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( クリストファー・モーレー )

日本史 鎌倉編 《 楠木正成が作った「日本型」行動の美学――渡部昇一 》

2024-10-18 | 04-歴史・文化・社会
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九州に落ちた尊氏は、けっして平家のようなものでない。武士たちは勝った朝廷よりも敗れた尊氏を慕っている。宮廷側に対しても忠義なことにおいては、最も抜きん出ている楠木一族の中にすら、その気分が出てきている。正成はこれを最もよく知っていた。そしてこれを恐れたのである。そして尊氏との和解を進言したが、束の間の勝利に酔った朝廷は、全然、耳を貸さない。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p120 )
2章 南北朝――正統とは何か=日本的「中華思想」によって起きた国家統合の戦争
(3) 日本史のキーワード
「錦(にしき)の御旗(みはた)」と「七生報国(しちしょうほうこく)」

◆楠木正成が作った「日本型」行動の美学

尊氏のほかにもう一人、この社会意識に敏感な武士がいた。楠木正成である。

尊氏が九州に逃げ去ったとき、朝廷側は大いに安心して、これは平家が亡びたと同じ図式であると思ったのであった。そして山陰・山陽16カ国を新田義貞に支配せしめ、そのうえ、後醍醐天皇はご自分の愛妾の一人の勾当内侍(こうとうのないし)を義貞に与えた。また「建武」という年号に「武」が付いていたのは、武家をのさばらせて悪いことだとして、「延元(えんげん)」に変えた。

やること自体が地に足がついていない感じなのであるが、正成はこのことを最もよく知っていたようである。九州に落ちた尊氏は、けっして平家のようなものでない。武士たちは勝った朝廷よりも敗れた尊氏を慕っている。宮廷側に対しても忠義なことにおいては、最も抜きん出ている楠木一族の中にすら、その気分が出てきている。

正成はこれを最もよく知っていた。そしてこれを恐れたのである。そして尊氏との和解を進言したが、束の間の勝利に酔った朝廷は、全然、耳を貸さない。

果たせるかな、九州に落ちた尊氏は、たちまち鎮西(ちんぜい)の大軍を率いて海陸から攻め上(のぼ)って、きた。尊氏の陸軍と水軍は、お互いに昼は煙を上げ、夜は火を焚(た)いて連絡しつつ、合流場所を兵庫と定めて攻め上ったのである。これを見て、諸国の武士は先を争って尊氏方に従(つ)いた。

錦の御旗は両方にあるのだから、「義」においては甲乙なく、問題は「利」と「理」であるが、武士が、武士の棟梁である源氏の正統の尊氏に従くのは「理」にもかなうし、それは「利」にも結びつく。

正成は尊氏の軍と正面衝突してもかなわないから、後醍醐天皇はひとたび京都から比叡山に逃れて時機を待つことをすすめた。正成はゲリラ戦には自信があるから、尊氏の大軍も食糧輸送の面からおびやかせば、チャンスはないわけではないと判断したものと思われる。

しかし、天皇も公卿も、正成の現実的な案を、臆病として聞き入れない。このようにして、今戦うのは最も不利だと知っている人が死にに行くことになった。そして激戦のすえ、玉砕するのである。

このときに「今はこれまでなり」と言って正成は出陣したという。そして予想どおりに、圧倒的な敵軍に敗れて自害するときに、弟の正季(まさすえ)に向かって、「何か言い遺すことはないか」と言ったら、「七たび同じ人間に生まれて討ち滅ぼしたいのだ」と答えたという。正成はこれを聞いて、わが意を得たりという顔色で、「私もその気持ちだ」と言って差しちがえて死んだ、と伝えられる。

これは『太平記』の伝承であるから、その情景を見ていた人の証言があるわけではない。だから根拠のない話だと言って捨てるのが近代史学の常識である。

ところが近代史学ではどうであろうと、これは日本人に実によくわかる話なのである。

この前の戦争(太平洋戦争)の起きる前にも、アメリカと戦って勝ち目のないことを最もよく知っていた人は山本五十六提督だったという。しかし戦争ということに政府が決定してしまえば、一番はじめに戦場で戦うのは連合艦隊であり、南太平洋の最前線で戦死したのも山本提督であった。

日本人は、ここに楠木正成のパタンを見るのである。旧軍人に対しては、戦後になって批判やら、一般人の反感やらが起こったが、山本元帥に対しては、国民の敬愛の念があまり変わらなかったように思う。それは楠木正成において、一つの結晶として析出された日本人のビヘイビア(行動)の型だったからだと思われる。

南朝の立場から書かれている『太平記』が正成の行為を激賞して、「智仁勇(ちじんゆう)の三徳を兼て、死を善道に守るは、古(いにし)へより今に至る迄、正成程の者は未(いまだ)無(なか)りつるに」と言っているのは理解できるが、北朝側の立場から書かれている『梅松論(ばいしょうろん)』も、「誠(まことに)賢才武略の勇士とは、かやうの者をや申(もうす)べきとて、敵も御方(みかた)もおしまぬ人ぞなかりけり」と言っているのは、正成のビヘイビアには、尊氏側にも感激せしめるものがあった、という何よりの証拠である。

事実、尊氏は正成の首に所領50町をつけて、丁寧に供養させているのであり、これは足利軍の中にさえ、正成は別格であると考える者が多く、その死体を粗末に扱うことができなかったことを示す証拠であろう。

この正成のビヘイビアを整理してみると、次のようになるであろう。

 一、天皇第一主義であって、その天皇がリーダーとして適格であるか
   どうかは問わないで、忠誠を尽くす。
 二、武将としては有能であるが、最高の政治的な決定を左右すること
   はできない。
 三、意見を述べるが、通らないと「今はこれまで」とあきらめて玉砕
   する。
 四、七生報国という理念、つまり「後に続く者を信ず」という考え方
   を示した。

このように見ると、明治以後の日本にも、いかに正成型の人間が多くいたかわかる。

会社に忠義を尽くすが、社長はしばしばその忠義に値しない人物であっても、それは問わない。自分の部署では有能だが、社の方針を左右はできない。文句は言っても、会社が決めたことには、今はこれまでと全力を尽くす。七生報国とはいかないまでも、「誰かがわかってくれるだろう」という期待がある。

戦時中の軍隊から、今日の大会社まで、だいたいはこれが行為の不文律になっているようである。そして、たいていの日本人は、このような行為を美しいと感ずる。

「今はこれまで」というあきらめがなく、反抗したり、ふてくされたり、会社を辞めたりすれば、それは赤松円心(あかまつえんしん)型ということになる。

特に、旧日本軍では、意識的に正成型の「あきらめ」の尊さを極端なまで強調して、教えてきたようである。
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