ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

来年の抱負

2012-12-31 09:10:00 | 身辺雑事

いよいよ大晦日を迎えました。

今年も1年、あっというまだったなぁ。

来年はもう少しちゃんと意識的に歩んでいかないと、またまた「あっというまだったなぁ・・」で終わっちゃいそうです。

来年こそ、着実にいくぞ~


さて、今日は大晦日にふさわしくなく、再びクリスマスイブ・イブの日のお話なんですが・・

イブイブの23日には、「JIBUNアートセラピー」の生徒さんにお招きいただいて、その生徒さんの本業であるサルサダンスの生徒さんばかりが集まったクリスマスパーティに飛び入り参加いたしました。

皆さん多彩な方ばかりで、ダンスのほかに「歌うたいます。」「ピアノ弾けます。」「オカリナ演奏します。」など盛りだくさん。

誰も彼もが一度は主役となって舞台にたって得意技を披露するというとっても濃~いクリスマスイベント満載のパーティでした。

そんななか、私は皆さんにマヤ暦でのご自身の誕生日の出し方をお教えしました。

時期的なこともあり、皆さん熱心に聞いていただけました。

さらには、そのメンバーのなかで「神秘KIN」同士が見つかったり、「ガイドKIN」の関係だったりが発覚したりで盛り上がりました。

そして最後に、「JIBUNアートセラピー」の生徒さんが私にお礼に踊ってあげる、と言ってくださいました。

それはかねてから私が彼女が踊っているところを一度見たい、と言っていたこともあり、そうしたらタイミングよく発表会があるのでそのとき招待するね、と言ってくださっていたんですが、嬉しい悲鳴のチケットの売れぶりで会場のキャパがオーバーしてしまったので、ごめんなさい、今回は入ってもらえそうもないわ・・ということで残念ながら見送ったばかりだったのでした。

だから彼女としては私に対してそのときはごめんなさいね的な意味もあったのでしょう。

サルサという踊りはとても女性が魅力的に見えます。

男女ペアになって踊るダンスというものはたいていがそうかもしれませんが、女性が自分の魅力を楯に男をじらしたり、誘ってみたり、というような踊りなんです。

最初はペア2組で、振り付けが決まっているものを踊ってくれました。

その次には男性1人に対して、3人の女性が代わる代わるアドリブで踊りを仕掛けていく、というようなスタイルでした。

そう、それはまさに“仕掛けていく”という言い方がぴったりの美しい罠のような踊りでした。

ダンスが言葉のように、何も言わなくても身体全体で表現されている・・

そのとき、私が一番驚いたのは、ひとりの女性でした。

その踊りの前に私がマヤ暦の出し方を教えているとき、ひとりの方に、

「すみません・・・ ちょっと遅れて入ってきたので、今のお話、よく理解できていないんです。ここのところなんですけど、もう1度教えてもらえますか?」と話しかけられました。

その若い女性はとても控えめな印象で、テンポもまったりとしていました。

その女性が踊ってくれたんですが・・・・

まるで別人・・・

表情からしてからっきし違う。

さっきはおぼろげな焦点が合っていないようなぼんやりとした印象だったのに、ダンスのときには挑むようなカッと獲物を見据えるようなまなざしをしています。

肩をすぼめて申し訳なさそうにしていたのが、胸をはり、腰がすわり、しなやかなまるで女豹のよう。

羽野晶紀ふうの癒し系ガーリーだったのが、夏木マリみたいになっちゃってますぅ!

びっくりしたなぁ、もう。

でも、そういう目で見ているとダンスをやっている方というのは、そもそも人前に自分をさらす、ということに慣れているのかいったんステージに立つと、その“見られる”という視線を逆にこっちからつかまえに行ってやるぅ!くらいの受け止め方をするんですね。

だからステージに立つと人が変わる、っていうのわかります。


そして思いました。

「人間、どこかでは必ず主役になるステージがある。」

ダンスをやっている人というのは、むしろ普段は引っ込み思案で目立たない方が多いような気がしました。

でも身体を動かすのが好きで、ダンスをやっているうちに「あ! これなら自己表現できる!」と気付き、身体で自分を表現することに開いていく・・


ダンスに限らずそうです。

私の子どもの頃というのは、運動会ヒーローというのが必ずクラスに1人や2人いました。

勉強はできなくて普段教室ではおとなしいのだけれど、身体能力が高くて体育の時間とか運動会になると俄然はりきる、というタイプ。

かけっこやリレーでは2位の子どもに10馬身(じゃなくて10人身か)くらいの差をつけて圧倒的にテープを切り、地鳴りのような「うおぉぉぉ~!!」という拍手喝采を浴びる、という。

つまり、こっちではダメだけれど、あっちではヒーローになれるステージというのが用意されていました。


しかし、今はどうなんでしょう?

聞くところによると、テープ直前で最後尾の子を待っていて、みんなで手をつないで仲良くゴールインなんてことをやるそうですから、なかなか勉強の出来ない子どもが浮かばれるステージが学校では用意されていないかもしれませんね・・

まぁ、このように「勉強←→運動」というだけの図式ではないにせよ、人には何でも得手不得手があるはずですから、AがダメでもBで巻き返しをはかる、とかCはスルーしたいけどDではセンター取れるぞ、ということが何かしらあるはずなんです。

それが何かを見つけることが、この世を上手に生きていく近道かもしれませんね。

“世渡り上手”のように言うと語弊があるかもしれませんが、それが「本当の自分自身を見つけ、掘り下げ、自分を解放していく一番の近道」かもしれない、と思いました。
つまり、オーラソーマが求めていることと同じです。

魂の成長の道です。

オーラソーマでも下層の色に光をあて、自分の未開の可能性に気付き、それをより発展させることが目的である、と言っても過言ではないでしょう。

そしてそれに対してプラクティショナーのところに行ってコンサルテーションを受け、ボトルとワークするということだけでは弱い、と常々私はこのブログでも言ってきました。

なぜならライブでのコンサルテーション以外はあとのことはすべて孤独に行われる作業だからです。

ボトルとワークするにしてもそう、ポマンダーやクイントエッセンスにしてもそう、カラーエッセンスやアークエンジェロイを施すにしてもそう、それらはすべて個人で行うことです。(まぁ時にはワークショップなどで大勢とシェアするときもありますけれど、大方は一人で行います。)

それでは本当の意味での自己解放は起きないんです。

なぜなら自己解放とは常に人前で起こらなければ意味がないから。

そしてそのために私はオーラソーマを補完する講座として「アートセラピー」が最適だと思いました。

絵を描いたり、ボディワークを行ったり、時には何かを創り上げたりすることによって五感を開花させるとても良い方法だからです。

脳にとっての栄養は五感で感じることですからね。

そして自分自身という存在そのものがこの世でもっともクリエイティブな存在なのだ、ということを忘れないためにも私は「JIBUNアートセラピー」という名前でこれをやっています。

そして目の前で生き生きと繰り広げられるダンスを見ながら、その瞬間私は、「オーラソーマを補完するものがJIBUNアートセラピー」ではなくて、「JIBUNアートセラピーこそがオーラソーマを包含するものだ」と思いました。

どっちが偉いとか上だとかそういう意味じゃないんですよ。

ただ最終ゴールを「自己解放」と据えたときにには、そこに至るあらゆるワークがそのための1コンテンツにしか過ぎないわけで、そうして考えたときには「JIBUNアートセラピー」の方が広義の範囲をフォローしている、ということです。

だから私の来年の抱負は、「もっとJIBUNアートセラピーを広めたい、親しんで欲しい、一緒にやろうよ!」です。

そこで是非、

「あれぇ、私ってこういうことが楽しい人だったんだぁ!」

「この才能をもっと伸ばしたい。」

「これをやっているときが一番楽しくて、時が経つのを忘れるなぁ。」

というものを何か見つけてください。

それが人によっては、絵を描くことかもしれないし、文章を書くことかもしれないし、楽器を演奏することかもしれないし、粘土をいじくったりいろんなものを切り貼りして手先を使うことかもしれないし、何かはわかりません。

でもひょっとするとそこから一生をかけて取り組みたい自分のライフワークが見つかるかもしれませんよ。

そして人間、得意なもの、人よりちょっと秀でて自慢できるものが出来るとそれを人前で披露したくなりますし、それを人に教えてあげたくもなりますよね。

それが“悟り”です。

わぁ~、なんか楽しくなってきたなぁ。

これまで「JIBUNアートセラピー」のワークショップはやってきませんでしたが、来年はそういったものもやっていきたいと思います。

興味のある方は是非、一緒にやりましょう!

それではみなさま、良いお年を。

いい夢みてくださいね。





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お千代保稲荷

2012-12-30 09:09:00 | まち歩き

このブログでも書いた23~27日にかけてのクリスマス寒波は、全国的に停電やデジタル関係の誤作動を起こすようなものではなく済んだようで、その点では良かったですが、各地でかなりの冷え込みがあったのは確かなようです。

日本海側の地域や北海道などは零下10℃、20℃になったところもあったようですね。


ニュースを見ていて、大雪になると思わぬこういうことがありえるわけかぁ、と勉強になったこともありました。

大雪になると雪かきが必要な地方では、お年寄りでも屋根の上などに登らねばならず、そういったときに足を滑らせて転落し大怪我をするとか打ちどころが悪く亡くなったりする方もみえる、というのはわかっていました。

しかし、こんなこともあるのだなぁ、と思った一例としては、大雪で公共の道路などの除雪作業も立ち遅れると、車の標識が完全に埋没してしまい一方通行の道や進入禁止の命にかかわるような大事なサインを見ることができない、ということがあるんですね。

だからそれを知らない一般車がそういった道に入ってきてしまい、正面衝突を起こすなどの事故もあるということです。

これなどについては、なかなかそこまで雪深い地域に住んでいない私としては想像できないことでした。


寒波となるとこうした二次被害、三次被害などもありえます。

27日は過ぎたとはいえ、こんなもの、宇宙の大きな周期からみれば来月や再来月にホンモノのものすごい寒波がやってきたとて誤差のうちには入らないレベルでしょう。

引き続き皆さん、警戒は怠らずにいましょうね。

さて今日の話題は先日、お千代保稲荷さんに家族で行ってきた、という話題でございます。

お正月の混雑を避けてあえて年末に行ったのですが、それでもすごい人でした。

「お千代保稲荷」。 地元では知らない人はいませんが、これ、「おちよほいなり」と読むのではありません。

「おちょぼいなり」と読みます。

私は小さい頃からずっと、関西などで「どうでっか?」「ぼちぼちでんな。」と言う挨拶の「ぼちぼち」と同じ意味で、「小さなお稲荷さん」という愛称なのだとばかり思っていました。正式名称は別にあるのだ、と。

おとなになって漢字ではこう書くのだ、と知ってから目からうろこでしたね。

私たち地元の人間には、「おちょぼさん」と言って親しまれている商売繁盛の神社です。

「商売繁盛」という具体的な現世でのご利益を求める人というのは後を引きもきりません。

なので、ここは神社自体は小さな神社なのですが、参道にはお伊勢さんの「おかげ横丁」レベルのお店がずらりと立ち並び、どこも大賑わいです。

お千代保稲荷の商売繁盛のご利益が降りているのは、この商店街だけに対してなんじゃないのぉ、と言いたいくらいです。


そのなかで特に有名なのが、串カツ。

どこも合わせたように値段は1本80円で、店頭であげてシズル感を演出し、ラードの香ばしい匂いが食欲をそそります。

そしてほかの地域の方がたはびっくりするかもしれませんが、この店頭であげているPhoto 串カツは誰に断ることもなく、ひょいとそこから1本抜き取り、これまた店頭においてある大きなバットになみなみと注いである特製のソースにざぶりとつけ、勝手に食べるのです。(ここは大阪通天閣と同様に、「2度づけ厳禁」などと書いてあります。)


もちろん、店内に入ってゆっくり腰を落ち着け食べることもできるのですが、「串カツ定食」などとなったキャベツと1きれ、2切れほどのトマトと一緒に小奇麗に盛り付けられた串カツなんて串カツじゃないも~ん!

この店頭で立ち食いするのがスタイルなんだよねぇ。

大鍋にはぐつぐつとこの地方以外の人がドン引きする赤味噌で煮られたドテも売っています。

そして好みによって揚げたての串カツをこの赤味噌の鍋にざぶんとくぐらせ、食べることもできます。

こうして3、4本つまみ、食べ終わった串をお店の人に渡してお勘定をするのです。

お店の人はそれぞれお運び、串をあげることで忙しく、誰も店頭のお客なぞに気を払っちゃいません。

だからこれは信頼で成り立っているマーケットなんですよねぇ。

あまりに黒山の人だかりなので、ひょいと手を出し、食べるだけ食べてお勘定せずに行っちゃってもわかりませんもん。

けれど、そこは神社の参道。

神様におまいりに来てそんな悪さをしては、自分のところには神様は来てくれないだろう、ということでそんなコソ泥の真似をする人はいません。

こうして来るなり、軽くお腹を満たして参道をすすみます。

この“おちょぼさん”では、この串カツのほかにはなまず料理も有名です。Photo_2

なまず、皆さんは食べたことありますか?

見た目のグロテスクさとは違って、淡白ですごく上品なお魚ですよ。

こちらでは半身とか一匹まるまるを照り焼きにしたりして提供しています。

私とダーリン、娘と孫はここで串カツを4,5本たいらげてから、ランチのために食堂に入りました。(先にお参りしろ、ってーの。)

私とダーリンは、ウナギを、娘は「ジャンボエビフライ定食」を頼みました。

ジャンボってどのくらいか、と思えば、ほんとにジャンボでした!

そうですねぇ、長さは30cm以上、直径は3.5cmって感じでしょうか・・

衣でごまかしているのではなく、ほんとに中身もぎっしりでしたよ!

さて、お腹も満タンになったところでようやくお参り。

本堂の手前でろうそくとおあげさんを買って奉納いたします。Photo_3

私は、「みんなが豊かになりますように。」とお祈りしました。

お参りそのものはあっというまに終わり・・

再び参道の行っていない店をウィンドウショッピングです。

そうしたらお洋服の店なんですが、「しまむら」もびっくり、というほどのお値打ちな店がありました。

スカートやパンツ、ポンチョなど¥500  ¥1000のものがあります。

ゆっくり見ていたら掘り出し物がありそうでした。


しかし、食べ物屋さんやお土産物屋さんはわかるけれど、どうしてこんな参道で洋服の店なんだろう・・?

私はずずぃと奥まで入ってみました。

すると、なんとびっくり!Photo_4

格安のウエディングドレスまであるじゃありませんか!

考えてみれば、昔は神社で結婚式をあげる人が多かったからその名残なのかな?

でも、着物は当然ながらいっさいない・・

神さまに誓って結婚→だから神社の参道に結婚式をあげるためのウエアがある までは理解できるにしても、どうしてそれがドレスなんだ?

ここいらに日本人のふところの深さを感じますねぇ。

着物よりドレスのほうがラクチン、だったら神社での結婚だろうがなんだろうが、ドレスでいいじゃん、という。

便利なものはどんどん取り入れるという庶民のたくましさを感じました。

このドレスに限らず、この参道のお店をひやかして見て歩くだけで何だか元気になります。

“おちょぼさん”にお参りすると神様がお参りした人に商売繁盛のご利益をさずけてくださるのではなくて、ここへ来た人が頑張っている商店街を見ているうちに、自然に自分ももっと頑張りたい!とか商売やりたくってうずうずしてきちゃって勝手に元気になった、というところが真相なのではないか、と思わせられました。

それにしても、こういう混沌としたエネルギーのなかに時に身をおく、というのもいいものです。

異文化交流、というと大げさですが、神を想いながらも現実的に儲けたいという貪欲な気持ちを共存させること。

その一見相反するものがぶつかりあったとき、そこに思いがけぬパワーの気流が発生するのではないか、という気がしました。





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「思考は現実化する」の身近な例

2012-12-29 09:07:00 | 身辺雑事

昨日はダーリンが胃腸風邪になった記事をUPしましたが、そのときにつくづく「思考は現実化する」ということを実感しました。

夜中、ダーリンがトイレに起きる気配でハッと目覚めてしまいなかなか熟睡できなかったと書きました。

私を起こさないように、とこそっと起きていってくれるのですが、なにせ、トイレに行く間隔がこれ以上短くなったらマジやばいよ・・と思っていたので、ちょっとした気配にも敏感になっちゃってたんですね。

するとなんと今度は私までお腹が痛いような感じがしてきたではありませんか!

「え? 感染ったのかな・・・」

なんてことも思いましたが、いや、そうではないと思いました。

これは私が意識を胃腸の調子にものすごぉくフォーカスしていたことによって過敏になっていたからです。

実際、同じ経験を今年の最初ティーチャーズコースでイギリスに行ったときにも感じました。

始めての土地、長いフライトで、もし気楽にトイレに行くこともままならないような状況のなかでお腹でもこわしたりしたら大変、と緊張が張り詰めれば張り詰めるほど、余計に意識は胃腸にものすごぉ~くフォーカスしちゃうんですよね。

国内の移動くらいでは出掛ける前の日に深酒したってどうってことあるもんか、というのが普段の私ですが、このときばかりは3日ぐらい前から断酒し、胃腸の調子を整えようとしました。

それでも前向きではなく、「もし、調子悪くなったらいけないから・・」という後ろ向きの気持ちで調子を整えようとしているわけですからそれがうまくいくわけがなく、さすがに下痢になったりとかまではしませんでしたが、なんだか胃腸がどよ~んとしたまま出掛けたのでした。

だから行きの飛行機の機内食なんて大方残しましたもん。

人様のことはよくわかりませんが、胃腸の調子って「絶好調!」って言い切れる人ってなかなかいらっしゃらないのでは?

どうしても現代人って本来の「身体にとって必要な栄養素だけを摂って、健康を維持する。」という観点から言えば食べ過ぎている傾向にあるでしょ?

ましてや、身体的な健康の面からだけ言えば必要のないお酒なんてものまで飲んじゃうし。(精神的な効用もあるからあんまり身体のためだけってストイックに考えるのもね・・)

この時期とくにね。

そんな自信がもてないなかで、じっくりと胃腸の調子だけに意識をフォーカスすると何だか具合が悪いような感じがしてきてしまったんです。

そうしていったんそう思うとなかなかその想念を払いのけることができません。

「あら? もしかしてちょっと具合悪い?」なんて思うとどんどんその“ちょっと具合が悪い箇所はどこなんだ?”“どの程度なんだ?”というように意識が進んでいきます。

まるで細い血管やリンパのなかをその想念が拡張しながらウィルスのように浸透していくようです。

そしてその想念が「ほんとうに調子の悪い胃腸」を作り上げてしまうんですね。

「調子」とはちょっとしたリズムのことですから、そう考えたら、ほんの少しリズムを狂わせることなんて簡単なことですものね。

「思考が現実をつくる」ということがなかなか理解できなかったり、実際にはどういうことよ?と思ってらっしゃる方でも、「リズムに乗って手拍子を打っているときに、ちょっとした雑念が入ることでリズムが狂うことがあるでしょ?」と言われたら納得できますよね。

誰かに話しかけられたとか、急に騒音があった、などの外的に邪魔が入らなくても自分の中にふっと湧き起こった考えだけでリズムを狂わせることなんて簡単にできちゃうわけです。

それが「思考が現実をつくった」という証明以外のなにものでもないでしょう。

そして私は実際に夜中に2度トイレに行きました・・・


それから私はこの「思考は現実化する」を思い出し、いかんいかん、と気力を奮い立てようとしました。

こういうときって知識が変に邪魔しちゃうんですよね。

大昔の人は菌やウィルスなんて眼に見えない存在のことは知らなかったでしょう。

だから、「風邪は感染する」という意識もなかったんじゃないでしょうか。

しかし、現代の私たちは「その人の吐しゃ物に触れる」なんて眼に見えることがなくても空気感染するということを知っていますから、家族に1人風邪を引いている人がいると、「あぁ、こんな身近で生活していたら、そりゃあ感染しないほうがおかしいよな。」なんて考えることによってその現実をいち早く作り上げてしまっているのではないでしょうか。

私が胃腸の調子が悪くなったとき、いつもやる瞑想法があります。

それは逆立ちをしながらやるとより効果的なんですが。

肛門からずーっと順番に直腸、大腸、小腸、胃、食道というようにさかのぼり、消化器官を思い浮かべ、そこにゴールドの色をした秘薬がコーティングされるところをイメージするんです。

この秘薬は格別な効き目があります。

ときにはコーティングだけではなくて、自分の手でやさしく臓器を撫で撫でするところを思い浮かべます。

「あぁ、胃が炎症を起こしてやっぱりちょっと腫れている。大丈夫、大丈夫。いまこのゴールドの秘薬を塗ったからね~ すぐに浸透して炎症がおさまり、すーっとスマートな胃袋になって生き生きと動き始めるよ~」というように語り掛けます。

オーラソーマのポマンダーでは、イエローが胃の調子をよくする香りだ、ということになっていますが、私はゴールドのほうがピンときますねぇ。

インカネーショナルスターを通じて胃と腸がつながっていることを実感できるからでしょうか。

ゴールドの香りをかいでこの瞑想をすれば鬼に金棒。


するとあら、不思議。

とたんに私の胃腸は好調を取り戻しました。

ふぅ~、助かった。

この年末、ダーリンと私と共倒れなんかになっちゃあ、切り抜けられないっすよ。

これは本当に良く効きますよ。

皆さんもどこかちょっと調子が悪いときは、このゴールドの秘薬の瞑想、是非お試しください。

実際にクスリ飲むより効くってば。

私たちの脳細胞にはコピーニューロンというものがあるらしいです。

外から受けた情報や刺激に対して、それをコピーして自分のなかに取り込む、という能力です。

それを人は本能的に知っているから、楽しそうにしている人には近寄りたいし、暗くて陰気な人には近寄りたくないんですね。

自分がコピーして取り込む情報は楽しいことにしたいですものね。


これも「思考は現実化する」ということの、ちょっぴり科学的な証明じゃないでしょうか。

コピーした限りはもうそれは自分のものにしちゃってんだもん。

いつまでもただコピーして保存だけしている、という場合もあるかもしれないけれど、たいていは良いと思ってコピーしたことは脳はいち早く現実的にしたがることでしょう。

私はこのような卑近な事例の体験を通して、あらためて「思考は現実化する」ということについて「まさしくその通りだ!」という実感を得たのでした。





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さんざんなクリスマスイブ

2012-12-28 09:07:00 | 身辺雑事

実はクリスマス・イブの日から、我が家はとてもクリスマスの雰囲気からは程遠いものとなっておりました。

イブの24日はダーリンと仲良くさせていただいているご夫婦と4人でゴルフに行きました。

そして帰りはどこかで外食しよう、という予定でした。


行きの車のなかでは、「今夜、何食べるぅ?」なんて言って、ダーリンは、「そうだなぁ。やっぱりステーキかなぁ。」なんて言っていたんです。

ところが・・・

スタートして2番ホールで、ダーリンはティショットで2発連続のOBを叩きました。

そして「なんか気持ち悪くなってきた・・」と小さな声でつぶやきました。

このとき私はまだ高をくくっていました。

(ふん、なにさ。今、自分がOB連発したから機嫌悪くなってるだけでしょーよ。それを気持ちが悪くなってきたからティショットもよくなかったんだ、っていうエクスキューズにしたいのかぁ?)なんて意地悪い目で見ていました。

だってあまりにもタイミングが良すぎたし、ダーリンてば1つのことで機嫌が悪くなると、すべてに対して機嫌が悪くなるっていうような子どもみたいなところがあるから。

でも、ランチのときに「なんにも入らない・・ 食べられない・・」と言って、一応チケットが付いていたので、きつねうどんを注文したものの、汁だけをすするのみで全く食べられないダーリンを見て、(こりゃ、結構マジかも)って思い始めました。

なにせ、ダーリンときたら、結婚してこの5年弱というもの、どれだけこっぴどい風邪をひこうが食欲だけは衰えないというのが売り(どこに売り込むんだ?)だったくらいで、まったく食べられないダーリンなんて初めて見たからです。

それでもなんとかラウンドを終え、帰宅するとき、

「大丈夫? 帰りはわたしが運転して行こうか?」と言うと、

「うん、そうして。」と素直にカギを渡したのにこれまたびっくり。

ダーリンは結構運転が好きで、自分の車のカギは絶対私に渡さないんですよね。

それがこのときにはえらくあっさりと「そうさせてもらう。」と言ったことに対して、相当しんどいんだな、と思いました。

それから家に帰ると、

「とりあえずちょっと横になるわ。」と言ってベッドに入ったのですが、どうやら気持ち悪いだけでなく、熱もあがってきたようで、

「くらくらしてるのか、眠ったのか自分でもよくわからない。」と言ってぐっすり寝て気持ちよくなった、というわけにはいかないようでした。

そしてトイレに行っては下痢。

その間隔は2~3時間。
私はだんだん、「これ、今はやりのノロウィルスとか、生のユッケが食べられなくなったきっかけの焼肉家事件のO111という腸管性出血なんていう病気じゃないでしょうねぇ・・・」と不安になってきました。

なにせ、あの焼肉事件では、何人か亡くなった方がいらっしゃいましたが、その亡くなるまでの様子をニュースで見たことがあり、あまりにぞっとして今でも覚えているくらいなんです。

なんでも、最初は4時間おきくらいの下痢が、1時間おき、10分おきになり、ついにはトイレから出られなくなり、救急車で運ばれたはずです。

そして、あまりに苦しむので見かねた家族が「背中でもさすろうか?」と言うと、

「触るな!かえって痛い。」とまるで風が吹いても痛い痛風のように苦しみぬいた、とのこと。


今、ダーリンは2~3時間おきにトイレに駆け込んでいるけれど、これがもっと間隔がせばまるようなことがあればすぐにも病院に連れて行かなきゃ、と思っていました。

夜になり、私も床につきましたが、隣でダーリンがもぞもぞと起きだす様子がわかるとハッと私も目が覚め、(さっきに行ったときからどれくらい時間が経ったんだろう・・・?)ということが気になっておちおち寝られやしない。

そのうち、最悪のことを考え始めてしまい、

「もし、ダーリンが死ぬようなことがあったら、私はその後どうやって生きていったらいいんだろう・・?」なんてところまで思考は一足飛びに働くようになってしまいました。

その切実度、真剣みは違うにせよ、「もし、ダーリンが死んでしまったら・・」ということを想像したのは今回が初めてではありません。

そしてそのときにいつも思うのです。

「そんなことになったときには、オーラソーマなんてまったく私を支えてはくれないだろう。」ということを・・・

こんなことを白状すると、「はぁ? あんた、他人にはどんな辛い思いをしても、自分のなかにまだ希望の灯りがともっているのを見つけると、自分で自分に励まされますよ。」なんて言っておいて、それはないだろう、とお叱りを受けてしまいそうですよね・・

でもねぇ・・

私がこの世に生まれてきたのは、ダーリンとこうして一緒に何気ない日常を送ること、そのなかからいろんなことに気付き、学ぶこと、というのが確実に大きな意味をもって存在していたに違いない、と思っているのに、その相方がいなくなって、どうして1人でこれ以上生きていく意味があるのか、と考えるとオーラソーマを知っている、ということが私のなかに光明を見るものだとはとても思えないんですよねぇ・・

それどころか、「こんなに早く私から相方を奪うのなら、どうして私たちが出会うように配慮されたのですか!」と神をも恨むこと請け合いです。
まぁ、それはそんなことになったときにまた真剣に考えればいいことかもしれませんが、オーラソーマの存在とは私にとって「オーラソーマがあるかぎり、私は強く生きなくては!」というものでないことだけは確かなように思えます。


これが例えば、幼い子どもを抱えたお母さんなら、自分の愛する伴侶を亡くしても「この子のためにまだ私は生きなくては・・」と辛い中でも決意することでしょう。

それほどの大きな存在じゃないよな、どう考えてもオーラソーマは。

あったりまえでしょー!

そりゃあ、ただのツールに過ぎないんだから。

何かの思想に支えられる、っていうものじゃないんだし。・・とまぁ、自分を奮い立たせてはみるものの。

でも、こんなことをつらつらと考えていると何だかオーラソーマをやっていることが虚しく思えてきてしまって・・

自分が先走った考えなくてもいいことまで考えているのはよぅくわかっていますが、自分が大事なものすべてを失ってもまだオーラソーマをやっているだろうか、ということは今後の私のバックボーンにもなる大切なことなので、ダーリンが元気になってから、ルンルン気分のときにあえてこのテーマはまた考えてみよう、っと。

おかげさまでダーリンは、次の日の朝には熱も下がり、お腹の調子も徐々に戻り、まぁ、ただの軽い胃腸風邪だったようです。

その程度のことで自分の内側ではえらいこっちゃ、とコトを大事に考えたことを恥じてみたり、あ~、この程度のことで済んでよかった、と思う気持ちもあり。

いずれにせよ、我が家では「Merry!」ではなく、ある意味「聖なる夜」という過ごし方をしたクリスマス・イブでした。

ちょっと元気になったダーリンが、

「不思議だなぁ。菌とかウィルスってやつらは頭悪いよなぁ。」と言うので、

「なんで? どういう意味よ?」と聞くと、

「だって、自分が取り付いている宿主まで殺そうとしてどうするんだよ。ほんとに宿主が死んじゃったら、自分も死ぬんだぞ。それなのに徹底的にやっつけよう、乗っ取ろうとするのはバカじゃないのか。もう少し共存共栄を考えよう、とする気はないのか!」と息巻いておりました・・

まぁ、これくらいのことが言えるようになるほどに元気になってよかった、よかった。






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フェイス・トゥ・フェイスの大切さ

2012-12-27 09:05:00 | 身辺雑事

昨日は田原俊彦さんのディナーショーに行ったことを書きましたが、ディナーショーでもう1つ感じたことがありました。

それはごくシンプルなことですが、人と人とが“生で”“顔を付き合わせる”ことの大切さ、についてです。


生のステージを目の当たりにすると、特にそれがそれまではファンのスターではなかったのに、いきなり好意的にその人を見るようになります。

お世辞でもなんでもなくほんとうになぜかそうなっちゃうんです。

あれは不思議ですね~

ブラウン管の中にいる人を見ているときは、なぜか自分と同じ生身の人間とは思えず、思えないぶん、非常にシビアな感想や意見を抱いたりするように思います。

そしてテレビっていうのは、視聴率がすべてですから決してその人の“一番その人らしいところ”“良い部分”を映し出すとは限りません。

実際、田原俊彦にしたところが、いま、テレビの番組でじっくりと彼の歌を聴かせたり、ダンスを披露させてくれるようなことってありえませんよね。

でも、生のショーだとそれを存分に味わうことができるわけです。

「今でも、こんなにダンスできるんだ!」

「意外に歌うまいじゃん・・ ずーっとボイストレーニングを積んできたのかもしれない。むしろ、昔より今のほうがいいわ。」

「甘ったるい歌、って思ってたけど、50の年齢を聞いてから改めてこの歌を聞くと、かえって深みがあっていいわ~」

「たった数百人であろうが、決して手を抜かずにこんなに一生懸命やってくれるもんなんだね。」

・・・・なんてことは、生でしか確認できないわけです。

その人のコンサートやディナーショーに行ってみて、よほど期待はずれで手抜きのショーだった場合は別として、たいていの人が生で接すればその人を好意的に見るようになると思いますよ。

このことを以前の私は相当斜視に構えて考えていました。

それは、自分が時間を使って、お金を使って、“わざわざ”選び取ったものだからけなしたくはない、という防衛本能のようなものが働くからなんでしょうよ、って。

そういう部分もあるのかもしれませんが、少なくとも意識してそう思うわけではなく、ほんとうに前向きにただただ好意的に見るようになる効果があると思います。

フェイス・トゥ・フェイスで人と接する、ということは。

よく、防犯の意味も含めてご近所の人とは気軽に声を掛け合うようなお付き合いをしておきましょうね、と言います。

もちろん、防犯うんぬんでなくても、私もご近所の方には「おはようございます。」「こんばんは」などの挨拶は積極的にするようにしています。

そして、それだけのことでも何かあったら、挨拶をかわさない人よりもその方のことをつい好意的に見ようとする自分が居ることに気づきます。

洗濯物が風にあおられて落ちているのを見たら、声をかけてあげようとか、犬の散歩で自分ちの前にある電信柱にそのワンちゃんがおしっこをひっかけているのを見ても、(しょうがないよなぁ。あれは犬の縄張りを主張する本能的な行為だから、あれをやめさせるってことは犬やめろ、っていうようなもんだろうしなぁ。)などと我慢できる。

しかし、これが見も知らぬ人だったりしたら、ギロッとにらみたいところです。(うちのまん前の電柱におしっこなんて! 臭いがついちゃうじゃないの!!)ってなもんです。

これくらい違ってきます。

俗っぽく言えば、“その人の身になって考えてあげよう”という姿勢が身につく、ってことでしょうか。

だから私はそれが出来ないネット上だけでの付き合い、とかそういうのがどうも胡散臭く感じちゃう、っていうか好きじゃないんだろうなぁ。


“その人の身になって考えてあげる”ということは、何のトレーニングも積まずにただ子どもから大人になるにしたがって自然に身につくものである、というのは違うと思います。

やはり気持ちだけあってもそこまで思い至らなかった、ということってあると思います。

そのためにはトレーニングを積まないといけない、と思うんです。

それが人と人とが直接顔を合わせる、ってことだと思うんですよね。

ついこの前も、テレビで鉄拳さんの新CMを見ました。

鉄拳さんのパラパラ漫画については以前にもこのブログで感動した、と記事にしたことがあります。

あれ以来、鉄拳さんの元にはいろんなところからオファーが引きもきらないようです。

皆さんにもまだ記憶は新しいかと思いますが・・

2年ほど前でしたか、福岡で酒に酔った市職員の車が子ども3人を含む一家の車に激突して、一家の車が橋げたから下の川に放り出され、子どもたち3人が亡くなる、という悲惨な事故がありました。

あれ以来、福岡では酒酔い運転による事故防止のCMをつくろう、ということになったらしく、それに鉄拳さんのパラパラ漫画に白羽の矢が立ったのです。


その30秒コマーシャルは何気ないものでした。

玄関のドラが開く音がして、「あ! お父さんだ!」とにこにこーっとして玄関に走りよる女の子。

しかし、そこにかつてのお父さんの姿はなく・・・

CMはこのお父さんが飲酒運転の加害者なのか被害者なのかわからないようなつくりになっています。

このCMを作るにあたって、鉄拳さんはこんな風に思ったそうです。

「本当に事故にあった被害者の人もこれをテレビで偶然見ることがあるのかも、って思うと、あまり悲惨なストーリーにしてもいけないな。」と。

はぁ~、その視点に気付くことができるなんて、鉄拳さんは成長の過程でじゅうぶんに“その人の身になって考える”トレーニングを積んできた人なんだなぁ、と思いました。

私がもし、このCMを依頼された人間だったら、と考えたとき(だからぁ。そんな可能性は1%もないんだってば。どうして自分をスターダムにのしあげようとする!)、私ならとにかく飲酒運転なんてする気にならないように、というドライバーを対象にしたストーリーしか思いもつかないだろうな。

それは結果とても悲惨なことになるんだってば、ということを訴えたほうがストレートでわかりやすいだろうな、とか。

それを鉄拳さんは「テレビっていうのは万人が、つい見ちゃうってこともあるわけだから、すでにそういう事故に遭った被害者の家族の方が見ることも考慮に入れなきゃ」と思ったわけですね。

すごいな~

こういう感覚は家でスマホばっかりいじってたりとかネットばかりにかじりついてゲームばっかりやってる、っていうような架空の人物としか顔を合わせないような生活をしているなかからは決して生まれないものだと思うんだよね。


生のライブ感。

オーラソーマのセッションも必ずフェイス・トゥ・フェイスで行われるようになっています。(※ ネット上である「オーラソーマ無料ミニ診断」というものは、あくまで“お試し”です。こんな感じで行われるんですよ~ということだけつかんでもらうための。)

それは、「ボトルは直接光を当てた色を生で見ないとそのエネルギーが伝わってこないから」と言われていて、私もずーっとそれが唯一で無二の理由だと思っていました。

けれど、結果的に、それだけではない、プラクティショナーとクライアントがふたりで顔を付き合わせて二人でつむいでいくストーリーはその瞬間にしか生まれないものだからなんだ、ということのほうが本当は大切なんじゃないか、という気がふとしました。






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