電脳筆写『 心超臨界 』

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( ラングストン・ヒューズ )

読む年表 戦国~江戸 《 松平定信「寛政の改革」――渡部昇一 》

2024-06-26 | 04-歴史・文化・社会
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改革と称して倹約を勧め、取締りを強化するのはもともと吉宗が始めたことである。それでも吉宗の「享保の改革」はおよそ30年続いたが、定信の「寛政の改革」は1787年から93年わずか6年で行き詰まってしまった。


◆松平定信「寛政(かんせい)の改革」

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p156 )

1787(天明7年)
松平定信「寛政(かんせい)の改革」
文武文武と夜も寝られず、もとの濁りの田沼恋しき

田沼意次の失脚後は、田沼が抜擢した松平定信が老中となり、「寛政の改革」に着手する。

定信は八代将軍吉宗の孫、つまり、吉宗の次男で文武両道に秀でた田安宗武(たやすむねたけ)の七男で、奥州白河藩松平家の養子となり、天明の大飢饉を切り抜けるなど藩政に成果を挙げた。

田沼は元来、低い身分の人間である。それが勢力を振るうのは、身分が高くて有能な人間には面白くない。吉宗の孫という名門の血統の上に、父宗武の才能を受け継いでいた松平定信にはとくにそういう思いが強かった。幕政に参加すると、綱紀粛正の名のもとに田沼を失脚させ、重罪人に対するような厳しさで田沼の5万7千石の領地を奪い、江戸屋敷を取り上げた。

定信は尊敬する祖父・吉宗の「享保(きょうぼ)の改革」にならい、藩士の減禄(げんろく)、倹約、年貢の免除、食糧の緊急移入など白河藩で成功したやり方を江戸でもやろうとした。しかし田舎と江戸、地方政治と中央政治ではまるで違う。田沼二十年の政治には重商主義(商業重視)的なところがあった。そこにいきなり農本主義的政策を持ち込んでも効かないのである。

農本主義者がまずやりたがるのは倹約であり、贅沢の禁止である。武士にも、衣服は新調してはいけないし、家も壊れた時以外に建ててはいけないと言う。町人でも身分不相応な着物を着ている者がいると、奉行所に引き立てた。玩具から菓子に至るまで、贅沢品はすべて禁止した。消費生活を享受していた江戸で、奥州の飢饉対策のような発想で生活を緊縮させたから多くの失業者が生まれた。それで今の石川島あたりを1万6千坪ほど埋め立てて「人足寄場(にんそくよせば)」をつくり、失業者や無宿者を集めて働かせた。一種の強制収容所みたいなものである。

風紀の取り締まりも厳しく、戯作者の山東京伝(さんとうきょうでん)、恋川春町(こいかわはるまち)、版元の蔦谷重三郎(つたやじゅうざぶろう)らも摘発されて洒落本や黄表紙(きびょうし)、浮世絵が衰えるという時代になった。

ところが、武士たちが書いた歴史では松平定信は名君ということになっている。倹約令を発し、徳政令を出して旗本・御家人の借金を棒引きにしたからである。借金を返さなくてもよくなったのだから、それは武士なら喜ぶだろう。しかし、こういうやり方は長くは続かない。

庶民の間では、寛政の改革を田沼の腐敗政治と比較して風刺する者が現われた。当時の狂歌に「世の中に蚊ほど(これほど)うるさきものはなし。文武文武と夜も寝られず」というものがある。大田蜀山人(南畝(なんぽ))の作といわれる。また、「白河(定信)の清きに魚も棲みかねてもとの濁りの田沼恋しき」という定信をからかう歌もできた。

改革と称して倹約を勧め、取締りを強化するのはもともと吉宗が始めたことである。それでも吉宗の「享保の改革」はおよそ30年続いたが、定信の「寛政の改革」は1787年から93年わずか6年で行き詰まってしまった。
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