ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

グリーンのオーラ

2013-06-25 09:06:00 | 身辺雑事

先日コンサルテーションにいらっしゃったお客さまが急に、

「うわっ! 何、これ!? すごいグリーンが見える・・ 恵津子さんの周りがすごくグリーンですよ! 恵津子さんのオーラってグリーンなんですか?」って言われました。

特に身振り手振りで話しているときなんて、手先のあたりが燃えるようにグリーンなんだそうで・・


そう言われてふっとずいぶん昔に(オーラソーマに出会うよりずっと以前に)、面白半分でオーラ写真を撮ったときのことを思い出しました。

そのときに私はやはり身体のまわりじゅうグリーンだったんですよね。

そして当時色のメッセージも何も知らなかった私はそこの方に、

「これはどういう意味?」って聞くと

「愛の人」だ、って言われました。


へぇ~とつぶやいたきり、人に愛を分け与えることが出来る人なのか、自分が愛に飢えている人なのか、その「愛の人」がどういう意味かをさらに尋ねることもしませんでした。

何だか当たっていない気がしたからです。

そもそも私ってグリーンの人じゃあ、ないと思うし・・って。

グリーンがそんなに好きなわけでもないし。

着るものとか身につけるものでもグリーンはほとんど持っていない。

嫌いってわけでもないけれど、グリーンって案外合わせにくい気がして。

それから何年も経ちましたが、相変わらず“グリーン”という色には大して縁がない感じでそのことはからっきし忘れてしまっていました。

なので、このとき「わたし、ときどきオーラが見えるんです。」というお客さまがいらっしゃって改めて(そういえば、私のオーラはやっぱりグリーンなのかな?)と思ったのでした。

実は私もときどき(まれにですけど)、人のオーラが見えることがあります。

だけど、何かの本を読んでいた拍子に、「オーラには“状況のオーラ”と“本質のオーラ”がある。」っていうことが書いてあって、“状況のオーラ”のほうが比較的見えやすく、そして状況に応じて変わるとあったので、きっと私がときどき見えるやつはこっちのほうだな、と思っていました。

あるとき、接客セミナーを行っていたとき、別の講師の方をお招きしたときがありました。

そのときに私も生徒側の席のほうからぼーっとその講師の方を見ていたら、イエローに覆われていたので、(あら、この方のオーラは黄色かな)と思っていたら、10分ほど経過したところで、ブルーに変わりました。

そこで私は、(あぁ、きっとこの講師の方も最初はちょっと緊張していたんだな。だからイエローだったけれど、今は落ちついて自分のペースで講義できるようになってブルーになったんだ。だから私が見えたのは“状況のオーラ”だな。)と思ったことがありましたから。

オーラがときどき見えたときにはそれが面白くって、見えない世界のことをもっと追究したい気持ちがつのったときもありましたが、オーラソーマを学ぶようになって、むしろ「オーラが見える、見えない」っていうこと自体はどうでもよくなりました。

大切なことはそこじゃない、って思って。


だけど最近、ヴィッキーさんがたどった生涯をそのときにヴィッキーさんが感じた気持ちも含めて私もなるべくその気持ちに沿うようにリアルに感じたいな、と思っているところへ折り良くというか、「恵津子さんのオーラってグリーンなのね。」と言われたので、ちょっとグリーンに興味が出てきました。

なにせヴィッキーさんも盲目になってからのほうが他人のオーラはより見えるようになったらしいですから。(※ヴィッキーさんの盲目は、無彩色である黒―グレー-白や人の影などはわかるようなものだったそうです。)

そして昔、数秘に基づいておまかせで作ってもらったパワーブレスを改めて取り出してつけてみました。

どうやら私は数字を色に変えたものでも「グリーン」らしいのです。

でもそのときはもっとシックなものか、迫力のあるパワーブレスを期待していたので、可愛い感じがするグリーンとクリアのブレスを見てちょっとがっかりしてしまいました。

それで作ったもののあまりしなかったんですね。

でも自分のオーラがグリーンなら、自分の隠れた魅力をもっと前面に出すためにも肌に直接触れるようなものでグリーンを身につけるのは良いことだろう、と思って。

そして昨日、私は何を思ったか急に手元にあるけれどこの先もあんまり身につけることはないだろうな~と思われるジュエリーを売りに行くことにしました。

急にお金が必要になったわけでもないけれど(必要ということでいえば、いつだってそうです・・)、この先もずっと身につける可能性のないものを置いておいてもな、って思って。

最近、「金・プラチナ買取ります。」とかいうお店、多いじゃないですか。


手放すことにしたのならどんなお店でもいいようなものですけれど、やっぱり大切に扱ってくれそうなお店のほうがいいな、と思って1軒目の住所だけ心当たりのあるお店の前を通り過ぎてみてその何でもごちゃごちゃ扱っていて「セール! セール!」という垂れ幕があるのを見てなんだかイヤになってしまい、別のお店に行きました。


何点か持っていったので、そこで鑑定してもらっている間私はカウンターでおとなしく待っていたんですが、何にぶつけたりしたわけでもないのに、そのときいきなりそのグリーンのパワーブレスが切れたんです!

そりゃあ、長年していなかったものですからゴムなども弱くなっていたから有り得ることだ、と言えばそれまでなんですが、そのタイミングに驚きました。


パワーブレスの紐が切れると、「満願成就」というように受け取ったり、何か自分の「身代わり」になってくれたんだ、というように受け取ったり、ということが一般的みたいですが、私はそのとき勝手に、「ハイ、ここでこのジュエリーたちとはお別れをして、このジュエリーたちが持っていた当時の私の思いとか経験したことには今日でさようなら。そして気持ちよく今日からまた新たなスタートを切るんです。」という気持ちになりました。

人間、信じたいものを信じればいいんですから、それでい~んです、ハイ。


グリーンは、虹の七色のちょうど中間に位置する色ですから、両極性のことがなんとなくわかってあげられる色です。

確かにそうあれたらいいな、とは思っています。

しかも最初から極性の中間にどっかと座り込んで動かない、というのではなく、いつも両極の間を行ったりきたりしながら、自分にとってあるいは周囲の状況にとって一番良いな、と思われるタイミングでその極性のどちらをも発揮できる自分でいたい、と思います。

そうすればすごく幅の広い人間でいられるのではないでしょうか。

よぉし、「グリーンのオーラ」であることを生かして、今日から幅の広い人間でいることを意識して生きていこう!と思いました。

あ・・  物理的に幅広い肉体をめざすって意味ではないですからね。念のため。(すでにそうだ、っちゅーの。)





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日本ミツバチの生態

2013-06-24 09:02:00 | うんちく・小ネタ

昨夜は満月でかつ地球に一番月が接近するという何十年ぶりだかのスーパームーンの日でしたね。

しかし、残念ながら岐阜では空を見上げても朧月夜どころか月は完全に深い雲のなかに隠れてしまっておがむことはできませんでした。

その少し前の時間にはたまたまそのダーリンの実家から

「笹もちをたくさん頂いたからあなたたちにもおすそ分けするからいらっしゃい。」と言われて訪ねていたところでした。

そこでいつのまにか自然に義母と私だけになったときがありました。

そうしたら義母が、

「最近、足がむくんでむくんで・・・。ほとんど立ってられないぐらいのときもあって、この前は2日間寝込んだのよ。」という話をし始めました。

そして話は、自らの足で歩いていけるうちに広島の自分の故郷にご先祖様のお墓参りに行きたいのだが、じいちゃん(旦那さん、私にとって義父のことです。)がなんだかんだと言って全然連れて行ってくれないのよ、もう3、4年も前からお願いしていることなのに・・と言うので、

「じゃ、お母さん。スーパームーンに向かってふたりでお祈りしましょうよ!広島にお墓参りに行けますように、って。月は見えないかもしれないけれど絶対伝わるから。」と言って月が出ているはずの方角に向かってふたりでお祈りしました。

通常の満月なら、新月にお祈りしたことに対して感謝を述べる日ですが、このスーパームーンの日ばかりは特別で新たなお願いごとをしてもいいんだとか聞いたことがあります。

私はどうしようかな~、何を祈ろうかな~と思っていたところでしたが、このお母さんのお墓参りのことを祈ることができてよかった、よかった、と帰途についたのでした。

さて、おととい「世界一受けたい授業」を見ていたら、日本ミツバチがスズメバチを追い払う映像を流していました。

DASH村」の撮影で偶然に撮ることができた、非常に珍しい映像なんだそうです。

身体も小さく、まともに戦ったらとうていかなわない日本ミツバチがスズメバチをどうやって追い払うのだろうか?

興味を持って映像を見つめていると・・

なんと、びっくり!

巣を襲おうとやってきたスズメバチに、おとりの一匹が巣からのそのそと(多分わざとのろく・・)出てくるのです。

まぁ! 文字通り「飛んで火に入る夏の虫」とスズメバチがそのおとりの一匹を襲うと・・

その一匹に夢中になっているスズメバチめがけて巣からわらわらわら・・と無数の日本ミツバチが出てきてスズメバチを取り巻いてしまうのです。


スズメバチは体温が46℃になると死んでしまうらしいのですが、日本ミツバチは自らの身体をそれ以上にしてスズメバチに押し当て、殺してしまうのです!

すごいでしょー!


番組ではいまや「探偵! ナイトスクープ」の放送作家からベストセラー作家へと転身をとげた百田尚樹さんの「風の中のマリア」という蜂の生態を描いたものを紹介するための一環として蜂の生態を紹介していたので、そのシーンはそれで終わりましたが、私は最初におとりとなった蜂はそのまま死んでしまうのか・・?  スズメバチは体温が46℃になると死んでしまうということらしいが日本ミツバチは自らの体温を命をかけて上げやはり死んでしまったのか・・? そこが気になりました。


自らの巣や女王蜂を守るためには命も賭さない彼ら。

アリもそういうことをしますよね。

確かハムスターのような小さいねずみもそういうことをします。

例えば集団で引越しをするようなとき、自分たちでは到底渡れないような幅の川を渡らなくてはならないとなると、彼らは最初に進む者たちが躊躇なく犠牲になっていきます。

なにせ小っこいので、どんどん川に突っ込んでいけばいつのまにか彼らの屍骸が橋となり後続の者たちが渡れるようになる、というわけです。

確か「ハメルーンの笛吹き」にもそんなシーンがありませんでしたっけ?


こういう自らの命をなげうって自分たちの種の保存のために行動する生き物たちのことを小さい頃は、「単にバカなんだ。そういうふうに本能にインプットされてるだけなんだ。」と思っていました。

そうでも思わなければとても説明がつかない行動だったからです。


このような彼らの行動に学者の方たちがちゃんとした納得できる理由を探してくれているのかどうか知りませんが、今の私ならこう考えます。

「動物行動学的に見るなら、単純な脳の構造をしている動物こそ、生存本能だけは強いはずだから、こうすると死んでしまう!という危険察知能力は優れているはずだ。

それなのにも関わらず、彼らは自らの命をなげうつことをなんの躊躇もしない。

それは単に本能にそう行動しろ、とインプットされているということではなく、これこそ『生命の暗号』の著者、村上和雄氏の言うところの“サムシング・グレート”という遺伝子のなせる業ではないだろうか。

サムシング・グレートは通常では機能しない。けれど、何か自分にとっての一大事、種の一大事を察知するときだけ働く。(村上氏は人間のヒトゲノムを解き明かすのにはDNAのほんの10%の情報しか必要ではなく、あとの90%はジャンクDNAと言われていることに疑問を抱き、それらは普段は眠っているけれどここぞ!というときにだけ働くように出来ているのではないか、という仮説を立てたのです。)

そのときの働きは、常識的に考えたら『死にたくない』『恐い』という当然の本能を超越したものとなるのではないか・・」

そして“本能さえ超越したもの”とは何かといったら、それは“魂の情報”なのではないか、と思うんです。

「生き物として肉体をもってこの世に生まれたら当然湧き起こるであろう本能を超えて、魂は永遠なのだから何も恐れる必要はない。」とか、

「自分と仲間は別の生き物なのではなくて、実は一緒なんだよ。魂としてはひとつの大きなぶどうの房の一粒同士みたいなものなんだ。」という事が瞬時に理解できれば、自分の肉体としての命がそこで終わりを告げようとも、ほかの房の一粒たちに自分の命をも託すことができるのでしょう。

そう考えたら、サバンナやツンドラのようなこの地球上では過酷と言われる環境のなかで生きている生物こそ、肉体を離れた精神世界の学びを受け取る機会が否が応にもあるのかもしれないな~なんて思いました。

私たち人間のほうが、文明社会で身の危険を日々感じるでもなく安穏と生きていられるがゆえに、あーでもない、こーでもない、と思考を使って何年も何十年も死ぬまでかかって精神世界のことを学んでいる。

けれどそれもまたいいのかもしれない。

頭を使う、ということは人間の特権だと思えば。






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love&intention

2013-06-23 09:01:00 | オーラソーマ

木曜日から予選ラウンドが行われている「男子ゴルフ 日本ツアー選手権」。

初日は、ルーキー松山くんと石川遼くんが同組で回るということで評判になりましたが、初日の結果は松山くんが2位、遼くんがなんと最下位という明暗を分けた結果となりました。

2日目こそ遼くんは猛チャージしましたが、惜しくも1歩およばず予選敗退が決定しました。

このとき私は同じくゴルフをやる友人とこんな話をしました。

私が、

「遼くんってどうして成績落ち始めたんだっけ? このまま終わっちゃう選手じゃないと思うけど、どうも全く浮上してこないねぇ。長いねぇ、スランプ。」と言うと、友人が、

「確か米ツアーに参戦することにしてからスイング改造しておかしくなったんじゃなかったっけ。」と言いました。

「どうして米ツアーに行くとなるとスイング改造しなきゃいけないわけよ?」

「もっと飛ばしたくなったらしいよ。やっぱり米ツアーの選手たちはみんな飛ばすから不利だと思ったんでしょう。」

「ふぅ~ん。残念だねぇ。せっかく初めて全英に出場したときワトソンと同組になって、ワトソンから『君は何も変える必要はない。いまのままやりなさい。』って言われたのにねぇ。自分を信頼できなかったんだね。」

こう話しながらも、私はなぜか、遼くんが自分を信頼することによってスイング改造を行わずにゴルフ人生を続けるのも、スイング改造をしてスランプに陥りながらも最終的に彼が納得のいくスイングに落ち着いて取り組むのも、最後行き着くところは同じなのだ、という気がしました。

それは彼が“意図するところ”を知っている人間だからだ、と思います。

オーラソーマの製品には、「love&intention」と記されています。Intention

イクイリブリアムボトルなぞは「with love&intention」という部分は太字になって強調されているくらいです。Intention_2

これは「愛と意図をこめて」この製品はつくられています、ということです。

英語圏のことがよくわからない私は、ずっと単純に日本語に直訳したまま「intention」を「意図」とだけ受け取ってきました。

「意図」って日本語でもわかりにくい言葉ですよね。

「君の意図するところは何なんだい?」とか、「この製品開発の意図するところは・・」とかいうように使います。

使いますが・・

では、「意図」と「意識的」というのがどのように違うのか?と言われたら、はたと思考停止してしまいます。

私はずっと「意図」を「意識的」と同義語として受け取ってきたのでした。

だからオーラソーマの製品に書いてある「love&intention」も「と~っても細心の注意を払いながら、このエネルギーがこれを手に取る人に働きかけるように、って愛をこめて作られているからね。」っていうように受けとめてきました。

それも間違っちゃいないんでしょーが・・・

この前私はたまたまアメリカ人が書いた翻訳本を読んでいたら(オーラソーマとは何の関係もない本です。)、「インテンションとは~」というフレーズが出てきて、ほほぅと立ち止まったのです。

そこにはこう書いてありました。

『インテンション(意図)とは、意識的であれ無意識であれ、何を創造するか選択することです。』

あれ? 「意識的であれ無意識であれ、」ってことは、やっぱり「意図」は「意識的」とは違うんだ、ってことに改めて気付いたのです。

世の中では100%自分が自らの人生を創造しているとは思っていない人が多いのではないでしょうか?

自分はそのつもりで歩んでいても、どうしようもない政治的な動きとか社会の環境とか自然災害とかいろんなことによって、時には自分自身を周りの環境や状況の被害者として考えることさえあります。


しかし、そこには、「成功者はそうではありません。」と書いてありました。

『成功者は自分が意識を向けているものから現実が創られることを知っていて、自分が望む現実を意図的に創り出しています。』と。

つまり、この考え方でいけば、

「結果は、常に自分の本当のインテンション(意図)と一致する。」ということなのです。

一見、「自分は本当に心から望んだ。けれども結果は自分の思ったとおりにはならなかった。」という人は、自分の内面の深いところで起こっている“意図”をより深く見つめるべきなのです。

ここには例としてこんなことが書かれていました。

例えば夢を抱いて起業し、初年度売上はいくらいくら、最終利益はいくら、と目標もちゃんと設定したのに、借金が残ってしまった。

どうしてこうなってしまったのか・・・

それを分析した結果、わかったことがありました。

この会社は2人の友人がお互いをビジネスパートナーとして共同経営で会社を立ち上げたのですが、お互いがお互いとも途中で「何か違うことにも取り組んでみるべきなのでは?」という思いを抱えながら、「いやいや、パートナーはそれを望んでいなさそうだ。そもそもこの分野で彼は専門家なのだから彼の言うとおりにしたほうがよさそうだ。」とよく話し合うこともなく、相手を立てているつもりで最終的にお互いが落胆する結果となってしまっていた、ということだったのです。

これはお互いの“意図”を友情とか思いやりと履き違えた思いのために見間違えた例です。

具体的な数字までを目標として掲げながら、意図を「相手のビジネスパートナーを立てること」にしてしまっていたんですから。

もう1つ例をあげます。

「タイタニック」では船が沈んで、ローズだけが生き残り、ジャックは力尽きて死んでしまいました。

このときお互いの“意図”はふたりともが生き残り、幸せになることだったに違いない。

だから、やはり“意図”はそのとおりの結果にならないこともあるのでは・・?と一見思えますね。

けれども映画「タイタニック」でディカプリオが至福の表情をたたえて手を離したときのことを覚えていますか?

彼は自分が助からないということに絶望的になっていたのでしょうか?

いいえ、ローズが生き残るということの幸せ、彼女との永遠の愛やつながりを感じていたに違いありません。

だから海の底に抱かれていく瞬間、悲壮感も恐怖も感じなかったことでしょう。

「生きるか」「死ぬか」ということを超越した“意図”がジャックにはあり、肉体の生存を超えた質の高い人生をその瞬間彼は楽しんだのです。

こう考えたとき、私はオーラソーマの「with  love&intention」という言葉の重みにちょっと触れたような気がしました。

あれは、「気つかって作ってますからね。」というレベルの話ではなく、「このハーブや色やクリスタルたちが意識的にあなたに働きかけますからね。」ということさえ超越して、「このプロダクツは、最終的にあなたがどういう意図した人生を送りたいか、というところにちゃんとフォーカスしますよ。」という宣言みたいなものなんですね。


以前、「このボトルに入っているハーブたちは、摘まれるときから、どこの誰のために働くかをちゃんと知っていると言われています。」と聞いたことがあります。

そのとき「まぁ、ステキ!」と思う反面、「そう信じたいけど、んなわけありまっかいな。ハーブがそんなこと知ってるわけないっしょー?」という疑心暗鬼な気持ちもありました。

けれど、ハーブにも“意図”があるなら・・・ あるいはハーブを育てた人たちにその“意図”があるなら、確かにそうなるでしょう、と今の私なら信じることができます。

だから、急に冒頭の話に戻りますけれど石川遼くんがスイング改造をつらぬこうが、途中でやめて元のスイングに戻そうが、何をしても彼が最終的に意図するものが「飛ばしたい」ではなく、「米ツアー優勝」にあるならば、彼はそこへ行くでしょう、だから結局同じことなんだ、と感じたんだな、と思いました。






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秘密のデート

2013-06-22 09:05:00 | 身辺雑事

先日、わたしがひとりでちょっとモノを届ける用事でダーリンの実家に寄ったときのことです。

ダーリンの実家は玄関前に数台駐車スペースがあり、そこに差し掛かると、ちょうど義理の両親と同居している娘夫婦もいることがわかりました。

というのは、駐車スペースに車を止めてまだ車のドアを開けただけで車を降りようとしていたところでしょうか、そんな状態の娘の旦那(義理の息子ってことですね。)に、車窓ごしに外からなにやら話しかけている娘の姿が見えたからです。

私は、「あ、こんにちは~!」と彼らに言いながら近づいていきました。

すると、3メートルほどにまで近づいたときようやくわかったのですが、彼らの様子がおかしい・・・

なにか揉めていたところみたいなんです。

一瞬たじろぎましたが、娘はこちらを振り返って、

「あ! えっちゃん・・ こんにちは・・」とかろうじて言ってくれました。

なんだかその顔は今にも泣き出しそうに見えました。


「あれ・・ どうしたの? 大丈夫・・?」と私が言うと、

「大丈夫、大丈夫。」と言ってから、

「でも・・」とそのまま通りすがるのもどうかと私がたじろいでいると、

「ほんとに大丈夫だから行って、行って。おばあちゃんたちに用事なんでしょ。いいから家に入っていって。」と娘が私の背中を押しました。

私が家の中で届け物をすませ、外に出てくると、もう彼らはいませんでした。

(あれからどうしたろ・・?)とちょっと気になりました。

いつもの他愛もない喧嘩かもしれない。(娘はけっこう気性が強いので、すぐに喧嘩になるってのは周りからも本人からも聞いてます・・)

けれどそれは話として聞いたことはあっても、実際に彼らが喧嘩をしているのを目の前にしたのは初めてです。

話を聞くのは事後報告ですからいつも笑い話になっていますが、喧嘩をしている真っ最中というのは彼らとて真剣です。

その様子はほんとに一触即発に見えて、ダーリンとはろくに喧嘩になったこともない私にしてみれば、(ほんとに大丈夫か・・!?)とドキドキするようなものだったのです。


私はあのときの彼らの姿が脳裏に焼きついて離れませんでした。

あのとき娘は複雑な感情をいっぱい抱えたような、それがもう今にも零れ落ちそうな表情をしていた・・

それに対して娘の旦那のほうは、この世であれほど冷徹な表情ってあるのか、っていうほどの冷たい顔をしていた・・

娘が感情的であるのに対して、娘の旦那が冷静でいた、という単純なことではありません。

ただ感情を表向きに出している娘と、思い切り内側に溜め込み外側には出さないようにぎりぎりのところで踏みとどまっている男がいた、って感じ。

なんかただ事ではないように見えました。


そして、私は(夫婦喧嘩は犬も食わない、って言うんだから、男女が喧嘩したらあんなものなのかな・・? 何も言わずにそっとしておいた方がいいのかな?)

(それとも、もう1度、娘にさっきのは何? 何があったの?)と聞いてみたほうがいいかな、と自問していました。

娘はダーリンの前妻の子です。

だから、当然のことながら私と娘とのつながりはダーリンと結婚してから生じたわけですからほんの5年程度。

しかも娘とはいっしょに暮らしたことがあるわけではなく、その後娘もすぐに結婚したので、娘とは今までにちらほらと外で会ったことがある、っていう程度です。

それはもう、母娘という関係ではなく、友達同士って感じくらいのものです。

でも私はそれでいい、って思ってました。

どうせこれから何十年と私が死ぬまでの長い付き合いになるんだし、いきなりダーリンと結婚するからって、

「はい~、今日から私があなたのお母さんになりました。よろしくね。」って柄でもないし、ましてや娘にしてみれば、そんな風に呼べるはずもなかろう、と思ってましたから。

そしてこのときも(何も言わずにそっとしておいた方がいいのかな?)という考えは、

1.“友達”であればそうするだろう。

2.下手に嫌われたくない。(娘は気性が激しいところがあるため、まだまだ熱いときに下手にコミュニケーションをとろうとすると、「うるさい! 放っておいて!」ということになりかねないんですわ。)

3.というわけで、損する可能性があるのを押してまでも自分のほうからコミュニケ

  ーションを取りに行く必要なんてないか。

という私が娘にとっての“私”という人間の評判を落としたくない、というさもしい心から来ているだけだな、とわかりました。

そうわかったとたん、私は、「それじゃあいかん!」と行動に移しました。

これまでなら放っておくほうをごく自然に選択していたかもしれない。

でもこのときはなぜかそれじゃダメだ!と強く思ったのでした。

第一、“友達みたいな母娘”ではあっても、私と娘は“友達”じゃあ、なぁ~い!

娘に嫌われたら損なだけ、とか何を保身めいたアホなこと言ってる!

身内が苦しんでいるというのに、触らぬ神にたたりなしとばかりに、放っておいていいわけがない!

差し出がましく頭を突っ込んで嫌うなら嫌え!

私は“母”として当然のことをするまでだ!

・・・と思いまして、娘にメールしました。

内容は、「何か話したいことがあったらいつでも相談に乗るからね。頼りないと思っているかもしれないけど、少なくとも聞くことだけはできるよ。」というようなものです。

さぁ、これに娘は反応するかどうか?


もともと娘はあんまりマメにメールとか返すほうではないので、もう済んだことだと自分で思えばいちいち返信してきたりするタイプではないんです。

でも私は何だか絶対メールはくる、って確信めいたものがありました。

私がこれだけ生々しく本心を伝えたんだから、真心は必ず伝わるはずだ!みたいにおめでたく思ったんですね。


そうしたら、本当にすぐに返信がきました。

「話、聞いて欲しい。」というものでした。

パパにも知られたくない、じいちゃんばあちゃんにも知られたくない、だから明日、そっちへ私が行くよ、というメールから私は、娘からすぐに反応があって嬉しい反面、

(いや、これ、思ったより深刻かもな。実は離婚を考えてるんだけど・・)なんて切り出されたらどうしよう、どうやって答えたらいいんだろう?と今度はドキドキしてきちゃいました。

何が何でも我慢しろ、と言うつもりはない。

けれど、そっかー、もう意志が固いなら仕方がないね、なんて軽はずみに言おうものなら、私のあの一言が決め手になった、なんてことになっても困るしな~なんて、堂々と、受け入れ口広く、毅然として、しかし温かく振舞うにはどうしたらいいか、なんて悶々と考え込んでいました。

そうして次の日、娘に会うと、

「ちょっと聞いてよ~ ほんとにムカつくんだからさぁ。」から始まったその娘の軽い口調から、「あぁ、よかった。やっぱりタダの喧嘩だったみたい・・」ということがわかりました。

娘は誰かに聞いて欲しかっただけみたいで、ひととおり、

「でさぁ、こういう態度なわけよ。怒れちゃうでしょ? わたし、悪くないよねぇ?」

とぶちまけると、

「あぁ、すっきりした。ここへ来るまではもっと大変なことになってるって自分では思ってたけど、話してみるとたいしたことじゃない、って気がしてきたよ。やっぱり誰かに聞いてもらう、って大切なことだね。

あ、えっちゃん、こうして時々ランチしようよ。」と言い置いて、また嵐のように去っていきました・・

あ~、良かった・・・

娘は大事なことを教えてくれました。

オーラソーマのセッションにやってくる方にも、

「サロンへ来るまでは、自分の状態はもう大変なことになってる、と思っていた。」という場合、結構あるんじゃないでしょうか。

でも、誰かに話すと整理もされるし、「あれ? これだけのことだっけ?」ってなることも多いですよね。

こうして自分で自分に気づくんですよ。

だって、「あなたが選ぶボトルはあなた自身です。」ですからね。

そして、よし!オーラソーマ受けてみよう、あのサロンに行ってみよう!とちょっとだけ勇気を出すことによって何かと繋がりながら生きていくんですよね。

私がこの先、娘と秘密のランチデートを時々することになったように。






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自己評価の低い人のために

2013-06-21 09:11:00 | うんちく・小ネタ

今日もおとといご紹介した「心に響くことだけをやりなさい」の著書の中からご紹介したいことです。


この著書に限らず、“自己啓発”的なノウハウ本って、その広告の仕方といい、中身の論調といい、ポジティブを通り越してあまりにもイケイケな感じがついていけない、と感じる方はいらっしゃいませんか?

そして「ついていく必要もないや。」「別に自分がネガティブなわけでもないし。」「こういうやたらと煽り立てるようでいて、このノウハウを知らない奴はみんな損をしている!というような語り口はどうも性に合わない。」と思い、そもそもこういうノウハウ本をむさぼるように読む必要もないはずだ、それは砂漠の中に何の身を守るツールもなくごく軽装で放り出されたようなもので、余計に咽喉が渇くだけに違いない、と本屋に行っても一切そういうたぐいのコーナーからは背をそむけることにした、という方はいらっしゃいませんか?

それ、私です(笑)


しかし、おとといも書いたようにこの本の著者ジャネットが、スコーン!と抜けたような青空のようなストレートな情熱で講演家に話したのと同様、私もむき出しの素直さを発揮してみると(え? もう十分?)、「“こういう広告宣伝のやり口をのぞけば”本の中身は自分にとって勉強になることはいっぱいある。」ということに改めて気付いたのでした。

でもなぁ・・とハテとちょっと私は立ち止まりました。

私のような理由ではなく、いくら良いことであってもどうしても素直になれない、という人もいるよなぁ、と思いました。

そういう人は何がネックになっているんだろう・・?


この本のなかにも書いてあったんです。

「私たちは何千万人もの方たちをコーチングしてきましたが、『自分はパッションを実現できる』と信じることが出来ない人は、セルフイメージ(自己評価)が低い、ということがわかりました。」と。

確かに自分のことが好きでない人に対して、その人にどれだけ「そんなことはないよ。」「どうしてそんな風に思うの?」「あなたはこういうところがとても素晴らしいじゃないの!」「あなたはあなたであるだけで価値があるのよ。」とどれだけ伝えたところで、どうしても自分ではそう思えない、を繰り返すばかりです。

それはその人が、“自分の出来ないところ””至らないところ“ばかりに目が行っているからですね。意識がそこにばかりフォーカスしているからです。

エネルギーは思考にともないますから、自分のマイナス面ばかりにいつも思考が及んでいたら、そりゃあ、そういうことばかり余計に引き寄せてしまいますよ。

だから、ね。

良いことのほうに目を向けていようよ!

・・・と言うは簡単ですが、「わかってる、わかってるって。」「あなたの言うことは百も承知だけど、それでもどうしても、自分は価値がない、っていう思考から抜け出せないんだって。」と言う人にはこちらとしてももうそれ以上のすべはない、という感じに、ふつー、なってしまいます。

しかし、この本では丁寧にそういった人が自分に価値を持てるようになるための方法が述べられているところがあったのです。

それは、「感謝ゲーム」です。

毎日その日1日にやったことを振り返り、自分自身に感謝する事柄を見つけます。

どんなに小さく見えることでもかまいません。

最低でも10個は見つけます。

そして次の日、前の日の10個とかぶるものがあってはいけません。

必ず違うことで見つけます。

「自分に感謝できること。」

「その日成し遂げたこと。」

「その日自分の生活で勝ち取った小さな成功。」など。

どれだけの日数やってみろ、とは書いてありませんでしたが、少なくとも1週間はやってみるとよいでしょう。

著者のジャネットは意外にも、自己評価がとても低い人間だった、と白状しています。

そしてこれをやってみたことによって彼女は、どうして自分に感謝することができず、その代わりに自分には「価値がない」とか、「無能である」とか、「愛されない」と感じるほうを選ぶのか、その理由を探すうちに面白いことに気付いたそうです。

それは、「被害者でいるメリット」に自分は溺れていたんだな、ということ。

被害者でいると、「人々の注目を集めることが出来る。」「彼らの同情を得ることが出来る。」「あきらめることができる。」など。

そしてそれに気付いた彼女は、感謝ゲームを始めたり止めたりを何度も繰り返して、やっと自分のセルフイメージの低さに依存する状態を抜け出すことができたんだそうです。

私自身は、自分の評価を低く見積もっているということはないと思います。

むしろ、その傲慢さを何とかしろよ、ってほうじゃないか、と思ってきました(笑)

なので、この「感謝ゲーム」をやる必要は感じなかったのですが、それでもやってみると何か発見がありそうな気がして、ちょっと日記風に毎日付けてみたんです。

意外なことがわかりました。

まず、自分のことを傲慢だ、と思っていた私なのに、「その日自分に感謝すること」が全く思いつかない・・

え? どういうこと・・?

誰それさんに感謝とか、人でなくても何か生き物であったり、事象であったり、天であったりと自分以外のものに感謝して「あ~、よかった。これで私は生かされている。」と感じることのほうがいかにラクか、と意外にも感じました。

最初の項目は、しょーもないことを書きました。

「今日も体重計に乗った。」とか・・

でも、これって別に“自分に感謝”って感じでもないよなぁ。

なんか収まりが悪い感じ。

そしてとても10個も書けそうにもありませんでした。

そしてそのうち、気づきました。

あ、そうか。

ほかの人に感謝する事ならたやすいなら、「ほかの人に感謝することができる自分」に感謝すればいいのか、って。

そうして書き出したら、すらすらと書ける、書ける。

「○○会社から企画を提案してくれ、と言われて感謝したけれど、○○会社にもっとよくなってほしいとを思って企画を立てようとしている“私”に感謝。」とか、

「ダーリンが今日は弁当はいいよ、って言ってくれてやったぁ!と感謝したけれど、そもそも別に義務でもないのにそれに感謝を感じた“私”に感謝。」とか、などなど。

要するに、“私”という人間をみている別の第三者の目になってみれば、“私”に感謝できることもそこそこ見つかるんですね。

私って、自分のことを傲慢な奴だと思ってたけど、意外に人に感謝することができるヤツじゃん、という新たな自己評価が加わったのでした。

こういうクセづけができると、自分がやった正しいこと、うまくいったところ、頑張ったこと、勇気を奮い立たせて行動したことの方に注目できるようになります。

すると自然に自己価値も高まる、ってわけです。

自分の間違っているところを正そうとするよりも、よほど健全だと思います。

2,3日で効果がわかるってものでもないかもしれませんし、多大な期待を持ちすぎて、「これでようやく私は自己評価の低さから解放されるのか!」と他力本願的におんぶに抱っこの気持ちを抱くのもどうかとは思いますが、セルフイメージが低いことに苦しんでいらっしゃる方は一度トライしてみてはいかがでしょう?

そして私のようにセルフイメージは決して低いと思っていない、という方にとっても必ず何か新しい発見があると思いますよ。






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