電脳筆写『 心超臨界 』

一般に信じられていることと全く逆のことに
真実があることがしばしばある
( ブリュイエール )

読む年表 古代~中世 《 保元の乱/平治の乱――渡部昇一 》

2024-08-19 | 04-歴史・文化・社会
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この争い(平治の乱)が源氏の義朝と平家の清盛の戦いに収斂(しゅうれん)して、義朝は敗れ、平家隆盛の時代となる。この戦いには義朝の長男義平(よしひら=19歳)、二男朝長(ともなが=16歳)、三男頼朝(よりとも=13歳)も参加したが、生き延びたのは落ちて行く途中で一行からはぐれた頼朝のみであった。父義朝が源氏の正統と見なしていた頼朝は平家に捕えられたが、清盛の義母池禅尼(いけのぜんに)が助命を懇願(こんがん)したため。伊豆に流され、そこで北条政子(ほうじょうまさこ)を娶(めと)り、その実家である北条氏の庇護をうけることになった。


◆保元の乱/平治の乱

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p54 )

1156(保元元年)/1159(平治元年)
保元の乱/平治の乱
源氏と平家の「氏の長者」源義朝(よしとも)と平清盛の戦い

第七十二代白河天皇は、法皇となって政治の実権を握ること四十余年、第七十三代堀河(ほりかわ)天皇、第七十四代鳥羽天皇、第七十五代崇徳(すとく)天皇の三代の即位を決定した。

その次の第七十六代天皇は、鳥羽天皇の名目上の長男である崇徳天皇の子がなるべきところだが、鳥羽天皇にとって崇徳天皇は、自分の后(きさき)である藤原璋子(たまこ)に実の祖父白河法皇が産ませた「我が子にして祖父の息子(叔父)」であったため、法皇の没後、実権を握った鳥羽上皇は、藤原得子(なりこ)(美福門院(びふくもんいん))に産ませた躰仁(なりひと)親王(第七十六代近衛(このえ)天皇)、つまり崇徳天皇の“弟”を即位させた。その近衛天皇が十七歳で亡くなると鳥羽上皇は、自分と璋子とのあいだに生まれた、崇徳天皇にとっては同母弟である雅仁(まさひと)親王(後白河(ごしらかわ)天皇)を即位させる。

さらに、後白河天皇のあとは、その長男、美福門院が可愛がっていた守仁(もりひと)親王が皇位についた(第七十八代二条(にじょう)天皇)。崇徳天皇の皇子は皇位継承(こういけいしょう)の順位を無視され、はずされてしまった。

この推移に強い不満と恨みを抱いた崇徳上皇は、法皇となっていた鳥羽院が亡くなると、一週間足らずのうちに後白河天皇にたいして兵を挙げた。かくして崇徳上皇と後白河天皇とのあいだで「保元の乱」が起こる。

崇徳上皇の挙兵に、鳥羽法皇から疎(うと)んじられていた藤原頼長(よりなが)が応じた。この戦いに、崇徳上皇も後白河天皇もそれぞれ武家の力を借り、後白河天皇側には、源氏では源義朝(よしとも)、平氏では平清盛(たいらのきよもり)が味方した。いずれも「氏(うじ)の長者(ちょうじゃ=氏族の首長)」である。

これに対して崇徳上皇・藤原頼長側には、義朝の父源為義(ためよし)と、義朝の弟である源為朝(ためとも)、それに清盛の叔父平忠正(ただまさ)らがついた。

義朝に攻められた崇徳院側は、為朝の奮闘空しく敗走する。捕えられて讃岐(さぬき)に流された崇徳上皇は生きながら天狗(悪魔)となり、八年後に亡くなった後は怨霊(おんりょう)と化して皇室に祟(たた)るようになったと言われている。

崇徳上皇の呪(のろ)いが現れたかのように、都では後白河上皇、二条天皇を中心にいくつかのグループに分かれ、再び争いが起こる。これが「平治の乱」である。

この争いが源氏の義朝と平家の清盛の戦いに収斂(しゅうれん)して、義朝は敗れ、平家隆盛の時代となる。この戦いには義朝の長男義平(よしひら=19歳)、二男朝長(ともなが=16歳)、三男頼朝(よりとも=13歳)も参加したが、生き延びたのは落ちて行く途中で一行からはぐれた頼朝のみであった。

父義朝が源氏の正統と見なしていた頼朝は平家に捕えられたが、清盛の義母池禅尼(いけのぜんに)が助命を懇願(こんがん)したため。伊豆に流され、そこで北条政子(ほうじょうまさこ)を娶(めと)り、その実家である北条氏の庇護をうけることになった。
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