電脳筆写『 心超臨界 』

勇気とは恐怖に抵抗してそれを支配することである
恐怖が消えるわけではない
( マーク・トウェイン )

日本史 鎌倉編 《 五度にわたる国体の変化——渡部昇一 》

2025-02-11 | 04-歴史・文化・社会
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私の史観からいえば、現在の日本は、有史以前から絶(た)えたことのない国体の、第五次の相の下にあるということになる。そして、これから述べようとする時代は、国体の第三次の相の下にあった時代の日本の話である。つまり、北条泰時による「承久の変」以後の日本についてである。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p20 )
1章 鎌倉幕府――近代国家意識の誕生 = 元寇が促した「一所懸命」からの脱却
(1) 「善政」は万能ならず――北条一門の破滅

◆五度にわたる国体の変化

「日本の国体は変化すれども断絶せず」というのが、日本史を考えるキイ・ポイントである。このことを明らかに認識すれば、日本の歴史が、ほかの国の歴史とどこが違うかもよくわかるし、日本人の国民性というのも理解しやすくなる。

これについてやや詳(くわ)しく論じたことがあるが(『文科の時代』文藝春秋刊)、あとの話と関係があるので、ここではその要点を述べておくことにしよう。

第一回の国体変化は、用明(ようめい)天皇(第三十一代)の仏教改宗である(587年)。

それまでの天皇は、日本のカミを祀(まつ)る代表者であったが、仏教という新しい宗教をも受け容(い)れられることになった。しかも古いほうも捨てないという特殊な形を取ったのであるが、国家の建前(たてまえ)に重大な変化を生じたことは確かであるから、国体の第一次変化と呼ぶ(『日本史から見た日本人・古代編』2章参照)。

第二回目は源頼朝(みなもとのよりとも)の鎌倉幕府創設である(1192年)。

宮廷と関係なく、天下を武力で征服し、守護(しゅご)・地頭(じとう)を置いたのであるから、政治の原理の根本的変化である。しかし、建前としては、古代律令(りつりょう)は廃止されず天皇も残った。つまり、国体は断絶しないが変化した。これを国体の第二次変化と呼ぶ。

第三回目は執権(しっけん)北条泰時(ほうじょうやすとき)のときの「承久(じょうきゅう)の変」(1221年)である。

これは、どの皇子に即位させるかを鎌倉が決定し、また鎌倉に反対した上皇三人を島流しにしたのである。北条氏の権力は宮廷から下された官位とまったく関係がない、という意味で、つまり権力の出所が下からであるという点で、完全な主権在民である。これも政治の原理の重大な変化、つまり国体の変化であるが、断絶はなかった。

この「承久の変」を徹底的に重視したのがイザヤ・ベンダサンで、この事件以前を前記天皇制、その後を後期天皇制と名付けている。しかし重大な変化は、この前にも後にもあるので、私は二分しない。そして、この事件による変化を、国体の第三次変化と呼ぶことにしている。

その後、明治の立憲君主制の発足(ほっそく)を第四次国体変化とし、敗戦による新憲法下の民主主義を第五次国体変化と呼ぶことにする。

したがって、私の史観からいえば、現在の日本は、有史以前から絶(た)えたことのない国体の、第五次の相の下にあるということになる。

そして、これから述べようとする時代は、国体の第三次の相の下にあった時代の日本の話である。つまり、北条泰時による「承久の変」以後の日本についてである。

そこで、元(げん)の大軍を撃退した大功のあった北条氏が、なぜ滅亡したのかを見なければならぬ。いな、その前に頼朝の源氏が、なぜ、あんなに簡単に滅亡したのかから、考えたほうが、よいかもしれない。
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