電脳筆写『 心超臨界 』

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D・パイプス

日本史 鎌倉編 《 南北朝140年の混乱が遺した教訓とは――渡部昇一 》

2024-08-16 | 04-歴史・文化・社会
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義満の本当の意図はわからないが、少なくとも結果的には、幕府は南朝側をペテンにかけて統一したのである。後亀山院が約束違反に気付かされたときは、すでに遅かった。ともかく1世紀以上にわたって、両統の交替即位制のために天下が乱れたのである。即位のやり方は単純明快でないと、乱のもとになる、ということが教訓として日本人の頭の中に刻み込まれたらしい。事実、これ以後、皇統にもつれ話はない。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p163 )
3章 室町幕府――日本的美意識の成立
――政治的天才・義満(よしみつ)と政治的孤立者・義政(よしまさ)の遺(のこ)したもの
(1) 政治的手段としての「カミ」と「ホトケ」

◆南北朝140年の混乱が遺した教訓とは

それで結局、三種の神器は「国譲(ゆず)り」の儀式によるという約束だったのに、その昔、源氏に敗れた平家が、幼い安徳天皇とともに西海(さいかい)に持って行った神器が、また京都にもどってきたときの先例によることになった。つまり、あるべき物があるべき所に帰ってきた、という儀式なので、南朝の意味は完全に否定されたことになる。

このようにして、北条貞時が大覚寺統と持明院統が交互に即位するという方式を立ててから140年目、後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝をお建てになってから57年目で一つの朝廷となった。

しかし、南朝側から見ると不満だらけであった。南朝の後亀山天皇は、神器を北朝の後小松天皇にお譲りになってからの身分がなくなったのである。すったもんだで、1年半かかって、ようやく太上(だいじょう)天皇の尊号がおくられることになったのである。しかも、この尊号は元来、天皇の父としての尊号であるべきものであるが、この場合は、皇室の一皇子として、先例はないが、敬意を表わすために与えられるのだ、という「お情け」の形式であった。

さらに講和条件にあったような領土はもらえず、南朝の天皇だった人は、生活の困窮を訴えなければならないほどであった。

それで応永17年(1410)、つまり義満の死んだ翌年に、後亀山院は京都を抜け出し吉野に行き、そこに数年いた。吉野には、まだ南朝の残党が多少いたからである。

そしてこの間、各地で小規模ながら南朝側の挙兵があった。まさに後醍醐天皇の吉野朝設立とまったく同じパタンである。幕府は、こうした動きは小さくても、不平分子がくっついて大きくなる可能性があることを知っているので、ただちに宥(なだ)めにかかった。旧領をことごとく後亀山院に与えるという条件を示して、京都に再び帰還していただいた。

しかし足利氏としては、両統があることは幕府にとって、いかに不便であるかは骨身に染みているから、絶対に約束を守る気はなかった。

後小松天皇の次はその皇太子が継ぎ、称光(しょうこう)天皇となった。幕府は、けっして皇位を南朝系にもどさなかったのである。もちろん北朝としてももどす気はない。かくして南朝系は、完全に絶えたのである。後亀山天皇の子孫について言えば、孫が僧侶となって隠岐島(おきのしま)に流されたということがわかるだけで、すっかり消えてしまっている。それから550年近く経って、敗戦後に熊沢天皇などが出現したが、途中の系図はいっさい不明である。

義満の本当の意図はわからないが、少なくとも結果的には、幕府は南朝側をペテンにかけて統一したのである。後亀山院が約束違反に気付かされたときは、すでに遅かった。

ともかく1世紀以上にわたって、両統の交替即位制のために天下が乱れたのである。即位のやり方は単純明快でないと、乱のもとになる、ということが教訓として日本人の頭の中に刻み込まれたらしい。事実、これ以後、皇統にもつれ話はない。
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