電脳筆写『 心超臨界 』

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ドクター・スース

読む年表 戦国~江戸 《 頼山陽『日本外史』を定信に献上――渡部昇一 》

2024-09-02 | 04-歴史・文化・社会
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維新の志士の中で頼山陽を読まなかった者はいなかったほど、その影響力たるや大変なものであった。木戸孝允(きどたかよし)も伊藤博文(いとうひろぶみ)も影響を受けたから、結局、大東亜戦争まで日本の歴史は頼山陽の『日本外史』と『日本政記』が大筋になっていると考えて間違いないと思う。


◆頼山陽『日本外史』を定信に献上

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p158 )

1827(文政10年)
頼山陽『日本外史』を定信に献上
日本中の青年たちを感動させ、維新の原動力となった史書

幕末に生じた尊皇思想のなかで、最も影響力のあった同時代の歴史家が頼山陽だった。山陽は朱子学頼春水(らいしゅんすい)の息子で、漢文の素養も申し分なかったが、日本の歴史書が好きで、若い頃から『日本外史』を書きはじめていた。文章が桁外れにうまく、史書といっても講談のようなものだから、そのおもしろさは比類がなかった。山陽の父春水と関係の深かった松平定信が噂を聞いて読んでみたいと言い出した。山陽は、源氏と平氏が興ったところから徳川政権の始まる前までのさしさわりのない部分だけを定信に献上した。

大名家の儒者の子供だけあって、山陽は徳川家の不興(ふきょう)を買うようなことは書かないものの、定信にわたした原稿でも、将軍家に触れるときは改行して他の文章より一字上げて書くが、朝廷について書くときは二字上げて、差をつけていた。さらに、朝廷と幕府の関係がなんとなくわかるようになっていて、初代将軍家康(いえやす)に触れる場合でも、初めの頃の「少将殿」という呼称が、位が上がるたびに呼称も変わる。これは当然なのだが、そうすると、その位はどこから賜ったものかと誰もが考えられるように書いてある。

定信に献上した2年後に発刊された全二十二巻の内容は、平家の勃興から徳川十二代将軍家慶(いえよし)にわたり、最後の文章は、「源氏、足利以来、軍職にありて太政(大臣)の官を兼ねる者は、独り公(家慶)のみ、蓋(けだ)し武門の天下を平治(へいじ)すること、是に至りてその盛を極(きわ)む」で終わっている。幕末の志士たちは、「武門の盛りの極(きわみ)」とは「皇室の衰微(すいび)の極」であると解釈して憤激したのである。徳川幕府を一言も批判せずに、しかも尊皇の志士を奮起させた山陽の天才、ここに見るべきである。この『日本外史』は幕末から明治にかけて非常によく読まれた。

次に頼山陽は『日本政記(にほんせいき)』を書く。この歴史書は神武天皇から始まる天皇家を中心に第一〇七代後陽成(ごようぜい)天皇の時代まで、つまり秀吉の第二次朝鮮出兵(慶長(けいちょう)の役)の終結までを取り上げたものだが、実にコンパクトにまとめ、明快に書いてある。

維新の志士の中で頼山陽を読まなかった者はいなかったほど、その影響力たるや大変なものであった。木戸孝允(きどたかよし)も伊藤博文(いとうひろぶみ)も影響を受けたから、結局、大東亜戦争まで日本の歴史は頼山陽の『日本外史』と『日本政記』が大筋になっていると考えて間違いないと思う。

緻密な学問という点からいえば、幕末では儒学者の最高権威と崇(あが)められた佐藤一斎に及ぶ者はなかった。しかし、一斎には維新を起こすほどの力はなく、一方、山陽には日本中の青年の心を動かす力があった。これはやはり学者の資質とは異なる、いわゆる物書きの力である。日露戦争について書いた権威ある著者は何人もいるが国民を感激させたのは司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』だったのと同じようなものである。
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