電脳筆写『 心超臨界 』

歴史とは過去の出来事に対して
人々が合意すると決めた解釈のことである
( ナポレオン・ボナパルト )

読む年表 明治~戦後 《 満洲国建国――渡部昇一 》

2024-10-14 | 04-歴史・文化・社会
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関東軍の暴走を別にすれば、満洲国建国自体は悪いことではなかった。満洲は歴史的に見てシナ固有の領土ではない。たしかに満洲は清朝(しんちょう)の一部であったが、これは清朝を建てた女真(じょしん)族(満洲族)が満洲の出身であったからにすぎない。本来、シナ人(漢民族)と満洲人はまったく別の民族なのであり、別の言語系統に属している。万里(ばんり)の長城(ちょうじょう)以北の土地をシナ人が自分の領土と主張することは常識的に言ってもおかしいのだ。


◆満洲国(まんしゅうこく)建国

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p228 )

1932(昭和7年)
《 満洲国(まんしゅうこく)建国 》
「五族協和(ごぞくきょうわ)」の理想を掲(かか)げた満洲国の正当性

満洲(まんしゅう)にいた日本陸軍、すなわち関東軍(かんとうぐん)は昭和6年9月18日、日本政府の方針をまったく無視して満洲の諸都市を制圧し、さらに満洲国の独立を実現させた(昭和7年3月1日建国宣言)。これが満洲事変である。統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)問題を盾(たて)に勝手な行動を起こしたのは関東軍将校の暴走としか言いようがないが、しかし、その軍事行動自体は国際法上、何の問題もなかった。

そもそも日露戦争後のポーツマス条約において、日本はロシアから南満洲における権益(けんえき)を譲り受けている。これは当時の清国(しんこく)政権も承認している。しかも、当時、満洲にいた日本人がシナ兵や匪賊(ひぞく)に襲われ、殺害される事件がたびたび起きていた。関東軍はコリア人を含む日本人居留民(きょりゅうみん)の安全を守るために実力行使をしたのであって、外交上、非道なことをやったわけではない。

さらに、関東軍の暴走を別にすれば、満洲国建国自体は悪いことではなかった。満洲は歴史的に見てシナ固有の領土ではない。たしかに満洲は清朝(しんちょう)の一部であったが、これは清朝を建てた女真(じょしん)族(満洲族)が満洲の出身であったからにすぎない。本来、シナ人(漢民族)と満洲人はまったく別の民族なのであり、別の言語系統に属している。万里(ばんり)の長城(ちょうじょう)以北の土地をシナ人が自分の領土と主張することは常識的に言ってもおかしいのだ。

満洲国皇帝となった溥儀(ふぎ)(1906~67)は辛亥(しんがい)革命(1911~12)によって退位させられた最後の清朝皇帝である。「革命」とはいうものの、正確に言えばシナ民族の満洲族王朝に対する独立運動であった。シナ人によって紫禁城(しきんじょう)を追い出された溥儀が、自分の民族の故郷に戻って満洲国の皇帝になるのは当然の話である。別の言葉に言い換えるなら、少数民族が独立し、民族自決を行おうということであった。関東軍は満洲事変からわずか一年後に、溥儀を迎えて満洲国の建国を実現させた。これは事後処理としては決して悪くないし、当時の国際常識から言えば非常に穏健(おんけん)な方法であり、民族自決の観点から言えばむしろ筋の通った話である。

しかも、満洲は日露戦争以後、治安もよくなり、日本人のみならず、シナ人やモンゴル人が急速に流入していた。きちんとした政権が存在しないまま、このような大量流入が続けば、土地の所有権などをめぐって必ず国際紛争が起こるはずである。満洲に満洲族の本来の皇帝である溥儀が来て統治者となるアイデアは、民族自決のみならず、国際紛争を未然に防ぐという上でも優れたものであった。アメリカが西部開拓にあたって「もともとこの土地はインディアンのものだから」と、インディアンの酋長(しゅうちょう)が治める自治国(じちこく)を作ったであろうか。満洲に満洲族の自治国家を作ろうとした日本と、どちらが“文明的”な態度であろう。

たしかに満洲国は、日本の傀儡(かいらい)国家であったかもしれない。だが、溥儀は自らの希望と意思で満洲国皇帝になったのであり、彼なりに満洲の地に自民族の国家を作りたかったのである。そこのところを見落として満洲国を傀儡国家と呼ぶのは、満洲族に失礼な言い方であろう。

満洲国の調査のために国際連盟から派遣されたリットン調査団も、その報告書の中で、「日本の侵略とは簡単に言えない」という主旨の結論を述べている。

満洲国は独立後、目覚(めざ)ましい発展を遂げた。かつて住む人もほとんどなかった“ノーマンズ・ランド”が、日本を凌(しの)ぐほど繁栄した地域に一変した。これは、いかに満洲国を認めない人でも否定できない事実である。たとえば南満洲鉄道(満鉄)は世界全体を見渡しても、これほど近代的な鉄道はなかったであろう。また、見事な開発がなされた首都新京(しんきょう)(長春(ちょうしゅん))や奉天(ほうてん)(瀋陽(しんよう))などの都市は、日本から訪れた旅行者を感嘆(かんたん)させた。

満洲国のスローガンは“五族協和”、つまり満洲民族、漢民族、蒙古(もうこ)民族、朝鮮民族、日本民族が共存共栄(きょうぞんきょうえい)するというものであったが、移民の実態を見るかぎり、この理念はみごとに実現しつつあったと言わざるをえない。バチカン(ローマ教皇)を含む当時の世界の独立国の半分近い二十数カ国がその独立を承認した満洲国は、日本の敗戦とともに十数年で消えてなくなったから、その評価はむずかしいが、ある種の理想に基づいて作られた正当性のある国家であることは間違いない。

ただ、軍部が独走せず、政府が主体となって諸外国の承認のもとに満洲国を独立させていたら少なくとも満洲民族にとっては幸福であったろう。現在のように中国の支配下で少数民族として虐(しいた)げられるようなことはなかったであろう。いまや満洲族はチベット族よりも危(あや)うい運命にあり、地球上から消えかかっていることを忘れてはならない。
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