ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

クロちゃん家猫計画 その後

2019-08-25 09:01:23 | ペット
<neW 告知!>

    1か月以内に
      「太陽の自分エクササイズ 凝縮ヴァージョン」
                          をリリースします!

  「太陽の自分エクササイズ」はこちら→

   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、凝縮版は徹底的に自己受容について深く落とし込みます。
   

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<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000
8/26(月)  10:00~15:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/11(水)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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以前に、うちの庭にやってくる黒猫のクロちゃんを家猫にするために画策しております、という記事をUPしました。
その後の経過報告なのですが・・ 正直言って、難航しております。
それはひとえにクロちゃんの警戒心の強さと、もう1つ、クロちゃんってひょっとしたらどこかで中途半端に飼われてるんじゃないの!? ということを思わせられるようなことがあるからです。



あれから考えたのは、やってきたときに庭にじかに皿を置いて餌をやるだけではそこからの進展がないので、廊下の掃出し窓と同じ高さの縁台を設置してそこに皿を置いてやることでゆくゆくは掃出し窓からさらに家の中に引き込もう、という作戦でした。
ちょうどいい縁台をホームセンターに探しに行ったのですがなくて、ダーリンが手作りしました。
しかし、クロちゃん、意外に運動神経が鈍かった・・
ほんの3~40㎝の高さの縁台なのですが、最初キョトキョトしていましたが、食欲には勝てず、そこにお皿があることがわかっているので、ついに飛び乗ろうとしました。
しかし!
なんと、たったそれだけの高さが飛び乗りきれず、ズリ落ちてしまったのです。
そしてズリ落ちたところには庭に置いてある植木の鉢の受け皿に水がたまったものが置いてありました。
そこに片足を突っ込んでしまって、猫は水の中に入ることを極端に嫌がりますから「きゃ~、恐い! いやああぁぁぁぁ!」ということになってしまったクロちゃんは2度と縁台に飛び乗りませんでした・・
運動神経的にダサかったのなら段階を踏んで縁台にあがれるようにしてやろう、とまたまたダーリンが3~40cmよりさらに低い小さな踏み台をその前に置いてやったのですが、再びトライしようという気は失せたのか、まったく見向きもしません。
ですので、縁台においた皿は飛び乗らずに背伸びをして、指を広げることのできない小さなお手てで、一生懸命自分のほうへ引き寄せて落として食べようとします。
落とされたら掃除が大変ですから、私としてもそれは避けたい。
それで根負けして、元と同じように庭の地べたのところに皿を置いてやっています。
これじゃあラチがあかないじゃないか、と思いつつ、一度始めてしまった餌やりをやめるわけにもいかず途方に暮れながら。

写真を見ておわかりのように、クロちゃんは完全なる黒猫じゃあ、ないんです。
よぉく見るとキジトラの色の極端に濃いやつっていうか。
両親が黒猫とキジトラだったのかなぁ。



そして餌をやっている間はずっとそばでじっと見守っているのですが、ぴくりとでも動こうものならクロちゃんもビクッと動いて食べるのをやめて、私がなんの動きをしようとしたのか見極めようと驚いた真ん丸の眼で見上げます。
そして「なんだ、単にちょっと動いただけか」とわかると、安心してまたようやく食べ始めます。
一度なんて、蚊がいたので思わず「パチン!」と手を叩いたら、そりゃあもうびっくらこいて2メートルほど飛び退き、その日は2度とふたたび餌を食べようとはしませんでした。
それで私はそれ以来は蚊にさされようが、じぃっと我慢の子でなるべく動かないようにしてクロちゃんが食べ終わるのを見守ります。
こんな有様ですので、もちろんのこと、いまだにクロちゃんには1度も触れたことがありません。
そろそろ頭とか身体とか撫でさせてくれてもいいのになぁ。
全然おばちゃん、あんたに悪いことしたことないじゃないの。
こんなにもう1か月以上も餌をあげているだけの私が信じられないの?
これまでよほど虐待とか辛い目にあった経験があるの?
一生懸命話しかけてみますが、クロちゃんは無反応。
生きるのに精いっぱいです、って感じです。



そして、台風が接近して雨風が強いときがありましたね。
あのあたりからクロちゃんはきちんとした時間帯にやってこなくなりました。
まったく顔を見せない日もあります。
ちゃんと雨宿りはできたのだろうか?
安心して眠れるねぐらはあるのだろうか?
お腹をすかしていないだろうか? と心配していたのですが、次の日になるとなんでもなかったように顔を見せてほっとしました。
しかし、丸1日何にも食べていなかったとしたらもっとがっついて食べるはずだ、と思うのですが、あれ? 意外と落ち着いて食べるなーとか、徐々に残すようにもなってきて・・・
最初のうちは、体の小さい仔ですし、今までの飢餓生活を補うようにずっとがっついてきたけれども、これでなんとか落ち着いてきてひもじいまでにならないうちに食べられる家を確保できたとなったら、もうこれからは自分の身体に合わせた食べ方にさせてもらいまっさ、となってきたのかなーとも思いました。
でも、毎日のようにやっているからわかる感覚としか言いようがないのですが、
「こりゃ絶対うちだけじゃなくて、ほかでももらっているところがあるな」
と思うようになりました。



うちの一筋違いのところでは、やたら猫の集会所のようなところがあります。
近くにあまり子どもたちが使わない小さな公園があるからかな、とだけ思っていたのですが(土管の遊具など、雨風もそういうもののなかに入ればしのげるだろうし)、どうやらそうではなくて、そのはす向かいのおうちが餌をあげているようだ、ということがわかってきました。
5~7匹ぐらいがいつもたむろしています。
私が見かけるだけでそれくらいいるのですから、実際には10匹以上いるのかもしれません。
だからそのおうちの人も、一匹一匹に丁寧に餌をあげているというよりは、ドンと適当に置いてあげているだけじゃないでしょうか。
そんななか、クロちゃんは身体も小さいし、食べっぱぐれることがあったのではないかなぁ、と想像しました。
そんなときうちと出会って、「ここでなら食べっぱぐれることもなくお腹が満たせる!」とわかって、よく来るようになったけれど、やっぱりそこで他の猫たちとコミュニケーションをとる生活もそれはそれで大切なので捨てきれず、と言う状況なのかなぁ、と思ったり。



いずれにしても、子猫というわけではなく、いったん野良としての生活を定着させてしまった猫を家猫にすることがいかに大変か、ということがわかってきました。
まだあきらめず家猫計画は続行しますし、少なくともクロちゃんひとりは最後まで見捨てることがあってはならない、と思っていますが、いつまでたっても馴染まず、そのうち子猫たちを連れて現れるようになったら困る、というのもありますので、悩ましいです。
やっとの思いで信頼を勝ち取って家猫にしたとしても、真っ先にやらなくてはいけないことは医者に連れて行って予防注射や現在なにかの病気にかかっていないかを診てもらわなくてはいけないので(すでに家猫であるアクアに感染りでもしたら大変なことだから)、すぐにまた信頼を失いそうだし・・
これからもっと台風がやってくるシーズンになるので、それまでにはなんとか決着をつけたいと思っているのですが。
今のところ、数軒のおうちが数匹~数10匹の野良ネコたちに餌をやっている状況だ、ということがご近所の様子をみていてわかってきました。
これがこの町内の総意となるわけもなく・・
実際以前に回覧で「ノラ猫に餌をやらないでください」というものがまわってきたこともありますしね。
通称「猫島」と呼ばれている島があるそうですが、そういうところのように猫たちがのんびりと共存している町ということで観光名所にでもなればいいのかもしれませんが、それとて住宅ばかりのご町内、それで商売して潤うということもないだろうから、皆さん、観光客が増えたって迷惑に思うだけか・・
このままだと誰かが保健所に連絡して駆除を申し出たら一発だもんね。
あ~、難しい。




クロちゃん家猫計画

2019-07-22 09:01:47 | ペット
<neW 告知!>

    1か月以内に
      「太陽の自分エクササイズ 凝縮ヴァージョン」
                          をリリースします!

  「太陽の自分エクササイズ」はこちら→

   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、凝縮版は徹底的に自己受容について深く落とし込みます。
   

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<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
追加! 7/29(月)   10:00~13:30 残席1名様参加費:¥15000(税込)
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます)
8/3(土)   13:00~17:00   満席
8/7(水)   13:00~17:00   満席

 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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 オルゴナイトセラピー モニター様募集!

 
 4/25(木)~  初回1回に限り

   オルゴナイトを使った「オルゴナイトセラピー」をリリースします。
   それに先立ちまして、モニター様を募集いたします。
   詳しくはこちらをご覧ください。  
     ↓
    https://peraichi.com/landing_pages/view/w51w1
   
   レギュラーリリースにあたって  1セッション(60分予定)・・・・¥11000
          を、
                   1セッション(60分予定)・・・・¥ 3000
           にてご提供いたします!

   「オルゴナイトセラピー」でわかることは、

      *あなたを取り巻く今の状態(仕事、恋愛、人間関係etc.などの現状がどうなっているか)
      *あなたの将来は?
      *自分の潜在的可能性のチェック

              などです。

   <お申込み・お問い合わせは>

         chakra@aura-soma.name 坪内恵津子まで


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10日ほど前から、野良猫の「クロちゃん」(黒猫なので、単純にクロちゃんと今のところ呼んでいます)が、うちへご飯を食べにやってくるようになりました。
クロちゃんが近所をうろうろしているのは知っていました。
それからクロちゃんのほかにも、あと4~5匹がちょくちょく顔を見せるのは知っていました。
どの子も野良猫なのか、昔ながらのようにどこかのおうちが自由に出入りできるかたちで飼っていらっしゃるのかよくわかりませんでした。
というのは、どの子もきっちりと体格が良くて、そんな険しい表情もしていなかったからでした。
だから、ひょっとしたら今流行りの(?)「地域猫」ってやつかしらん、と思っていたほどでした。



しかし、あるとき町内の回覧板で、
「野良猫に餌をやらないでください」
というペーパーが回ってきました。
それで初めて、クロちゃんたち一族は、やっぱり単なる野良だったんだ、とわかったのでした。
たぶん、どこの家が餌をやっているのかも町内会長さんたちは薄々把握していらっしゃるのでしょう。
しかし、
「あんたんとこだよね~」
と詰めよるとカドが立つので、町内じゅうに呼びかけている体裁をとりながら注意を促しているのだ、と思いました。(わかりませんよ、私が勝手にそう憶測しているだけ)
で、その回覧板がまわってきたときには私は、
「わかってるわよ、そんなこと。餌なんてやらない、やらない」
と思っていました。



しかし、あるときクロちゃんがうちの文字通り猫の額ほどの庭に入ってのんびりとくつろいで寝転んでいるのを発見しました。
そうしてまじまじとクロちゃんを眺めてみると、
「そういやあ、何匹か見かけるなかで、この子だけはまだまだ幼い子どもかと思っていたのだけれど(小さいからそう見えた)、こりゃ十分に大人だよなぁ。餌をとるのがヘタなのか、この子だけが痩せてて小さいからつい幼猫かと思っていたんだ」
ということがわかり、そう思った瞬間に私はもう回覧板が回ってきたときの覚悟はどこへやら、餌をあげていました。
するとガツガツと食べるわ、食べるわ。
(やっぱり、何日もろくに食べられていなかったんだ・・)
と思いました。



ちなみに余計なことですが、まじかで見ると「クロちゃん」は純粋な黒猫ではありませんでした。
濃~~い、縞模様。
濃~~い、こげ茶。ひたすら黒に近いこげ茶。
きっと両親が、キジトラと黒猫なんでしょうね。



そのときはそれだけのことだったんですが、次の日も、またその次の日も、確実にクロちゃんは最初に餌をあげた時間に庭にやってくるようになりました。
庭に面した掃出し窓を開けて網戸にしておくと、そこに手をかけて「いないのかなぁ?」という感じでこちらを覗きこんでいる様子が可愛い。
そして皿を置いてやろうと網戸をあけると警戒して2メートルほど飛び退く。
それでも食欲には勝てず、すぐに皿にめがけて突進してくる。
食べ終わる。
また私が網戸をあけて(開けっ放しだとアクアが出て行ってしまうといけないし、蚊などがすぐに入ってくるので)皿を引こうとすると、2メートルほど飛び退く。
さすがに野良生活が長いのか、警戒心は強いようです。
アクアを拾った時には生後2か月程度だったということもあり、警戒心もなにもなく、ただ人が来ると自分から駆け寄ってきていましたが、クロちゃんの場合はきっとこれまでにいろいろあったのでしょう・・
クロちゃんのこれまでの人生(?)を思うと、寒い冬はいったいどこで乗り切ってきたんだろう? とかいろんなお宅に顔を出しては追い払われたり、ひょっとすると水をかけられたりとかしたこともあったかもしれない、よくぞこれまで生き延びてきたなぁ、と愛おしい気持ちになりました。



ダーリンに話すと、
「クロちゃん、飼ってやれないかなぁ」
ともうその気。
チャワンテとアクアのこれまでも2匹だったわけですし、チャワンテ亡き後、クロちゃん1匹くらい増えてもどうってことはないでしょう。
幸い、網戸越しの様子を見ていると、フレンドリーなアクアはさほどクロちゃんに敵意を抱いているわけでもなさそうですし、なんとか仲良くやってくれそうな気がする。
問題は、クロちゃん次第。
あれだけきちんと餌は食べに来るのに、全然近寄ろうとはしない。
あの状態ではそもそも捕獲できないではないか。
っていうか、網のようなものを使って捕獲して、っていう荒っぽいやり方で迎えたくはない。
あくまでも、慣れてきて自ら「このうちの子になってあげてもいいよ~」という態度になってから迎えたい。
しかし、道は遠そうだ・・。
このままではヘタするとクロちゃんが野良猫同士でかけあわさって、子どもを作り、その子どもたちをぞろぞろ連れてうちへやってくるなんてことになりかねない。
そんな状態だけは阻止せねば。
そしてご近所に迷惑がかからないうちになんとか家猫にせねば。
このままだとそのうち見つかって保健所に連絡されるかもしれない。
私としても無責任に気まぐれに餌だけをあげるということはしたくない。
もうここまで毎日きちんと餌を求めにやってくるなら、家猫にしたい、という覚悟で、つまり餌付けのつもりでやっている。



この10日間ほどで詰め寄る距離は変わらない・・。
けれど、私の姿を見ると甘ったるい可愛い声で、
「ナゥ~ン」
と鳴くようになった。
お、これは一歩進歩じゃないの?
ダーリンが、
「こちらが上の位置から餌をやることになるからなかなか慣れないんじゃないか。今度縁台を買って来よう。そして掃出し窓の高さにその縁台をくっつけて、そこに餌皿を置いてやって、そこに登らないと食べられない、っていう風にしたらどうだろう?」
などいろいろアイデアを出してくる。



この前びっくりしたのは、ダーリンが出かけて1時間ほどしてから、電話をしてきたのですが、その内容というのが、
「おい、今、クロちゃん来てるぞ」
というものでした。
いつも来るのは夕方なので、こんな午前中に来るわけがない、と思って
「ちょっと待って。見てみる」
と言うと、まさしくクロちゃんが来ていました!
その日は、午前中といつもの時間の夕方にも律儀に来て、2回ご飯を食べていきました。
ダーリンは外回りでいろいろと車を走らせていることが多いので、たまたまそのときは、またウチの周りを走っていて実際にクロちゃんの姿を見かけたので、私に電話したのだ、とばかり思っていました。
で、
「今、どこにいるのよ?」
と聞くと、
「会社だよ」
と言うではありませんか。
「え! じゃあ、なんでクロちゃん来てるぞ、なんて断定的にわかったの?」
と聞くと、
「なんとなく」
とのたまう。



これにはびっくりしました。
いつからダーリンはチャネラーになったんだ?
私は視えないものが視えたり、聞こえたりするタイプではありませんが、よほどダーリンのほうが私よりそういうタイプみたい。
それとも以心伝心ってやつで、あまりにもこのところクロちゃんのことを考えているからわかったんだろうか?



クロちゃん、お願いよ~
こんなに求められてるんだから、早く身体触らせるくらい近くに来るようになってよ。
そして実際に触らせてよ。
触らせてくれたら、あとはしめたもの。
抱っこできるようになるのもそこからはすぐのはずだし、そうしたら家猫に出来るってもの。
なんとか1か月以内くらいにそうできないものか、と思ってるんですけど、さてどうなるか。
ここたった10日ほどで、クロちゃんの顔つきが変わってきました。
なんか細くて顎の長い顔してるなぁ、と思っていたけど、あれは痩せていたから顎がとがって見えてたんだね。
ここのところ、きちんと食べて居るので若干ふっくらとしてきたように見える。
あんまり短期間で容貌が変わっても、また近所の人たちに
「あの猫にどこかの家が絶対餌をやるようになったな・・」
とバレるので、ひやひやしています・・




居てくれるだけで、その存在だけでよかった

2019-01-31 09:01:45 | ペット
new!

2019年度より オーラソーマ可能性探究の会    はじめます!

  毎月  第四土曜日  14:00~15:30
  どなたでも参加いただけます。  定員4名
  参加費   ¥2000

 <2019年度のテーマ>  ※テーマは予告なく変えることがあります。ご了承ください。

1月  2019 イヤーボトル    終了いたしました
2月  天命を知る 第一弾ネームボトル
3月  天命を知る 第二弾バースボトル
4月  天命を知る 第三弾星座ボトル
5月  天命を知る 第四弾3STARS
6月  オーラソーマタロットで読み解くコンサルテーション
7月  守護天使を知ろう
8月  生命の樹から読みとくボトル
9月  感じるオーラソーマ
     カラーエッセンスとポマンダーから色を感じる
10月 親との関係を考える
11月 色を音で聴く
12月 2020 イヤーボトル 

 
 参加希望の方は、ご連絡ください。
 chakra@aura-soma.name まで。


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本を出版しました!

  「オーラソーマの奇跡と私の気付きの日々」
    ~潜在意識を”色”として客観視することで劇的に人生が変わる~


オーラソーマというカラーセラピーに出会って10年。
オーラソーマに取り組むことによって自己成長してきた記録です。
スピリチュアルな世界に足を踏み込むと誰もが気になる
「自己受容」とか「ありのまま」ということなどについての
理解について述べた本。

ご購入はamaon.から → こちら




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*自分と他人を比較して落ち込んだり、焦ったりしなくなります。


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*目標が明確になります。



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正直、チャワンテが亡くなって自分がこれほどまでに打ちのめされるとは思ってもみませんでした。
チャワンテはいつもべったりと甘えてくるタイプではありませんでしたし、私もつい付いて回ってくるアクアの方がだんだん可愛くなってきたりして。
でもチャワンテはその放任主義を楽しんでいるように見えました。
とてもリラックスして、「私はこれくらいの距離感のほうがいいのよ」と言っているように思えました。
もちろん、可愛くないわけはないけれども、生活のすべてを共にしてきた、というような意識が低かったので、そういう意味では私はチャワンテが亡くなってもそんなに悲しまずにすむ、と思っていたんです。
ところが、チャワンテがいなくなってみると、この喪失感はどうだ。



昨日まで確実にここに、居た。
確実に居たものが、今は、いない。
この空虚感はいくらアクアが可愛くたって埋められるものではない。
とにかくチャワンテがいないのだ。
しかも永遠に。
2度と現実のチャワンテを目にすることはないのだ、というこの暗闇のなかをかきむしるような思い。
ぐあ~~~っ!と叫びたくなる。
そうでもしないとやってられない。
子どもの頃、ディズニーの映画を観て、あれが現実だったらいいのにな、と思い一歩映画館を出るといつもの街の風景が襲ってくるときのあの何ともいえない虚しさと焦りにも似たような気持ちと似ています。
どれだけ努力したって、泣き叫んだって、映画は終わったんだ、現実はこの世界なんだ、ということを受け容れざるを得ないのだけれど、それを受け止められるだけの心の状態になっていない、っていうような感じ。
それがまだチャワンテが亡くなってから続いています。
ここ3か月ずーっと24時間チャワンテがいる部屋のエアコンはつけっぱなしでした。
それをようやく昨日切りました。
表へ回ってみると、室外機がシン、としている。
いつも「ビビビビ・・」と音をたて続けて、その前に来ると寒いから、そこは足早に立ち去るようにしていた。
そこから音がしない。
音を立てない室外機を初めて目にします。(※去年の9月というちょうどエアコンをかけなくても良いような時期に引っ越してきたので、まさに冬になってからチャワンテのために24時間エアコンをつけっぱなしにしてからは、初めてシンとした室外機を見たわけです)
不思議な物体を見るような気がします。
ただそれだけのことが耐えられなくて涙します。



特に人間の動向を気にせず、われ関せず、で寝ていることが多かったチャワンテ。(まぁ、お年ですから仕方がないですが)
抱っこが大嫌いだったチャワンテ。(野良猫時代のトラウマかららしいですが)
そのくせ、自分から要求してくるときは“おねだり”というような甘い声では鳴かず、「ぎゃー」というような威嚇にも似た上からだったチャワンテ。(最後のへんは「にゃあ」と鳴いていましたから、これは声帯の問題でもなんでもなかったわけですね)
なんかこうしてチャワンテのことを思い出しても、可愛らしいところなんて何1つなかったような気がするんだけど、「居る」と「いない」のとでは大違い。
そう、ただいてくれるだけでよかったんだ・・・
ただいつもそこに居る、という安心感。
それがどれだけ私を支えてくれていたか・・・。
チャワンテが亡くなってみて、ほんとうにそのことがしみじみと私を襲います。



そして、改めて自分がチャワンテに対して抱く思いが、
「ただいてくれるだけでよかったんだよ」
という気持ちであることを揺るぎなく確認できたのと同じように、“わたし”という存在だってそうに決まっている、ということもまた、揺るぎなく確認できたような気がしたのでした。
なんか大きなことを成し遂げられるわけではない。
誰かのために居なくてはならないほど大きな存在なわけでもない。
でも、確実に“わたし”はいたほうがいい。
存在したほうがいい。
それはなぜなら“わたし”だから。
この世を、この地球を形成している成分が「100」で完璧なものとなっているのだとしたら、“わたし”が欠けてしまったら、それは「99.999・・・」(このあとどれだけの「9」が続くかはわかりませんが)の不完全なものとなってしまう。
不完全なものとなってしまったとき、その代わりは誰にもできない。
だってそれは“わたし”だったんだから。
“わたし”以外の存在が“わたし”にはなれないんだから。
そんなことがしみじみとわかったような気がしました。
そして、そんなことを教えてくれたチャワンテがとても愛しい。



それと同様に、何もかもが私にとって必要な経験なのだと心から思えるので、すべての経験が愛おしい。
例えば、チャワンテがいよいよダメかなぁ・・となってきたときには1日にチャワンテの部屋を覗く頻度が増え、まぁ、放っておけばなんとか自分で水は飲めましたが、かがむのがしんどそうに見えたので、チャワンテが水を飲みたそうにすれば、「はいはい」と口元の高さまでボウルを捧げ持ってやるようにしていました。
あまりに暖房をつけっぱなしなので乾燥しきってるだろう、と床置き型の加湿器をつけるのだけれど、それとて上手に部屋全体がどの場所も同じ湿度になるわけではないだろう、と置き場所を少しずつ変えたりする。
「このメーカーのレトルトパウチのスープならちょっとなめた!」
となれば、どこで売っているのかを調べ、遠くのホームセンターまででも買いに出かけた。
それらのすべてのチャワンテの世話は私の役割でした。
ダーリンは、頼んで
「あれ、買ってきて」
とか言えば買ってきてくれましたが、基本、身体を使ってチャワンテの世話を買って出る、というようなことはいっさいしませんでした。
それを当初は、口に出しこそはしませんでしたが、不満に思っていた時期もありました。
(なにさ、何もかも私にやらせて!)と。



でも、途中から考えが変わりました。
チャワンテがゆっくりと、しかし着実に衰えて死に向かっていくありさまを見せ続けてくれていることによって私に与えてくれている気付き、これはどんな宝物よりも貴いものだ、という気がしたからです。
毎日、介護、介助している者にしか見えてこないものがある。
こんな大きな学びの学校が自分の家のなかにあるというのに、それに手を出さないなんて勿体ないことよ、私はそれを全部やらせてもらえちゃってなんてありがたい、と思うようになったのでした。
これは決して強がりじゃありませんよ。
ほんとに心からそう思いました。
(そして、今後のために言っておきますが、人間に対してはそうは思わないと思います・・)
そういう意味では、私は父が死んだときより、今回チャワンテが死んだほうが参っています。
父とは生活を共にしていたわけではないから、自分が介護や介助をしていたわけではなかったから、ということに尽きます。(そりゃ、交代で病院には毎日通いましたが、あくまで私メインではなかった。母でした)
だから、今になってみて、私は母が父が亡くなったあと、どれほどの大きな虚無感、喪失感に襲われたであろうかを身に染みて感じました。
すごいなぁ、それをよく乗り切ったなぁ、母は、と。
亡くなったあとだって、ちょっとの間はなるべく気にかけて一緒の時間をつくったほうがいいよなぁ、なんてしてあげなかったものなぁ。
ひとつひとつがチャワンテのおかげで気付かされることばかりです。












チャワンテが亡くなった日のこと

2019-01-30 09:01:53 | ペット
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  毎月  第四土曜日  14:00~15:30
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 <2019年度のテーマ>  ※テーマは予告なく変えることがあります。ご了承ください。

1月  2019 イヤーボトル    終了いたしました
2月  天命を知る 第一弾ネームボトル
3月  天命を知る 第二弾バースボトル
4月  天命を知る 第三弾星座ボトル
5月  天命を知る 第四弾3STARS
6月  オーラソーマタロットで読み解くコンサルテーション
7月  守護天使を知ろう
8月  生命の樹から読みとくボトル
9月  感じるオーラソーマ
     カラーエッセンスとポマンダーから色を感じる
10月 親との関係を考える
11月 色を音で聴く
12月 2020 イヤーボトル 

 
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オーラソーマというカラーセラピーに出会って10年。
オーラソーマに取り組むことによって自己成長してきた記録です。
スピリチュアルな世界に足を踏み込むと誰もが気になる
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チャワンテが亡くなった日はたまたま日曜日でした。
お昼までは生きていたので、私は午後スーパー銭湯に出かけました。
結果的にはそうして家を空けていた時間に亡くなっていたことになりますが、それについては特に悔やんではいません。
冷たいようですが、ずーっと枕元についていてやっていたわけではありませんから、まぁ、そんなところかな、出張とか旅行とかの日でなくて良かった、と思っただけでした。



さて、それでも私の心はいつもいつも最近では大半がチャワンテで占められていました。
スーパー銭湯の露天風呂に入りながら、空を見上げると青い空のなかを白い雲がゆっくりと流れていくのが見えました。
なんてことはない、冬の晴れた日のよくある風景でした。
格別にエンジェルラダーがかかっているわけでもない。
格別に見かけない雲だったわけでもない。
格別に日輪が出ているわけでもない。
要するに騒ぐほどの珍しい光景がそこに広がっているわけでもなんでもなく、ただ青い空にいくつかの断片的な白い雲がゆっくりと流れ、その合間から太陽の光が漏れているというだけのこと。
けれど、その日の私にはそれがことさら美しく見えました。
そして父が亡くなったときのことを思い出しました。
父が亡くなったのは、8月29日、とてつもなく暑い日でした。
その日も、残酷なほどに晴れやかな空が広がっていました。
「暑いですねぇ」
と葬儀屋に言葉をかけながら私は、
(こんななんでもない風景なだけだけれど、この空を父はもう1度だけでいい、もう1度だけでいいから見たい、と願っていたかもしれない)
とふと思いました。
そのようにして人間というものはどんな死ぬ間際であっても、生に対する執着が捨てられないのかもしれない、と思ったのです。
その日のことを思い出しました。



そして露天風呂から青い空に流れる白い雲を見ながら、
「そういえば、チャワンテは窓辺のよく日が当たる場所で、いつまでも空をぼーっと見上げていることが好きだったなぁ。
もう1度、もう1度だけ日当たりのよい窓辺に自分の脚で歩いて行って、エアコンやホットカーペットの人工の温かさではない自然の温かさを自らの身体で感じたかったかもしれない。」
と思いました。
帰ってから抱っこしてそういう場にチャワンテを連れて行ってやってもいいのだけれど、もともと抱っこが大嫌いだったチャワンテは虫の息のなかで、あんなにイヤだった抱っこを今は声をあげて拒否することもできない、と身を固くするかもしれない。
そのショックで死んでしまうかもしれない、と考えるとやっぱりそれはできないなぁ、と思いました。



結局はいまやっている以上のことは何もできないとわかっているのに、なにかを悔やむような気持ちがあって、そして元気だったころのチャワンテの姿を思い浮かべて、私は空を見上げながら涙をこぼしました。
幸い、その涙はもし他の人に見られても汗か水滴と思ってもらえるだろうなぁ、と安堵しました。
よかった、温泉に来て、と。
そんな感傷的になりながらも、頭の片方の隅では、
(チャワンテが亡くなったらあの部屋、臭いもこもっているし、完全にチャワンテだけの養生部屋になっていたけど、片づけなくちゃな)
なんて現実的なことも考えているわけです。
人間ってそんなものだよなぁ。



そして帰ってみるとチャワンテが亡くなっていたわけですが、まだそのときには半信半疑でした。
すでに少し硬直が始まっているようにも思いましたが、それはもうチャワンテが骨と皮だけになってゴリゴリの身体だから堅く感じるのか、死後硬直なのかよくわかりませんでした。
ピクリとも動かないし、鼻に手を寄せても息を感じないし、もちろん腹も波打ってはいない。
しかし、ひょっとしてかすかにまだ生きているのかも、とも思いました。
「チャワンテが死んだかも」
と私はダーリンを呼びに行きました。
「えっ」
と言いながら、すぐに部屋にかけつけてくれたダーリンでしたが、一目見て、
「これは死んでるだろ」
と言ったあと、
「もう死んでるならホットカーペットとエアコンは切ったらどうだ」
と冷徹な一言を投げかけてきました。
わたしがさぞや人を見るような目をしたからでしょう。
「いや、そういう意味じゃなくて、死んだのに温かくしておくと腐敗が早まっちゃうかな、と思っただけだよ」
と慌てて言いました。
それでも私はひょっとしたらかすかに生きているのかも、と思うと暖房を切ることはできませんでした。
そんな無慈悲なこと。
結局最期に亡くなったのは凍死だった、なんてことだけはさせたくありません。



このときふと「植物状態」で脳死判定をされ、臓器提供を求められる、ということがもし身内にあったら・・という想像をしてしまいました。
少し前にロードショーをやっていた「人形の眠る家」がまさにそのテーマの映画でしたね。
私自身は、脳死が万に1つもそこからよみがえったということがありえないなら、そういうデータ的なことを聞かされることによって頭で判断できると思っていたんです。
つまり、どうしても可能性は「0」だ、となったら提供もできるかな、と考えていたんですが、いざ、自分の家の猫が死んだとは思うけれどもいつまでも身体が温かいというだけで、もうそれは無理なことがイヤというほどわかりました。
いつも私はこのように自分の身にそのことが起きなければ、本当のことはわからないのです。



その日はそれから何度もチャワンテの様子を見に行きましたが、まだ身体は温かいままでした。
ホットカーペットをつけているからかもしれませんが、それでも、マットについている部分は温かくても、全然マットに触れていない部分の肉体は、もう亡くなっているのだとしたらもっと冷たくなってもいいのじゃ・・? と思うのだけれども、全体的に温かいのです。



そして次の日の朝。
まだチャワンテは温かかったけれども、昨日から1mmも動いていないのだから、やはりもう亡くなっているのだな、と思いました。
それから1時間おきぐらいにチャワンテの様子を見に行きましたが、全然冷たくなってこないし、それ以上に硬直が起こってきている、という感じでもありませんでした。
私があまりにチャワンテに寄り添っているので、アクアが
「なになに? 今日は何が起こっているの?」
とチャワンテの部屋を覗きに来ました。
私はアクアに、
「アックン、お姉ちゃんにさよならを言いなさい」
と言いました。
するとアクアは何かを察したかのようにへっぴり腰でチャワンテに近づいてきました。
しかし、クンクンと匂いを嗅いだかと思うと、
「恐い~」
という感じで、脱兎のごとく踵を返して逃げて行ってしまったのです。
この肉体はただの何かのかたまり、これはもうあのチャワンテではない、ということがアクアにはわかったのだな、と思いました。



その日は岐阜市は天気予報に反して、雪が降り出しました。
予報では雨程度だったのに。
雪は2日ほど前にも降りましたが、その日は雪が降るぞ、降るぞというので結構かまえていたのにチラっと降っただけで、拍子抜けするようなレベルでした。
そのときに比べたら、この日の雪のほうがよほど本格的で積もりそうな気がしました。
(雪はどこから雪となるのだろう・・?)
そんなことを思いながら空を見上げました。
目の前に降ってくる雪を横から見ているより、見上げたときの雪は、かなりのスピードで降り落ちてきているように見えました。
目の中に雪が落ちてきたら、きっと痛くて開けていられないだろう。
チャワンテは1日違いで今年の雪を見ることなく死んだんだなぁ。
そのことをチャワンテはどう思ってるんだろう?
今年も1回ぐらいは雪が見たかったなぁ、と思っているんだろうか。
そして昨日の露店風呂で見た青空と雲を思い出しました。



そうしてまたチャワンテの様子を見に行きました。
今度は確実に冷たくなっていました。
これまで温かかった身体を触っていたときにも、もう亡くなっているのだ、この温かさはただホットカーペットの温かさを伝えているだけなのか、あるいは内臓のもつ温かみはゆっくりとゆっくりと時間をかけてしか冷えて行かないのかだけで、この子は確実に亡くなっている、ということはわかっていたつもりでした。
何にも希望を持っていたわけではなかった。
けれども、確実に冷たい身体を触ったとき、突如としてものすごい悲しみが私を襲いました。
チャワンテが死んだ・・・!
チャワンテが死んじゃった・・・!!
もう2度と戻ってこない。
昨日までそこに居て、力弱くではあったけれども「にゃあ」と言って、自分からハウスを出て歩いていたものが、もう、いない。
その120%確かな事実で私は打ちのめされそうでした。
そして私は初めて号泣しました。





チャワンテが光に還りました

2019-01-29 09:01:09 | ペット
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1月27日、昼下がりの未明、チャワンテが肉体のスーツを脱ぎ捨て光に還りました。
お疲れさま。
見事な死にざまでした。
こんなに死に至るまで手をかけさせなかった子って知らない。
チャワンテは1度もトイレ以外で粗相をすることもなく、1度も食事の介助を必要とすることもなく、よろよろとしながらも淡々とトイレで済ませ、自分の口で食べられなくなった、飲めなくなったらきっぱりと
「もういらない」
「もういらないんだから、無理にくれなくていい」
という態度を貫き、そして死んだのでした。
でも、考えてみれば、これはチャワンテと私の最初からの約束でした。
当時も私にはほかに飼い猫がおり、
「おまえには寝床とご飯があるだけでももうけもの、と思ってもらうしかないよ」
と言うと、チャワンテは
「それで十分」
と言ったのでした。(というように感じた)
それから私とチャワンテの共同生活が始まりました。



チャワンテが弱ってきていて、もう長くはないのではないか、ということは、ちょうど亡くなる10日前の17日に記事にしました。
あれから10日。
相変わらずほんの一口のスープを口にするだけでしたが、それでも私がチャワンテの部屋を覗くと自分のハウスから嬉しそうに「にゃあ」と鳴きよろよろと出てきて、そしてそのときだけは水を飲み、スープを口にする、という日が続いていました。
私はチャワンテのゴリゴリになった頭蓋骨を撫でながら、
「チャワンテ、大丈夫だよ~」とか、
「チャワンテ、無理しなくていいよ~」とか、
「チャワンテ、頑張らなくてもいいんだからね~」とかいろいろと声をかけていました。
でも、そんな言葉をかけながらも、何か私は違和感を覚えていました。
親切ごかし。
おためごかし。
きれいごと。
そんな気がしました。
私がチャワンテにかけるべき言葉はほんとうはそんなものではないはずだ、という気がしていました。



それが亡くなる2日前。
チャワンテが水を飲んだあと、ついによろよろどころか自分のハウスにまでたどり着けず、畳の上でペタリと座り込んでしまったのです。
そのとき、私はゆっくりとチャワンテを抱え込み、その喉を撫でながら、
「チャワンテ、ありがとうね。今までほんとうにありがとうね」
と言いました。
それが思わず私の口から出た本音でした。
それだけが私が言うべき言葉であり、ただ一言、チャワンテに伝えたかったことだったのでした。
それは私の口からごく自然に出てきました。
マジックのように、口からするするとつながった万国旗が出てくるかのように。
まるで私とは違う別の意志を持った生き物かのように。
チャワンテ、ありがとう。
18年間、ずっと私のそばにいてくれてありがとう。
私を見て来てくれてありがとう。
いつも見守ってくれてありがとう。
そして自分の生きざまも見せてくれてありがとう。
約束を守ってくれてありがとう。
とにかくすべてがありがとう。
全身全霊をこめて、私は「ありがとう、ありがとう」と言い続けました。
色んな出来事が走馬灯のように思い出されました。
18年前の私は、まだダーリンとも出会っていなかった。
18年前の私は、まだオーラソーマにも出会っていなかった。
18年前の私は、まだ以前の会社に勤めていた広告マンだった。
考えてみれば、この20年ほどは私にとって激動ともいえるほど人生の中でいろんなことがありました。
そのすべてにチャワンテは立ち会ってくれているわけです。
するとチャワンテは最後の力を振り絞るようにして、ゴロゴロと喉を鳴らしました。



動物ってほんとにすごい、と思いました。
人間がもう余命いくばくもない、というひょろひょろの身体になって病院のベッドに横たわっているとき、誰か会いたかった人がお見舞いに来てくれたとします。
いくら嬉しくたって、
「やぁ・・」
と力なくベッドから微笑み返すのが精いっぱいのことでしょう。
それをチャワンテは自らの足で歩いて、ドアのところまでその人を迎えに行くわけです。
毎日、毎日、毎回、毎回。
そして意識が半分朦朧としながらも、嬉しいという態度を表すわけです。
なにか苦しかったり痛かったりするのかわかりませんが、とにかくそうするのが当然かのように。



ありがとう、ありがとう、と言った私は次に、
「チャワンテが1番好きだよ」
「チャワンテを1番愛しているよ」
と言いました。
正直、私が自分の一生を終えるとき、
「おまえが飼ったペット、出会った動物たちの中でどの子を1番愛してた?」
と言われたら、それはチャワンテではないでしょう。
やっぱりそれは花奴(以前飼っていた猫)だという気がします。
それは折に触れてチャワンテ本人にも伝えてきたことでした。
そしてチャワンテは常に自分の位置がセカンドであったり、末席であることを受け容れてきました。
でも、だからといって、そのとき、その瞬間には私にとってそれが真実だったのです。
「チャワンテ、お前が一番だよ」
と言うことが。
するとチャワンテはなおのこといっそう喉を鳴らしました。
そして今、チャワンテは1番とか2番とかそういう順位づけから解放され、私にとって永遠の存在となったのでした。



その次の日の朝から、チャワンテは水も口にしなくなりました。
私が部屋を覗いても、ハウスから出てこなくなりました。
「もういい。もう堪能した、人生は」
と言わんばかりに。
そしてチャワンテが水も口にしなくなってから2日目の朝、明け方に私は不思議な夢を見ました。
それは、友人が妊娠する夢でした。
友人は私と同年代の子です。
そんな年齢の友人が妊娠なんてするわけないのです。
でも、彼女は、
「あ、きたきた。ヤバい。ここで産んじゃうかも」
と言い、私はなぜか周囲の人たちに
「ま、ま、お祝いごとですからどうぞご一献」
と言って、お酒をついで回っているのでした。
夢から覚めて、そのリアルさにぼーっとしながら起きたとき、私は瞬間的にこれは逆夢かも、と思いました。
つまり、「生まれる」夢だから、チャワンテが「死んだ」のかも、と思ったのでした。



急いで、チャワンテを見に行きました。
チャワンテはもう脳内麻薬が出始めているのか、痛くも辛くもない代わりに何の感情もない、という様子ではありましたが、そのときはまだかすかに生きてはいました。
私はほっとしながらも、「もう長くはないな・・」と思いました。
その昼過ぎにチャワンテは亡くなったのです。
ほんとに1つ1つの段階を地道に着実にふまえながら、1つずつチャワンテはある意味、健康的に、まっとうに衰えていきました。
弱ってきたときには、
「朝覗いたら突然、チャワンテが死んじゃっていたらどうしよう」
と何か恐いものを見るような気になって部屋を覗いたものですが、チャワンテはそんな突然死ぬようなことはありませんでした。
昨日まだ歩いており、少しだけれども何かを口にしたのであれば、わたし、当然まだ生命力あるってことだよ、と言わんばかりに「にゃあ」と鳴いて、ハウスから出てきました。
そして食べ物を口にしなくなり、水も口にしなくなり、動けなくなり、ついにすべての臓器が活動を停止したので、ハイ、生きることをやめました、という感じの死に方でした。
私もチャワンテのように死にたい、と思いました。
すべての機能を使い果たしたので、ハイ、終わりです、という感じで。
どれかの機能だけは立派なのに、どれかだけが著しく衰えたので、それに引きずられるようにして他の健康な臓器ももう停止するしかないわけですよぉ、残念、という死に方ではなく、同時にすべての機能を使い果たしたので、終わる、という感じ。
それが理想的だな~と思います。



私はしばしの間、チャワンテと2人きりの時を過ごし、少し泣き、それからダーリンと2人で、チャワンテのために祝杯をあげ、チャワンテの思い出話をしながら酔いました。

(写真はまだ若き日の元気なころのチャワンテ)