の有識者の集まりは、いかがであろうか?
「しっかり考える」ということが、本当にできているだろうか?審議会の意見などに重みがあるだろうか?社会の取組みに大きな影響を与えるような考え方というものが、きちんと出されてきているのだろうか?それを広く国民に伝える努力はなされているのだろうか?


因みに、サンシャイン計画の後、当時の日本一高いビルとして「サンシャイン60」が78年に完成したということらしいが、単なる偶然なのかな?(笑)どうだっていいんですけど。
昔の官僚たちは、ネーミングとか、とても真剣によく考えて作っていたな、とは思う。センスがいいんだよね、中々。「省エネ」という語呂も誰がどう考えたのか知らないけれど、「省エネルギー」から転じたものとは思いますが、漢字一字を頭に接頭辞のように付けるだけで新語を生み出せるなんて、中々素晴らしいもんね(ホントに、誰が考えたの?)。省資源、省電力、などという類語みたいなのもあるし。どっちの生まれが先なのかは知らないんですけど。
ヘンなんだけど、なるほど、というのは「ハイテク産業」とか、いくつかあるし。

そういうわけで、サンシャインとムーンライトという、場末のスナックみたいな名前の計画がなかったら、日本の環境問題は30年は遅れていた(米国のマネをして「右へ倣え」であれば尚更)であろう、ということですな(違うか)。