電脳筆写『 心超臨界 』

一般に外交では紛争は解決しない
戦争が終るのは平和のプロセスとしてではなく
一方が降伏するからである
D・パイプス

読む年表 古代~中世 《 前九年の役/後三年の役――渡部昇一 》

2024-09-22 | 04-歴史・文化・社会
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前九年の役のときには、その功によって頼義は正四位下(しょうしいげ)・伊予守(いよのかみ)に任ぜられたが、他の功労者には恩賞がなかった。そこで頼義は朝廷にかわって自らの財産を分け与えたのである。豪族たちは感激した。後三年の役の場合は、清原氏の内輪(うちわ)争いと義家の私戦であるということで、やはり恩賞はなく、それどころか朝廷は戦費も出そうともしなかった。そこで義家が自腹で恩賞を与えたのである。このため、頼義・義家の二代で、関東地方の豪族、とくに地名を苗字にしているような有力豪族を、源氏はほとんど味方につけることになった。


◆前九年の役/後三年の役

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p52 )

1051(永承6年)/1083(永保3年) 前九年の役/後三年の役
源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)父子の活躍から武士が台頭し始めた

武士は元来、源氏も平家も皇室から分かれた家系で、天皇家に近い高貴な人たちに仕える身分であった。

源氏では清和(せいわ)天皇から三代目に多田満仲(ただのみつなか)(源満仲。912~997)という人物が出て、その子に源頼光(みなもとのよりみつ)、頼親(よりちか)、頼信(よりのぶ)という三人の息子がいた。「大江山の鬼(酒呑童子(しゅてんどうじ) )退治」で有名な長男頼光の家系を摂津(せっつ)源氏、二男の頼親は大和(やまと)源氏、三人兄弟の末弟である頼信は河内(かわち)源氏と称したが、この河内源氏の二代目源頼義(よりよし)は宮廷から蝦夷征伐を命じられ、手柄を立てる。このとき頼義にしたがって戦ったのが頼義の長男八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)である。

この頼義・義家父子が、奥州における「前九年の役」で、大変苦戦を強いられながらも陸奥国(むつのくに)の豪族安倍氏(あべし)を攻め滅ぼして河内源氏の名を高め、源氏の基盤を固めたと言われる。

「前九年の役」は、永承6年(1051)から康平(こうへい)5年(1062)の12年にわたり、朝廷に敵対する陸奥の豪族安倍頼時(よりとき)・貞任(さだとう)父子と、朝廷から派遣された源頼義・義家父子が争った戦いであった。

それからおよそ二十年後に、「後三年の役」と呼ばれる戦いが起こる。安倍氏の滅亡後、前九年の役で頼義・義家を助けて戦った清原氏(きよはらし)が安倍氏に代わって奥州で勢力を伸ばしていたが、この清原氏に内紛があり、そこに義家が介入して永保(えいほう)3年(1083)から寛治(かんじ)元年(1087)にかけて戦った。最終的に義家・清原清衡(きよはらのきよひら)連合軍が清原家衡(いえひら)・武衡(たけひら)軍を滅ぼし、この後、清衡は父方の姓である藤原(ふじわら)に復し、藤原清衡として奥州藤原氏の祖となった。

もともと下総国(しもうさのくに)を根拠にしていた平将門(たいらのまさかど)のように、関東には平家もいたのである。ところが、源氏が頼義・義家と二代続いて関東の豪族を率いて奥州で戦ったため、平家の系統でも源氏の恩を受ける者が多かった。

前九年の役のときには、その功によって頼義は正四位下(しょうしいげ)・伊予守(いよのかみ)に任ぜられたが、他の功労者には恩賞がなかった。そこで頼義は朝廷にかわって自らの財産を分け与えたのである。豪族たちは感激した。

後三年の役の場合は、清原氏の内輪(うちわ)争いと義家の私戦であるということで、やはり恩賞はなく、それどころか朝廷は戦費も出そうともしなかった。そこで義家が自腹で恩賞を与えたのである。

このため、頼義・義家の二代で、関東地方の豪族、とくに地名を苗字にしているような有力豪族を、源氏はほとんど味方につけることになった。北条氏も元来は平家だったが、やがて源頼朝の後ろ盾となり、源氏とともに戦うことになる。
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