テレビのニュースで釧路動物園の障害をもった虎、「タイガ」が1年3ヶ月という短い生涯を閉じました、という話を聞きました。
またまた動物のニュースかぁ、と最近なんだか動物に関する胸が熱くなるような話をよく聞くことになるわ、と思った次第です。
死因は喉に食べ物を詰まらせたからだそうです。
タイガはココアという女の子と一緒に生まれた男の子の虎でした。
2匹とも生まれもって後肢に障害をもち、まともに歩くことが出来ませんでした。
軟骨形成不全症といって、手術しても治らないものだったそうです。
後ろ足がほとんどぶらぶらの状態で、極端な内股のようになり、前肢でひきずるようにして歩いていました。
それでも懸命に歩こうとする2匹、一生懸命ミルクを飲もうとする2匹を見て、
最初はどうしようかと迷った飼育員もとにかくできるかぎりのことはして2匹を立派に育てよう、とつきっきりの面倒を見たそうです。
そのうち、2匹のことは町中の噂となり、障害を持っても一生懸命生きる姿に感銘を受ける、といって訪れる人が多くなりました。
そんな矢先のタイガのあっけない死でした。
いつも一緒だったタイガとココア。
どちらかというと、まだ障害が軽いほうのお転婆のココアがタイガにじゃれかかることによって、いつも2匹は楽しそうに遊び、その遊びによって、致命的な障害でも運動量がかなりあるために元気だったようです。
でも、突然いなくなった弟のことがまだよく飲み込めない様子のココア。
1頭だから、当然運動量もぐんと減ってしまうだろうし、と飼育員は亡くなったタイガに思いを馳せるヒマもなく、ココアの心配をしていらっしゃいました。
カメラは、どことなく所在なげな様子のココアを映し出していました。
時折、遠くに目を馳せるような表情をしてみたり、呆然としてなんだか寂しそうに見えるのは人間がそう思うからでしょうか・・
2匹とももし自然界で生まれていたなら、生まれたときからその命の行方はもう決まっています。
弱いものは自然淘汰されるのが自然界の掟ですから。
私は、彼らの生まれたときから一生懸命飼育員の方が育てて、そして彼らも一生懸命それにこたえようとしてたくましく生きてきた映像をみながら、ふと、自分がどうしてこんなにも動物が好きなのか、その理由が少しわかったような気がしました。
それは彼らが「無知」だからです。
私がどんなシーンにいつも一番ぐっと胸を突かれるような気持ちになるか、というと、たいていは彼らの無知による哀しみによるものだ、ということに気づいたのです。
例えば今回のタイガとココアのことで言うと、飼育員の大場さんが彼らのお母さん代わりのようにべったりと24時間つきっきりで育ててきました。
でも、すくすくと彼らは大きくなり、最初は猫の親玉くらいだったのが、どんどん見かけだけは立派な虎になってきた頃、親離れをさせなければいけない、ということで、今日を境にいっさい大場さんは彼らの檻のなかには入れない、という日がやってきたときのことです。
どうして、こんな鉄格子越しにしかママに会えないのかわからない2匹は一生懸命手を伸ばして大場さんに触れようとします。
もう、わたし、ダメ。
自分の爪や牙が必要以上に愛するお母さん(飼育員さん)を傷つけてしまうかもしれないから普通の虎の親子より早く引き離されるわけですが、その理由なんて彼らにわかるはずもありません。
これから2度とお母さんと以前のように全身をぶつけあって遊べることはないのです。
これが人間の親子の場合であっても、乳離れをさせるためにまだおっぱいを吸いたがる赤ちゃんを無理やりに今日からは飲ませないようにする、というときがあります。
でもそれは「本来ならもっと与えてもいいのに」ということではないですから、タイガとココアの場合とはちょっと違うのではないか、とどうしても動物の事情のほうに肩入れしてしまう私なのでした。
動物園でいつもすぐそこにいる、とわかっているお母さんなら、本当なら大場さんに同じように分厚い皮膚と牙や爪があれば、一生檻越しなんかではなく、楽しくスキンシップして遊べるわけですから。
タイガが亡くなったあとのココアの様子にしてもそうです。
彼女は何が起こったのかわからない。
だから、いつまでタイガがいないのかもわかっていないでしょう。
何かの事情で今日だけちょっと別々なのか、1週間ぐらいなのか、それとも一生なのか・・
これが人間であれば、言って聞かせることができます。
幼くて言っている意味が本当には理解できないかもしれない場合もあるかもしれませんが、少したてばわかりますし、人間であれば言葉で事情を伝えることができるわけです。
でも、動物は永遠に言葉をもたないから理解できない。
仏陀は「無知は罪だ」と言いました。
この場合の「無知」とは多分、自分が何のために生まれてきたのか、とか何をなすべきなのかを知らずにこの世を生きることは罪だ、と言いたかったのではないかと思うのですが、これはいわば自分が果たすべき使命も知らずに命を一生懸命使わないことはいけないことだよ、と言いたいのでしょう。
そう考えたとき、動物にはそもそも自分は何のために生まれてきたのか、何をなすべきなのか、なんて考えることはできません。
毎日、ただただエサとなるものを捕獲して生き延びるだけで精一杯です。
人間のように使うべき知恵を与えられているのに使わないのは罪だ、と言うのとは違って、そもそも自分の使命に関しては知恵を与えられていない。
ということは、動物にとっての無知は罪ではない、ということです。
まったく無垢の、そして育っても、生命をまっとうするまでずっと無垢なままの「無知なもの」に私は強く惹かれるのかもしれません。
だから彼らが一生懸命生きる様子に感銘を受ける、何てことも人間のおごりにすぎないのでしょう。別に彼らは「障害をもっていても一生懸命生きていこう」と思って行動しているわけではありませんから。
そんなことを考えるすべもないほどの純粋で無垢で無知なもの。
それがたまらなく愛おしく思えるのです。
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