ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

無知なるものへの愛おしさ

2009-08-31 07:38:00 | ニュース

テレビのニュースで釧路動物園の障害をもった虎、「タイガ」が1年3ヶ月という短い生涯を閉じました、という話を聞きました。

またまた動物のニュースかぁ、と最近なんだか動物に関する胸が熱くなるような話をよく聞くことになるわ、と思った次第です。

死因は喉に食べ物を詰まらせたからだそうです。

タイガはココアという女の子と一緒に生まれた男の子の虎でした。

2匹とも生まれもって後肢に障害をもち、まともに歩くことが出来ませんでした。

軟骨形成不全症といって、手術しても治らないものだったそうです。

後ろ足がほとんどぶらぶらの状態で、極端な内股のようになり、前肢でひきずるようにして歩いていました。

それでも懸命に歩こうとする2匹、一生懸命ミルクを飲もうとする2匹を見て、

最初はどうしようかと迷った飼育員もとにかくできるかぎりのことはして2匹を立派に育てよう、とつきっきりの面倒を見たそうです。

そのうち、2匹のことは町中の噂となり、障害を持っても一生懸命生きる姿に感銘を受ける、といって訪れる人が多くなりました。

そんな矢先のタイガのあっけない死でした。

いつも一緒だったタイガとココア。

どちらかというと、まだ障害が軽いほうのお転婆のココアがタイガにじゃれかかることによって、いつも2匹は楽しそうに遊び、その遊びによって、致命的な障害でも運動量がかなりあるために元気だったようです。

でも、突然いなくなった弟のことがまだよく飲み込めない様子のココア。

1頭だから、当然運動量もぐんと減ってしまうだろうし、と飼育員は亡くなったタイガに思いを馳せるヒマもなく、ココアの心配をしていらっしゃいました。

カメラは、どことなく所在なげな様子のココアを映し出していました。

時折、遠くに目を馳せるような表情をしてみたり、呆然としてなんだか寂しそうに見えるのは人間がそう思うからでしょうか・・

2匹とももし自然界で生まれていたなら、生まれたときからその命の行方はもう決まっています。

弱いものは自然淘汰されるのが自然界の掟ですから。

私は、彼らの生まれたときから一生懸命飼育員の方が育てて、そして彼らも一生懸命それにこたえようとしてたくましく生きてきた映像をみながら、ふと、自分がどうしてこんなにも動物が好きなのか、その理由が少しわかったような気がしました。

それは彼らが「無知」だからです。

私がどんなシーンにいつも一番ぐっと胸を突かれるような気持ちになるか、というと、たいていは彼らの無知による哀しみによるものだ、ということに気づいたのです。

例えば今回のタイガとココアのことで言うと、飼育員の大場さんが彼らのお母さん代わりのようにべったりと24時間つきっきりで育ててきました。

でも、すくすくと彼らは大きくなり、最初は猫の親玉くらいだったのが、どんどん見かけだけは立派な虎になってきた頃、親離れをさせなければいけない、ということで、今日を境にいっさい大場さんは彼らの檻のなかには入れない、という日がやってきたときのことです。

どうして、こんな鉄格子越しにしかママに会えないのかわからない2匹は一生懸命手を伸ばして大場さんに触れようとします。

もう、わたし、ダメ。

自分の爪や牙が必要以上に愛するお母さん(飼育員さん)を傷つけてしまうかもしれないから普通の虎の親子より早く引き離されるわけですが、その理由なんて彼らにわかるはずもありません。

これから2度とお母さんと以前のように全身をぶつけあって遊べることはないのです。

これが人間の親子の場合であっても、乳離れをさせるためにまだおっぱいを吸いたがる赤ちゃんを無理やりに今日からは飲ませないようにする、というときがあります。

でもそれは「本来ならもっと与えてもいいのに」ということではないですから、タイガとココアの場合とはちょっと違うのではないか、とどうしても動物の事情のほうに肩入れしてしまう私なのでした。

動物園でいつもすぐそこにいる、とわかっているお母さんなら、本当なら大場さんに同じように分厚い皮膚と牙や爪があれば、一生檻越しなんかではなく、楽しくスキンシップして遊べるわけですから。

タイガが亡くなったあとのココアの様子にしてもそうです。

彼女は何が起こったのかわからない。

だから、いつまでタイガがいないのかもわかっていないでしょう。

何かの事情で今日だけちょっと別々なのか、1週間ぐらいなのか、それとも一生なのか・・

これが人間であれば、言って聞かせることができます。

幼くて言っている意味が本当には理解できないかもしれない場合もあるかもしれませんが、少したてばわかりますし、人間であれば言葉で事情を伝えることができるわけです。

でも、動物は永遠に言葉をもたないから理解できない。

仏陀は「無知は罪だ」と言いました。

この場合の「無知」とは多分、自分が何のために生まれてきたのか、とか何をなすべきなのかを知らずにこの世を生きることは罪だ、と言いたかったのではないかと思うのですが、これはいわば自分が果たすべき使命も知らずに命を一生懸命使わないことはいけないことだよ、と言いたいのでしょう。

そう考えたとき、動物にはそもそも自分は何のために生まれてきたのか、何をなすべきなのか、なんて考えることはできません。

毎日、ただただエサとなるものを捕獲して生き延びるだけで精一杯です。

人間のように使うべき知恵を与えられているのに使わないのは罪だ、と言うのとは違って、そもそも自分の使命に関しては知恵を与えられていない。

ということは、動物にとっての無知は罪ではない、ということです。


まったく無垢の、そして育っても、生命をまっとうするまでずっと無垢なままの「無知なもの」に私は強く惹かれるのかもしれません。

だから彼らが一生懸命生きる様子に感銘を受ける、何てことも人間のおごりにすぎないのでしょう。別に彼らは「障害をもっていても一生懸命生きていこう」と思って行動しているわけではありませんから。

そんなことを考えるすべもないほどの純粋で無垢で無知なもの。

それがたまらなく愛おしく思えるのです。

オーラソーマヒーリングサロン「些々羅」では、メールにてコンサルテーションのご予約を受け付けております。営業受付時間は月~土(AM10:00~PM4:30)です。

刻々と予約状況が変わるため、まずはメールにてご希望の日時をお聞かせください。

場所は、名鉄岐阜駅から徒歩5,6分のところです。(駐車場1台分有)

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モチベーションの維持

2009-08-30 07:35:00 | 身辺雑事

先日、おなじみのjynちゃんとちーちゃんと3人で勉強会を行いました。

3人で集まるたびに時々出る言葉、

「わたし、あなたたちがいなかったら、こんなに頑張れなかった・・」。

これはそれぞれ真実の気持ちだと思います。


人間て弱い。

なかなかひとりでコツコツと頑張るってできないんですよね。

だから仲間がいて励ましあえると本当に嬉しい。

ちーちゃんにいたっては、「わたし、jynちゃんがいなかったら、そもそもサロンをオープンしてオーラソーマを生きる糧にしようとはしていなかった。ふつーに就職しようと思ってたんだもん。」と言ってました。


頑張り続けるために必要なものとしてよく「モチベーション」と言われます。

モチベーションー。

直訳すれば「動機付け」とか「やる気」と訳されています。

早い話が、ひとつのことをやり遂げるときに「なぜ?」「なんのために?」という目的意識をはっきりさせ、頑張ってやり遂げるために必要なエネルギーの源のようなもんでしょうか。


日本人はこれが大好きですよね。

今日も多分、日本中のそこかしこの会社で「モチベーションアップ!」とか「モチベーションを向上するためには!」とか声高に叫ばれていることでしょう。

「モチベーション向上のための研修」というのもゴロゴロと転がっています。

私にも良く舞い込む研修依頼のタイトルの1つでもあります。

しかし、こんな私自身が「仲間がいないとなかなか頑張れない」でいる人なのに、そんな私がこのタイトルで偉そうに研修やっていいんでしょうか・・って感じ。

このモチベーションを維持するための方法が単なる自分の人生に目的があるだけではまだまだ弱くて、どうしても隣の芝生が気になったり、仲間と励ましあわないと鼓舞できない、ということは、この前「個人主義の幻想」で書きましたが、「ほかとの関係性が気になって仕方がない」ということですから、これは東洋に特有のことなんだろうか、とふと思いました。

西洋ではあくまで「自分主体」だから人がどう頑張っていようが関係なく、一緒に頑張りたい、とも思わないのかなぁ。

想像にすぎないけれど、日本ほど「モチベーション研修」なんていって騒いでない気がするもん。

この前東京で受けてきた研修の先生がおっしゃっていました。

「わたし、エイエイオー!みんなで唱和!はい、がんばろーっていうような、研修ってだーいっきらい!! ああいうテンションを揚げさせるものは、そのときは一時的にやる気になるかもしれないけれど、後でその倍、下がっちゃうの。それは心理学的にもわかっていることなんだから。」と。

つまり、「モチベーション研修」っていうのは、“麻薬”みたいなものなんでしょうか。

最近の酒井法子容疑者の連日の報道で、ずいぶん覚せい剤をやった場合の症状にも詳しくなりましたが、それによると薬がきれたときというのは、だるくてだるくて何にもやる気が起きないらしいもんねぇ。やる気が起きないだけなら、まだ気持ち的にはフラットかもしれないけれど、ひどくなると死にたくなっちゃうらしいから、随分な落ち込みようなわけです。

モチベーション研修もそのときだけはやる気になるものの、実際にはそうでもない自分を無理に引き立てたようなところがあるから、研修が終わって自分ひとりで頑張らなくてはならない日常に戻ったとき、かえって落ち込みがひどい、ということなのでしょう。

つまり、モチベーションとはあくまで自分の内から泉のように自然に湧き上がって来るものでないと続かないし意味がないのだと思います。


でもやっぱり、時々は、その自分の内から湧きあがってくる泉が「濁ってないよね?」「豊富にミネラルを含んでいるよね?」と確認できるために、一緒に頑張っている友人から「大丈夫!」「その調子!」「いい感じじゃな~い」などと合いの手を入れて欲しいですよね。

そう、“合いの手”くらいの感じがちょうどいい。

歌なんかでもそうじゃないですか。

合いの手が入ると、リズミカルに歌うことができる。

モチベーションってそんなくらいのもんだと思います。




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「個人主義」の幻想

2009-08-29 07:34:00 | テレビ番組

「テレビ特捜部」で面白い話をやっていました。

「東洋と西洋の違い」について、という番組の紹介です。制作はちなみに韓国。

この場合の東洋とは日本、韓国、中国を指し、西洋とはアメリカ、カナダ、イギリスを指します。


その東洋と西洋についていろんなアンケートをとると、明らかに東洋人と西洋人では違うモノの見方をする、ということがわかった、というのです。

映像でしかお伝えできないものもあるので、ちょっと歯がゆいですが、映像がなくてもわかりやすいものだけ、ちょっと実験してみましょう。

1枚の絵があります。

そこには、猿とパンダとバナナが描かれています。

このうち2つを同じカテゴリーでくくるとするなら、あなたならどの2つをセレクトしますか?

西洋人は圧倒的に猿とパンダだ、と言うそうです。

理由は「両方とも動物だから。」

そして東洋人は圧倒的に猿とバナナだ、と言うのだそうです。

理由は「猿はバナナが好きだから。」

もうひとつ、実験しましょう。

広い野原で風船が1つぷかぷかと浮いて流れています。(こどもが何かのイベントのプレゼントでもらうような糸がついた、ごく普通のアレです。)

すると、突然風船はスピードを上げ、空高く舞い上がっていきました。

何が起こったのだと思いますか?

この答えには、東洋人は、「強い風が吹いたのだろう。」とたいていの人が言います。

そして西洋人は「風船自体の空気が何かの拍子にいきなり抜けて、その浮力であがったのだろう。」と言うそうです。

さあ、あなたは東洋人的答えをしましたか?

それとも西洋人的答え?

ちなみに私はこの2つの設問でいえば、前者は西洋人と同じく、猿とパンダ、と答えました。

後者は東洋人で「強い風が吹いたのだろう。」と答えました。

これだけ見るとフィフティ・フィフティのようですが、そのほかの設問もあわせると、やはり私は圧倒的に東洋人でした。

この実験からわかることは、西洋人が「そのものズバリを見る」のに対して、東洋人は「モノとそれ以外との関係性を見る」のです。

これは私たちが生きているこの宇宙と言う存在が何もなかったときはどういう状態だったのだろう、と言うと西洋人はそもそも空虚なものなのであれば空洞だったのだろう、と言う思想を持っているのに対して、東洋人は何もない、とはいえそこには「気」というものが充満している、と考えていることから来ているのだ、と番組では解説していました。


確かに「真ん中が空洞」より「気」の存在を信じているけれど、根っこはそれかなぁ・・?

でも、赤ん坊で生まれてきて、そんなこと習うのって明らかに中学か高校になってからじゃない。

でも、きっとこの西洋人気質、東洋人気質はもっと日常の暮らしぶりから培われてきている、と思えます。

ただ、このことで私が面白いなぁ、と思ったのは、少なくとも私に付いて言えば、日本人が長年いだいてきた西洋人に対するコンプレックスのようなものが一気に吹き飛んだことです。

よく西洋人は「個性的だ」とか「個性を大切にする」と言われます。

でもそれは、個性的だったわけでもなんでもなく、ただただモノの中心を見るクセから来ているだけのことだった、と思うとなあ~んだ、個性化の正体見たり、という肩の荷がおりたような気がしたのです。

例えば、草原の真ん中に虎が1頭たたずんでいる写真があるとすると(虎は写真のほぼど真ん中に写っているとする)、西洋人はひたすらその虎ばかりをジーっと見つめ、ほとんど周りの草原なんか見もしないし、気を配らないそうです。

でも、東洋人は「この虎がここにたたずんでいるのは、草原のなかに実はよく見ないと気づかないような獲物が潜んでいるからか?」とか「なにかしら草原を良く見ることによって、この写真の意図するところのテーマがわかるのだろうか?」とかいろいろ考えて、草原→虎、虎→草原、と実に視点がコロコロと動くのだそうです。

こんなときにもし西洋人に「何をキョロキョロしているんだ?」と言われると落ち着きのなさを指摘されたような気がして、ついもっと西洋人のように堂々としていなきゃいけないな、とすぐに反省してしまったりするのが日本人です。

あちらさんはただ虎しか見ていなかっただけのことなのに。

ここで落ち着き払って、「ほら、あの隅っこの草の色が少し変わっているところを見てごらん。どうしてだろう、って思わなかった?」と逆にこちらから質問してやれば、向こうは案外素直に「おぉ! ほんとだ! 気づかなかった。そんなところをボクは見ていなかったよ。」と感心するかもしれません。


それに対して日本人は全体主義的で、「赤信号、皆で渡れば恐くない。」というところがあります。

そういう例ばかりを指して、たまたま西洋人に「日本人は、なぜああいうときには、こういう行動をとるのか?」と質問されるとそれを嘲笑われたのだ、と思い、身を縮め、「こういうことじゃいけないんだろうなぁ。もっと人の目なんて気にせずに自分は自分、って西洋人みたいに堂々と振舞わなきゃ。」と思ってきたのですが、西洋人はほんとうにただの謎として質問していただけで、私たちのそんな行動を別に嘲笑うつもりはなかったのでは? と思ったのでした。

長い間、私たちが抱いてきた西洋のほうが進んでいるという幻想。

それは主に西洋の個人主義とはイコール「個の確立」であり、「個を大切にする」と言うことである、と思っていたわけですが、ひょっとすると単に視点が「真ん中」や「主人公」にしか行かなかっただけの結果にすぎないとしたら・・・

東洋の「やたら人の目を気にする」という性質が「関係性を大事に考えている」と捉えたら・・・

評価は逆転していたかもしれません。

たったそれだけのことに何十年も縛られてしまうかもしれない恐ろしさと、長年の思い込みに目からうろこの晴れ晴れしさとが交錯したことでした。




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臭いの記憶

2009-08-28 08:15:00 | カラーセラピー

ひょんなことで机の棚の中身を整理していたら、ポン太(1年ほど前に20歳の長寿をまっとうして亡くなった飼い猫です。)が亡くなったときのメモをみつけました。

こう言う状況だったんだ、ということを自分で覚えておこう、と思って書き留めたものなのでしょう。

それを改めて読み返してみたら、ほんとに人間って忘れっぽい動物なのだなぁ、とつくづく思ってしまいました。

とくに忘れたほうが辛くなく早く立ち直って明るく生きていける、とたぶん潜在意識で思ったことはあきれかえるくらいその部分がごっそりと抜け落ちていました。


私にとってそれは何か、というと「臭覚」について、です。

ドリーン・バーチュー博士の天使と交流する方法を書いた本にも、自分が五感のなかでどの感覚が一番鋭いかを理解する方法が載っていましたが、それで行くと私は圧倒的に「視覚」でした。

だからよけいに臭いについての記憶が飛んでしまっていたのかもしれません。

ちょっと生生しいですが、そのときの私のメモをそのまま転載してみます。


『朝起きてみたら、ポン太が死んでいた。

不思議と(そうかもな)と思い、静かな気持ちだった。あまりにも悲惨な様子をずっと見守ってきたからでもある。

 腎臓病が進行してきたとき、老廃物を流させるためにやっている点滴のせいで、カラダに本当なら必要な栄養素まで排出してしまうのか、食べても食べてもやせていった。もともと3kg未満の小さな仔だったが、たぶん半分くらいになっていたのではないだろうか。でもその頃はまだ笑い飛ばせる余裕があった。片手のてのひらにポン太を抱き上げては、

「はい、手乗り猫~!」とか言ってジョークを言っていたから。

それから少しして、「手乗り猫」が「魚」になった。

真上からみると背骨だけで両側に全く肉の厚みがついておらず、骨に皮が張り付いているだけの体。

そして、だんだんその「魚」が腐敗臭を放ち始めた。

原因は免疫や抵抗力の低下によって生じた皮膚病と非常に進行した歯周病のせいである。

あごからは四六時中血膿をたらすため、あごをのせて寝るときの手足も血膿でべたべたになり、ふき取ろうが洗おうが追いつかない。

口のなかは、歯が抜け落ち、歯茎が下がり、もともと猫には唇らしきものはないが、骸骨のような口元になり、ここも食べ物のカスとよだれと膿でべたべただ。

もう、手の施しようがなかった。

(あんなにきれい好きの仔だったのに・・)と思うと胸が痛んだ。

ポン太はしょっちゅう顔を洗ったし、身づくろいをしていた。皮脂分泌量も花奴に比べるとうんと少ないのか、地肌もいつもピンク色できれいで、毛も真っ白で、すぐにべたっとした毛艶になり、地肌も毛穴に黒いものが詰まって見える花奴を1ヶ月に1回洗うと、ポン太は3ヶ月に1回くらいで十分だった。

それがこんな死神のような、生ごみのような臭気を発する姿となり、さぞかし本人が一番無念だろうと思われた。』

記述はこのあと、冷たくなったポン太をせめて若くて病気になる前のきれいな姿で見送ってやろうと風呂場で洗ってきれいにし、ドライヤーで乾かしてやろうと奮闘した私の様子が描かれています。

が、それは失敗に終わりました。

なぜなら、死んだ体というのは思った以上に皮膚に弾力がないため、強くこすったりするとすぐに裂けてしまったからです。

ここからはちょっと今晩のご飯が食べられない方がいらっしゃるといけないので、転載するのはやめておきます。

そうだった・・・

ポン太は最期、臭いがひどかった。

そのことを思い出したとたん、あの臭気そのものの記憶も鼻先にツンと戻ってくるほどだった。

生の魚の内臓が腐ったときのような何とも我慢しかねる臭い。強烈でした。

よく別れた男の人のことはもう顔も思い出せないほど忘れてしまっているけれど、そのときにその男の人がつけていたオーデコロンの香りを街ですれ違いざまにかぐとはっとする、というような話って聞いたことありませんか?

それほど匂いの記憶とは強烈だと聞いていたのに、私はなんとごそっと嗅覚に関する記憶は丸ごとなくしてしまっていたのでした。

今日の内容はちょっとご気分を悪くされた方もいらっしゃったかもしれませんが、ちょっと考えた末、あえて載せました。

先日「動物達の受難」というブログをupしましたが、こどもたちにはペットを家族の一員として迎えるなら最期まで面倒を見てやってほしい。

でも簡単に言うけれど、「最期を看取る」って壮絶なことなんだよ。

テレビドラマで見るようなきれいな姿のまま弱っていく人なんていないんだから。生きている、ってことは死ぬ瞬間まで老廃物を出す、ってことなんだから。

昔、親戚のおじさんがガンで入院していてお見舞いに行ったとき、ふと本人があくびをしたときの口の中がみえてびっくりしたことがありました。

なんか、緑のコケのようなものが生えているんです・・

舌やら歯茎のあたりやら、いたるところに・・

ずっと歯磨きをしていないせいと病気で免疫力が落ちているせいに違いありませんでした。

もちろん本人は病気で洗面台まで一人で立っていけないわけですから、本人のせいではありません。

しかし、人間も「身づくろい」を怠るとこういうことになるんだ、と衝撃的ですごくびっくりした覚えがあります。

ましてや、今、ペットは外に出さずに室内ばかりで飼うことが増えて、飼い主とペットの関係はますます緊密になっています。

昔のようにあら、と気づいたら死んでいた、なんて一見幸せな死にはまずお目にかかれないでしょう。

子供だけでは絶対に無理です。家族で助け合わないと。

健康なときには「水かえるのと餌やるのと、散歩させるのはあなたの役目。」といって子供にやらせることは可能でしょう。

そして、健康であれば、「運動」と「食事」の面倒を見てやりさえすれば、それがそのペットの「すべて」を面倒みている、ということにもなりますが、いったん、倒れると面倒をみる、ということは「介護」と「痛みの除去」と「朽ちていく肉体の始末」が加わります。

これは絶対に子供だけでは無理。

お父さんやお母さんも一緒になってやってあげなくては。

そう言う意味では、ペットを飼う、ということは「あんた、ほんとうに面倒みられるの?」とこどもの決意ばかりを正しますが、お父さん、お母さんもいざというとき、本当にフォローしてあげられる体制をとれるのか、ということをよく考えてみないといけないと思います。

これからペットを飼おうとする人たちのための一助となれば、と思い、あえて

今日は暗く、目を背けたくなるような表現のものを載せさせていただきました。




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B62「マハコハン」

2009-08-27 08:08:00 | オーラソーマ

B62 マハコハンは、かつてはレムリア文明の神で、マスターたちの中で唯一肉体をもったことのないマスターだと言われています。

サンスクリット語で「マハ」は偉大、「コハン」は教師を意味し、偉大なる教師と呼ばれています。別名「マハ・チョハン」「マスター・ラツィコイ」「マハコハン・ラゴッジー」とも呼ばれます。

他のマスターたちの教師を務める偉大な霊的教師で、その教え子のなかにはセント・ジャーメインもいます。

レムリア文明は、現代の科学をはるかに超えた高度な文明を築いていたといわれています。

クリスタルや鉱物のエネルギーなどをヒーリングや科学技術の分野で利用したりもしていました。マハコハンは、そのレムリア文明の知恵やテクノロジーを今日にもたらすよう、他のマスターや人々を導いています。

古代からの癒しの知恵を現代に伝え、霊的な教えや向上を目指す人たちの感情の解放を手伝います。

私は以前、「ターコイズの人」と題して、このB62[マハコハン]を使ってみたら、なぜか肌荒れを起こしてしまったので、ちょっと使うのを休止しています、ということを書いたことがあります。

結局、今もその休止は続行されていて、ほんとうはボトルは1本を辛くても使い切ってから次のボトルに行ったほうがいいのですが、私はマハコハンとのワークをあきらめ(笑)、さっさと浮気し、今はB94[大天使ミカエル]を使っています。

ところがなんと! ミカエルでも肌荒れを起こしてしまって、今再びボトルを使うこと自体を休止しているんです。

ボトルを使って肌荒れを起こす要因は以下のようなことが考えられます。

    好転反応(なにかそのボトルから受け取るべきメッセージが強すぎて、自分でもいいほうに流れていこうとしているのだけれど急激な変化に対応しきれずに荒れた。)

    そのボトルが自分のソウル・ボトルだった場合の衝撃(まれに自分ではそれと気づかずに、そのボトルがソウルボトルだった場合に、①と同様に刺激が強すぎて荒れる。)

    単なる体調不良


私の場合、マハコハンでもミカエルでも荒れる、ということは、何か強烈なメッセージ性が強く、働きかけが強いものに対しての準備がなかなか整っていない、ということでしょうか・・(マハコハンはマスターの中のマスターと呼ばれているし、ミカエルも大天使のなかのリーダー的存在だし)

だとしたら、なんという私はへタレ!

ターコイズという色は大好きで、パワーストーンのターコイズも大好きでよく身に付けるのに・・

B62[
マハコハン」からのメッセージとは、「あなたの感情のなかに真実があり、あなたが表現することのすべては宇宙の創造の源とつながっています。」ということでしょうか。

古代からの知恵と宇宙創造の無限のエッセンスが合体したとき、無限のパワーを発揮する。

ターコイズと言う色は「五感」を象徴します。

視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚というものを駆使するのは人間のもつ能力であり、知恵だ、ということからターコイズは非常に「人間くさい色」であるとも言われます。

そのターコイズの「マハコハン」が人間を超越したところの「霊的教師」だというのが面白いな、と思います。

いくら人間を超越した存在になろうとしたところでなれるはずもなく、そんなことに意識を向けなくとも、あなたはすでに宇宙の源とつながっているのですよ、ということをマハコハンは教えてくれるのでしょうか・・

B62
「マハコハン」。

「純粋に宇宙的な意識の海」

キーノートは「個性化の道に光をあてる。ハートのコミュニケーションの明晰性」。

アファメーションは「私は感謝して人生の流れに沿うことが出来ます。」

特項として、恐怖心の解放。

周囲とゆとりを持って接することができるようになる。

胸腺の調和。

胸部の症状や言語障害の緩和。

天王星の原理とかかわる。




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