あるとき3歳と6か月の子どもを抱える友人がこんなことを言いました。
「2人目の子どもはほんとにおとなしくて楽だわ~と思っていた。
初めての子のときはほんとに癇性で気難しくて、なかなかニコニコと笑ってくれなくて・・
2人目の子どもは生後半年にして何て親思いなんだろうというほどただひたすらよく眠ってくれて、起きたときにもすぐに機嫌がいいし。
ところが、ところがね。
あるときふと思い立って、1人目の子どもが生まれてからずっと撮りだめてあったビデオを改めて先日見直してみたんだよね。
そうしたら、びっくり!
結構1人目の子どももニコニコ笑ってくれてるじゃないの。
あれ? この子、こんなに機嫌よく笑ってくれてるときあったっけ?ってぐらい。
あんまり2人目の子と変わらないなぁ、って改めてビデオを見ると思えてきて・・
びっくりしちゃった。」
彼女は右も左もわからない初めての出産と子育てのときには気持ちが張り詰めていて、子どもの一挙手一投足に必要以上に過敏に反応し、「この子は気難しい。大変手のかかる子だ。」と思い込んでいたのかもしれません。
そして2人目のときにはもう免疫もついているし、対処法もわかっているので気持ちにゆとりが生まれて、子どもが何をしてもたいていの場合は、「よしよし、この子はこの程度のむずがりで済んでくれて助かるわ。」と思っているだけで、実は初めての子のときも何ら変わりがない程度のものだったということなのかもしれません。
いずれにしても私はこの友人の話を聞いて、私たちが普段、どれだけ「事実」をゆがめて「記憶」しているのか、というのがとても面白いと思いました。
この友人の場合、ビデオに残っている記録が「事実」です。
そして彼女の頭の中にあったものが「記憶」です。
では、その「記憶」はいつ歪められたのか?
2人目の子が生まれてその子と1人目の子を比較した時点で生まれたものなのか?
彼女の話を聞いている限りそうではなくて、1人目の子どもの子育てをしている最中から「この子は気難しい。大変だ。」と思っていたわけですから、子どもを比較する前からのことです。
となると私たちは「記憶」が「記憶」となる以前から、すでに「事実」を捻じ曲げて見てしまうときがある、ということです。
いや、“見てしまうときがある”どころか、ほとんどがそうなのかもしれない。
そう思ったら、いったい「事実」ってなんなんだろう? ってすごく不思議に思えてきました。
よく「真実」を知りたい、と言います。
最近で言えばセウォル号のオーナーがすでに死んでいた、ということがわかった、なんてニュースで言っていますが、あの死体は本当にオーナーなの?
世間を納得させるためにもっと以前に亡くなっていたホームレスの死体を彼のDNAが検出された、とか言ってるだけじゃないの? なんて私たちは憶測します。
これがもし「真実」ならば(つまりすり替えのほうが真実ならば)、庶民の私たちに憶測や邪推が生まれた時点でこの「真実」は失敗だ、ということになりますよね。
でも逆に言えば、韓国の国民やセウォル号の遺族が「おぉ、そういうことだったか。」とすんなりと納得できるような巧妙な「作り話」が仕組めるのならば、「真実」なんて必要ない、彼らの「記憶」を作り上げるだけで十分じゃないか、という考え方も成り立ちます。(え~? そうなのか?)
私たちはどのみち「記憶」の中で生きているのだから、ということになりはすまいか。
第一、どの時点でどれが最も正しい「真実」だ、と誰が決めるのか?
その人が「これが真実だ。」と言った時点でそれがそもそもその人の記憶によってゆがめられているものなのかもしれない。
「真実は1つだけだ。」というけれど、ほんとうにそうなのか?
「こうだ、と思っていた。」という「記憶」のことを「真実」だ、と思って私たちは生活していることが多いのであれば、「記憶」とは過去の産物ですから、常に私たちは“今”を生きていないことになる。
「真実」を追求しようとする姿勢そのものを放棄しないと、“今”を生きていないことになるのではないか・・
私の友人の話で言えば、彼女は1人目の子育てをしているときに「この子は気難しい子だ。」と思っていたわけで、それは「記憶」ではありません。
その時点での彼女にとっての「真実」だったわけです。
それが2人目の子どもが生まれたことによって、それは「真実」ではなかった、ということになって塗り替えられた。
最初の時点での「真実」は、「間違っていた記憶」として葬り去られることになったわけです。
こうして私たちは次々に「真実」を「記憶」で塗り替えながら生きていくのでしょうか。
“今”を生きることなく・・
何だか考えていたらわけがわからなくなってしまいました。
こんなことを考えるのも、なぜか最近「グリーン」に惹かれることが多く、今塗っているボトルを塗り終えたら、今度はとにかく「グリーン」が入っているボトルを塗りたい、と思っているせいでしょうか。
たぶん、2,3か月ほど前に割れたB53「ヒラリオン」にしたいな、と気持ちが固まってきています。
そして、今はまだ塗っているボトルがあるので「ヒラリオン」はすぐに塗れない、というはやる気持ちを抑えるように、ポマンダーはエメラルドグリーンを、クイントエッセンスは「ジュワルクール」か「ヒラリオン」をやたらと使ってしまうのです。
そして何だか気持ちも「真実ってどういうことなんだろう?」といつもそのことに向いているような気がします。
だからかなぁ? ふとした何気ない友人の発言からもいろいろと考えちゃうのは。
グリーンと言う色はもともと好きな色なんです。
けれどなぜかボトルでグリーンが入ったものをそんなには選ばない。
ましてや上下ともグリーンとなるとなおさら。
それはなんだか複雑さがなくて(ということはつまり、ニュアンスというものを感じられないんですね。)、単純、単調な色に感じられてしまうから。
単純、単調と言うのは、ある意味、「真実」に最も近いのかもしれない。
また、そんなことを考え出す私です。
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