20年に及ぶブログ活動の集大成 → <a href=https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/3d8eb22fad45ce7b19d6a60e8a70b7e7" target="_blank">★仏様の指
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散記事『十倉経団連の「選択的夫婦別姓」は戸籍廃止を目論む中国政府の意向』【「水間条項」国益最前線ブログ】
■国内外に拡散宜しく『安倍晋三ファン必見10連発動画』
■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
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日本の歴史においては、ときどき聖徳太子的理念の復活が叫ばれるような事態が生ずるのである。徳川の治世(ちせい)はいかに優れたものであったとはいえ、将軍と大名を中心とする氏族政治であり、衆議を経て決断する体制ではなかった。明治の議会は精神的にはここに返ることであったのである。ところが昭和になると、陸軍と海軍という一種の大氏族が議会や政党を踏み潰して戦争を起こし、衆論はいっさい、非国民の言として処断された。そして敗戦後、再び議会の復活となったわけである。
『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p129 )
2章 上代――「日本らしさ」現出の時代
――“異質の文化”を排除しない伝統は、この時代に確立した
(2) 聖徳太子に見る「日本らしさ」
◆連綿(れんめん)と続く聖徳太子の理念
この憲法を逐条(ちくじょう)的に考えても、ひじょうに面白いことは出てくるのであるが、今、いくつかの特徴を思いつくまま述べてみよう。
先ず第一は、国家の主権は一つだということを明確に打ち出していることである。現在では国家の主権が一つであることぐらいは子どもでも知っているが、当時はかならずしも明確でなく、多くの人々の中には、皇室の権威と大氏族の権威の差がぼやけていた場合があったと思われる。それは、アメリカ独立当初の連邦政府と州政府の関係に似ていた。アメリカは、諸州がそれぞれ違った建州の歴史を持っており、州権は強大であった(今でも、日本の地方自治体などとは比較に絶した強大な権限を持っている)。そして州権にウエイトを置くか、連邦に置くかの考え方の違いが、南北戦争の真の原因ともなるのである。したがって独立当初に、合衆国の法律や条約は、この国の最高の法(the supreme law of the land)に帰属し、各州の憲法や法律中に反対の規定がある場合といえども連邦の憲法に拘束されると明記したのである。
これは太子の憲法の「国ニ君ナク、民ニ両主ナシ」(第十二条)とか「詔(ミコトノリ)ヲ承(ウ)ケテハ必ズ謹(ツツシ)メ」(第三条)の趣旨と同質のものである。
リンカンが南部諸州に要求したのも、まさにこのことで、「アメリカに二つの政府なく、アメリカの国民に二つの連邦なし。連邦の命を承けてはかならず謹め」ということであった。
第二に、太子が明らかにされたことは、政治の公正、裁判の公明正大、人材登用における適材適所ということである。これも氏族制度の弊害を除かれようとした意図からでたものであることは明らかである。これによって古代日本のカースト制的職業の世襲は、少なくとも理念的に打破されたのであった。
しかも、さらに重要なのは、第十七条において、政治の重大事は「独断スベカラズ、必ズ衆ト論ズベシ」としていることである。このあたりは、それから約1250年後に出された明治天皇の五カ条の五誓文(ごせいもん)に驚くほど似ていることが明らかであろう。
日本の歴史においては、ときどき聖徳太子的理念の復活が叫ばれるような事態が生ずるのである。徳川の治世(ちせい)はいかに優れたものであったとはいえ、将軍と大名を中心とする氏族政治であり、衆議を経て決断する体制ではなかった。明治の議会は精神的にはここに返ることであったのである。ところが昭和になると、陸軍と海軍という一種の大氏族が議会や政党を踏み潰して戦争を起こし、衆論はいっさい、非国民の言として処断された。そして敗戦後、再び議会の復活となったわけである。
また逆のケースになるが、日本の会社などにおける稟議書の制度などは、西洋の真似ではなく、衆議をよしとする伝統が生きていた一つの例ではなかろうか。
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日本の歴史においては、ときどき聖徳太子的理念の復活が叫ばれるような事態が生ずるのである。徳川の治世(ちせい)はいかに優れたものであったとはいえ、将軍と大名を中心とする氏族政治であり、衆議を経て決断する体制ではなかった。明治の議会は精神的にはここに返ることであったのである。ところが昭和になると、陸軍と海軍という一種の大氏族が議会や政党を踏み潰して戦争を起こし、衆論はいっさい、非国民の言として処断された。そして敗戦後、再び議会の復活となったわけである。
『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p129 )
2章 上代――「日本らしさ」現出の時代
――“異質の文化”を排除しない伝統は、この時代に確立した
(2) 聖徳太子に見る「日本らしさ」
◆連綿(れんめん)と続く聖徳太子の理念
この憲法を逐条(ちくじょう)的に考えても、ひじょうに面白いことは出てくるのであるが、今、いくつかの特徴を思いつくまま述べてみよう。
先ず第一は、国家の主権は一つだということを明確に打ち出していることである。現在では国家の主権が一つであることぐらいは子どもでも知っているが、当時はかならずしも明確でなく、多くの人々の中には、皇室の権威と大氏族の権威の差がぼやけていた場合があったと思われる。それは、アメリカ独立当初の連邦政府と州政府の関係に似ていた。アメリカは、諸州がそれぞれ違った建州の歴史を持っており、州権は強大であった(今でも、日本の地方自治体などとは比較に絶した強大な権限を持っている)。そして州権にウエイトを置くか、連邦に置くかの考え方の違いが、南北戦争の真の原因ともなるのである。したがって独立当初に、合衆国の法律や条約は、この国の最高の法(the supreme law of the land)に帰属し、各州の憲法や法律中に反対の規定がある場合といえども連邦の憲法に拘束されると明記したのである。
これは太子の憲法の「国ニ君ナク、民ニ両主ナシ」(第十二条)とか「詔(ミコトノリ)ヲ承(ウ)ケテハ必ズ謹(ツツシ)メ」(第三条)の趣旨と同質のものである。
リンカンが南部諸州に要求したのも、まさにこのことで、「アメリカに二つの政府なく、アメリカの国民に二つの連邦なし。連邦の命を承けてはかならず謹め」ということであった。
第二に、太子が明らかにされたことは、政治の公正、裁判の公明正大、人材登用における適材適所ということである。これも氏族制度の弊害を除かれようとした意図からでたものであることは明らかである。これによって古代日本のカースト制的職業の世襲は、少なくとも理念的に打破されたのであった。
しかも、さらに重要なのは、第十七条において、政治の重大事は「独断スベカラズ、必ズ衆ト論ズベシ」としていることである。このあたりは、それから約1250年後に出された明治天皇の五カ条の五誓文(ごせいもん)に驚くほど似ていることが明らかであろう。
日本の歴史においては、ときどき聖徳太子的理念の復活が叫ばれるような事態が生ずるのである。徳川の治世(ちせい)はいかに優れたものであったとはいえ、将軍と大名を中心とする氏族政治であり、衆議を経て決断する体制ではなかった。明治の議会は精神的にはここに返ることであったのである。ところが昭和になると、陸軍と海軍という一種の大氏族が議会や政党を踏み潰して戦争を起こし、衆論はいっさい、非国民の言として処断された。そして敗戦後、再び議会の復活となったわけである。
また逆のケースになるが、日本の会社などにおける稟議書の制度などは、西洋の真似ではなく、衆議をよしとする伝統が生きていた一つの例ではなかろうか。