§2-2 戦争を仕掛けるのはいつもアメリカ
◆「マッカラム覚書」――1940年10月、事実上アメリカは日本に宣戦布告していた
マッカラム少佐が1940(昭和15)年10月に作成した5ページの覚書(以下「戦争挑発行動8項目覚書」と呼ぶ)には、仰天すべき計画、つまり、当時ヨーロッパを侵略しつつあったドイツ軍に対抗していたイギリス軍に、気のすすまないアメリカを動員加担させる状況を作り出そうという計画が認(したた)められていた。その8項目の行動計画は実際上、ハワイのアメリカ陸、海、空軍部隊ならびに太平洋地域のイギリスとオランダの植民地前哨部隊を、日本に攻撃させるよう要求したものだった。
◇1940年10月、事実上アメリカは日本に宣戦布告していた――「マッカラム覚書」
『真珠湾の真実』
( ロバート・B・スティネット、文藝春秋(2001/6/26)、p23 )
マッカラム少佐が1940(昭和15)年10月に作成した5ページの覚書(以下「戦争挑発行動8項目覚書」と呼ぶ)には、仰天すべき計画、つまり、当時ヨーロッパを侵略しつつあったドイツ軍に対抗していたイギリス軍に、気のすすまないアメリカを動員加担させる状況を作り出そうという計画が認(したた)められていた。その8項目の行動計画は実際上、ハワイのアメリカ陸、海、空軍部隊ならびに太平洋地域のイギリスとオランダの植民地前哨部隊を、日本に攻撃させるよう要求したものだった。
1940年夏の世論調査では、米国民の大多数は、アメリカがヨーロッパの戦争に巻き込まれることを望んでいなかった。しかし、ルーズベルト政権の陸海軍省と国務省の指導者たちは、ナチス・ドイツ軍が欧州戦争で勝利を収めたら、米国の安全保障に脅威となるだろうとの点で意見が一致していた。彼らは米国が行動に移すための呼びかけが必要だと感じていた。
マッカラムはこの計画の主要人物であった。彼はF-2というコード名を与えられ、1940年前半から41年12月7日まで、ルーズベルトに届ける通信情報の日常業務を監督し、大統領に日本の軍事外交戦略に関する諜報報告を提供した。傍受解読された日本の軍事外交報告は、海軍情報部極東課を通してホワイトハウスに届けられ、マッカラムがそれを監督した。極東課は日本のみならず、東アジア諸国全部について、あらゆる分野の諜報報告の交換所としての役割を果たした。
大統領のためにマッカラムが準備した各報告は、世界中に張りめぐらされた米軍の暗号解読員と無線傍受係の手で収集解読された無線電信の傍受記録が基礎となっていた。マッカラムの事務所は、米海軍の無線傍受暗号解読センター「US」を構成する一つの機関で、ワシントン北西区コンスティテューション通りと18番街との交差点にあった海軍作戦本部の中にあった。ホワイトハウスから4ブロックしか離れていない。
当時のアメリカ政府や軍部の中で、日本の活動と意図について、マッカラム少佐ほどの知識を持っている人物は、ほとんど見当たらなかった。彼は日本との戦争は不可避であり、米国にとって都合のよい時に、日本から仕掛けてくるよう挑発すべきであると感じていた。1940年10月作成のマッカラム覚書の中で、日本を対米戦に導くだろうと考えた8項目の行動を次のとおりあげている。
「A 太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用について英国との協定締結。
B 蘭領東インド〔現在のインドネシア〕内の基地施設の使用及び補給物資
の取得に関するオランダとの協定締結。
C 中国の蒋介石政権に可能な、あらゆる援助の提供。
D 遠距離航行能力を有する重巡洋艦1個戦隊を東洋、フィリピンまたはシ
ンガポールへ派遣すること。
E 潜水戦隊2隊の東洋派遣。
F 現在、太平洋のハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること。
G 日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否する
よう主張すること。
H 英帝国が日本に対して押しつける同様な通商禁止と協力して行われる、
日本との全面的な通商禁止。」
マッカラムの8項目覚書が作成されたのは、1940年10月7日。これはルーズベルトが最も信頼していた二人の軍事顧問、ウォルター・S・アンダーソン海軍大佐とダドリ・W・ノックス海軍大佐に送付された。アンダーソンは海軍情報部長であり、直接ホワイトハウスのルーズベルト大統領に面会できた。一方、海軍戦略家であり、海軍情報部図書室長であったノックスは、1940年から41年にかけて軍事顧問を務め、米海軍大西洋戦隊〔のち大西洋艦隊〕司令官だった。アーネスト・J・キング海軍大将の助言者でもあった。ノックスはマッカラムの8項目覚書に賛成し、次のような控え目の意見をつけて、アンダーソン部長にまわした。
「本職は貴官の行動方針に同意する。われわれは両洋(太平洋と大西洋)で用意を整え、多分、両洋の問題を処理するのに足る程、強力でなければならない」
ノックスは、日本に明らかな戦争行為をとらせるやり方については言及しなかったが、「われわれは東洋で唐突な行動をしてはならない」と注意した。
マッカラム覚書の末尾にはノックス室長の承認メモがついていた。この覚書はアンダーソン部長にも送付されていたが、彼またはルーズベルトが実際にこの覚書に目を通したか否か、著者が調べたところでは特に記録は残っていなかった。しかし、一連の大統領秘密文書接受簿及び海軍書類ファイルについていた諜報情報資料から、アンダーソンとルーズベルトの両者が確かに、この覚書を読んだ決定的な証拠が見つかった。ルーズベルト大統領の関与を得て、マッカラムの8項目の提案は翌日からさっそく組織的に実施に移された。
◆「マッカラム覚書」――1940年10月、事実上アメリカは日本に宣戦布告していた
マッカラム少佐が1940(昭和15)年10月に作成した5ページの覚書(以下「戦争挑発行動8項目覚書」と呼ぶ)には、仰天すべき計画、つまり、当時ヨーロッパを侵略しつつあったドイツ軍に対抗していたイギリス軍に、気のすすまないアメリカを動員加担させる状況を作り出そうという計画が認(したた)められていた。その8項目の行動計画は実際上、ハワイのアメリカ陸、海、空軍部隊ならびに太平洋地域のイギリスとオランダの植民地前哨部隊を、日本に攻撃させるよう要求したものだった。
◇1940年10月、事実上アメリカは日本に宣戦布告していた――「マッカラム覚書」
『真珠湾の真実』
( ロバート・B・スティネット、文藝春秋(2001/6/26)、p23 )
マッカラム少佐が1940(昭和15)年10月に作成した5ページの覚書(以下「戦争挑発行動8項目覚書」と呼ぶ)には、仰天すべき計画、つまり、当時ヨーロッパを侵略しつつあったドイツ軍に対抗していたイギリス軍に、気のすすまないアメリカを動員加担させる状況を作り出そうという計画が認(したた)められていた。その8項目の行動計画は実際上、ハワイのアメリカ陸、海、空軍部隊ならびに太平洋地域のイギリスとオランダの植民地前哨部隊を、日本に攻撃させるよう要求したものだった。
1940年夏の世論調査では、米国民の大多数は、アメリカがヨーロッパの戦争に巻き込まれることを望んでいなかった。しかし、ルーズベルト政権の陸海軍省と国務省の指導者たちは、ナチス・ドイツ軍が欧州戦争で勝利を収めたら、米国の安全保障に脅威となるだろうとの点で意見が一致していた。彼らは米国が行動に移すための呼びかけが必要だと感じていた。
マッカラムはこの計画の主要人物であった。彼はF-2というコード名を与えられ、1940年前半から41年12月7日まで、ルーズベルトに届ける通信情報の日常業務を監督し、大統領に日本の軍事外交戦略に関する諜報報告を提供した。傍受解読された日本の軍事外交報告は、海軍情報部極東課を通してホワイトハウスに届けられ、マッカラムがそれを監督した。極東課は日本のみならず、東アジア諸国全部について、あらゆる分野の諜報報告の交換所としての役割を果たした。
大統領のためにマッカラムが準備した各報告は、世界中に張りめぐらされた米軍の暗号解読員と無線傍受係の手で収集解読された無線電信の傍受記録が基礎となっていた。マッカラムの事務所は、米海軍の無線傍受暗号解読センター「US」を構成する一つの機関で、ワシントン北西区コンスティテューション通りと18番街との交差点にあった海軍作戦本部の中にあった。ホワイトハウスから4ブロックしか離れていない。
当時のアメリカ政府や軍部の中で、日本の活動と意図について、マッカラム少佐ほどの知識を持っている人物は、ほとんど見当たらなかった。彼は日本との戦争は不可避であり、米国にとって都合のよい時に、日本から仕掛けてくるよう挑発すべきであると感じていた。1940年10月作成のマッカラム覚書の中で、日本を対米戦に導くだろうと考えた8項目の行動を次のとおりあげている。
「A 太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用について英国との協定締結。
B 蘭領東インド〔現在のインドネシア〕内の基地施設の使用及び補給物資
の取得に関するオランダとの協定締結。
C 中国の蒋介石政権に可能な、あらゆる援助の提供。
D 遠距離航行能力を有する重巡洋艦1個戦隊を東洋、フィリピンまたはシ
ンガポールへ派遣すること。
E 潜水戦隊2隊の東洋派遣。
F 現在、太平洋のハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること。
G 日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否する
よう主張すること。
H 英帝国が日本に対して押しつける同様な通商禁止と協力して行われる、
日本との全面的な通商禁止。」
マッカラムの8項目覚書が作成されたのは、1940年10月7日。これはルーズベルトが最も信頼していた二人の軍事顧問、ウォルター・S・アンダーソン海軍大佐とダドリ・W・ノックス海軍大佐に送付された。アンダーソンは海軍情報部長であり、直接ホワイトハウスのルーズベルト大統領に面会できた。一方、海軍戦略家であり、海軍情報部図書室長であったノックスは、1940年から41年にかけて軍事顧問を務め、米海軍大西洋戦隊〔のち大西洋艦隊〕司令官だった。アーネスト・J・キング海軍大将の助言者でもあった。ノックスはマッカラムの8項目覚書に賛成し、次のような控え目の意見をつけて、アンダーソン部長にまわした。
「本職は貴官の行動方針に同意する。われわれは両洋(太平洋と大西洋)で用意を整え、多分、両洋の問題を処理するのに足る程、強力でなければならない」
ノックスは、日本に明らかな戦争行為をとらせるやり方については言及しなかったが、「われわれは東洋で唐突な行動をしてはならない」と注意した。
マッカラム覚書の末尾にはノックス室長の承認メモがついていた。この覚書はアンダーソン部長にも送付されていたが、彼またはルーズベルトが実際にこの覚書に目を通したか否か、著者が調べたところでは特に記録は残っていなかった。しかし、一連の大統領秘密文書接受簿及び海軍書類ファイルについていた諜報情報資料から、アンダーソンとルーズベルトの両者が確かに、この覚書を読んだ決定的な証拠が見つかった。ルーズベルト大統領の関与を得て、マッカラムの8項目の提案は翌日からさっそく組織的に実施に移された。