今から10年以上も前でしょうか、当時勤めていた名古屋の会社に「エホバの証人」を名乗る人があらわれ(最初からそう名乗られたわけではありませんでしたが)、「あの、よろしかったらこの冊子を読んでみて下さい。」と「目ざめよ!」と「ものみの塔」という2つの冊子を置いていかれました。
私は当時、「エホバの証人」という団体も知らず、それを単なる民間のサービスの読み物のたぐいと思い、「はぁい、ありがとうございます~」と受け取っていました。
1か月に1度くらいの頻度で現れたその婦人は、3回目か4回目になったときでしょうか、それまではただ「どうぞお読みください。」とだけ言って置いていかれたのが、「あの、読んでみてどうでしたか? 何かご質問とかはありませんか? 感想とか聞かせていただけたら嬉しいんですけれど・・」と消え入りそうな声でおっしゃいました。
私はそれまでにそれらの冊子を読んで、ごく常識的な道徳観念が書いてあるだけでなんの危険思想的なものも感じませんでしたし、このご婦人も控えめで物静かで上品な方だったため、率直に何か感想を言ったと思います。
それに気をよくされたのか、「では、これも読んでみて下さい。」「こちらもどうぞ。」と言って色んな本を持ってこられました。
そうして私と「エホバの証人」との付き合いが始まりました。
時々、私は彼らの教会にも行くようになりました。
けれど、そんな日々も長くは続きませんでした。
彼らの信仰には何もケチをつけるものがありませんでしたし、最初の老婦人の印象どおり、「エホバの証人」を名乗る方がたというのは、誰もかれも皆、控えめで良識的な方がたばかりでした。
でも私は彼らの中に居ることに息が詰まるようなものを感じ始めてしまったのです。
何が一番イヤだったか、と言うと・・・
彼らには「勉強会」というようなものがあります。(そういうネーミングではなかったと思いますが)
それは例えば月曜日の夜7時から○○さん宅で・・ 木曜日の夜7時からは△△さん宅で・・というように週に3回ほどはそんな集まりがあります。
それに出る出ないは自由と言いながらも、実際には「これ以上に優先されるようなことがあなたの生活にあるはずがない!」というような圧力があります。
それは例えば、
「××さんは、38度の熱があるにもかかわらず今日、この会に出てこられたのよ。どうしてもこの交わりには出ていたいって。」
と出てこない人を責めるのではなく、こんな思いをしてでも出てきている人がいるという人を褒めるという形での無言の圧力です。
そう言われたら、(38度以下の熱では来ないわけにはいかないな。)と同じ仲間の人なら思うことでしょう。
もう1つには、彼らは同じ洗礼を受けて「エホバの証人」となった人たち同士のことを「姉妹」「兄弟」と呼び合うのですが、その仲間同士のなかでしか、友人を作ろうとはしません。
あるとき、協会に行っていた私のことをどなたかが間違えて思わず、
「ねぇ、姉妹?」
と呼びかけてしまってから、あっ、しまった!という感じで口を抑え、
「間違えた、間違えた。ねぇ、森さん。(私の旧姓)」
と言い直されました。
それはまるでものすごい大罪を犯してしまったと言わんばかりでした。
別にわたしゃ、「姉妹」なんて呼びかけられたかったわけではありませんが、「この人をそんな風に呼んでしまった!」というそのときのその人の態度に、この団体の本質を見たような気がしました。
実際に私に最初に冊子を持ってきてくださった老婦人は、
「この集まりだけでも日常精一杯なのに、ほかの人と付き合っているヒマなんてない。」
と言い切っておられました。
そういう考え方そのものが一般人と「エホバの証人」との間にきっちりと線引きをするものだと思いました。
実際、この老婦人はそれ以外はとても良い方でしたし、会社の近くにお住まいでしたので、私は例えばときにはランチをともにしておしゃべりする、というような仲なら続けていきたいものだ、と思っていたくらいでした。
けれど、窮屈になった私がある日、
「あの、わたし、もうこうして勉強会に参加するのはやめようと思います。」
と告げたとたんに、風のように去って行きました。
はっきりと今後も「エホバの証人」になるつもりはない、と宣言した者と長くともに時間を過ごすヒマなんてない、と言わんばかりでした。
こういうところも私に「エホバの証人」ってなんだかなぁ・・と思わせる所以でした。
さて、こんな経緯があって私は彼らの冊子を受け取ると前と同じことが起こるだけだからと思って、それ以降は2度と受け取らないようにしてきました。
その会社をやめ、岐阜市の自宅でサロンを開き、今の場所に越してきて、という居住地が変わるたびに彼らは現れました。
けれど、私はそのたびにドアを開けなかったり、たまたま開けてしまったときでも、
「結構です。そういうものは受け取りません。」
と言ってきたのに、ついこのあいだ思わず受け取ってしまいました。
こういうのって、タイミングとかそのときの渡す側の人のちょっとした雰囲気とかで左右されてしまうんですよねぇ。
そのときの「エホバの証人」の人は、中高生くらいの若い男の子でした。
ピンポーンとチャイムが鳴って思わず勢いよく「はぁ~い!」と言いながらドアを開けてしまうと、拒否されることがあるなんて考えもしなかったという素直でまっすぐなその子からの申し出に思わず受け取ってしまったのでした。
こういうときにはきっと向こうの波長と受け取る側の私の波長も何かしらで合っていたということもあるんでしょうねぇ。
不思議なものです。
何年もずっと拒否してきたのに、受け取ったときには実にあっさりと受け取ってしまいました。
そうしたら今度はもう少し年かさの女性があらわれました。(といっても30代か40そこそこ位の感じの)
「先日は受け取っていただき、ありがとうございました。彼から自分よりは年上の女性だったと聞いたものですから、私の方が何かと話しやすいかな、と思いまして。」
とその方はおっしゃいました。
私は正直に以前のいきさつを話し、「聖書に書いてあることにケチをつけるつもりはないし、批判するつもりもないし、むしろ日常生活に役立つ良いことが書いてある冊子を下さり、ありがたいと思っている。けれども、そのときもそうだったが私は2度とあなたたちの仲間に入ることはないと思うし、これからもその意志は固い。」というようなことを述べました。
その女性は「そんなことは全然かまわないんですよ。」と言いながら「また来ます。今日はちょっとこのあたりを通りかかったので。」と言って帰って行かれました。
すると後日、「聖書は実際に何を教えていますか?」という雑誌が投げ込まれていました。
「お留守のようでしたので雑誌だけ入れておきます。どうぞお読みください。」というメモとともに。
今のところはそんな流れです。
先ほども書いたように、私は以前にも増して彼らの仲間に入ることはない、と断言できます。
むしろ以前のときのほうが、人生に迷っているときではありました。
なにかしらに救いを求めたい、この悶々とした毎日が晴れやかに感じられるような心持ちになれば、という思いでいたことは確かです。
そういう心の状態にすっと入りこまれたという感じはあります。
でも今はオーラソーマを始めとし、当時よりスピリチュアルなことや天のことについても多少は学びました。
自分のなかで折り合いはついています。
別に今以上に心が晴れやかになれば、とは思っていませんし、世の中を憂えてもいません。
だから動機そのものがない、ってこともあります。
けれども、どうしてこのタイミングでまた私は再び彼らの冊子をふっと受け取ってしまったかなぁ、とは思います。
先日のチャクラ開きもそうでしたが、何かしら私は今、外的な申し出に対してオープンな状態になっているんだろうか、とは思います。
自分で自分がこれからどうなるのか、これが自分の人生にとって何か大きな意味があることだったのか、見守りたいようなちょっと不思議な気持ちでいます。
私がもし次にその「エホバの証人」の女性に会ったら、聞いてみたいことがあります。
それは、
「どうしてあなた方は聖書を“絶対的なもの”としているのですか?」
という質問です。
聖書という書物はたしか44人の人間が何百年にもわたって神からの啓示を受けたり、手紙という形式で誰かに伝えなければ、といって書き残して行ったものを1冊の本にまとめたものです。
神が人間を使ってそれをさせたのだ、というわけです。
神が全能であるなら、自分の考えをどうしても人間に言葉というものを使って残したいと思ったなら、その能力を使ってあっという間にこの世にそれを誕生させれば済んだことだと思います。
それをわざわざ人間の手によって、というワンクッション置いたのはなぜなのか?
それは私には、「人間に自由選択の意思をお与えになった」ことに尽きる、という気がするのです。
人の手によって書かれたものだから、不備が生じることもあるだろう。
人の手によって書かれたものだから、それをやはり同じ人間が読んだときには信じる者も信じない者もあらわれるだろう。
読んだ人間がその自分の解釈によって勝手に受け取ることもあるだろう。
それらが生じることを承知のうえで神は、それをこそ「よし」としたからあえて人の手によって書き継がれるものとして聖書をこの世に誕生させたのだ、と思えるのです。
よく「ノストラダムスの予言」についてあれは当たったか、当たらなかったかは解釈しだいだ、と言います。
比喩が多くてどのようにでも受け取れる表現ばかりだからです。
そして聖書をノストラダムスの予言と同じレベルに引きずり出してきてはいけないのかもしれませんが、やはり人の手というワンクッションを置いている限りは聖書もそんな部分があってもおかしくはないだろうと思うわけです。
であれば、それを“絶対視”して、何が何でも聖書に書いてあるとおりに生きなくては、と思うのは自らの可能性を狭めているだけのように私には思えるのですよねぇ。
ううん、たとえ神が直接書いたものだとしても、別のカタチで神が「お前たちには自由意思をいうものをせっかく授けてやったのだから、なんでも自由に選択して行動していいのだよ。」という証拠をどこかに刻み付けていてくれたとしたら、やっぱり聖書の通りに自分を汲々と追い込んでいく必要もないだろうと思います。
もちろん、「エホバの証人」の人たちは、これこそが自分たちの自由意思なのだ、聖書に添ってその通りに生きていくことを何の窮屈にも感じていない、とおっしゃるでしょうけれども。
なにしろ、彼らはもともと確か「聖書の証人」とか「流布人」とか何だっけかな? 要するに聖書に書いてあることだけが信じるに足ることですよ、というネーミングだったほどに聖書こそ真理であり、聖書に基づいて自らの生活をただしていくことを信条としているからです。
以前に老婦人に
「どうしてこんな一軒、一軒の家を訪ね歩くという効率の悪いことをしているのですか? もっと駅前でチラシを配るとか演説するとかしたほうが早いのに。」
と言ったことがあります。
そのときの老婦人の答えは、
「布教活動は口伝えによってしかしてはいけない、って聖書に書いてあるから。」
でした。
それがどんな言い回しで書いてあるのかは知りませんが、最近新たに冊子を受け取ったとき、ウェブサイトでもこれらの記事が読めることを知りました。
いつから行っているかわかりませんが、これは明らかにインターネットの発達によって近年行われていることに違いありません。
これは口伝えによる布教活動ではないのか?という議論がきっと「エホバの証人」の中でも喧々諤々となされたに違いないなぁ、と思って思わず私はふっと笑みがこぼれました。
そうだよ。
こんな風に私たちは一番良い方法を模索しながら現代の私たちの生活にあてはめて聖書のなかの言葉をこう受け取ってもいいんだよ、と拡大解釈していけばいいじゃないか、やってんじゃん、と思ったからです。
そんな部分もあり、彼らが少しずつではあるけれども、変って行っているのかな、とも思いました。
私に最初に聖書を紹介してくれた老婦人に、
「あなたはどうしてエホバの証人となったのですか?」
と尋ねたとき、彼女は、
「聖書に書かれている預言がすべて本当に当たっていると証明されていることがいくつもあるから。」
と言いました。
私はその言葉を聞いたとき、なんとなくがっかりしました。
それは、「この人は私にお金をくれるから好き」と言っているようなレベルの話となんら変わりないという気がしたからです。
自分の生活をすべてそれにのっとって生きていくことに定める、というには相当の覚悟がないとできないことでしょう。
それがそんなことでいいの?と思いました。
エホバの証人の人たちの間でも個人差があることでしょう。
だから私は必ずやまた訪れるであろう女性に同じ質問を投げかけてみたいと思っています。
「なぜあなたは神が自由意思を授けてくれたにもかかわらず、そんなにも聖書を絶対視しているのですか?」と。
はぁ~んという答えをくれたら、またこのブログで紹介したいと思います。
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<新メニュー登場!>オーラソーマ&魂の解放ワーク ――――――――――――――――――――――――――――――――――
オーラソーマセッション 70分+ 魂の解放ワーク 30分 =100分
☆ボトルなし → ¥ 9800
☆ボトルあり(50ml)→ ¥12800
オーラソーマのセッションと表現アートセラピーでのヒーリングを組み合わせた些々羅オリジナルのセラピーです。
オーラソーマでボトルを選びセッションで明らかになった今の自分のテーマについて、魂の解放ワークでさらにそれを掘り下げます。
★「魂の解放ワーク」とは?
パステルアート、表現アートセラピーなど五感を刺激するあらゆる手法を使ってその日のテーマをより深く掘り下げます。
たとえば・・
*自分の記憶につながる香りを作る。
*ゲシュタルト療法における「椅子のワーク」を行う。
*童心にかえって楽器をかきならす
*瞑想する。
*絵を描く。
*自分の感情、気分、これまでの人生を体で表現する。
※クライアント様がワークを指定することはできません。
こちらで最善と思われるワークを選択、構築させていただきます。
リピート特典あり (※3か月以内に2回目を受けられる方は¥1000OFF)
¥9800 → ¥8800
¥12800 → ¥11800
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<ワークショップ>
春のぴーちゃん祭り ご案内
恒例となりました、「春のぴーちゃん祭り」の企画です。
この春もオン・ゴーイング・エデュケーション・ディではなく、純粋にぴーちゃんの温か
い人柄に触れて、ハートフルな時間を共有しようというワークショップです。(とはいっても、ぴーちゃんといえばオーラソーマ、ヴィッキーのスピリットが根幹に流れたキラキラな毎日になります。)
オーラソーマに馴染んでいらっしゃる方もそうでない方もすぐにその場で打ち解けま
すよん。どうぞこぞってご参加を!
日にち:5月20日(水)、21日(木)、22日(金)
※1日だけの参加でも、2日でもOK
場 所:京都伏見区「aura-soma salon rubby」
※京都南ICより約10分、地下鉄/近鉄 竹田駅よりタクシー約10分
時 間:3日間とも 10:00~16:30 予定
参加費:1日参加の場合 ¥12000
2日参加の場合 ¥23000
3日間連続参加 ¥30000 というキラッキラ価格
※しかも! 上記金額には、すべての日にrubbyさんお手製のモーニング、ランチ、ティータイム、さらに!&ワークで作るアーティフィシャルフラワーのプチアレンジメント、ぴーちゃんポマンダー(手作りハーブエリクサー)、自分の星座アロマアトマイザー付 で~す!
お申込み・お問い合わせは、京都rubbyさんまでお願いいたします。
ayachan@@japan.interq.or.jp
@を1つ外してメールしてくださいね。
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<各日詳細スケジュール>
5月20日水曜日&5月22日金曜の両日は、
ぴーちゃんとフラワーな時間を♪デーです。
午前中は、まずは、モーニングタイム
~ぴーちゃんと一緒に自然の中で溶け合いましょう~
ぴーちゃんと一緒に桂川のほとりを散策します。
ぴーちゃんが自然と出会うと何かが起こる・・・
サロンに戻って、ぴーちゃんが、参加者のみなさんが当日1本選んだボトルの
ワンボトルセッションをしてくれますよ!
昼食 は、京都・美山の京野菜を使ったヴィーガン料理とアラカルトのブッフェ形式のランチを用意しています。
午後からは、ご自身が選んだボトルをイメージしたプチアレンジメントを
アーティシャルフラワーを使って作ります、
完成したプチアレンジメントを囲んで、
2年前の2013年5月にぴーちゃんが作った熟成(笑)ポマンダーを使って瞑想タイム。
アフヌーンティタイムもアリマス
21日(木曜日)
午前中は、まずは、モーニングタイム
~ぴーちゃんと一緒に自然の中で溶け合いましょう~パートⅡ
ぴーちゃんと一緒に桂川のほとりを散策します。
ぴーちゃんと自然のなかで感じましょう。
サロンに戻って、ぴーちゃんが、参加者のみなさんでが当日1本選んだボトルのワンボトルセッションをしてくれちゃいますよ!
午後からは岐阜の些々羅のティーチャー坪内恵津子先生とのコラボレーションワーク
「自分の星座のアロマオイルを使って、オリジナルアロマオーデコロンを創ろう! 」
私たちは生まれたときの惑星によって影響を受けています。その影響力をポジティブに花開かせるアロマオイルを使って、オリジナルの香水をつくります。
星座ボトルのプチ解説つき♡
お待ちかねのアフヌーンティタイム
連日、夜は懇親会 春の京都を感じるお料理を用意しています。
外れなしの抽選会つきで、 3500円
ぴーちゃんの泣いて笑ってのコンサルテーションの枠の予約も受け付けています。
50分 50㎜のボトルのプレセント付き12000円
現在、枠を調整中ですのでまずはご希望の日時を第二希望までお知らせください。
5月19日 18時~ 19時~
5月20日 17時~
5月21日 17時~
5月22日 17時~
ayachan@@japan.interq.or.jp
@をひとつ外して送信してくださいね。
沢山の方がぴーちゃんに会えて、ハッピィになれますように
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★オーラソーマセッションご希望の方・営業案内は、
ブログ左端の「ブックマーク」にあります、「オーラソーマヒーリングサロン些々羅」
をクリックしてください。
アドレスからの検索はこちら。
→http://blog.goo.ne.jp/chawan1963
※ページから直接「予約フォーム」に入れます。
★表現アートセラピー、パステルアートのワークショップなどそれ以外の情報・HPは、
→http://sasara.info
★アニマルコミュニケーション関係は、
ブログ左端の「ブックマーク」にあります、「アニマルパートナーの言霊」を
クリックしてください。
アドレスからの検索はこちら。
→http://blog.goo.ne.jp/chawan9015
★全国一律1品から送料無料
お支払いの方法は振り込みです。
振込先はゆうちょ銀行と普通銀行があります。
ゆうちょ銀行に口座をお持ちの方であれば振込手数料は発生しません
が、それ以外は振込手数料が発生することをご了承ください。
製品の大きさによって通常郵便か宅配便を利用するかはこちらで
決めさせていただきます。ご指定はできない場合がありますので、
ご了承ください。
すべて、お問い合わせは
chakra@aura-soma.name
までお気軽にどうぞ!
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私は当時、「エホバの証人」という団体も知らず、それを単なる民間のサービスの読み物のたぐいと思い、「はぁい、ありがとうございます~」と受け取っていました。
1か月に1度くらいの頻度で現れたその婦人は、3回目か4回目になったときでしょうか、それまではただ「どうぞお読みください。」とだけ言って置いていかれたのが、「あの、読んでみてどうでしたか? 何かご質問とかはありませんか? 感想とか聞かせていただけたら嬉しいんですけれど・・」と消え入りそうな声でおっしゃいました。
私はそれまでにそれらの冊子を読んで、ごく常識的な道徳観念が書いてあるだけでなんの危険思想的なものも感じませんでしたし、このご婦人も控えめで物静かで上品な方だったため、率直に何か感想を言ったと思います。
それに気をよくされたのか、「では、これも読んでみて下さい。」「こちらもどうぞ。」と言って色んな本を持ってこられました。
そうして私と「エホバの証人」との付き合いが始まりました。
時々、私は彼らの教会にも行くようになりました。
けれど、そんな日々も長くは続きませんでした。
彼らの信仰には何もケチをつけるものがありませんでしたし、最初の老婦人の印象どおり、「エホバの証人」を名乗る方がたというのは、誰もかれも皆、控えめで良識的な方がたばかりでした。
でも私は彼らの中に居ることに息が詰まるようなものを感じ始めてしまったのです。
何が一番イヤだったか、と言うと・・・
彼らには「勉強会」というようなものがあります。(そういうネーミングではなかったと思いますが)
それは例えば月曜日の夜7時から○○さん宅で・・ 木曜日の夜7時からは△△さん宅で・・というように週に3回ほどはそんな集まりがあります。
それに出る出ないは自由と言いながらも、実際には「これ以上に優先されるようなことがあなたの生活にあるはずがない!」というような圧力があります。
それは例えば、
「××さんは、38度の熱があるにもかかわらず今日、この会に出てこられたのよ。どうしてもこの交わりには出ていたいって。」
と出てこない人を責めるのではなく、こんな思いをしてでも出てきている人がいるという人を褒めるという形での無言の圧力です。
そう言われたら、(38度以下の熱では来ないわけにはいかないな。)と同じ仲間の人なら思うことでしょう。
もう1つには、彼らは同じ洗礼を受けて「エホバの証人」となった人たち同士のことを「姉妹」「兄弟」と呼び合うのですが、その仲間同士のなかでしか、友人を作ろうとはしません。
あるとき、協会に行っていた私のことをどなたかが間違えて思わず、
「ねぇ、姉妹?」
と呼びかけてしまってから、あっ、しまった!という感じで口を抑え、
「間違えた、間違えた。ねぇ、森さん。(私の旧姓)」
と言い直されました。
それはまるでものすごい大罪を犯してしまったと言わんばかりでした。
別にわたしゃ、「姉妹」なんて呼びかけられたかったわけではありませんが、「この人をそんな風に呼んでしまった!」というそのときのその人の態度に、この団体の本質を見たような気がしました。
実際に私に最初に冊子を持ってきてくださった老婦人は、
「この集まりだけでも日常精一杯なのに、ほかの人と付き合っているヒマなんてない。」
と言い切っておられました。
そういう考え方そのものが一般人と「エホバの証人」との間にきっちりと線引きをするものだと思いました。
実際、この老婦人はそれ以外はとても良い方でしたし、会社の近くにお住まいでしたので、私は例えばときにはランチをともにしておしゃべりする、というような仲なら続けていきたいものだ、と思っていたくらいでした。
けれど、窮屈になった私がある日、
「あの、わたし、もうこうして勉強会に参加するのはやめようと思います。」
と告げたとたんに、風のように去って行きました。
はっきりと今後も「エホバの証人」になるつもりはない、と宣言した者と長くともに時間を過ごすヒマなんてない、と言わんばかりでした。
こういうところも私に「エホバの証人」ってなんだかなぁ・・と思わせる所以でした。
さて、こんな経緯があって私は彼らの冊子を受け取ると前と同じことが起こるだけだからと思って、それ以降は2度と受け取らないようにしてきました。
その会社をやめ、岐阜市の自宅でサロンを開き、今の場所に越してきて、という居住地が変わるたびに彼らは現れました。
けれど、私はそのたびにドアを開けなかったり、たまたま開けてしまったときでも、
「結構です。そういうものは受け取りません。」
と言ってきたのに、ついこのあいだ思わず受け取ってしまいました。
こういうのって、タイミングとかそのときの渡す側の人のちょっとした雰囲気とかで左右されてしまうんですよねぇ。
そのときの「エホバの証人」の人は、中高生くらいの若い男の子でした。
ピンポーンとチャイムが鳴って思わず勢いよく「はぁ~い!」と言いながらドアを開けてしまうと、拒否されることがあるなんて考えもしなかったという素直でまっすぐなその子からの申し出に思わず受け取ってしまったのでした。
こういうときにはきっと向こうの波長と受け取る側の私の波長も何かしらで合っていたということもあるんでしょうねぇ。
不思議なものです。
何年もずっと拒否してきたのに、受け取ったときには実にあっさりと受け取ってしまいました。
そうしたら今度はもう少し年かさの女性があらわれました。(といっても30代か40そこそこ位の感じの)
「先日は受け取っていただき、ありがとうございました。彼から自分よりは年上の女性だったと聞いたものですから、私の方が何かと話しやすいかな、と思いまして。」
とその方はおっしゃいました。
私は正直に以前のいきさつを話し、「聖書に書いてあることにケチをつけるつもりはないし、批判するつもりもないし、むしろ日常生活に役立つ良いことが書いてある冊子を下さり、ありがたいと思っている。けれども、そのときもそうだったが私は2度とあなたたちの仲間に入ることはないと思うし、これからもその意志は固い。」というようなことを述べました。
その女性は「そんなことは全然かまわないんですよ。」と言いながら「また来ます。今日はちょっとこのあたりを通りかかったので。」と言って帰って行かれました。
すると後日、「聖書は実際に何を教えていますか?」という雑誌が投げ込まれていました。
「お留守のようでしたので雑誌だけ入れておきます。どうぞお読みください。」というメモとともに。
今のところはそんな流れです。
先ほども書いたように、私は以前にも増して彼らの仲間に入ることはない、と断言できます。
むしろ以前のときのほうが、人生に迷っているときではありました。
なにかしらに救いを求めたい、この悶々とした毎日が晴れやかに感じられるような心持ちになれば、という思いでいたことは確かです。
そういう心の状態にすっと入りこまれたという感じはあります。
でも今はオーラソーマを始めとし、当時よりスピリチュアルなことや天のことについても多少は学びました。
自分のなかで折り合いはついています。
別に今以上に心が晴れやかになれば、とは思っていませんし、世の中を憂えてもいません。
だから動機そのものがない、ってこともあります。
けれども、どうしてこのタイミングでまた私は再び彼らの冊子をふっと受け取ってしまったかなぁ、とは思います。
先日のチャクラ開きもそうでしたが、何かしら私は今、外的な申し出に対してオープンな状態になっているんだろうか、とは思います。
自分で自分がこれからどうなるのか、これが自分の人生にとって何か大きな意味があることだったのか、見守りたいようなちょっと不思議な気持ちでいます。
私がもし次にその「エホバの証人」の女性に会ったら、聞いてみたいことがあります。
それは、
「どうしてあなた方は聖書を“絶対的なもの”としているのですか?」
という質問です。
聖書という書物はたしか44人の人間が何百年にもわたって神からの啓示を受けたり、手紙という形式で誰かに伝えなければ、といって書き残して行ったものを1冊の本にまとめたものです。
神が人間を使ってそれをさせたのだ、というわけです。
神が全能であるなら、自分の考えをどうしても人間に言葉というものを使って残したいと思ったなら、その能力を使ってあっという間にこの世にそれを誕生させれば済んだことだと思います。
それをわざわざ人間の手によって、というワンクッション置いたのはなぜなのか?
それは私には、「人間に自由選択の意思をお与えになった」ことに尽きる、という気がするのです。
人の手によって書かれたものだから、不備が生じることもあるだろう。
人の手によって書かれたものだから、それをやはり同じ人間が読んだときには信じる者も信じない者もあらわれるだろう。
読んだ人間がその自分の解釈によって勝手に受け取ることもあるだろう。
それらが生じることを承知のうえで神は、それをこそ「よし」としたからあえて人の手によって書き継がれるものとして聖書をこの世に誕生させたのだ、と思えるのです。
よく「ノストラダムスの予言」についてあれは当たったか、当たらなかったかは解釈しだいだ、と言います。
比喩が多くてどのようにでも受け取れる表現ばかりだからです。
そして聖書をノストラダムスの予言と同じレベルに引きずり出してきてはいけないのかもしれませんが、やはり人の手というワンクッションを置いている限りは聖書もそんな部分があってもおかしくはないだろうと思うわけです。
であれば、それを“絶対視”して、何が何でも聖書に書いてあるとおりに生きなくては、と思うのは自らの可能性を狭めているだけのように私には思えるのですよねぇ。
ううん、たとえ神が直接書いたものだとしても、別のカタチで神が「お前たちには自由意思をいうものをせっかく授けてやったのだから、なんでも自由に選択して行動していいのだよ。」という証拠をどこかに刻み付けていてくれたとしたら、やっぱり聖書の通りに自分を汲々と追い込んでいく必要もないだろうと思います。
もちろん、「エホバの証人」の人たちは、これこそが自分たちの自由意思なのだ、聖書に添ってその通りに生きていくことを何の窮屈にも感じていない、とおっしゃるでしょうけれども。
なにしろ、彼らはもともと確か「聖書の証人」とか「流布人」とか何だっけかな? 要するに聖書に書いてあることだけが信じるに足ることですよ、というネーミングだったほどに聖書こそ真理であり、聖書に基づいて自らの生活をただしていくことを信条としているからです。
以前に老婦人に
「どうしてこんな一軒、一軒の家を訪ね歩くという効率の悪いことをしているのですか? もっと駅前でチラシを配るとか演説するとかしたほうが早いのに。」
と言ったことがあります。
そのときの老婦人の答えは、
「布教活動は口伝えによってしかしてはいけない、って聖書に書いてあるから。」
でした。
それがどんな言い回しで書いてあるのかは知りませんが、最近新たに冊子を受け取ったとき、ウェブサイトでもこれらの記事が読めることを知りました。
いつから行っているかわかりませんが、これは明らかにインターネットの発達によって近年行われていることに違いありません。
これは口伝えによる布教活動ではないのか?という議論がきっと「エホバの証人」の中でも喧々諤々となされたに違いないなぁ、と思って思わず私はふっと笑みがこぼれました。
そうだよ。
こんな風に私たちは一番良い方法を模索しながら現代の私たちの生活にあてはめて聖書のなかの言葉をこう受け取ってもいいんだよ、と拡大解釈していけばいいじゃないか、やってんじゃん、と思ったからです。
そんな部分もあり、彼らが少しずつではあるけれども、変って行っているのかな、とも思いました。
私に最初に聖書を紹介してくれた老婦人に、
「あなたはどうしてエホバの証人となったのですか?」
と尋ねたとき、彼女は、
「聖書に書かれている預言がすべて本当に当たっていると証明されていることがいくつもあるから。」
と言いました。
私はその言葉を聞いたとき、なんとなくがっかりしました。
それは、「この人は私にお金をくれるから好き」と言っているようなレベルの話となんら変わりないという気がしたからです。
自分の生活をすべてそれにのっとって生きていくことに定める、というには相当の覚悟がないとできないことでしょう。
それがそんなことでいいの?と思いました。
エホバの証人の人たちの間でも個人差があることでしょう。
だから私は必ずやまた訪れるであろう女性に同じ質問を投げかけてみたいと思っています。
「なぜあなたは神が自由意思を授けてくれたにもかかわらず、そんなにも聖書を絶対視しているのですか?」と。
はぁ~んという答えをくれたら、またこのブログで紹介したいと思います。
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<新メニュー登場!>オーラソーマ&魂の解放ワーク ――――――――――――――――――――――――――――――――――
オーラソーマセッション 70分+ 魂の解放ワーク 30分 =100分
☆ボトルなし → ¥ 9800
☆ボトルあり(50ml)→ ¥12800
オーラソーマのセッションと表現アートセラピーでのヒーリングを組み合わせた些々羅オリジナルのセラピーです。
オーラソーマでボトルを選びセッションで明らかになった今の自分のテーマについて、魂の解放ワークでさらにそれを掘り下げます。
★「魂の解放ワーク」とは?
パステルアート、表現アートセラピーなど五感を刺激するあらゆる手法を使ってその日のテーマをより深く掘り下げます。
たとえば・・
*自分の記憶につながる香りを作る。
*ゲシュタルト療法における「椅子のワーク」を行う。
*童心にかえって楽器をかきならす
*瞑想する。
*絵を描く。
*自分の感情、気分、これまでの人生を体で表現する。
※クライアント様がワークを指定することはできません。
こちらで最善と思われるワークを選択、構築させていただきます。
リピート特典あり (※3か月以内に2回目を受けられる方は¥1000OFF)
¥9800 → ¥8800
¥12800 → ¥11800
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<ワークショップ>
春のぴーちゃん祭り ご案内
恒例となりました、「春のぴーちゃん祭り」の企画です。
この春もオン・ゴーイング・エデュケーション・ディではなく、純粋にぴーちゃんの温か
い人柄に触れて、ハートフルな時間を共有しようというワークショップです。(とはいっても、ぴーちゃんといえばオーラソーマ、ヴィッキーのスピリットが根幹に流れたキラキラな毎日になります。)
オーラソーマに馴染んでいらっしゃる方もそうでない方もすぐにその場で打ち解けま
すよん。どうぞこぞってご参加を!
日にち:5月20日(水)、21日(木)、22日(金)
※1日だけの参加でも、2日でもOK
場 所:京都伏見区「aura-soma salon rubby」
※京都南ICより約10分、地下鉄/近鉄 竹田駅よりタクシー約10分
時 間:3日間とも 10:00~16:30 予定
参加費:1日参加の場合 ¥12000
2日参加の場合 ¥23000
3日間連続参加 ¥30000 というキラッキラ価格
※しかも! 上記金額には、すべての日にrubbyさんお手製のモーニング、ランチ、ティータイム、さらに!&ワークで作るアーティフィシャルフラワーのプチアレンジメント、ぴーちゃんポマンダー(手作りハーブエリクサー)、自分の星座アロマアトマイザー付 で~す!
お申込み・お問い合わせは、京都rubbyさんまでお願いいたします。
ayachan@@japan.interq.or.jp
@を1つ外してメールしてくださいね。
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<各日詳細スケジュール>
5月20日水曜日&5月22日金曜の両日は、
ぴーちゃんとフラワーな時間を♪デーです。
午前中は、まずは、モーニングタイム
~ぴーちゃんと一緒に自然の中で溶け合いましょう~
ぴーちゃんと一緒に桂川のほとりを散策します。
ぴーちゃんが自然と出会うと何かが起こる・・・
サロンに戻って、ぴーちゃんが、参加者のみなさんが当日1本選んだボトルの
ワンボトルセッションをしてくれますよ!
昼食 は、京都・美山の京野菜を使ったヴィーガン料理とアラカルトのブッフェ形式のランチを用意しています。
午後からは、ご自身が選んだボトルをイメージしたプチアレンジメントを
アーティシャルフラワーを使って作ります、
完成したプチアレンジメントを囲んで、
2年前の2013年5月にぴーちゃんが作った熟成(笑)ポマンダーを使って瞑想タイム。
アフヌーンティタイムもアリマス
21日(木曜日)
午前中は、まずは、モーニングタイム
~ぴーちゃんと一緒に自然の中で溶け合いましょう~パートⅡ
ぴーちゃんと一緒に桂川のほとりを散策します。
ぴーちゃんと自然のなかで感じましょう。
サロンに戻って、ぴーちゃんが、参加者のみなさんでが当日1本選んだボトルのワンボトルセッションをしてくれちゃいますよ!
午後からは岐阜の些々羅のティーチャー坪内恵津子先生とのコラボレーションワーク
「自分の星座のアロマオイルを使って、オリジナルアロマオーデコロンを創ろう! 」
私たちは生まれたときの惑星によって影響を受けています。その影響力をポジティブに花開かせるアロマオイルを使って、オリジナルの香水をつくります。
星座ボトルのプチ解説つき♡
お待ちかねのアフヌーンティタイム
連日、夜は懇親会 春の京都を感じるお料理を用意しています。
外れなしの抽選会つきで、 3500円
ぴーちゃんの泣いて笑ってのコンサルテーションの枠の予約も受け付けています。
50分 50㎜のボトルのプレセント付き12000円
現在、枠を調整中ですのでまずはご希望の日時を第二希望までお知らせください。
5月19日 18時~ 19時~
5月20日 17時~
5月21日 17時~
5月22日 17時~
ayachan@@japan.interq.or.jp
@をひとつ外して送信してくださいね。
沢山の方がぴーちゃんに会えて、ハッピィになれますように
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★オーラソーマセッションご希望の方・営業案内は、
ブログ左端の「ブックマーク」にあります、「オーラソーマヒーリングサロン些々羅」
をクリックしてください。
アドレスからの検索はこちら。
→http://blog.goo.ne.jp/chawan1963
※ページから直接「予約フォーム」に入れます。
★表現アートセラピー、パステルアートのワークショップなどそれ以外の情報・HPは、
→http://sasara.info
★アニマルコミュニケーション関係は、
ブログ左端の「ブックマーク」にあります、「アニマルパートナーの言霊」を
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アドレスからの検索はこちら。
→http://blog.goo.ne.jp/chawan9015
★全国一律1品から送料無料
お支払いの方法は振り込みです。
振込先はゆうちょ銀行と普通銀行があります。
ゆうちょ銀行に口座をお持ちの方であれば振込手数料は発生しません
が、それ以外は振込手数料が発生することをご了承ください。
製品の大きさによって通常郵便か宅配便を利用するかはこちらで
決めさせていただきます。ご指定はできない場合がありますので、
ご了承ください。
すべて、お問い合わせは
chakra@aura-soma.name
までお気軽にどうぞ!
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