電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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白石がシドッチとの対話をもとにして書いた『西洋紀聞(せいようきぶん)』は、その後の思想に大きな影響を与えた。とくに当時の世界の地理・風俗・歴史について書かれた「中巻」は客観性も高く、白石が後に七大将軍家継(いえつぐ)に海外事情を説明するために書いた世界地理の書『采覧異言(さいらんいげん)』(漢文体5巻)とともに、当時は地理・外国事情を知るための最高の本とされ、福沢諭吉の『西洋事情』の先駆となった。シドッチとの話し合いの結果としての「西洋は形而下の学(自然科学)では日本よりはるかにすぐれているが、形而上の学においては幼稚」という認識は、「和魂洋才」の思想のもととなった。
◆新井白石とシドッチの出会い
『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p150 )
1709(宝永6年)
新井白石とシドッチの出会い
東洋と西洋を代表する知性の対話
宝永5年(1708)、屋久島の浦崎(うらさき)に和服を着て刀を持ったイタリア人イエズス会士、ジョバンニ・バティスタ・シドッチが上陸した。密入国の罪で捕えられ、長崎から江戸に送られてきたシドッチの尋問を行ったのが、家宣(いえのぶ)の特命を受けた新井白石であった。18世紀の初頭、西ヨーロッパでの最高の教育を受けた宗教家と、「鬼」とも言われた日本を代表する天才的学者、白石との対話という実に貴重な東西の交渉が起こった。
シドッチは後に獄中で死ぬので、白石からどのような影響を受けたかよくわからないが、白石の受けた影響は日本の精神史(インテレクチュアル・ヒストリー)の上で見逃すことの出来ない大きなものであった。
まず白石は、自然科学に対するシドッチの知識に敬服した。すでに地球一周の航海術まで発見・実践している西洋人に対して、白石はただただ驚くばかりだった。
ところが、キリスト教の話となると戯言(たわごと)にしか聞こえなかった。言っていることは仏教と似ているところもあるが、浅薄(せんぱく)なこと甚だしく、仏教とは比べ物にならないと白石には思われた。
白石のキリスト教批判は、啓蒙時代以後のヨーロッパでも今日の日本でも珍しいものではない。カトリックで玄義(ミステリイズ)と言われるものはそもそも理屈を超越していることであり、アウグスティヌスのごとく「荒唐無稽なるが故に私は信ずる(credo quia absurdum est)」という「信仰」がないと話にならないのである。白石は儒者であり、儒学は仏教をも迷信と見るほど啓蒙的な学問であった。ましてバイブルの話など問題にならぬほど幼稚に思われたのは当然である。
しかし、白石がシドッチとの対話をもとにして書いた『西洋紀聞(せいようきぶん)』は、その後の思想に大きな影響を与えた。とくに当時の世界の地理・風俗・歴史について書かれた「中巻」は客観性も高く、白石が後に七大将軍家継(いえつぐ)に海外事情を説明するために書いた世界地理の書『采覧異言(さいらんいげん)』(漢文体5巻)とともに、当時は地理・外国事情を知るための最高の本とされ、福沢諭吉の『西洋事情』の先駆となった。シドッチとの話し合いの結果としての「西洋は形而下の学(自然科学)では日本よりはるかにすぐれているが、形而上の学においては幼稚」という認識は、「和魂洋才」の思想のもととなった。幕末の佐久間象山が『東洋道徳・西洋藝(学)術』をモットーにしていたことなど、白石が西洋の「形而下の学問」の卓越性を指摘していたことの影響は大きい。
白石のシドッチ観は、形而下の学と形而上の学の話で百八十度異なるが、人格的には白石はシドッチに惚れこんだと言ってもよいくらいだった。シドッチの獄中の世話をしていた老夫婦は、彼の日常に接し、感動して洗礼を受けている。ろくに言葉も通じなかったと思われるのに、無学の老夫婦を改宗させるだけの感化力がシドッチにはあったということである。白石はシドッチという人間のこの部分を感ずることができた人物であった。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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白石がシドッチとの対話をもとにして書いた『西洋紀聞(せいようきぶん)』は、その後の思想に大きな影響を与えた。とくに当時の世界の地理・風俗・歴史について書かれた「中巻」は客観性も高く、白石が後に七大将軍家継(いえつぐ)に海外事情を説明するために書いた世界地理の書『采覧異言(さいらんいげん)』(漢文体5巻)とともに、当時は地理・外国事情を知るための最高の本とされ、福沢諭吉の『西洋事情』の先駆となった。シドッチとの話し合いの結果としての「西洋は形而下の学(自然科学)では日本よりはるかにすぐれているが、形而上の学においては幼稚」という認識は、「和魂洋才」の思想のもととなった。
◆新井白石とシドッチの出会い
『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p150 )
1709(宝永6年)
新井白石とシドッチの出会い
東洋と西洋を代表する知性の対話
宝永5年(1708)、屋久島の浦崎(うらさき)に和服を着て刀を持ったイタリア人イエズス会士、ジョバンニ・バティスタ・シドッチが上陸した。密入国の罪で捕えられ、長崎から江戸に送られてきたシドッチの尋問を行ったのが、家宣(いえのぶ)の特命を受けた新井白石であった。18世紀の初頭、西ヨーロッパでの最高の教育を受けた宗教家と、「鬼」とも言われた日本を代表する天才的学者、白石との対話という実に貴重な東西の交渉が起こった。
シドッチは後に獄中で死ぬので、白石からどのような影響を受けたかよくわからないが、白石の受けた影響は日本の精神史(インテレクチュアル・ヒストリー)の上で見逃すことの出来ない大きなものであった。
まず白石は、自然科学に対するシドッチの知識に敬服した。すでに地球一周の航海術まで発見・実践している西洋人に対して、白石はただただ驚くばかりだった。
ところが、キリスト教の話となると戯言(たわごと)にしか聞こえなかった。言っていることは仏教と似ているところもあるが、浅薄(せんぱく)なこと甚だしく、仏教とは比べ物にならないと白石には思われた。
白石のキリスト教批判は、啓蒙時代以後のヨーロッパでも今日の日本でも珍しいものではない。カトリックで玄義(ミステリイズ)と言われるものはそもそも理屈を超越していることであり、アウグスティヌスのごとく「荒唐無稽なるが故に私は信ずる(credo quia absurdum est)」という「信仰」がないと話にならないのである。白石は儒者であり、儒学は仏教をも迷信と見るほど啓蒙的な学問であった。ましてバイブルの話など問題にならぬほど幼稚に思われたのは当然である。
しかし、白石がシドッチとの対話をもとにして書いた『西洋紀聞(せいようきぶん)』は、その後の思想に大きな影響を与えた。とくに当時の世界の地理・風俗・歴史について書かれた「中巻」は客観性も高く、白石が後に七大将軍家継(いえつぐ)に海外事情を説明するために書いた世界地理の書『采覧異言(さいらんいげん)』(漢文体5巻)とともに、当時は地理・外国事情を知るための最高の本とされ、福沢諭吉の『西洋事情』の先駆となった。シドッチとの話し合いの結果としての「西洋は形而下の学(自然科学)では日本よりはるかにすぐれているが、形而上の学においては幼稚」という認識は、「和魂洋才」の思想のもととなった。幕末の佐久間象山が『東洋道徳・西洋藝(学)術』をモットーにしていたことなど、白石が西洋の「形而下の学問」の卓越性を指摘していたことの影響は大きい。
白石のシドッチ観は、形而下の学と形而上の学の話で百八十度異なるが、人格的には白石はシドッチに惚れこんだと言ってもよいくらいだった。シドッチの獄中の世話をしていた老夫婦は、彼の日常に接し、感動して洗礼を受けている。ろくに言葉も通じなかったと思われるのに、無学の老夫婦を改宗させるだけの感化力がシドッチにはあったということである。白石はシドッチという人間のこの部分を感ずることができた人物であった。