電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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今の日本の小学校の教科書には、和歌が出てこないようである。いわんや作歌はさせない。今の小学生ほど、いろいろのことを教えられている子どもは神代(かみよ)以来なかったと思うのだが、神代以来、つねに日本人のアイデンティティの象徴であった和歌を、国民教育でも教えないのは、ちょっと、どうかしているのではないかと思うことがある。
『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p312 )
4章 鎌倉期――男性原理の成立
――この時代、日本社会は「柔から剛」へと激変した
(4) 禅宗が広めた自助・自立の精神
◆和歌の「徳」で出世した武士たち
鎌倉幕府が出来てからは、社会や文化の全体が、すっかり別の極(きょく)まで動いたのであるが、それでも一筋の繋がりはあった。それは、またしても和歌である。
平家が全盛であったとき、源氏で朝廷に仕えていたのは頼政(よりまさ)一人であり、老年になっても四位以上にはならなかった。そこで、
登るべき 道しなければ 木の下に しひを拾ひて 世をわたるかな
と詠んだら、さすがの清盛も憐れに思って、三位(さんみ)にしてくれたという。頼政のことを源三位(げんさんみ)というのはそのためであるが、和歌の徳によって出世した武士としては彼が最初であろう。
次は頼朝である。奥州征伐で白河の関を越えたとき、頼朝は諸将に向かって、能因(のういん)法師の歌はどうだ、と声をかけた。
能因の歌は、誰でも知っている例の「都をば 霞とともに いでしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」である。
そこで梶原景季(かげすえ)が進み出て、
秋風に 草木の露を 払はせて 君が越ゆれば 関守もなし
という歌を詠じた。
すると頼朝がおおいに喜んで、即座に500町歩の土地を与えたという。なにしろ頼朝は、後世の武士から見れば武士のカミサマか、ご本尊様みたいな人であるから、その人が家来の歌一つに500町歩を与えたという効果は大きい。
頼朝のあとを継いだ泰時(やすとき)もまた文武の人であったので、文武両道ということが武家の理想として明らかに根づいたのである。
時代が下(くだ)って足利時代のことであるが、将軍義満が伏見の桜を見に出かけたときの話である。
ちょうどあいにく雨が降ってきたので、将軍は、
「雨乞いの歌というのがあるが、だれか雨を止めさせる歌でも作らないか」
と言った。
そこで大内義弘(おおうちよしひろ)が、
雨しばし 雲に休(やす)らへ 小幡山(こはたやま) 伏見の花を 見て帰る程(ほど)
と詠んだ。
すると、ちょうど雨が止んだので、義満はおおいに喜んで、
「恩賞は望みしだいぞ」
と言ったので、義弘は、
「私の領地である周防(すおう)・長門(ながと)の隣に、安芸(あき)の東西条という地方がありますので、あそこを拝領したい」
と答えた。すると義満は、
「それはいとも易いことである」
と言って、東西条全部を褒美としてくれたという。
一所懸命の時代に、和歌一つで新領土をもらうというのだから、日本の武士の歌心というのは、たいしたものである。
その最もドラマチックな例が細川幽斎(ほそかわゆうさい)の場合である。
幽斎こと細川藤孝(ふじたか)は、足利義晴(よしはる)・義輝(よしてる)・義昭(よしあき)に仕え、戦国末期のどさくさに将軍家の重臣として活躍したが、足利幕府の滅亡ののちは織田信長に仕え、信長のあとは秀吉に仕え、ともに重んじられた。
豊臣滅亡ののちは徳川家康に重んじられ、細川家は肥後熊本城主の大名として明治に至って、その子孫には、今日なお著名の人が少なくない。足利幕府以来の大名で残っているのは、おそらく細川家のみであるから、これを幽斎の天才的世渡り術とみる人もいるであろうが、その本当の秘密は、和歌にある。
たとえば関ヶ原の戦いのとき、彼のいた田辺城は石田三成の軍によって包囲された。ところが幽斎は、当時、「古今伝授(こきんでんじゅ)」を受けた唯一の人であった。彼が殺されれば、藤原基俊(もととし)・俊成(しゅんぜい)・定家(ていか)以来の『古今和歌集』についてのオーソドックスな解釈の伝統が断絶してしまう。
これを心配された後陽成(ごようぜい)天皇は、勅命を下されて、包囲を解かせてもらったのである。これは家康側にとっては予期せぬモラル・ハザードであった。
家康は「第二の頼朝たらん」と努めた人である。頼朝の和歌尊重のことは十分に知っている。細川家が徳川家に優遇されたのは当然のことであった。こういうのを和歌の「徳」と言うのである。
ところが、今の日本の小学校の教科書には、和歌が出てこないようである。いわんや作歌はさせない。今の小学生ほど、いろいろのことを教えられている子どもは神代(かみよ)以来なかったと思うのだが、神代以来、つねに日本人のアイデンティティの象徴であった和歌を、国民教育でも教えないのは、ちょっと、どうかしているのではないかと思うことがある。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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今の日本の小学校の教科書には、和歌が出てこないようである。いわんや作歌はさせない。今の小学生ほど、いろいろのことを教えられている子どもは神代(かみよ)以来なかったと思うのだが、神代以来、つねに日本人のアイデンティティの象徴であった和歌を、国民教育でも教えないのは、ちょっと、どうかしているのではないかと思うことがある。
『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p312 )
4章 鎌倉期――男性原理の成立
――この時代、日本社会は「柔から剛」へと激変した
(4) 禅宗が広めた自助・自立の精神
◆和歌の「徳」で出世した武士たち
鎌倉幕府が出来てからは、社会や文化の全体が、すっかり別の極(きょく)まで動いたのであるが、それでも一筋の繋がりはあった。それは、またしても和歌である。
平家が全盛であったとき、源氏で朝廷に仕えていたのは頼政(よりまさ)一人であり、老年になっても四位以上にはならなかった。そこで、
登るべき 道しなければ 木の下に しひを拾ひて 世をわたるかな
と詠んだら、さすがの清盛も憐れに思って、三位(さんみ)にしてくれたという。頼政のことを源三位(げんさんみ)というのはそのためであるが、和歌の徳によって出世した武士としては彼が最初であろう。
次は頼朝である。奥州征伐で白河の関を越えたとき、頼朝は諸将に向かって、能因(のういん)法師の歌はどうだ、と声をかけた。
能因の歌は、誰でも知っている例の「都をば 霞とともに いでしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」である。
そこで梶原景季(かげすえ)が進み出て、
秋風に 草木の露を 払はせて 君が越ゆれば 関守もなし
という歌を詠じた。
すると頼朝がおおいに喜んで、即座に500町歩の土地を与えたという。なにしろ頼朝は、後世の武士から見れば武士のカミサマか、ご本尊様みたいな人であるから、その人が家来の歌一つに500町歩を与えたという効果は大きい。
頼朝のあとを継いだ泰時(やすとき)もまた文武の人であったので、文武両道ということが武家の理想として明らかに根づいたのである。
時代が下(くだ)って足利時代のことであるが、将軍義満が伏見の桜を見に出かけたときの話である。
ちょうどあいにく雨が降ってきたので、将軍は、
「雨乞いの歌というのがあるが、だれか雨を止めさせる歌でも作らないか」
と言った。
そこで大内義弘(おおうちよしひろ)が、
雨しばし 雲に休(やす)らへ 小幡山(こはたやま) 伏見の花を 見て帰る程(ほど)
と詠んだ。
すると、ちょうど雨が止んだので、義満はおおいに喜んで、
「恩賞は望みしだいぞ」
と言ったので、義弘は、
「私の領地である周防(すおう)・長門(ながと)の隣に、安芸(あき)の東西条という地方がありますので、あそこを拝領したい」
と答えた。すると義満は、
「それはいとも易いことである」
と言って、東西条全部を褒美としてくれたという。
一所懸命の時代に、和歌一つで新領土をもらうというのだから、日本の武士の歌心というのは、たいしたものである。
その最もドラマチックな例が細川幽斎(ほそかわゆうさい)の場合である。
幽斎こと細川藤孝(ふじたか)は、足利義晴(よしはる)・義輝(よしてる)・義昭(よしあき)に仕え、戦国末期のどさくさに将軍家の重臣として活躍したが、足利幕府の滅亡ののちは織田信長に仕え、信長のあとは秀吉に仕え、ともに重んじられた。
豊臣滅亡ののちは徳川家康に重んじられ、細川家は肥後熊本城主の大名として明治に至って、その子孫には、今日なお著名の人が少なくない。足利幕府以来の大名で残っているのは、おそらく細川家のみであるから、これを幽斎の天才的世渡り術とみる人もいるであろうが、その本当の秘密は、和歌にある。
たとえば関ヶ原の戦いのとき、彼のいた田辺城は石田三成の軍によって包囲された。ところが幽斎は、当時、「古今伝授(こきんでんじゅ)」を受けた唯一の人であった。彼が殺されれば、藤原基俊(もととし)・俊成(しゅんぜい)・定家(ていか)以来の『古今和歌集』についてのオーソドックスな解釈の伝統が断絶してしまう。
これを心配された後陽成(ごようぜい)天皇は、勅命を下されて、包囲を解かせてもらったのである。これは家康側にとっては予期せぬモラル・ハザードであった。
家康は「第二の頼朝たらん」と努めた人である。頼朝の和歌尊重のことは十分に知っている。細川家が徳川家に優遇されたのは当然のことであった。こういうのを和歌の「徳」と言うのである。
ところが、今の日本の小学校の教科書には、和歌が出てこないようである。いわんや作歌はさせない。今の小学生ほど、いろいろのことを教えられている子どもは神代(かみよ)以来なかったと思うのだが、神代以来、つねに日本人のアイデンティティの象徴であった和歌を、国民教育でも教えないのは、ちょっと、どうかしているのではないかと思うことがある。