ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

釈然としない・・

2014-01-31 09:05:00 | 食・レシピ

ある日、デパ地下でお惣菜を買いました。

ダーリンが仕事先の新年会だと言ったから内心、(やったー! 今日は夕食をつくらなくてもいいぞ。何か買って帰ろう。)と思ったのです。

そうして数種類のお惣菜を買って家に帰り、そのうちのある1つのパックを開けたときでした。

「あれ・・? これ、痛んでる臭いじゃない?」と思いました。

それは、「れんこんと鶏肉の黒酢あんかけ」というシロモノでした。

黒酢なのだから、酸味の強いにおいなのはわかる。

けれど、この酸味はおいしそうなにおいじゃない。

なにか饐えたような、というか・・ 食材が古くなっているかのような臭いだ。

腐ってまでいない、というのはわかるけれどその一歩手前、というような臭い。

こういうとき、皆さんならどうしますか?

もう1度そのお店にそれを持って出かけますか?

それとも「こういう状態なんだけれど・・」と電話をしますか?

あるいは「もう、いいや。ここでは2度と買わないだけのことだ。」とあきらめて何もしませんか?


私は最後の手を選択してしまいました。

もう面倒くさかった、ということもあります。

そして腐ってまではいないのだったら「こういう味です。」と言われればそれだけのことになってしまうだろうし、と思ったからでもあります。


当然、手付かずで残りますわね。

でも何となく勿体無い気がしてそのまま私は冷蔵庫にしまいました。

そして次の日。


いつもの夕食の席で、冷蔵庫からそれを取り出した私は、もう一度よぉくにおいをかいでみると、あれ? 何もにおわなくなってるなーと思いました。

まぁ、冷やしたんだから常温や温かいときに比べたらにおわなくて当たり前だったかもしれませんが、やっぱり昨日少し臭うような気がした、と思ったのは私の好みの味でなかったからなだけだ、と思い、食卓に出しました。

ダーリンは結構ぱくぱく食べていましたので、やっぱり何ともなかったんだ、と思いました。

私も1つつまみましたが、確かに感じない。

昨日よりむしろおいしいわ、なんて思っていました。

そうして夕食が終り、30分か1時間が経過した頃だったでしょうか。

ダーリンがいきなり、「うっ、胃が痛い・・」と言ってトイレに駆け込んだのです。

そのときには、「どーしたの? 大丈夫ぅ? 飲みすぎたんじゃないの? このところ付き合い酒も多かったしさぁ、胃腸が疲れてるんじゃないの?」と言っただけでした。


けれどそれから何度もダーリンは嘔吐しはじめたんです。

その間隔も徐々に狭くなっていきます。

尋常じゃない、と思いました。

これは食中毒、何かに当たった、という緊急性のものだ、と思ったとき、初めてハッとあの黒酢の鶏肉のお惣菜のことをようやく思い出したのです。

私が何ともなくてダーリンだけに症状が出る、ということは、ダーリンだけが食べたものということになる。

それはアレしかない。(厳密にいうと一切れは食べたけど)


どうしよう・・・

ダーリンに申し訳ないわ。

ただの食あたりだったらまだしも、これ、ノロウィルスとかO-157とかだったらどうしよう。

だんだん悪いことを想像してしまいます。

前にO-157で亡くなった人の症状を雑誌で読んだとき、だんだん苦しむ間隔が短くなっていき、そして家族がせめて、と思って背中をさすろうとすると、

「止めて! 余計に苦しいから。」と言った、というのです。

それとまさに同じ・・!

ダーリンは私が背中をさすろうとすると、「余計に苦しいから止めてくれ。」と言ったのです。

ダーリンが嘔吐しに何度もトイレに入り、戻ってくるたびに、

「ね? 楽になった? これで吐くもの全部吐いたって感じ?」と聞いても、

「・・うぅん。まだ残っているっていう気がする・・」と言います。

ええぇ~っつ!

これだけ吐いてるのにまだ残ってる、って感じで気持ち悪いの?

もうこれは救急車でも呼んだほうがいいな、と思った頃でした。

「あ、今度は下痢・・」と言ってまたトイレに駆け込みました。

だんだん下がってきてるんですかね。

とにかく身体が全部出し切ろうと頑張ってるんだな、と思いました。


お食事中の方、まことにすみません。(・・って、携帯かパソコン見ながら食事、ってないか。)

そうしてトータル、トイレに駆け込んだ回数が嘔吐が7~8回、下痢が7~8回ってところでしょうか。

ようやく収まったようで、「寝たい。」と言い出しました。

「病院行かなくて大丈夫?」と言うと、

「うん、まだ大丈夫。」と言います。

この“まだ”というのが恐い。

いまのところ大丈夫だけれど、まだこれからもっと大きな波がやってきそうだ、という予感でもするんだろうか。


私はひとまず「わかった。」と言って、こりゃあ今夜はまた真夜中とかとんでもない時間に救急車を呼ぶ羽目になるかもしれんぞ~ということを覚悟して、部屋着からもう1度洋服に着替えて布団のなかに入りました。

でも、心配で心配でねぇ。

O-157で我が子を亡くしたお母さんの手記では、

「ずっと苦しみ続けて、どうしてやることもできずにただ弱っていく我が子を見ているのが辛かった。」

と書いてありました。


そりゃあそうでしょう。

そんなこと、耐えられない。

そういう意味では一番辛い家族の亡くし方かもしれないなぁ。

どうしよう。

ダーリンが死んじゃったら・・ なんてことを考えていた割には、ほどなく私は眠ってしまいました。(なんて人・・)

朝になってダーリンに、「どう? 調子は。」と聞くと、「うん、もう大丈夫みたいだ。」と言って、さすがに朝食はスープしか口にしませんでしたが、普通に会社に出かけて行きました。

どうやら、ノロウィルスとかO-157の線は免れたようだ、とホッとしたとき、今度はめらめらとデパ地下の惣菜売り場に腹が立ってきました。

やっぱりアイツのせいだ。

最初から古かったんだ。

あちらとしてはその日のうちに食べたものについては責任は取るだろうけれど、次の日に食べたものについてどうこう言われても・・

その日じゅうにお召し上がりください、って書いてあるだろうが、って言うだろうなぁ。

けれど、生ものでもあるまいし、夏場でもあるまいし、揚げ物を一晩冷蔵庫に入れておいたぐらいのことでここまでになるってことある?

絶対やっぱり最初から古かったんだって。

私はそのデパートのHPの「お客さまからのお問い合わせ」というメール欄に今回のことを書き込んでメールしました。

苦情というつもりではありませんでした。

絶対そこのせいだよ! とは思っていたものの、現物がもうない以上証明できる話じゃないですからね。

ただ私はその「れんこんと鶏肉の黒酢あんかけ」はその日の特売だったので、ほかの惣菜より倍くらいのボリュームで販売していましたから、多くの人が買っただろうなぁ、他の人たちは大丈夫だったんだろうか? 同じ様な意見が寄せられているということはないんだろうか? 

だったら一言うちでもこういうことがありましたよ、という事実だけは伝えておいたほうがいいのでは、と思ったのでした。


そうしたらものの1時間もしないうちにすぐに担当者と名乗る人物から電話がかかってきましたよ。

「ご主人、大丈夫ですか? その後、お加減いかがですか?」って。

よしよし、一番心配してくれるところを心配してくれてるな。

いちおう、合格。

「病院へは行かれましたか?」

「いや、行ってないと思います。もう大丈夫、って言ってたんで・・」

「行ってくださいよ。うちが費用はもちますので。」と言う。

ん? とここで違和感。

はっきりとそちらに責任がある、と認めるのか?

それもわからないうちから病院の費用はもちますから、っておかしいんじゃあないの、と思うが会話をつづける。

「これからそちらへご説明にうかがってよろしいでしょうか?」と言うので、

「は? これからはちょっとお客さまがいらっしゃるので都合が悪いです。

けど・・ どちらにしてもわざわざ来て頂かなくても大丈夫ですよ。

私は他からもそういう申し出がなかったかなぁ、ということが気になったのと、あそこのお店ってあそこで調理をされてるわけじゃありませんよね? なので、いつ調理したものを持ってきてるんだろう、っていうのが知りたかったには知りたかったですけど。」と言うと、

「ハイ、それはですね・・」と流暢に説明がはじまった。

さすがにこのフロア担当者もそこは気になって、あらかじめお店に聞いてきたらしい。


「他の方からはどこからもこのような報告は受けていないです。

ご指摘のようにあのお店はあそこでは調理をしていませんで、別の場所の工場で調理をしておりますが、それらの食材はすべて当日調理したものを当日売り切る、というかたちで行っているとのことです。」

・・・あ、そう。

なおさら、それだけ聞けば来て貰うようなことは何もないじゃない、と思いつつ、

「私が言っていることはすべて証明できないことばかりなので、どこまで本当のことなんだ、と思って聞いてらっしゃるかもしれませんが・・」と言うと、

そこだけやけにわが意を得たり!って感じで、「えぇ、えぇ!」と返事をしたのがなんだか気に入らない。

「あきらかに買った直後で家でパックをあけたときに饐えたような臭いがしたんですよねぇ・・」と言うと、あちらさんも、

「黒酢ですからねぇ・・」と言う。


もう、こんな不毛な会話を続けても仕方がない、と思って、

「わかりました。

うちの主人も回復にむかってますし、食材についてはその場で申し立てない限り、何も証明できないなかでどうのこうの言っていても始まりませんしね。

ほかからはそういう報告もないなら、それで結構です。」と言うと、

「よろしいですかぁ?」と向うもほっとした様子で電話を切りました。

でも、何だか釈然としない・・

うちはそのデパ地下にもう一度行こう、と思えば行ける距離だったのだから確かめに行けばよかった、と悔やみました。

けれどたいていの人はいったん家へ帰っちゃって食品が「あら? これ、おかしい。」と思ったとき、どうするのかな~

電話の1本くらいはその場で入れるんだろうか?

そうしたら向うはどういう善処というか提案をしてくれるんだろう?

最近ではあまりにもモンスタークレーマーのことなどが取り上げられるせいで、「私はそういうつもりじゃない。」と、普通の人がクレームをつけなくなった、ということも聞きます。

クレーム=言いがかり、と思ってしまうんでしょうか。

クレーム、という言葉がいけないようにも思いますねぇ。

ひとまずは「事実確認」ですからね。


すぐに動かなかったせいで、結局後だしジャンケンのようにメールをしたせいで、釈然としない気持ちだけが残ってしまった出来事でした。

しかも・・

ダーリンには何度も「ごめんね、ごめんね、私がおかしいかも、って思ってのに食卓に出しちゃったから。」と言っても、「いいよ・・」と言うだけ。

私は、「キミのせいじゃないからいいよ。」という言葉を期待してたんですけど、どうやらそこまで言う気にはならないみたい。

っていうか、どこかで「だからおまえ、あんま食べなかったんだろう・・」と思ってるっぽい。

うわ~~~

ダーリンの信頼を失うことが一番恐いわ。

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名刺がわりのテネシーワルツ

2014-01-30 09:07:00 | ニュース

少し前のことになりますが、亡くなった淡路恵子さんの「お別れの会」が催されました、とニュースで見ました。

そのときには綾戸智恵さんが弔辞を述べられたそうで、淡路さんと綾戸さんは生前に一面識もなかったという不思議な関係だそうです。(もっぱら電話で息子のことについての悩みを相談しあう、みたいな関係だったそうで)

それでも淡路さんは「綾戸さんの歌を生で聴きたいな。」と常々おっしゃっていたので、綾戸さんはそのリクエストにこたえまっせ、とアカペラで「アメイジング・グレイス」を歌いました。

この選曲に至ったいきさつが
面白いんです。

これについて綾戸さんはこんな風におっしゃっていました。

「当初私は、淡路さんとお会いするのは弔辞の場が初めてになるわけやし、名刺がわりの『これぞ綾戸智恵や! 私や!』という曲にせなあかん、と思って『テネシー・ワルツ』を歌うつもりでした。

だけど、お別れの会に行く前日の夜、寝ていたら枕元に淡路さんが現れたんですよ。

そこで淡路さんは、『ちょっとぉ、テネシー・ワルツなんて友人に恋人を盗られるなんて歌やめてよぉ。違うのにして。』っておっしゃったんですよ。

それで私は、これはあかん思うて、急遽アメイジング・グレイスにすることにしたんです。」

淡路さんは息子さんを事故で亡くしたり、自殺でなくしたりと辛かったであろう数奇な人生を歩んだ方ですが、一番人々の印象に残っているのは、やはり萬屋着錦之助さんを宝塚時代の後輩でもあり親友でもあった人に盗られてしまった、ということでしょう。

そのご本人の人生にあまりにもマッチしすぎた歌はやめてくれ、と本人が夢枕に立って訴えたということはいかにもほんとうにありそうな話だ、と思いました。

ま、それは今日の本題とは関係ないんですが。

私は綾戸さんがテレビでこうおっしゃる様子を見ていて、「名刺代わりの、これぞ綾戸智恵や、私や、という曲はテネシー・ワルツ」という一節がとても心に残ったのでした。

綾戸さんの代表曲が「テネシー・ワルツ」であることに誰も疑う余地はありません。

ご本人もそれを誇りに思ってらっしゃったんだね。

そしてふと思ったんです。

私の“名刺”って何だろう?って。

私は名刺をたくさん持っています。

オーラソーマのカラーケアコンサルタント&ティーチャーという肩書きのもの、接客講師のもの(これだけで3種類くらいある・・)、そして以前在籍していた会社の支部だ、というような名刺(前の会社を通して仕事がくることがあるので、そういうときもう私は辞めました、とするにも面倒くさい、ということでこういう名刺でそういう場合は仕事してくれ、と前の会社の社長に言われて持ってます。)


このように自分には色んな顔があるっていうことを嬉しいとか誇りに思う人もいるのかもしれないけれど、私は本当はイヤなんです。

この人とはまだどういう付き合いになるかわからない、という初対面の人に会ったとき、どの名刺を出そうかな、と一瞬のうちにコンピューターをはじくようなマネは疲れる。

「でも、もちろん、恵津子さんが一番出したいのは、オーラソーマのティーチャーとしての名刺なんでしょ?」と聞かれたとしたら、「・・いや、そうでもない。」と答える自分がいることにいま、自分自身驚いています。

結局、“名刺代わりの・・”という綾戸さんがおっしゃったような意味でいけば、言い方を変えれば、私は「自分の看板が欲しい。」んですね。

ただ「オーラソーマのティーチャーです。」というだけの“事実”というか“立場”というかそんなものが伝えたいのではない。

「どういうティーチャーなのか?」「オーラソーマをやっていて何を世間に伝えたいのか?」「いやいや、オーラソーマを取っ払ったとしても、さらにそこに残る『坪内恵津子』って何者?」がぱし~っつ!と一発でわかるような“看板”が欲しいんですね。

・・ということにこのとき綾戸さんの発言で改めて気づきました。


それはただ、人とは同じ様にみられたくない、という幼い頃からの私の「我」というか「パーソナリティ」がそうさせるのかもしれない。

人と比べて、なんていう風に考えなくてもいいんだよ。

あなたはあなたなんだから。

そういうことをオーラソーマでは学んできたはずだ。

けれど、ここへきてむずむずとなんだかそういう風に決め付けられるのもまたイヤだ、という私がいることに気付く。


そういう人はそういう人でいいじゃない。

私はとにかく人と同じなのはイヤなんだよ。

多勢に無勢がいたら、無勢のほうに入りたいんだよ。

多くの人がYESということにはNOと言いたくなるんだよ。

もうとにかく、「人とは異なる選択」というだけで自分の本意ではなくてもそちらを選びたくなるんだよ。

中学生の頃、授業で1日をかけてのオリエンテーリングということがありました。

まぁ、いわば遠足みたいなもんです。

グループに分かれてキャアキャア印のある場所を探していくだけなんだから、お前達そりゃ楽しかろう、1日代わりに図書館にいてもいいんだが、まさかそっちを選ぶヤツなんているわけないよな、と茶化すように言った先生になぜかそのときカチンときた私は「私は1日図書館にいることにします。」と宣言しました。

オリエンテーリングがそこまでイヤな行事だったわけではない。(楽しみでもなかったけれど)

それなら当日になってお腹でも痛くなったふりとか熱でも出たふりをして休んだらいいだけのことだけれど、私はあくまでも全く健康だけれども先生がそちらを選ぶヤツなんているわけないだろうと言った図書館にいることを選んだのだ、と先生にアピールしたかったんですよね。

今考えてもバカみたいな意地だけれど、それほどに私は大衆に迎合しない、ということに命をささげてきた、と言ってもいいくらいです(笑)

だから、ね。

何が何でも「人と比べて少数派のほうの道を行くんだよ。そのためには他人の動向を見る必要もあるんだよ。」という私でなぜにいけない! となんだか胸を張って言いたくなってきました。

「人と違うことをしたい」がためにまず手始めに1度は人と自分を比べる私こそが、“ありのままの本質である自分”ならそれもまた認めてやったほうがいいんじゃないか、と。

むかし、「テネシー・ワルツ」といえば江利チエミさんでした。(高倉健の奥さんだった人ですよ。そう言うと若い人はえーっ!と驚くけれど、もう江利チエミさん自身を知っている人はそんなに多くはないだろうなぁ。)

つまり、江利チエミさんの代名詞が「テネシー・ワルツ」。

人の代名詞だったものを自分の名刺にするなんてことは、並大抵の努力じゃできないですよ。

だから、今「テネシー・ワルツといえば私、でしょ。」と公言してはばからない綾戸智恵さんはたいしたもんだ、と思います。

私は「オーラソーマをやってる坪内恵津子」ではなく、「○○っていう生き方をしている坪内恵津子がやってるオーラソーマ」って言われたいんだね。

オーラソーマをやってる、ってことが大切なわけじゃないんだ。

それこそ今年の私のテーマカラー、マゼンタのメッセージ、「何をやっているか、ではなく、どんなやり方をしているかが大切」ってことだね。

○○のなかにどんな言葉が入るのか・・

あるいはあまりにも沢山すぎて1つの言葉ではくくりきれないのか・・

それはこれからゆるゆる・・

いや、ゆるゆるではいかん。

タッタッタッと見つけたいと思います。






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自分の声

2014-01-29 09:09:00 | 身辺雑事

さて、朗読会には発表会が待ち構えていて、その台詞覚えが悪くてどうしたものか、と思っていました。

朗読教室には先生のほかに助手のような形で劇団の方がおひとりいらっしゃるので、帰り際に私はその人に尋ねてみました。

「何か早く覚えられるコツってあるんですか?」って。

そうしたら、

「そんなの、ない、ない。ただ覚えるしかないの。」と言いながらも、

「やっぱり流れのなかで覚えていくものだから、ひとりで覚えようとするよりみんなで集まってやったときのほうが覚えがいいよね。

それと同じ状況をつくるためには、ほかの人の台詞も何もかも、物語全部を自分ひとりで録音しておいて、それを聞きながら練習することかな。」

と教えてくださいました。

なるほど。

全部ひととおりを録音しておけば、自分のところだけ再生した音とかぶったっていいから発声して言うようにすれば覚えやすいかもね、と思って長年使っていなかったボイスレコーダーを押入れの隅から取り出しました。


何か録音しておいたほうが後からも勉強しやすいかな、と思った研修やセミナーのときのために買ったものでほとんど使ったことはありません。(研修やセミナーを録音しても、まぁ、あとで聞かないことったらないわ。もう無意味、ってあきらめました。)

ましてや自分の声を吹き込んでそれを自分でまた聞くなんてことはついぞしたことがない。

もともと私は自分の声が好きではありません。

小さいときに初めてテープレコーダーに自分の声を吹き込んで聞いてみたときの衝撃がいまでも忘れられないほどです。

「えーっつ! 私ってこんな声なの・・!」

それ以来、できるだけそこからは顔を背けて生きてきた、と言っても大げさではないほどです。

それが今、朗読教室ではやたらと「声」を褒められる。

そんなもともと持っている質を褒められても私としては嬉しくない。

朗読の技術を褒められたい。

なので、「声」そのものには相変わらず自分の気持ちが向かないでいました。

「なんで声が褒められるんだろう? そんなはずないけどな。」ぐらいでスルーしてました。

でも背に腹は変えられない。

とにかくみんなに迷惑をかけないように早く台詞を覚えるためにはそんなことは言ってられない。

そう思って、ひょっとしたら半世紀ぶりぐらいに自分の声を吹き込んで、そして再生して聞きました。

そうしたら・・

ありゃりゃ・・

意外にも自分の声がイヤではない。

これはどういうことなのか。

もともと小さい頃から声は年齢に似合わず低いほうでした。

それが小さい頃はイヤで仕方がなかった。

やはり透明感のある澄んだ声に憧れたのです。

演歌歌手に憧れるよりはポップスターに憧れる子供のほうが多い、っていうそんなありふれた子供の感覚だったと思うんですが。

それが今では年相応になって違和感なく聞こえるからなのか。

それとも“自分”というありのままの姿を受け入れられるようになった、ということなんだろうか。

不思議です。


しかし、自分の声が長年思っていたよりもイヤなものではなかった、ということに有頂天になった私は精出して台詞を覚えました。

そして次のときの回。

いつもよりルンルン気分で私は朗々と朗読したつもりでした。

そうしたら先生から、

「歌わないで。」のダメだしが。

「歌う。」という言い方を私はここで初めて知りましたが、要するに「変にフシをつけて朗読してしまうこと」です。

わかりやすく言うと、電車の駅員さんなどが、

「次はぁ~ あ、○○町~、○○町でございますぅ。お忘れ物などないよう、あ、お気をつけくださいませ~」というあの感じ。

エレベーターガールの人などが「次は○階でございますぅ~」というのも似ていますね。

最近では、アパレルのショップ店員さんなども「いらっしゃいませぇ~ どうぞごらんくださぁいぃぃ~」なんて語尾をあげて言ってます。

あの感じ。


あぁいうのを聞いていてもあんまり気分よくありませんよね。

おまえ、内容なんて上の空でお口だけが勝手に動いてますわ~って感じでやってるだけだろ、と思うからでしょうね。

お客のことなんてほんとは考えてやしないくせに、自分だけはやけに陶酔しちゃってる、だから聞き手に届かない、そういうことを「歌う」と言うんだそうです。


先生に、

「歌っちゃってるわよ。歌っちゃだめ。」と言われたのはそういうことだったんです。

朗読している私だけが勝手に気分よくなっちゃってフシ付けてちゃダメ、って。

聞き手がいることを忘れちゃダメ、って言われたわけです。

自分の声をいったん外側に取り出して、おや、意外にイヤな声でもないじゃないの、これは“本来の自分”を受け入れられるようになったってことか~とちょっと舞い上がっちゃってたところへ「おい、大事なことを忘れちゃだめだろ。」って頭をぺちゃんってやられた、って感じ。

ちょっとその気になるとちょっと揺り戻しっていうか、「いい気になるなよ。」って言われるようなことがある。

まさに人生の縮図だわ~

人生塞翁が馬ね~

そして奥が深いわ~ たんに文章を読むだけだって思ってた朗読が。

でもね、私のように自分の声を何かに録音して聞いてみたことがついぞ最近ないわ~という方、たまにはなんの用事もなくても自分の声を聞いてみるのも面白いと思いますよ。

何か意外な発見をするかも。

そこで最初に感じたことが、今の自分のなかに隠し持っていた心をあらわしているってことだったりして。






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アクアが結膜炎になりました

2014-01-28 09:06:00 | ペット

最初、右目だけを開けにくそうにしていたくらいで「あれ?」とは思いましたが、猫ってちょっとした体調のことがすぐに目に表れやすいので、まぁ、1両日中くらいにはまた元どおりになるだろう、くらいで気にしていませんでした。Photo

しかし、それからも直らず・・

でも元気だけはやたらとあって、いつもと全く様子も同じなので、「風邪とかじゃないんなら、ま、大丈夫か・・」とまたもそれから1日放置。


そもそもアクアは捨て猫だったのを保護したときが、両目があけられないほどの目ヤニでした。

すぐに医者に連れて行ったら、見た目ほどたいしたことはなく鼻風邪だったことが判明したのですが、そのときからこの仔は身体の不調が目にまず表れるタイプなんだな、と思っていたのです。


さすがに全然治っていく気配がないのでようやくあれ?目がちょっとおかしいなと思ってから3日目に医者に連れて行きました。

そうしたら結膜炎だとのことで・・

「何かのアレルギー反応かもしれません。」とも言われましたが、それはわからないので、とにかくまずはこの目薬を1週間はさしてみてくれ、と言われました。

そして2週間ほどたっても治らなかったらまた連れてきてください、とのことでした。

今日で目薬を差して3日目。

治っていっているのか、変化なしなのか微妙なところ・・

元気はあるのですが、片目をほとんどつぶっちゃってる感じなので、どこかに飛び乗ろうとジャンプするときに、いつもならこんな高さどうってことない、っていうところを失敗したりしていて可哀そう・・

本人もさぞや歯がゆいことでしょう。

目薬は1日2~3回。

押さえていないと暴れて嫌がるので、ダーリンが抱っこしていて私がぎゅっとつぶった眼を無理やりこじあけ差してます。

お医者さんもそんなに目に沁みるようなものではない、って言ってたから痛くはないと思うんだけど、嫌がっておとなしくしてないんだよね~

目薬は2本あって、1本を差すときにはまだ上手にできるんだけれど、それで学ぶのか、2本目を差そうとするとこちらが差そうとする瞬間にぎゅって抱っこされたダーリンの腕のなかにさらにもぐりこもうとして身を縮ませるので失敗するときがあります。

「あ! こらこら。へいちゃらだってば。おとなしくしてればすぐ済むんだから。」と、こういうときは人間の小さい子どもに言うときと同じ言葉をついかけちゃいます。

アクアが2本目の目薬を差そうとするときに思わずキュッと身を縮ませるときが可愛くて、ダーリンと一緒にいつも笑っていました。

しかし、ふと気づきました。

本人にとってみりゃあ、自分がほんとうにイヤだと思っていることを微笑ましい、と思っているのだろうがなんだろうがとにかく笑われるのは相当ショックじゃないかなぁ、と。

思い返してみたら、自分が子どもの頃だってそういうことがいっぱいあったなぁ、とちょっと甘酸っぱく昔を思い返しました。

幼稚園で選手宣誓をやったとき。

私は宣誓の言葉を覚え、生まれて初めて大勢の前でマイクなぞを使ってそれを大声で言え、と言われ、相当緊張していたのに、なぜか周りの大人たちはみんなにやにや笑っている。

それがあざ笑っている表情でないことは子ども心にもわかる。

けれど、「微笑ましいのぉ。」という笑いだとはとても理解できなかった。

わかるわけがない。

大人たちは一生懸命にやっている子どもの姿に自分の越し方の人生を投影して、それを美しい、と思っているのだ。

そんなことがほんの5歳くらいの子どもにわかるわけがない。


だから私は「私は一生懸命にやっているのに・・」「それは笑われるようなことなのだろうか?」となぜか大人たちの態度に自分とは違う温度差を感じていたのでした。

またあるときには、親せきのお姉さんの結婚式に参列させられた私は、晴れ着を着せられたものの、自分がショートカットのヘアスタイルなので、なにか着物にはそれが合わないように感じていました。

そうしたらよその子どもがロングヘアーを着物に似合うように結ってもらっているのを見てうらやましくてうらやましくて仕方がなく、母親に「今すぐ私をロングヘアにして!」と無理を言いました。

そんなことができるわけもなく困っていた母親に助け舟を出してくれたのが伯母さんでした。

伯母さんは黒い毛糸を三つ編みに結って上手に私のショートヘアにくっつけてくれました。

私はそれが得意で得意で仕方がなかったけれど、大人の目から見たら、しょせん毛糸ですからね。

なんじゃ、これは!?という自毛とは違うことは丸分かりな様子に思わず笑いそうになり、次に「あぁ、でもこの子どもはとても幸せそうだなぁ。」とその嘲笑を微笑みにすり変えた、という表情をしました。


それが子どもの私には全部、わかっていた。

あのときは魔法のようにロングヘアになれたことが嬉しくて、たとえ嘲笑のほうであろうとも一人で悦に入っていたと思うけれど、微笑みだともっと意味がわからなかったと思います。

これのどこがそんな微笑ましいようなことなんだ? と。

そして、こういうことって後々になって、「あぁ、大人たちのあのときの微笑はこういうことだったのか。」とそのからくりがわかるような自分も年齢になったとき、良い経験をした、という気持ちになれるものだろうか?と思うとそういうものじゃあ、ない、という気がする。

ただただ、大人が思いも寄らないところで子どもはショックを受けたりすることもあるよなぁ、という大人と子どもとの間にあるどうしようもない隔たり、というか違和感に思いを馳せるだけのことだ。

子どもからしてみれば、あのとき笑われずに真摯な瞳でただ見つめていてくれたほうが嬉しかったと思う。


そう気付いたとき、目薬に限らず、我が家の猫たちのしぐさや行動がついおかしかったりしても笑うのはよそうと思いました。

彼らにはそれが何で笑われることなのかわからないだろうし、それどころかショックになっちゃうことがあっては可哀そうだからね。






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プロ意識

2014-01-27 09:02:00 | テレビ番組

この前テレビで「かぐや姫の物語」の監督である高畑勲さんについて、その生きざまを紹介するような番組をやっていました。

私はそのなかで高畑監督ではなく、特に心を奪われたシーンがありました。


それは故地井武男さんが声優を務めたシーンです。

地井さんはかぐや姫の育ての親である爺さんの役でした。

あるとき地井さんのアテレコのシーンにずっと立ち会っていた高畑監督がこう言います。

「地井さん、芝居しすぎ。」

一言。

地井さんは、う~んと頭を抱え込みますが、このときそれ以上の質問を高畑監督には返しませんでした。

自分のどこがいけないかはわからないけれど、何かしら役を作りこみすぎなんだろう、ということは思ったのでしょう。

それから地井さんが何をどう考えていたのかはわかりません。

ある日、地井さんは高畑監督に面会を申し出ます。

そこで地井さんは、

「結局・・ 姫は地球のことをどう考えていたんでしょうねぇ・・?」と監督に尋ねます。

高畑監督は、一瞬、え? そういう話?という面食らった顔をしましたが、う~む、とうなり考え込み、返事に窮していました。

しばらくして、

「やっぱり大切に考えていたと思うよ。大切な人たちがいるところなわけだし・・」と答えると、地井さんはまたも、

「じゃあ、どうして帰ったんでしょうねぇ?」とまたぽつり。

また高畑監督、考え込む。

大の大人がふたり、難しい顔をして、「かぐや姫」を解読している。

微笑ましくもありましたが、私が驚いたのは、「爺さん」の役をこなすのにここからのレベルの深い理解をしていないと演れないものなのか、ということでした。

その後ふたりがどれほど議論を戦わせたのかはわかりません。

ただ、次の収録のときには地井さんは何か吹っ切れたのか、つかんだのか、人が変わったようでした。

竹から生まれた姫が初めてよちよち歩くようになるシーンで、爺さんは、5mほど離れたところから「ひ~め! ひ~め!」と呼びかけます。

這えば立て、立てば歩めの親心、ってやつです。

ほら、こっちへおいで、もっと歩けるかい?っていう呼びかけです。

このとき地井さんのセリフは、ただ「ひめ」というこの言葉を10回ぐらい続けて連呼する、というものでした。

ここにどれだけ我が子同然、とこの姫のことを想っているか、という親の気持ちをすべて込める! ・・地井さんのアテレコにはそんな気迫がこもっていました。

9回目、10回目の最後のほうなんて、声を枯らして実際に泣いてましたもんねぇ、地井さん・・


もちろん一発OK!

・・っていうか、このシーンのすぐあとに全然別のシーンの音撮り入ってま~す、ハイ、すぐいきま~す、と言われてもとてもじゃないけれどそこまでの切り替えは無理でしょう、ってくらい地井さんは、初めて歩いた我が子を目の当たりにしたときの親になっていました。

もちろん、立ち会っていた高畑監督も、ぼそりと一言、「さすがだ・・」とうなり、目頭の熱いものを抑えきれませんでした。


すごい・・

これに命を懸けている、という俳優さんの演技ってこんなすごいものだったのか、と私は画面から目が離せませんでした。

これまで正直に言って、地井武男さんという人の演技をそれほどまでに鬼気迫るものがある、とかすごい演技だ、と思ったことはなかったのですが、このときばかりは胸が打たれました。

それからほどなくして亡くなってしまったんですよねぇ。


この番組では地井さんに限らず、ほかの方の録音のときの様子も映し出していましたが、誰ひとりとして「声優でしょ? 声だけの出演なんでしょ? 演技までする必要ないよね?」という感じで、目の前のアニメーションだけを見ながらセリフを言っている、と言う人はいらっしゃいませんでした。

誰もが、狭い録音室のなかで誰が見ているわけでもないのに、撮られているわけでもないのに、実写のときのように身体全体を使って演技をしていました。

自然に動いちゃうんだよ、と言われればそうなんでしょうが、俳優さんてほんとに“職業”としてスゴイなぁ、と思ったのでした。

いま私は、趣味のレベルで通っている「朗読教室」の発表会に向けて鋭意練習中です。

2週間に1度、皆さんが集まるときは小道具やら演出やらの打ち合わせ会場になりつつあります。


そこで私とあと数人の方が一緒に行う演目は、童話の楽しい物語なので、朗読というよりはかなり大げさに身振り手振りも加えて動いたほうがいいよ、ということになりました。

初めて身振り手振りを加えて動いたとき、「こりゃちょっと恥ずかしいな。」と思いました。

しかし、皆さん弾けてとても楽しそうにやっているサマを見て、「こりゃ恥ずかしいな、と思いながらやることのほうがよほど恥ずかしいな。」と腹をくくりました。

そうしたら先生からも「なかなかいいわよ~」と褒められたので、こんなくらいで十分だ、と思っていました。

けれど、さすがにそれを生業にしている人というのは意識の高さが違うわい、と恐れ入りました。


「プロ」か、「シロウト」か、「それでお金を頂くレベル」なのか、「おままごと」にすぎないのか。

それはやっている側の腹のくくり方の部分が大きいのかもしれません。

そして、このくらいでもういいな、と妥協しないことが大きいのかもしれません。

例えば「演じる」という事で言えば、「シロウト」や「おままごと」ならば、演じたシーンのせいで風邪をひいちゃったり身体を壊しそうな激しいマネはイヤだな、と思うことでしょう。

けれど、「プロ」や「それでお金を頂くレベル」だと自分を考えている人はそんなことは微塵も厭わないでしょうね。

今日、ここで本当に死んだって本望だ、というくらいのつもりで演られるのでしょうね。

その違いが真に迫ったものとなり、人の心を打つのかもしれません。

私ははっきりと「朗読」に関しては「趣味にすぎない」と言い切れます。

プロのような気構えをしょいこむつもりはない、とも言い切れます。

だから学芸会のノリの延長のような発表会もただただ楽しいと思えるのだ、と思います。

それであっても、もう少しプロの役者さんたちのこれに懸けている魂というものを垣間見られたのは、良い刺激となりました。

さて、それではオーラソーマについては「おままごと」のつもりはないので、何があってもしょいこむ覚悟でやっているのか、と言われれば、ん? それはどうなんだろう・・

そもそも役者が演じることに伴うリスクのようなことがオーラソーマにはあるんだろうか?

一生懸命に演じるがゆえに身体を酷使して痛めた、なんていうようなことに該当するようなことが。

どう考えてもないなぁ・・

そして「ない」ことが、私にとっては「刺激が足りない」とうずうずしてしまうことなのかもしれない、と思いました。

私はもう少し激しいものを望む人間なので、「これを押してでもやっている!」というものが何か欲しい、と逆に思ってしまうんです。

贅沢な悩みですかね。






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