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ワークショップのお知らせ
パッションテストで
自分の夢を明らかにしよう!
パッションテストは、アメリカのジャネット・アットウッドが開発した、自分が何に情熱を感じているのかを明らかにし、それに優先順位をつけ、それに向かって歩む道筋を確認できる非常に合理的でわかりやすいシステムです。
ジャネットよりじかに学んだ著者が、2019年の冒頭にあたり、改めて自分のやりたいこと、情熱を感じていることを明らかにし、進みやすい道をつくるためのお手伝いをいたします。
日時 2019 1月9日(水) 10:30~16:30 (12:00~13:15までランチ休憩あり)
参加費 1年の始まりに末広がりの 8000縁
参加募集人数 4名様 残席1名様
お問い合わせは、
chakra@aura-soma.name 坪内恵津子まで
ご縁のある方、お待ちしています。
************************************
new!
2019年度より オーラソーマ可能性探究の会 はじめます!
毎月 第四土曜日 14:00~15:30
どなたでも参加いただけます。 定員4名
参加費 ¥2000
<2019年度のテーマ> ※テーマは予告なく変えることがあります。ご了承ください。
1月 2019 イヤーボトル
2月 天命を知る 第一弾ネームボトル
3月 天命を知る 第二弾バースボトル
4月 天命を知る 第三弾星座ボトル
5月 天命を知る 第四弾3STARS
6月 オーラソーマタロットで読み解くコンサルテーション
7月 守護天使を知ろう
8月 生命の樹から読みとくボトル
9月 感じるオーラソーマ
カラーエッセンスとポマンダーから色を感じる
10月 親との関係を考える
11月 色を音で聴く
12月 2020 イヤーボトル
参加希望の方は、ご連絡ください。
chakra@aura-soma.name まで。
*************************************
本を出版しました!
「オーラソーマの奇跡と私の気付きの日々」
~潜在意識を”色”として客観視することで劇的に人生が変わる~
オーラソーマというカラーセラピーに出会って10年。
オーラソーマに取り組むことによって自己成長してきた記録です。
スピリチュアルな世界に足を踏み込むと誰もが気になる
「自己受容」とか「ありのまま」ということなどについての
理解について述べた本。
ご購入はamaon.から → こちら
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「無料メール講座」やってます!
「輝きを増す自分創造の泉 メール講座」の詳細とご登録はこちら
<このメールを購読するとどんなメリットがあるの?>
*自分と他人を比較して落ち込んだり、焦ったりしなくなります。
*オンリーワンの人生を自力で歩き出すことができます
*自分らしく、ただありのままでいることに誇りを感じられるようになります。
*ほんとうに自分の好きなことを思い切りやって生きていけるようになります。
*目標が明確になります。
*******************************************
昨日でこの話題は終わりだと思ったっしょ~
へっへっへ、ところがどっこい、今日は映画ではなくて、「日々是好日」を“読んで”だもんね~
別に嘘ついたわけじゃないも~ん。
私はあまり映画を観たあとに、その原作を読もうとする方ではないんですが、今回ばかりは読んでみました。
すると、淡々とした映画だと思っておりましたが、いかにかなり本に忠実に映画化されたものだったんだなぁ、ということがわかりました。
しかし、やはりカットされているところというのはありまして、本では語られているけれども、映画では語られなかった部分で私が「なるほど!」と思ったことについて今日は書きたいと思います。
それは主人公が初めて武田先生に
「今日は茶事に行くわよ」
と言われてわけもわからないまま付いていくシーンです。
それまで主人公は何十年習っていても、お茶のことがてんでわかってこない、と悩んでいました。
例えるならば、リビングの設計図はもらった、書斎はこういう内装にするというものももらった、ベッドルームは・・ けれど、「家」というもの全体をどうしたいのか? どういう家にするのか? ということについては1度も設計したこともないし、どういうものなのかという話を聞いたこともない、という感じ。
だから、突然、人に
「そのリビングからはどうやってベッドルームに行くわけ?」
と尋ねられようものならそこに至る廊下も階段もまったくわけがわかっていないからただおろおろする、というそんな感じ、と主人公は言っていました。
これはお茶のお稽古を良く表しているな、と思います。
薄茶点前を習う、濃茶点前を習う、炭点前を習う、といってもそれらはバラバラに散らばっているだけでそれらのパートがどうやって壮大なコンチェルトを奏でるのかまったく知らされない、そんな感じですよね。
ヘタすると「茶道」=薄茶点前のことだけ、と思っている人、そこまでで終わってしまう人も多いのではないかな、と思います。
主人公は10何年もお茶をやってきて、先生に初めて
「茶事をやります」
と言われてそのことに気付くのです。
武田先生はまず、
「お茶事の勉強にいくわよ」
と言って、主人公を誘い出します。
そこでこの「貸し茶席」のご亭主が出てきて、炭点前があり、それから1人分ずつの御膳が運ばれてきます。
まず、そこで主人公は面喰ってしまいます。
(えっ、ここって料理屋なの?)と。
御膳の上には黒塗りのお椀が2つ並んでいて、それはわずかな汁の椀とほんの二口ほどの白いご飯でした。
(あら、こんな少し?)
と思って食べてしまうと、武田先生から、
「ご飯は全部食べないで、一口残すのよ」
と注意されます。
そして次に出てきたお刺身に箸を伸ばそうとすると今度は、
「まだよ。お酒が出るまで、お向うの皿には手を付けないで待ちなさい」
とまたたしなめられます。
それからは次から次へとごちそうがふるまわれ、すっかり満ち足りたときには2時間半が経過していました。
お腹が満足した主人公は何をしに来たのか忘れてしまい、食事が終わると席を立ち、帰ろうとすると武田先生が、
「さ、お庭に出てご亭主の準備ができるのを待ちますよ」
とおっしゃいます。
「へ?」
と鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていると
「これからいよいよお茶が始まるのよ」
とおっしゃるわけです。
「今のをね、『懐石』というのよ。お抹茶をおいしくいただくために、その前に食事をして、腹ごしらえを整えておくの」
と言われて、あの長い長い食事が単なる「助走」だったことに、茶事の深さに主人公は改めて驚くのでした。
すべて終了したのは夕方でした。
一服のお茶を本気で楽しむためになんと半日もかけたのです。
料理、器、盛り付けに至るまでこだわりぬき、酒を酌み交わして座をなごまし、水を打った庭にひとたび場を移し、御簾を巻き上げ室内の光を変える。
すべてはたった一服の抹茶のために。
(これほどの贅沢があったなんて!)
と主人公は舌を巻くのです。
そして、主人公の頭のなかですべてがつながりました。
今まではお茶で習ったさまざまなお点前が、ここできれいにつながったわけです。
濃茶は多量のカフェインを含んでいるので、空っぽの胃には刺激が強すぎる。
だから濃茶を飲む前に、懐石料理を食べ、からの胃を満たして置く。
そして濃茶をおいしく練るには、お湯が熱くなければいけないけれど、11月以降の寒い季節は水が冷たく、沸騰するのに時間がかかる。
だから懐石の前に炭点前をするのか、とまたごちる。
ここで主人公がピシィ! ピシィ!っとジグソーパズルが噛み合うような気付きを得ることは美しいには違いないけれども、私はどうして「懐石料理」とお茶の「お点前」がそれぞれ別のところで発展してしまったのだろう、と残念に思いました。
懐石料理はきっといまや「料理学校」へ通った人間しか教わらない。
それも
「フルコースで振る舞われる場合にはこういうものもありますよ」
という日本料理のコースの1つとして紹介されるものであって、きっともともとが茶事のなかの1つの駒なんだ、ということは教わらない。
これはとても勿体ないことだ、と思います。
お茶を習いに行っている方でも、きっとこの武田先生のようにある程度の年月がたったら「茶事」としてフルオーケストラを教えて下さる、という茶道教室は少なくなっているのではないか、という気がしました。
だからいつまでたっても、バイオリン、フルート、というようなパート練習ばかりをしていて、それが組み合わさったときどんなフルオーケストラになるのかはわからないまま終わってしまう。
逆に言えば、お茶がお点前の部分だけでここまで発展してきたのなら、「懐石」も料理のフルコースメニューの1つとして、というのではなく、あくまでお茶を楽しむための前奏曲としてあるものなのだ、ということを踏まえたメニュー構成として、最後に作法が整っていなくてもいいから、お抹茶で〆る、という本格的なもともとの「懐石」を味わってみたいものだ、そういう料理を自分でも見よう見まねで作って楽しんでみたいものだ、と思いました。
というのも、この本ではないのですが、どこかで私はこんなことを目にしたことがあるのです。
ある人が茶懐石に招かれ行ってみると、客人10人に対して、たった1人の先生が涼しい顔をして、この茶懐石のフルコースを担当された。
それに驚いて、
「すごいですね~!」
と声をかけるとその先生は、
「あら、これはもうこうやればいい、というメニューややり方が昔から決まっていますからね、その通りにやればいいだけなので、簡単なことなんですよ」
とおっしゃった、というのです。
なんてカッコいい!
涼しい顔をしてたった1人で10人のフルコースをまかなう、なんてなんかチャレンジ心をそそられるわ~
というわけで、「茶事の懐石料理がホントに1人で作れる本」という本を買ってしまいましたわ~
そんなこと、いつの日になるかわかりませんけれどね・・・
だいたい10人も客を招く、なんてそんなシーンがありえないような・・・
ここ1週間ほど、私がこれこそが今の私のテーマだ、と思える
「丁寧な暮らしをする」
の根本をついたようなお茶にまつわる記事をUPしつづけてきました。
自分のテーマに沿ったことで、この1年を締めくくることができることに喜びを感じます。
というわけで、お後がよろしいようで・・・という感じがするので、今年はここで終わりにさせていただこうかと思います。
あ、そうだ。
お茶では決まり文句というものがあって、すべて終わると亭主は
「御仕舞いにいたします」
と言って頭を下げるんですね。
お茶で使う言葉には現代にも生きている言葉がいっぱいありますが、ちょっと使われ方が違ったりするものも多いようですね。
例えば「亭主」という言葉は「茶席を仕切る者」ということであり、別に男性をあらわすような言葉でもなんでもないのですが、現代では
「うちの亭主がね・・」
などというように、男性の配偶者のことを指して使う場合が多いようです。
それと同じで、現代でも
「これで御仕舞い」
という言葉は使いますが、なにか小さい子どもに「これ以上はもうないわよ」と言い聞かせるときの言葉みたいで、たとえば友人を
「たまにはお茶しない?」
とカフェに誘い、ある程度おしゃべりしたら、誘った側が、
「さ、今日はこれで御仕舞いにします」
なんて言ったら、相手はきょとんとするのではないでしょうか。
なんて冷たい人!という印象さえ抱くかもしれませんね。
でも、私はこのきりりとした締めくくりの言葉
「御仕舞いにいたします」
がとても素敵だ、と思いました。
だから、私もあえて使わせていただきます。
今年はこれで御仕舞いにいたします。
また来年、よろしくお願いいたします。
おあとがよろしようで。
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ジャネットよりじかに学んだ著者が、2019年の冒頭にあたり、改めて自分のやりたいこと、情熱を感じていることを明らかにし、進みやすい道をつくるためのお手伝いをいたします。
日時 2019 1月9日(水) 10:30~16:30 (12:00~13:15までランチ休憩あり)
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ご縁のある方、お待ちしています。
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それは主人公が初めて武田先生に
「今日は茶事に行くわよ」
と言われてわけもわからないまま付いていくシーンです。
それまで主人公は何十年習っていても、お茶のことがてんでわかってこない、と悩んでいました。
例えるならば、リビングの設計図はもらった、書斎はこういう内装にするというものももらった、ベッドルームは・・ けれど、「家」というもの全体をどうしたいのか? どういう家にするのか? ということについては1度も設計したこともないし、どういうものなのかという話を聞いたこともない、という感じ。
だから、突然、人に
「そのリビングからはどうやってベッドルームに行くわけ?」
と尋ねられようものならそこに至る廊下も階段もまったくわけがわかっていないからただおろおろする、というそんな感じ、と主人公は言っていました。
これはお茶のお稽古を良く表しているな、と思います。
薄茶点前を習う、濃茶点前を習う、炭点前を習う、といってもそれらはバラバラに散らばっているだけでそれらのパートがどうやって壮大なコンチェルトを奏でるのかまったく知らされない、そんな感じですよね。
ヘタすると「茶道」=薄茶点前のことだけ、と思っている人、そこまでで終わってしまう人も多いのではないかな、と思います。
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「茶事をやります」
と言われてそのことに気付くのです。
武田先生はまず、
「お茶事の勉強にいくわよ」
と言って、主人公を誘い出します。
そこでこの「貸し茶席」のご亭主が出てきて、炭点前があり、それから1人分ずつの御膳が運ばれてきます。
まず、そこで主人公は面喰ってしまいます。
(えっ、ここって料理屋なの?)と。
御膳の上には黒塗りのお椀が2つ並んでいて、それはわずかな汁の椀とほんの二口ほどの白いご飯でした。
(あら、こんな少し?)
と思って食べてしまうと、武田先生から、
「ご飯は全部食べないで、一口残すのよ」
と注意されます。
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すべてはたった一服の抹茶のために。
(これほどの贅沢があったなんて!)
と主人公は舌を巻くのです。
そして、主人公の頭のなかですべてがつながりました。
今まではお茶で習ったさまざまなお点前が、ここできれいにつながったわけです。
濃茶は多量のカフェインを含んでいるので、空っぽの胃には刺激が強すぎる。
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懐石料理はきっといまや「料理学校」へ通った人間しか教わらない。
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「フルコースで振る舞われる場合にはこういうものもありますよ」
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