電脳筆写『 心超臨界 』

明日への最大の準備はきょう最善を尽くすこと
( H・ジャクソン・ブラウン・Jr. )

歴史を裁く愚かさ 《 歴史は民族によって異なって不思議はない――西尾幹二 》

2024-10-29 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


このような時代に、東アジアで「国際教科書改善運動」はそもそも成り立つであろうか。1995年(平成7年)11月江藤総務庁長官発言をめぐって、金泳三韓国大統領は「今度こそ日本側の悪い癖を直してみせる」と豪語し、さらにソウルで江沢民主席と並んで「反日」共同記者会見をした。しかしながら日本に謝罪を要求する韓国は、朝鮮戦争での中国軍介入には一言の謝罪要求もない。というより出来ない。朝鮮半島がいぜんとして中国の「属国」である――毛沢東は朝鮮を中国の一部とみなしていた――ことを示している。


『歴史を裁く愚かさ』
( 西尾幹二、PHP研究所 (2000/01)、p41 )
第1章 教科書問題を考える前提
3 東アジアに歴史認識の共有などあり得ない

◆歴史は民族によって異なって不思議はない

歴史は科学ではない。地球上のどこにでも普遍妥当する客観的な法則につらぬかれているわけではない。歴史は言葉の世界である。言葉によって支えられた不確かな人間の知恵の集積であり、未来への希望や不安や欲求と切り離せない人間的解釈の世界である。

歴史はだから民族によってそれぞれ異なって当然である。国の数だけ歴史があっても不思議ではない。少なくとも文化圏ごとに、歴史意識そのものに著しい差異が認められる。

事実の一回性にこだわり、記録保存の価値を疑わないのはキリスト教文化圏の特徴である。歴史には進歩があり、目的があり、終末がある。これもキリスト教文化圏以外では考えられない。

中国は各王朝の自己正当化の歴史にすぎない。前の王朝を批判し、今の王朝の正当性を主張するためとあれば、事実をねじ曲げることもさして顧みない。古代史から教訓を引き出し、現代の自分に都合よく解釈することにも大きなためらいはない。古代、中世、近世、近代の区別は必ずしも重要ではない。この種の厳密な区別立ては、キリスト教文化圏の進歩の理念のむしろ反映である。

一方、インドには歴史意識そのものがないといわれる。例えばヴェーダはおおよそ紀元前1500年から前500年の間くらいに成立した、という程度のことしか分っていないほどだ。

文化圏ごとにこれほどに異なる歴史意識を何とか克服したいと考え、近代に入って、地球上のどこにでも普遍妥当する客観的な法則はないものかと、次々とイデオロギーが登場して、失敗した。マルクス主義がそのいい例である。

しかし、日本人が今学校で習っている歴史も「西欧中心史観」に大略沿うている点において、キリスト教文化圏の歴史意識の近代版、しょせんはイデオロギーにすぎない。日本の歴史意識と完全にぴったりは一致しない。従って今は何とかそこから脱却したいとわれわれは努力している時代であるが、さりとて中国の歴史像と日本のそれとはもともと異なるし――『日本書紀』は中国とは別の神話を起点とし、日本が自主独立の国家であることを主張している――、加えて日本がある一点において、他のすべてのアジアの国と異なり、近代西欧の歴史と並行し、共通している一面のあることも否めない。

それは日本が西欧と一緒に「進歩」の理念を信じ、近代的発展をとげ、しかる後にそれに幻滅し、ある種の「成熟」に達し、幼いナショナリズムをすでに卒業している一事である。

今アジア各国は「進歩」の理念を信じ始める緒についた。ナショナリズムが爆発しかけている。中国や韓国は日本の1930年代に似ている。アメリカの覇権に対する中国の反撥の仕方を見ていると、往時の日本そっくりである。

しかも永い間、中国の属国にすぎなかった朝鮮半島は、冷戦終結後、南北ともに再び中国の影響下に置かれ始めている。アメリカは朝鮮半島を最終的には見捨てる姿勢と見える。日本は孤立し、日清戦争前の東アジア政治状況に近づいている。

このような時代に、東アジアで「国際教科書改善運動」はそもそも成り立つであろうか。1995年(平成7年)11月江藤総務庁長官発言をめぐって、金泳三韓国大統領は「今度こそ日本側の悪い癖を直してみせる」と豪語し、さらにソウルで江沢民主席と並んで「反日」共同記者会見をした。しかしながら日本に謝罪を要求する韓国は、朝鮮戦争での中国軍介入には一言の謝罪要求もない。というより出来ない。朝鮮半島がいぜんとして中国の「属国」である――毛沢東は朝鮮を中国の一部とみなしていた――ことを示している。

しかも、幼いナショナリズムをすでに克服している日本を前に、ぎらぎらしたナショナリズムをぶつけてくる意識の落差に、韓国人は気がついていないし、日本人もそこに落とし穴があることが分っていない。

自国の教科書の修正を拒み、石川啄木の記載などとんでもないと一喝する歴史家たちから、問答無用と豪語する大統領に至るまで、彼らのもの言いにはほとんど開いた口が塞がらないというのが日本人の本音である。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本史 鎌倉編 《 南朝方を心... | トップ | WGIP 《 GHQの理不尽な刷... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事