ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

マクラメ編み体験

2019-08-31 09:01:42 | 身辺雑事
<neW !>

   「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
                          リリース!  
   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、こちらの「自己受容ヴァージョン」は自己受容に特化した凝縮版です。

   今だけの特典あり!
   是非こちらをご覧下さい。

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<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/11(水)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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以前からルースストーンをどぉんとそのまま見せるように編み込んだスタイルのマクラメ編みのネックレスって好きだったんですよ。
で、ついに自分でも作ってみたいな、という気持ちが昂じたとき、たまたまひょんなことから友人より
「ここでそういうことやってる人がいるよ。一緒に習いにいかない?」
と誘いを受けまして、行ってまいりました。
名古屋の大曽根。
教えてくれるのは木村亮太さん。
この左側のおにいちゃんです。
大曽根の地でマクラメ編みのサロンやら、民泊やらをやっておられます。
糸の数をこれ以上は売っていない!っていう50色集めてくれました~



体験してみて思ったのは、「やっぱりこれは瞑想だな」ということ。
実際に亮太先生がそう言ったから、
「あ! やっぱりそうよね。私も同じこと思っていた~」
と思いました。
それに気付いたのは、2年くらい前だったかな、蚕を飼ってそこから得たシルク糸で自分の好きなものを作ってみよう、という何か月にもわたる壮大なワークショップに参加したときのことでした。
始めは
「現代のようにお金を出せば簡単に手に入るものをわざわざ手間暇かけて自分で作ってみようという気持ちにはとうていなれない」
とうそぶいていた私でしたが、やってみると
「手仕事っていいもんだなぁ」
という感想に変わっていました。
そして昔の人がどうしてこんな地道な作業に耐えられたか、というと、毎日毎日生きるためにやらなくては仕方がないものを「瞑想化」したからではなかったか、とさえ思ったのでした。
もう思考なんて入り込むような隙がないほど、その作業を覚えてしまった手足だけを無心に動かすとそこには穏やかで静謐な、日常とは違う時間が流れ始めます。
そんな作業はもう肉体に沁み込んでしまった、なんにも考えなくても勝手に手が動く、というところがミソなんです。
そんな時間が欲しくて現代人はわざわざそれらのことを“趣味”として取り組んでいる。
マクラメ編みも似たようなところがある、と思ったのでした。



ただね、ゆくゆくはマクラメ編みも瞑想だな、と思える日が来ればいいけれども、この日はまだそんな余裕はありませんでした。
単純な編み方の繰り返しとはいえど、思考が入りまくる。
「え~と、今、右やったんだっけ? 今度左? ん? 今が左?」
と右と左だけでもぐじゃぐじゃになるし、
「え~と、糸は下からくぐらせるんだっけ? 上からだっけ?」
とこれまた上と下だけで思考がぐるぐるしてる。
そんな状態から全然抜けられませんでした。
だから、頭も心もざわざわと騒がしいままで終始進行してました。



昔はお守りとして大切にしたい石をいつも身につけている方法としては、自分で糸や縄を使ってこうして編んで石をしっかりと固定し、自分が肌身離さずつけていることしか方法がなかったことでしょう。
そのために編み出されたアクセサリー。
それがきっとマクラメ編みだったんだよなぁ。
だから、編み方もすごく素朴。
この日はまず最初だから装飾的なことをせずに、ほんとに石を「留める」だけの編み方でネックレスを作ってみますか、という体験でした。
それでもすごく大変そうに思っていたのですが、習ってみるとそこここでポイントはありますが、編み方そのものは覚えたらシンプルで同じことの繰り返しだから、亮太先生も言ってましたが、
「3回くらいやったら覚えられるんじゃない?」
うん、時期を集中してやれば確かにそれくらいで覚えられるかも。



ただ・・・。
やっていて思ったのは、やっぱりこうした手芸的なことにこれまでの人生、馴染んできたかどうかで差が出る。
手芸的なことが好きな友人は、少しやっているうちに、
「あ~、わかった。わかった。じゃあ、もう少し上級のことをしようとしたときにはここでビーズを編み込めばいいのね」
など、今すぐには出来なくても、もっと手の込んだことをしようとしたときの段取りがだいたい読めるらしい。
しかし、中学の頃から家庭科の授業で雑巾を縫うことさえ不器用で嫌いだった私は、授業中なんとかやっているようなフリをしておいて家に持ち帰り、全部母親にやりなおして仕上げてもらっていました。
そんなことをしている人間には、彼女たちの言っていることがちんぷんかんぷん。



そして、もう1つにはね、間違ってしまったときなど私は、
「あれ? なんか変・・・。どこで間違えたんだろ。」
と間違えたことだけはわかるものの、どこで間違えたのかは全然わからない。
でも、手芸に慣れた人というのは、ちょっとそれを見ただけで、
「あ~、ここで間違えてる。クロスするのをしなかったんだね」
とその箇所と原因まで理解する。
この差は実に大きい。
だって、原因がいつまでもわからなければ対処の仕方もわからないわけだしね。
で、原因が解明できない、もともとが粗雑な私なぞは、
「間違えてもそれもご愛嬌ってことで、このまま進めたいんだけど・・」
と思うけど、手芸好きな人、完璧を目指す人は、
「そんなのありえない! そこまでほどしてさ、編み直すわよっ!」
って思う。
私はなんにせよ、こういうとこ、「戻る」とか「やり直す」ってことが大嫌いなんですよね。
それくらいなら最初から別の糸で1からやりたい、「このことに対して振り返ったんだ」って思いたくない、ってくらい嫌い。
なんなんですかね? これは。
私はあまり過去のことにもうじうじとこだわらないほうではありますが、それと何か似てくるのかしらん?



なんとか悪戦苦闘して出来上がりました~
私の記念すべき第一号作品がこちら。
自分ではそもそも体験初日は、このなかのパ―ツのどれかができるだけで1つの作品を完成させるところまでなんてとてもいけない、と思いこんでいたので、仕上げることができただけでも感激です。
そして昔の人の知恵にも感動しました。



永代供養の返礼品

2019-08-30 09:01:45 | 身辺雑事
<neW !>

   「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
                          リリース!  
   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、こちらの「自己受容ヴァージョン」は自己受容に特化した凝縮版です。

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   是非こちらをご覧下さい。

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<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/11(水)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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昨日は父の三回忌法要で親戚のお寺に行った、と書きましたが、そのときにお寺から籐の椅子をいただました。
何事か、と思うほどの大きなダンボールを住職の奥さんがえっこらやっこらとふうふう言いながら玄関先まで持ってこられたかと思うと、
「これ、ツトムさんの・・ 持って行ってちょうだい」
とおっしゃいました。
私と母はなんのことかわからずきょとんとしていると、
「ほら、遅くなってしまったけれど、1周忌のときに永代供養していただいたじゃない。そのお返しなの」
とおっしゃいます。
へ?
永代供養を申し出て、その金額を支払うとこういうお返しをもらうものなのか?
それが世間の相場というものなのか?
と、まだきょとんがとまらないでいると、
「多めにいただきましたのでねぇ」
と住職の奥さんが追いかけるようにおっしゃいました。



お寺によって「永代供養 ○○円」とはっきりと公明正大に謳っているところもあるけれども、このお寺は“心ばかりの金額をそちらでお決めください”というやり方です。
親戚ということもあるし、お寺が大変なのも知っているし、父の遺言でもあったようなので、母は永代供養の金額を比較的多めに包みました。
それでそのお返しだとおっしゃるのです。
母は、
「まぁ、永代供養の人にはどなたにもされることなんですか?」
と聞きました。
みなさんにされることならそういうものだ、と受け取りますが、うちにだけ特別なはからいなら結構ですよ、というニュアンスを含んでいる言い方でした。
もうこの時点で、そういうことを質問することが失礼というか、意味がないというか・・ 私はそんなこと聞かなくてもいいのに、と心の中で舌打ちするような想いで母の発言を聞いていました。
「ハイ、お返しはね、どなたにもするんですよ。だからどうぞ」
と住職の奥さん。
するとなんと母は、
「うちはいいので、そちらで使ってください」
と言いました。
「そんなもの、もらっても・・」
とまで言ったのです。
住職の奥さんも困り顔で、
「奥さん、いらなかったら、えっちゃんところでもどうかしら・・」
とおっしゃいました。
私はその母の不作法さにあきれて、横から急にその流れをすくいとるように、
「まぁ! それはありがとうございます。ありがたくいただきますわ」
と言いました。



確かにこういったインテリアというか大きな実用家具というかをもらっても困る、というのもわからないではありません。
好みもあるし、スペースの問題もありますのでね・・
ましてや母はひとり暮らしで椅子の数だけ何個もあったってそんなにあちこちで座るわけでもないし、こんなに大きな籐の椅子をもらっても置き場に困るだけです。
ほかのインテリアとの兼ね合いというものもあるしねぇ・・
これがこのお寺に伝わっている風習だとすると、これは昔、結婚式の引き出物ではやかんやら鯛のお砂糖を配ったのと同じノリだわなぁ、とは思いました。
なんかもっとしゃれた記念品とかかさばらないものの方がありがたいのはやまやまだけれど、それにしても向うが永代供養で過分な額をもらったから、と一生懸命その御礼を、と考えて下さったものを、
「うちはいらないので、そちらで使ってください」
と突き返すのはいかがなものか、と母にびっくりしました。



母はしかし、こういう物言いをよくします。
その様子を目の当たりにしたことがこの日初めてではありません。
そして時には、
(ふぅん。きっぱりといらないものはいらない、使わないものは使わない、と意思表示をしたほうが後々のためにもいいかもな)
と思うときさえあります。
しかし、父とこれからの母のための永代供養を頼んだ記念品だとおっしゃるものを
「そんなもの使わないから」とか、
「そちらでどうぞ」
は失礼すぎるだろうが。



私が慌てて
「ありがとうございます。いただきます」
とさっさと引き取って、大きなダンボールの割には籐なので比較的軽かったから車の後部座席に入れにいったとき、私は母にこそっと、
「ちょっとぉ、あれはあまりに失礼じゃないの。こういうものは気持ち良くもらわないと」
と言うと、母も
「うん、しまった、こんなこと言うんじゃなかった、と思った・・」
と少しシュンとしていましたが、いつでも何度でも母は繰り返しこれをやる。
この場ではわかったようなふりをしても、また同様なシーンがあれば、同じことをやらかすことだろう。
「あんたんとこ、いらない?」
と母が言うので、
「いや、うちも置き所がないわよ。こんな大きなもの。永代供養の記念なんだからいずれにしても1度はお母さんのマンションに入れて、1回は座りなさいよ」
と言ったものの、母は物置部屋になってしまっている一室にこの椅子をほうりこんでおしまいだろうなぁ、と思いました。
そんなことを考えていたら、言い方をもっと上手に、というのはあるけれども、
「使わないものを頂いてしまってもホコリをかぶることになるだけだからかえって勿体ないことをしてしまいそうだ」
という意味のことを述べ、辞退したほうが、ほかにあの椅子が必要だったかもしれない檀家さんに回ったかもしれないからよかったのか、とか思いはじめてしまいました。
昔は田舎の家なら座椅子の1つや2つくらいあったらラクでいいね、というノリで置くスペースもいっぱいあったかもしれないけれども、今はちょっと返礼品は考えてもらいたい、というきっかけになったかもしれないし、とか。
そうなると母の態度もまんざらではなかったのか、とかもうわけがわからなくなってしまいました。
いずれにしても贈り物って難しいですね。





住職の涙

2019-08-29 09:01:44 | 身辺雑事
<neW !>

   「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
                          リリース!  
   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、こちらの「自己受容ヴァージョン」は自己受容に特化した凝縮版です。

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「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/11(水)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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先日、父の三回忌法要でした。
お盆のときとは違って、お寺さんで丁寧なお経をあげてもらいました。
そのときのことです。
住職が、お経の途中で堪えきれず、という感じで嗚咽されたのでした。
目をつぶってお経を聞いていた私はハッとして思わず住職の横顔を見てしまいましたが、次の瞬間には立ち直ってまたふつうの読経に戻られました。
あれは嗚咽というよりは一瞬ではありましたが、慟哭に近いものでした。



そしてそういえば・・・と思い出しました。
去年、叔父が亡くなったときにもこんなことがあったな、と。
叔父は、その住職の弟にあたります。
叔父の亡くなったときの年齢は86歳で、住職は88歳です。
叔父の年齢とて早逝というわけではなく、まぁまぁ、このくらいの年齢になれば男性の平均寿命からいえばよしとするか、という感じがしないでもないですが、そのときには母は、
「きっと自分より先に弟が死ぬなんて、ってことで思わずこみ上げたものがあったんだろうよ」
と言っていました。
それで私も、あぁそういうことだったかもしれないな、いくつになったって自分より年若の者に先に逝かれるのは、ましてや血を分けた身内となれば、こみあげるものもあったのだろう、と思っていました。



しかし、今回はその住職の兄であったうちの父親の、しかも三回忌の法要で、です。
前回の叔父のときのように、自分より年若の兄弟が亡くなったから、という同じ理由であろうはずがない。
っていうか、もし前回のときの理由と今回のときの理由が同じなのであれば、前回のときに私たちが勝手に、
「自分より先に弟が死ぬなんて、ってことだったんでしょう」
という推測も間違っていた、ということになるではないか。
いったい住職のあの涙は何だったんだろう・・? と気になりました。
ひょっとしたら、私は全然お経がわからない不調法なのでお経のどの部分に差し掛かったときだったのか、その意味もわからずにいましたが、まったく同じ箇所だったのでは? それが住職にとってはとても心に響くフレーズだったのでは? なんてことを思ったりしましたが、もちろんそんなことが聞けるはずもありません。
普段、この住職はとてもあっけらかんとサバサバとした性格を思わせるような対応なので、お経が終わったあとも
「ハイ、ではこんなところでよろしかったかな」
と言い置いてさっさと自室へ引き上げられましたし、そのときの声色にはもうさきほどの慟哭を匂わせる形跡は何も残っていなかったので、私たちも、
「はぁ・・」
と頭を下げただけでその後ろ姿を見送ったのでした。



でも、1周忌のときにはお経が終わったあと、住職の奥さんが供してくださったお菓子とお茶をいっしょにしながら、多少なりとも世間話を楽しみました。
しかし、今回はもうそんな余裕もない感じでさっさと引き上げられた。
住職の奥さんが、少し困ったような顔をしながら、
「ごめんなさいね~ もう耳が遠くなっちゃってるものですから、何をお話ししても通じないと思うので・・」
とおっしゃいました。
「えぇえぇ、そりゃそうでしょうとも。うちの父も亡くなる数年前からはもう耳が遠くてなかなか話が通じませんでしたからね。同じくらいのご年齢になれば皆さんそんなものでしょう」
と言いましたが、実はそれだけではなく、お見受けしたところ、かなり足腰も弱っておられるな、とは思いました。
柱や壁を伝い歩きしないと立っていられないほどでした。



ですのでそう言いながら、ふと
「あぁ、あのときの涙はご自身の衰えで世をはかなんだものだったかもしれない」
と思いました。
年をとったって人生は謳歌できる。
そう思ってきましたし、そう思いたい。
けれどそれは自分の身にひたひたとお迎えが忍び寄ってきていることは日々実感したとはしても、まだまだカウントダウンに入ったわけではない年寄りのことを言うのではないか、と思いました。
ひょっとすると住職は、自分があとそんなに長いわけではないということを悟っておられるのではないか。
いや、どこが悪いとかそういう具体的な余命の話ではありません。
けれど、人間、自分の身体に起こっていることは自分が1番よくわかっている。
3年先のことはわからないかもしれないけれど、
「俺はあと1年足らずくらいかもしれないなぁ・・」
というときになれば、だいたいその感覚がわかるのではないか、とふと思ったのでした。



この住職にしてみれば、体はしんどいし、お経のときにも前のようにハリのある声を出せなくなった。
けれど、檀家さんが訪れるうちはお勤めを果たさなくてはならない。
それも辛いけれども、そこにもはや自分自身、生きがいを見出しているわけではないとしたらそれもまた辛いでしょうねぇ。
仏教が「葬式仏教」と呼ばれるようになって久しいですが、それでお寺の生計がなんとか成り立っていることも確かです。
食べていくためには老体に鞭うって、お勤めをこなさなければならない。
何をやっているのかといったら、死者を送ったり弔ったりすることばかりだ。
あぁ、やれやれ、やるせないのぅ、もうこの世に未練はないのだから自分にも早くお迎えがきてもらいたい、どうして自分は生かされているのだろう、と思うとほんとに希望がない・・
あとを継いでくれる子どもがいるわけでもないし、老夫婦、お互いに耳も遠くなって何を言っても聞こえないからムダ、というようなあきらめの中で静かな日々を送っている。
こんなひたひたと毎日少しずつ死んでいくような中で暮らしていたって希望が持てるわけないではないか、という気持ちになってらっしゃるのだとしたら・・?
しかも、それが寺の住職という立場だから誰にも本音を漏らせずに1人胸にしまっていることの辛さだとしたら・・?
ちょっと勝手に先走りすぎというか、考えすぎかもしれませんが、そんなことを勘繰ってしまいました。



というのも、この前、母に
「毎日多少でも運動らしきことをしないとよけいに衰えて行ってしまうから、お母さんもカーブスにでも通ったら?」
と言ったときのことです。
「いや、掃除機を持っただけでも腕が痛くなってしまうときがあるというのに、とても運動なんてできるわけがない」
と言いました。
「でも、出来ないことは出来ないで無理しなくてもいいから、出来る運動だけでもやってみたら?」
とさらに言ってみると、
「何の運動なら多少は頑張って力を出した方がいい、この動きは無理せずやめておいたほうがいい、っていう仕分けが自分でもわからないんだよ。
掃除機かけたぐらいで腕が痛くなるのだって、そんなことではいかん、と自分を振り絞って使わないと余計に衰えるから、と使うと、今度は肩こりになってひどいときには頭まで痛くなるときがある」
と言ったのでした。
それは想像するだに、気の毒に、とさすがにそれ以上、何も言えなくなりました。



今、母よりうんと若い私だって、すでに
「これはもっと頑張ったほうがいいのか、あまり無理しないほうがいいのか」
という基準は非常にわかりにくい、と思うことがあります。
調子いいからと図に乗ってやりすぎて足腰痛めた、なんて思いをすることもありますしね。
だからといって運動しないとどんどん衰えていくだけだから、ということは頭ではわかっているのですが、頑張ってみてよけいにあちこち痛くなって次の日には治っていたはずの筋肉痛が1か月痛めてしまった、安静にするしかなかった、なんてことになっても元も子もない、と思うし・・・。



だから
「年を取ったらできなくなることが増えるのは当たり前。できることだけをやって、にこにこ生きればいい」
と言うのは簡単だけれども、その見極めはとても難しいし、できなくなることをどうやって受け止めていくのか、ということもとても難しいのだ、と思い知りました。
腐らずに明るく過ごす、と言ったって、“明るい”と思えることが何もないのにどうして明るくいられるんだ、と言われたら返す言葉もない。
ピンピンコロリは夢なのか・・。(※実際に、日本で女性でピンピンコロリの割合はなんと0%だそうです)
ひょっとして日本人は「生きよう!」「生きたい」ではなく、ただ「生きている」年齢が長すぎるだけになってしまったのか・・



この前生命保険のおばちゃんが言っていたのですが、
「女性の平均年齢が87歳と言いますけれども、あれはあくまで平均ですから。
いちばん多い死亡年齢はいくつだと思います? 93歳ですよ。ですから政府が言っている、老後20年分の設計を、はウソですよ。30年分の設計をもっていないといけません」
と聞いてげんなりしてしまいました。
それを明るい話題ととらえられずに、げんなりしてしまった私はすでに、明るい老後を送れる見込み、準備が出来ていない、ということになりましょう。



いずれにしても、住職の涙が世をはかなんだものでなければいいが、と思います。


どんな自分でも受け容れられるようになる、ということは・・・

2019-08-28 09:01:00 | 精神世界
<neW !>

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9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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昨日は、ずっと自分を受け容れることができなかった自分がいたことを述べました。
しかし、そのうえで私自身は生徒会をやったり会社でも面白いポストを与えられたりして「他人が自分より先に自分を認めてくれる」という状況だった、と書きました。
ならば、それでいいじゃないか? どうしてそこに「もっと自分を受け容れなくては」という疑問や焦燥感を抱く必要があったのか? というところが疑問ですよね? と投げかけました。
明日はそれについて書きます、というところまででした。



結論という点ではすでに昨日書いてしまっています。
そのままでも何ら問題があるわけでもなんでもない。
何ら不自由なく生きているのだし、と。
しかし、自己受容できたほうがもっと豊かでもっとラクに生きられるのではないか、ということです。
今日はそんな経験をしたことについて書きたいと思います。



あるとき、私はたいそう辛く悲しく、落ち込んだことがありました。
そのエピソードそのものについてはここでは暴露しません。
そのエピソードそのものに意味があるわけではないし、私自身のことというよりは他人の人生を暴露することにつながるのでそれを避けるためです。
いずれにしろ、O型ってちょっとやそっとではめそめそしないんですけれど、いったん落ち込むと相当長い期間立ち上がれないっていうか、どよ~んとしてしまうんですね。(これをひとえにO型は、で片づけるのもいかがなものか、とは思いますが)
で、そのときに
「今の私って何色だろう・・?」
と色を選んでみたんですね。
これはね~ もうクセになっていますが、われながら本当に有効な良いクセだと思っています。
毎日色を選ぶ。
ただそれだけ。
ただそれだけのことなんですけれど、毎日毎日選んでいると、その色の意味をまったく知らなかったとしても、
「ふ~ん、私って精神的に辛い時にはディープマゼンタを選ぶんだな」とか、
「辛いだけじゃなくて、もうどうしていいか皆目見当がつかないようなときはイエローを選びがちだな」
とか自分なりにパターンが見えてくるんです。
人って“現状”の自分を確認できるだけでなぜか落ち着きます。
そこにすぐ解決策が見えるわけではなくても、自分の立ち位置というか精神状態を「ハイ、これに確定」という感じでスタンプ押される感じがあると、どしっと構えることができるっていうか。

※このあたりのことにご興味がおありの方は、是非「色で暮らしを彩る講座」を
 視野に入れていただけないでしょうか。
 どんな内容なのかお問い合わせください。
 chakra@aura-soma.name



それだけでも少し落ち着いたんですが、そのあと私は
「では、私にはピンクがいま必要だな」
と思って、オーラソーマ社が出しているピンクポマンダーを丁寧に丁寧に施したんです。
そのとき、クンと1つ次元が上がったのがわかりました。
不思議な世界の話に急に飛んじゃったなって終わらせたくはないんですが、確かにそのときにそう感じた、としか言いようがないんです。
これまで私はポマンダーを施すときの一連の儀式のような動作をあまり信じていませんでした。
信じていないというか、そんなにもそこにこだわる必要なんてないでしょ、と思っていたんです。
だからただ香りをかぐだけのときも多かったのでした。
でも、丁寧に施してみるとそれはただ手のひらに3滴とってこすりあわせて香水と同じようにその香りをかぐだけとは厳然と違うものがあることがわかりました。
そしてそのあとも私は世界中の人々がこのピンクの愛で満たされますように、私の周囲の大事な人たちがこのピンクの愛で満たされますように、と祈りながら連続して3回ほどピンクを施しました。
彼らの身体の周りがピンク色で覆われ、にこーっつと笑顔になっていくのがわかりました。
すると自分自身もすごくピンクで満たされたのがわかりました。
そして何かが解決したわけでもなんでもないのだけれど、私は自分がとにかく愛をいっぱい受け取り、自分自身もいっぱいの愛で満たされている、ということを実感でき、なぜか静かに心が高揚し幸せに包まれるのがわかりました。
その瞬間、
「あぁ、私は以前よりずっとそのときそのときのありのままの自分を受け容れることができるようになっているな」
と確信したのでした。
辛いことがあっても、悲しいことがあっても、その中にも慈しみや愛や思いやりにあふれた世界があることを感じることはできる。
そう思って、なぜかとても幸せだったのでした。
心頭滅却すれば火もまた涼し、ではありませんが、周りがどれだけ騒がしくとも自分の中心に静かに座っていることはできるな、と実感したことでした。



そんな頃、たまたま私はamebloの方で募集している「無料メール講座」でくっつけている毎日のミニワークにワークをやったときの感想をシェアしてくださっている方が常時何人かいらして、そのうちのお1人が、16日目のメルマガのワークについてシェアしてくださった感想を読んで、ハッとしました。
その日のワークとは、
「自分の身の回りにある“在るもの”をただ、『私は○○がある、ということに気付いています』と挙げて行ってください」
というものでした。
ワークに正解があるわけではありません。
何に気付いたっていいんです。
「あぁ、自分はなんて多くのものに恵まれているんだろう」
ということに気付いた、という方は多いですし、
「すでに在るものに感謝の念が湧いてきました」
という方もいらっしゃいます。



その日、その方は、
「最初は『私はテレビがあることに気付いています』とか、『炊飯器があることに気付いています』と目の前に実際にある“モノ”を挙げていきました。そのうち、そのネタが尽きると自分の内側に“在るもの”に関心が向いていくことに気付きました。
『私は幸せを感じていることに気付いています』とか、『私はイライラしていることに気付いています』とかそんな感じです。
そしてふと気づきました。今の精神状態の私は、かなりネガティブなものばかりを抱えていると思っていたのですが、こうして挙げたものを自分なりに俯瞰してみるとけっこうポジティブなことも挙げている。たとえ辛いときやネガティブな感情のなかにいる、と思っているときでさえ、幸福感を感じることはできるのだな、と思いました」
と書いてくれたのです。
これはまさに私と同じ気付きでした。
私が気付いたことが鏡となってやってきたような気がしたほどです。



なんて大切な、そして素敵な気づきなんでしょう!
人間はどんなに落ち込んでいるときでさえ、瞬間瞬間、目を向けるものを変えることによって、つまり自分に意識的になることによっていくらでも幸福になれるのだ、というこの気付き。
これこそが「自己受容」だ、と思いました。
楽しいときに、「今、楽しいと感じている自分を受け容れる」ということは容易なことでしょう。
同様に、「幸せを感じている自分を受け容れる」「喜びに浮き足だっている自分を受け容れる」などもみんなそうです。
しかし、悪感情となるとどうでしょう。
「悲しんでいる自分を受け容れる」「落ち込んでいる自分を受け容れる」「自己嫌悪に陥っている自分を受け容れる」「他者に向けて多大な怒りを覚えている自分を受け容れる」・・・etc.
これらはとても難しい。
なぜならそんな悪感情は抱え込んでいたくない自分がいることがわかっているからです。
抱え込んでいることは損だ、ということがわかっている自分がいるからです。
そんな自分は賢くない。
わかっているのにどうしてそこから離れられないんだ、とまたもどかしい・・。
自分でもこんな感情の渦のなかにいつまでもいたら精神衛生上よくないことはわかっているし、「こんなにもなかなか立ち直れない自分」をまた認めなくてはいけなくなるのも嫌だ、という考えもまた湧いてくることもあるでしょう。



しかし、それでもそんな自分を優しく受け止める。
うんうん、いいんだよ、って。
だって他者に対してならできるでしょう?
どうして人は自分に対してだけそんなに厳しいんでしょう。
他者に対してなら、
「そりゃちょっとやそっとで立ち直れなくって当たり前だよね~ うんうん、いいんじゃない。無理に自分を丸め込もうとしなくても」
なんて言ってあげたくなるに違いないのに、自分にはそれを戒める。
でも、他者と同じように自分にももっと優しくなりましょう。
そして受け止めきれると、ふぃにピンクポマンダーを嗅いだときのように優しくなれる自分がいることに気付くのです。
このときの幸福感って、ただただ良いことばかりが続いてウキウキとしているときの幸福感とはくらべものにならない。
もっと深く滋味あふれる幸福感なんです。



だから今、私は思っています。
「自己受容」とは、ネガティブな状況のなかにいるときでも幸福感を抱くことのできる能力だ、と。
ポジティブなときに自己受容できるのなんて当たり前。
でも、ネガティブななかにいるときにも幸福感で満たされるにはある程度のトレーニングが必要だと思います。
それを提供するのが、冒頭でご紹介しています「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」です。
 是非こちらをご覧下さい。



あなたにも、もし必要だと感じたら、是非ご連絡をお待ちしています。




「自己愛が強い」=「自己受容ができている」ではない

2019-08-27 09:01:06 | 精神世界
<neW !>

   「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
                          リリース!  
   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
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<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/11(水)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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今日は、タイトルのとおり、「自己愛が強い」ということは「自己受容ができている」ということではない、ということについて書きたいと思います。
もちろん、イコールの場合もありますよ。
しかし必ずしもそうでない場合もある、というお話しです。



昨日私は、自分がルィーズ・ヘイの「鏡のワーク」をしたときに、3歳の頃の自分の顔を思い浮かべて
「愛してるよ。可愛いね」
という言葉が言えなかった、と書きました。
けれどこれまでの自分の人生を振り返ってみた時、特別に「自分を受け容れることができていなかったから、ほんとうに困った」という思いを抱いたことはなかったのです。
幼稚園でたまたま選手宣誓をやらされてそれがすこぶる父兄の評判がよかったことに端を発して(このときはほんとうにあいうえお順で役割を決めて行ったら私にそういう役割が振り当てられたのか、どうしてそうなったのかは全く覚えがありません。別にそつなくそれをこなせそうだから選ばれた、ということではなかった、ということだけは確かです)、学童のときには学級委員をやり、生徒のときには生徒会の副会長をやり、常に立候補という形ではなく、押しだされるような形でなにかの役割をやってきました。
つまり、生徒たちみなの代表として何かする、ということに対してまったく違和感を抱かずに大人になったのですね。
そして大人になってからも会社では社長賞をとるなど、そういう役割は続いていきました。
私は、
“自分より先に他人から「わたし」という人間を認められることによって初めて自分を受け容れることができていた”人間だったのです。
だから自分で自分を受け容れられていない、ということに気付きにくかったのですね。
「どうやらあの子は仕事をこなし成果をあげるから優秀らしい」という眼で扱われることによって、その社会的役割をこなし、自分の存在価値に気付く・・。
この繰り返しでした。



では、逆に他人から認められない人はどうなっていくでしょう?
最近、連日話題になっていた「あおり運転」の容疑者を思い出してください。
宮崎容疑者という人は、大学までは快活で親も「優秀な子に育ってくれてよかった」と周囲にもらすほどの出来の良い子どもだったらしいです。
しかし就職をして、その会社と何か折り合いが悪かったのか、その会社ではたまたま宮崎容疑者の能力が発揮できなかった。
となったとき、挫折を味わったことのない彼はガラガラと崩壊していったようです。
それからはたまたま親の資産であったマンションの管理をすることによって羽振りもよかったようで、自分という人格ではなく、背後にお金をちらつかせることによって自分の価値を周囲に認めさせようとしてきたのではないでしょうか。
そしてそれもうまくいかなくなったとき、どうなるか・・?
異常に「自己愛」が強くなるのです。
「どうしてこんな優秀な俺を誰も認めないんだ!」
という反発が、せめて自分は自分を認めてやろう、俺は俺の優秀さを知っている、という形で異常な自己愛となるのですね。
もちろん、反対に「俺って実は優秀じゃなかったんだ・・」みたいに自分を卑下し、落ち込んでしまう人もいると思います。
その真逆の反応を見せた典型例が宮崎容疑者のような人だ、ということです。



過剰な自己愛はすべてをぶち壊します。
「わたしは正しい」
「わたしは能力がある」
といった強い思い込みは、周囲への不満や他人へのうらみ、社会に対する反発となっていくのです。
自己愛自体は本来、誰にでもあるものです。
自己愛自体がまったくない、という人はいません。
現在アメリカで1番人気のある精神分析論を編み出したコフートも、「自己愛のどこが悪い」という基本理念から出発しています。
それが悪いわけではなく、他人に認められないから自己愛が高まり、自分可愛さのあまり、他人に対する攻撃やわがままや身勝手なふるまいが昂じることが問題なのです。
「あおり運転」の宮崎容疑者はまさにそれを体現してくれた人だった、と思います。
そしてそんな彼をかくまったということで現在逮捕されている通称「ガラケー女」の喜本容疑者との関係も、お互いに唯一無二、自分を認めてくれる、という相手だったからこそ離れられなかったのではないでしょうか。
逮捕され、引き離されたあとのふたりはまるで別人のように良くも悪くもそれまで放っていた「気」を失っていましたものね。



以上で「自己愛」と「自分を受け容れている」ということとは別物だ、という説明になったでしょうか。
感情が安定していて「自己愛」に満たされている人は、たぶん「自己受容」も出来ている人です。
ただ順序が逆で、あまりにも対人関係が悪くなってしまったがゆえに、自分を愛してくれる人間はもはや自分しかいない、という状態になったときに異常に自己愛が高まるとそれは反作用として人を憎んだり攻撃的になったり、という行動としてあらわれるから、そういうものは違う、というお話しでした。



では、「自己愛」と「自己受容」が必ずしもイコールではない、ということはわかったけれども、あなたの人生何が問題だったの? と言われそうですよね。
私自身の生い立ちとして、小さいころから人に頼られるような役目を負ってきて、そして現実的にそれらをこなしてきた、という人間がかりに「私は自分自身を受け容れてこられなかったのか!」ということに気付いたからといって、何の問題があるの? ということについてです。
外側に現れている現象としては、たいてい何らかの役目を与えてもそつなく期待以上の成果をあげるよなぁ、とそれらをこなしてきて、本人としては疲弊してしまいました、ということでもありません。
それは自分を偽ってきたのだ、ほんとうはそんなに私って優秀じゃなかったのに、やりたくなかったのに、と言いたいわけでもありません。
では、何が問題なのか?
何も問題ではありません。
問題がある、とかこういうところを直さなくてはおまえは絶対に幸せにはなれないよ、ということではなくて、そこに気付いて認めてあげるだけで今よりさらにラクに自由になれるよ、ということだけなんです。
だから
「私も似たような人生だったな」とか「似たようなことを感じてきたことがあるな」という方で「このままでまったく満足しているし、より良くなんてことも求めていない」という方はそれでいいんです。
ただ私は、少しばかりの違和感をずっと抱いて生きてきました。
社会的な役割から解き放たれたときの自分には何が残っているんだろう?
何かしらちょっとした視点の違いで、パタパタとオセロの黒が白に変わるように私はもっとラクに生きられるのではないか、という思いがくすぶり続けていたのです。
それが探れないことにはこれまでずっと自己探求をしてきたことが意味をなさなくなってしまう、ここに目をつぶっておくわけにはいかない、みたいな。
そんな私がどうして「自己受容」ってやっぱり必要だなぁ、すべての根底と言っても良いよなぁ、と確信するに至ったかはまた明日お話ししたいと思います。


もし私と同じように、
「単なる自己愛とは違う、自分をほんとうに受け容れるという感覚が知りたい!」
と思う方は、是非冒頭でもご案内していますが、「太陽の自分コース ~自己受容ヴァージョン~」の案内を見てみて下さいね。
是非こちらをご覧下さい。