電脳筆写『 心超臨界 』

知識が増えるほど不思議が深まる
( チャールズ・モーガン )

教養教育の「萎縮」を憂慮する――小堀桂一郎さん

2020-11-25 | 04-歴史・文化・社会
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教養教育の「萎縮」を憂慮する――小堀桂一郎・東京大学名誉教授
【「正論」産経新聞 R02(2020).11.25 】

武漢肺炎の蔓延(まんえん)は今になっても終熄(しゅうそく)の見込みが立たず、その不幸な影響の持続に対し我々一般市民も見通しの暗い長期戦に堪へてゆく覚悟を迫られてゐる様である。

立皇嗣の礼関係行事を始めとする重要な国家的式典・祭礼・各種の公的集会の中止や規模の縮小に加へて、歌舞演劇等の藝能公演に於(お)ける入場者数の制限といつた異常事態の現状を見聞するにつけ、興行者側にも観客・聴衆側にも只管(ひたすら)氣の毒と言ふより他ない。洵(まこと)に心の痛む疫病の災禍ではある。

◆教育環境に於いて

筆者の職業柄、氣の毒といふ表現では済まない憂慮の対象となつてゐるのが、教育現場に於けるこの災禍の発現である。小中高の普通教育の場は地域差も学校差も種々あつて把握しきれない故姑(しばら)く措(お)く。大学教育の場合とても学校差や文理の系類によつて災禍の発現状況は濃淡様々の段階があろう。そこで比較的状況の把握し易い前期学年段階の現状に於ける疫病の災禍について一言記しておく。

大学の講義室が背負ってゐる条件は、物理的には藝能公演の会場と同じ事である。一の限られた空間に演者としての教員と観者としての生徒が居る。観者の相互密接を避けるために、劇場ならば観客数を制限してその分の収入減に堪へれば済むのであるが、学校の場合は教室の広さと聴講生の数とは定数的相関関係にある。

相互間の距離を十分に取つた少人数の学生を大教室に収容するといふ対応には限度がある。教員はマスクをしたままでは講義が困難である。対面授業を敢行するとなれば、教員の健康・防疫管理に徹底的な厳密さを要求することになるので、結局は対面形式での授業は極力避ける事になり、教員と生徒との間の講義及び質疑応答といふ直接的接触の機会を減らさざるを得ない。

その代わりに導入されたのがオンライン授業と呼ぶ方式で、即ち教員と聴講生とは直接の対面ではなく、電子機器を通じて講義内容の遠隔授業を行なふといふ形である。これが今や圧倒的に多くなつた。

◆大学めぐる不祥な認識

この方式を実施してみると、当初は、こんな形ででも授業は成立するのか、といふ一種の発見の面もあつた様である。それは企業の経営業務の場で、従業員が身を以て出勤してくるのではなく、電信電話の機器操作を通じてある程度の事務処理はできる、といふ現実に眼を開かれたのと同類の、或る種の新発見でもあつたらしい。

他方で又現今各種学会での研究発表と質疑応答、複雑な内容の討議を伴ふ会議等も、当関係者一同が会議場といふ同一空間に同席する形を取らなくても、必要に応じ得る程度に成立する事が判つた。この現実を見れば大学の講義・演習も又同じだといふ結論は自然に出てくる事だつたのだらうか。

然(しか)し、事此処(ここ)に至つて、我々は一の重大な命題に直面する。即ち教育とは情報伝達といふ〈用が足りれば済む〉といふ事業ではない事、且(か)つ教育を〈当座の用が足りれば済む事務処理〉だと見做(みな)す様な風潮が一般化する様な事にでもなれば、それは教育といふ概念自体を破壊に導く危険な錯誤だといふ事である。

学生は教員との面晤(めんご)の場を欠いた授業が常態化した事で、当然学園に来て交友を楽しむ場も失われる事になり、凡(およ)そ大学生活の重要な半面である同世代の仲間達相互間での語り合ひの楽しみ、知的生活の上での切磋琢磨(せっさたくま)、連帯感と友情の育成といふ場も得られない事になる。その様な場を設けてくれないといふ事で学生が大学に不満をぶつけてくるのは自然な、良き反応である。逆にこのような事態に馴れて納得してしまひ、大学とは機器による通信のみを以て知識を受領し、その単位の蓄積を以て自分が必要とする資格を買ひ取る施設に過ぎない、といふ不祥な認識が現に生じて来てゐるらしい。

◆将来への貴重な栄養を

斯(か)かる事態に決定的に欠けてゐるのが、大学とは元来知識の販売所ではない、教養形成の場であるとの本源的認識である。二十年余の昔にならうか、大学に於ける所謂(いわゆる)一般教養軽視の風潮を憂へて、一部の知識人が教養教育の再建を高唱する活動を展開された時期があつた。主唱者はたぶん旧制高校の生活を経験された最後の世代の方々であつた。その先生方が高齢化によつて世間から隠退された後、最早(もはや)教養の衰退を憂へて聲を揚げる長老は居られなくなつた。

現在大学教育に於ける人間対人間の温い接触の場が失はれてゐるのは已むを得ぬ緊急避難の事態である。防疫蔓延の危機が去つた暁には、といふよりもその危険があるにも拘らず、全ての大学人は最低限度で宜いから教員対学生の直接的対面・接触の場を確保し、そこで得られた貴重な空間と時間を古典的人文的教養の育成に充てて頂きたい。

それは直ちに可視的な効果が挙るわけではないが、現今の経済的に、従つて又精神的に不安定な若い世代にとつて是非必要な、やがて彼ら自身もそれに氣付くであらう貴重な栄養なのである。
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