ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

来年の私をタロットで占ってもらいました

2011-12-31 09:03:00 | 身辺雑事

いよいよ今年も余すところ本日のみとなりました。

大震災から9ヵ月半。

「まだそれだけしか経ってない?」という気もすれば、「もうそんなに経ったっけ。」という気もします。

どちらも当てはまる感じ。変な感覚。

そして、何があっても時というのは平等に同じスピードで流れて行くんですね。

さて、年末にご縁をいただいたある方に、タロットで来年の私を占ってもらいました。

その方はタロット占いを本業にされているわけではありません。

ほかの方もまじえて話していたところ、「なんか今、悩みってありますか?」という話になり、私が、

「う~ん、・・・・・って考え込むってこと自体、ないってことなのかなぁ。」と言ったあと、

「ま、あえていえばお金に事欠いてる、ってコトですかね。」と言うと、

「わかった。それで見てみる。」とすぐにタロットを取り出したのでした。

そして出た結果は・・・

「う~ん、確かにお金には事欠くみたいですね。」

やっぱりねぇ。わかっていることとはいえ、がっくし。

「しかもね、それはすぐに返って来る、ということはない。結構、回収にはかかるみたいですね。」

さらに、がっくし。

「そして、ことお金に関しては、協力者が非常に少ない。つまり、それ、出してあげるからいいよ、とか申し出るような人がいない、ってことね。何でも自分で切り開いていかなきゃいけないみたい。」

わかってるけど、さらに、さらにがっくし。

オーラソーマもタロットとは関係していて、オーラソーマタロットにはある程度精通しているけれど、普通のタロットについては全く占い方も見方も知りません。

だから、自分が聞いた質問に対して「あ~、ハングマンが出てる。」「マジシャンが出てる。」とかはわかっても、占っている方がそれをどう意味づけて紐解いているのかは、全然わかりません。


でも、ずいぶん前から半年以内くらいのスパンのことなら、タロットが一番当たるって聞いたことあります。

だから、ほんと、この通りになるんだろうなぁ~と思うとさらにさらにさらに何だか肩の辺りが重くなるようでした。

その方がおっしゃいました。

「でもね、その道に進むことそのものは、すごく合ってる。ばっちり合ってる。だからやればいいと思うんだ。やれば、その世界ではナンバー1になれるって出てるよ。そもそも、その道に進むのももうやめたほうがいいっていうほどお金に事欠くなら、合ってる、なんていうふうには出ないものだと思うし。」と。


合うも合わないも、自分でもう進むって決めている道だからやりますけどね~

でもそれでナンバー1っていうのはどうかなぁ。

どういうことをナンバー1って決めるのか、っていうのを自分にとって良いように解釈すればいっかぁ。


そして、その方がさらにおっしゃいました。

「前途多難ってことを言ったみたいに聞こえるかもしれないけど、私なら今の話、ばっちりだね、って喜ぶわ。」

なぜ彼女がそう言うのか、私にはよくわかりました。

なぜなら、こうしてタロットで占ってあげようか、という話になる前に、みんなでお金の話をしていたときにも、その方がおっしゃったのです。

「でもね、世の中にはいろんな悩みがあるけれど、お金がない、っていう悩みが私は一番簡単なことだと思うよ。だって、“ない”ものは“ある”ように頑張ればいいんだもん。でも、“ある”ものを“ない”ようには出来ないなかで、“ある”悩みのほうが大変だって思うな。」と。


その方もなかなかにいろんな経験をなさってきた方なので、その言葉には重みがありました。

そして私は、B33「ドルフィンボトル」にまつわる釈迦の言葉を思い出しました。

「人間の悩みには3つしかない。1つは、手に入らないものがある、という悩み。2つめには、欲しくもないものが手に入ってしまった、という悩み。そして3つめは、手に入ってしまったものが、欲しかったものなのかそうでないのかがわからない、という悩み。」というやつです。

これもほんとに深い言葉ですよね。

ま、こういう話をしたあとの「来年1年は、出て行くお金が多くて確かに大変で、それに対する協力者もいないよ。」という見立ては、がっくしは来ましたが、まぁ、さほど深刻なものでもなく、そうだろうなぁ~と薄々自分でもわかっていたことがはっきり出ちゃったよ、という程度のものでした。

それでもやっぱり気持ちは重いのです。

わかっていることで、どうしてこう気持ちが重くなるのか・・・?

私はもう一度、それがどこから来ているものなのか、きちんと見つめてみることにしました。

来年ティーチャーズコースにかかるお金そのものは、貯金を取り崩すことになるけれど、それですぐに明日のお米にも困ります、ってわけでもない。

それなのにどうして私は気持ちが重くなるのだ?

よぉくそのへんを考えてみると、私の気持ちの重さ、暗さ、というものは、お金そのものの多寡ではない、ということがわかってきました。


問題は、それだけの投資をするのにもかかわらず、ティーチャーになったらすぐに見返りが見込めるというものではない、というところにありました。

いいや、すぐに、ではなくてもいい。

徐々にでもいいけれど、とにかく資格というものを取ったから、やれやれこれで安泰、あとはほかごとに神経をすりへらさなくても、泰然自若としていれば、徐々にではあるけれど、回収がはじまるというものでもない、というところが私を暗くさせるのです。


では何か、といえば、問題は生徒さん集めですね。

HPで「レベル1開催しますぅ~」とかうたえば、すぐにわらわらと生徒さんが集まってきてくれるわけではない、ということがとっても私には気が重いわけです。

そりゃあ、自営であればどんな職業でも一緒だよ、と言われればそうなんでしょうが、私の気持ちのなかのどこかに5万や10万のお金で、1日や3日というお手軽な期間で、すぐに開業できたり資格をとったりすることのできるものが後で苦労するならわかるけれど(そういうお手軽さに乗って、ライバルも多いだろう、という意味で)、オーラソーマのようにこれだけ時間もお金も並大抵はずれてかかるものでようやっとの思いでティーチャーになった、となってもその後が、お手軽な資格を取った人と同じように苦労しなくてはならないのはあまりにも割りが悪いのではないか、といういたたまれぬ憤慨のようなものが沈殿しているからですね、本音を言えば。

その気もない人に、ことあるごとに顔を合わせれば、「ね、オーラソーマ、学んでみない? いいわよぉ。どう? どう?」なんてプッシュしていいかげんにしてよ、なんて引かれるのもやだし、私にはそういうマネは絶対にできない、なんて思ってるから余計に気が重いんでしょうねぇ。


よし、だったらばここで気持ちを切り替えるべし。

私はお金がない、ということに対してさほど気持ちが暗くなっているわけではないのだ、と言うことをまずは喜ぼう。

そして、まだティーチャーになったわけではないけれど、来年1年かけてティーチャーになるために学ぶ間、ずっと並行して、私らしく、1人ひとり、かかわりになった方々を大切にして、徳を積みながら、どうすれば「はぁ、私はできるだけの告知活動はやった。」といえるだけのものがあるだろう、ということを考え、1つ1つ計画し、実行に移していこう、と思いました。

やることもやらずにただただ恐れていたって仕方がないもの。

年末の大詰めにきて、とてもよい気持ちの切り替えができました。

ティーチャーになる、なると言いながら、私の気持ちはずっとローギアに入ったままでした。

ローギアのまま空ぶかししたって、そりゃあたいして前には進めません。

ちゃんと自分の取り組み姿勢の気持ちを立て直して、ローからはいって、徐々にセカンド、サードとあげていき、来年1年が終わるころにはトップスピードでやるだけのことはやったぞぉ! 後は野となれ山となれ、といっていられる自分になろう、と思いました。

タロットを見てくださった方が言いました。

「誰かがチロルチョコレートをくれるとするじゃない。その人がすごくお金持ちの人だったら、なんだよ、チロルかよ、って人は思うかもしれないけど、私みたいにお金のない人間がチロルチョコをあげたら、そりゃあ、喜ばれるわよ。アハハ。だから、チロルかどうかってことが問題じゃないの。チロルですんごい喜んでくれるんだからさぁ、いいわよぉ。」って。

すんごい明るい方なんです。

私も、あの人がチロルくれるんなら、ありがたや、ありがたや、ってみんなが喜んでくれるといいなぁ。

それでは皆様、今年も長い文章につきあって、読んでくださり、ありがとうございました。

来年も相変わらず、長文におつきあいください。








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国民性の違い

2011-12-30 09:02:00 | 身辺雑事

「リスニング・・」の授業中、国民性の違いのことで面白い話を耳にしました。

マイクとも親しく、海外のコースもオーガナイズされている今回の先生は、ときどき、通訳の訳し方を聞いていて、「ちょっとニュアンス違うんだけどなぁ・・」と思うことがあるそうです。


それは何かと言うと・・・

日本人はよく「腹に落ちる」とか「腑に落ちる」って表現を使いますよね。

オーラソーマでも実によく使います。

今回は、自分のインカネーショナルスターからの声に耳を傾けろ、というようなことがテーマだったコースでもあるので、「お腹から湧いてくる感じで~」とか「腹に据えて~」とかよく使っていました。

けれど、これを英語で訳そうとすると該当する言葉がないそうなんです。

だから、「ハートに聞くと~」という訳になってしまう。

でも、私たち日本人としては、「自分の胸に聞く」ということはまた「腹に聞く」ということとは別にあるわけで、今回は“ハート”じゃないのよ、あくまでも“腹”なのよ、と言いたくてもどかしい、・・・というようなお話でした。

するとひとりの生徒さんが情報を補足してくださいました。

「今年、トヨタが米国で大量のリコールを受けたときの会見などで、その『腹の底から言うけれど~』という表現をよく使ったので、やはりおっしゃるとおり、英語では直訳がないため、直接『ハラ』というのが使われるようになったみたいですよ。」と。

つまり、柔道の「待て!」とか「一本!」とかと同じように、「ハラ」が世界の共通語になってきているらしいです。

いったい「腑に落ちる」ということや「腹に据えて」とか「腹の底から語る、聞く」ということが、欧米では“概念的にない”のか、その感覚はわかるけれど、“言葉の表現として存在しない”のか、私にはよくわかりません。

ここまでのお話ですと、どうやら、概念的にない、のほうみたいですよね。

言葉の表現としてないだけなら、冒頭の「お腹に聞く」っていうのは、わざわざ「ハートに聞く」なんて意訳しなくても、そのまま直訳すればいいですもんね。

でもこの概念にない、というのもどこまでなんだ?というのが、よく私にはわからない。

東洋人が座禅やヨガに親しむ機会があるから、なんとなく自分の肉体の中心をお腹にすえる、ということにも抵抗がなく、ひいてはその自分の中心点から話をする、と言われてもすんなりと受け容れられる、というだけのことなら、やったことがあるかどうかは別としても欧米人でも、座禅やヨガについての知識や1度や2度、そんなポーズをとってみたことはあるでしょうから、「あの感覚で、自分のバランスの中心がお腹にある、ってことを意識しながら話すって感じよ。」と言えばすぐに「あ~、そういう意味ね。」とそれこそ“腹に落ちる”のか、そう言っても、ちんぷんかんぷんな感じなのか・・・

私たちは時々、「それは国民性の違いだね。」ということであまりにも簡単にコトを片付けすぎなことがあるように思います。

それもたいていは、自分の国民性のほうが肯定された、とか優秀な国民だ、とか思えたときに起こるように思います。

このときも話はいろいろに「欧米人は日本人とこういうところが違う」というようなことに及びました。
例えば、先生はドイツ人と話しているといつもドイツ人は最後まで話しを聞かずに途中から割り込んできてしまう。

それに違和感を感じて、通訳の人に、「お願いだから、最後まで話を聞いてから発言してもらえないだろうか。」と頼んだら、

「まぁ! そうだったの! ドイツでは相手の話がとても興味深い、ということを示すためには途中からどんどん入り込むことが良いこととされるから、私はあなたの話が興味深くて、そうしていたの。逆にあなたはぜんぜん入り込んでこないから、人の話に興味がないのかと思っていたわ。」と言ったそうです。

そこで、お互いになぁ~んだ、悪気がなかったのね、それどころか、相手をたたえようとしていたのね、と誤解が解けた、ということでした。

・・・しかし、これもタイミングが難しい話だよな~と聞いていて思ってしまいました。

人の話の語尾を掬い取るようにして、一呼吸つくかつかないかのうちに「そうそう、その場合、私はさ~」なんて話し始めるのは、あぁ、私の話が興味深いんだな、とまぁ解釈してあげてもいいけれど、まったくどういう結論に行くのかわからないところで入ってこられたら、さすがに「ちょっとちょっと、全然、まだ本論を話してないんですけど。それで私の話が興味深い、って言うのは通らないわよ。」と私なら思ってしまいます。

ここいらは国民性と言うよりは、個人の感覚の差という気もしますけれどねぇ。

そのほかには例えば、「日本人は色彩感覚にすぐれている。」

こう一言いわれただけで私たち日本人は、源氏物語の何枚にも重ねた衣を思ったり、“わび”“さび”という渋い色を思い浮かべ、「さもありなん」とひとりごちたりします。

こういう微妙な色の違いをわかり、愛でるのは日本人だけよね、と。

でも、では逆にビビッドな色は単純でストレートな意味しかなく、いろんな感情の“あや”というものを表していない幼稚な色なんでしょうか・・・?

暑い地域の肌の色にはビビッドなカラーが似合うなぁ、と思うのですが、そういうところの人たちはみんな日本人より感覚の発達が幼稚なんでしょうか。

日本人が好む色の良さがわからないんでしょうか。

決してそんなことはない、と思います。


オーラソーマに関して言えば、確か日本が一番マーケット規模が大きいようです。

それは単純にほかの国と比べてティーチャーやプラクティショナーの数が多い、ということなのか、ボトルを使ってワークしている一般の裾野まで見ても浸透している、ということなのかはよくわかりませんが。

一番日本人がオーラソーマに親しんでいる、とすれば、オーラソーマというシステムが一番日本人に合っていた、日本人が求めるスタイルだった、ということができます。

そしてオーラソーマに惹かれたマーケットの小さい国の人が、オーラソーマにどんどん惹かれていくうちにいかに日本という国とオーラソーマがマッチしているのかを見るにつけ、「うわぁ、日本ってすごぉい。」とそれを日本人の能力が高い、ということと勘違いしていくのではないか、と思ってしまいます。

ま、誤解がないようにまとめますと。

人の話は話半分に聞け、ということを思った、ということではなくて、「国民性の違い」ということについては、簡単に自分の国民性のほうが優秀なんだ、あー、よかった、というふうに片付けるのではなくて、自分でもどういう背景からそういう違いが起こるのだろう、ということを調べてみるよい機会だなぁ、と思ったことでした。








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東京

2011-12-29 09:13:00 | 身辺雑事

22日~25日まで、東京で「リスニング・トゥ・ザ・スター・ウィズイン」コースを受けてまいりました。

このコースに申し込んだのは、1ヶ月以上前だったかな?

でも、時期が時期で、祝日やらクリスマスやらをはさんでいたためか、それからすぐにホテルを手配しようとしたのですが、なかなか見つかりませんでした。

ないはずはないんでしょうけれどね~・・・

手ごろなお値段のビジネスホテルで、利便性がよくて、ネットで探せる「じゃらん」やら「旅ゲーター」やらに登録しているホテルとなると限られてしまうみたいで。

結局、「表現アートセラピー」のときに一度泊まったことのある新宿南口近くのホテルを何とかゲットすることができたのでした。

ここはすぐ眼の前にコンビニもあるし、タカシマヤのお隣といってもよい場所だし、その割りに閑静だし、なかなか快適です。


で、毎日のようにタカシマヤの中を抜けて、ホテルに帰りました。

23日の祝日の日のことでしたか、いつものように1Fのジュエリー・アクセサリー売り場を抜けて帰ろうとすると、蟻のような山。人、人、ひと・・・

プレゼントを選ぶカップルだらけなのです。

それはもう、北朝鮮で救援物資に群がる人々かのようでした。(ちょっとあまりにもたとえが悪いか・・・)


エスカレーター横の広々とした遊休スペースには、航空便のカウンターのようなものがあり、「何だろう?」と思ってよくよく見てみると、「スタージュエリー専用受け取り口」「4℃専用受け取り口」のように、人気のブランド店は、ギフトラッピングをするのに時間がかかるからでしょう、何十分か何時間かのちに受け取りにこられるように専用窓口があったのです。

ひえ~!  さすが東京・・ とびっくりしました。

これが不況といわれている日本の姿だろうか・・


今までは自分が1億総中流のなかのひとりと思い、「百貨店」という場所を、グレードの高い品物ばかり置いてあり、それを求めて行く人が行く場所である、と実感したことがありませんでした。

同じ人がダイソーにも行けば、タカシマヤにも行く時代、と思っていただけでした。

文字通り、「百貨」が置いてあるところが「百貨店」と思っていただけです。

けれど、この日ばかりは、このジュエリー売り場にひしめく人々が自分とは違う人種のように思えてきました。

そして、次に思ったのが、「これだけ隣の人と袖すりあうような距離感のなかで、宝石という商品を選びたいか?」ということでした。

やはり、宝石であれば、たとえそれが1万円のものであったとしても、ゆったりとした空間のなかで落ち着いてラグジュアリーな雰囲気を味わいながら選びたいものではないでしょうか。

私なら、人ごみを見た瞬間に辟易としてしまい、「うへぇ、ジュエリーはいらない。どこかほかへ行こうよ。」とすぐに行ってしまいそうです。


でも、たいていの女子はせっかく付き合っている男の人が買ってあげる、というのであれば、ごみごみした中でもよっしゃ、何がなんでも買ってもらいましょう、となるのでしょうかねぇ。

そして、この状況で品物選びをしたら、お隣の様子も丸わかりだから、ものすごい競争心がわきそう・・と思いました。

例えば、お隣のカップルは、「そんなちゃちなの、やめておきなよ。もっと君にふさわしい高いの買ってあげるから。」なぁ~んてコトを彼氏が言いながら、5万円ほどの宝石をせせら笑い、10万円ほどのものを彼女にすすめていたとする。

そのなかで、こちとらは、3万円のものに手が出なくて、1万円そこそこのものを見ながら、「これでいいよ・・・」なんてやってたとする。

するととってもみじめな気持ちになってしまいやしないかねぇ。


もちろん、そんな風に感じる必要はないんですよ。

「人はひと。自分は自分。」とわかってはいても、いざ、10センチ向こうのお隣ではそんな光景が繰り広げられていたら、やはり自分が選んでいるものがものすごく小ばかにされたように感じて、気がめいるのでは、と・・・

こんなことを思う私がせこいんでしょうか・・・
そんなことを思うくらいなら、宝石なんていらないから、もっとふたりだけでのんびりと過ごせるところに行くか、散歩でもしてようよ、と思っちゃいます。

でもなぁ、とふとまた思う。

私が20代なら、人との比較もなにものぞ、とそういう熱気のなかにいることを逆に生きている証のように快く思いながらいたのかもなぁ、なんてことも思いました。


現代人のほとんどの悩みは、人と人とが接しすぎることによって起きる、と言います。

ある意味、都会で芋の子を洗うような大勢の人に囲まれて生活しながら、それを自分の栄養素として取りこみ、そしてまた自分が大きくなって行く、なんて実感をもち過ごせるのは30代までかもな~なんて思いました。

まぁ、そんなことを思うのも、私が大学生の間だけ東京に居て、それから先は田舎に帰ってきてしまったからかもしれません。

イヤだろうがなんだろうが、いくつになっても東京で過ごして行くしかない人はそんなふうには思わないかもなぁ。

ただ、確実に言えることは、人は他人との距離感によって精神的に影響を受ける、ということ。

これは間違いないでしょう。

20代後半で、香港に行ったときも、この狭い国土の中のどこに行っても、人、人、ひとだったことにうんざりすると同時に、この国は、ヤル気がある人はどんどんのしあがっていけるだろうな、とも思いました。

それは少しでもそういう気概を失ったりすると、すぐにはじき出されてしまうという恐ろしさも隣り合わせでした。

1ヶ月に、1,2度、東京に来て思うことは、降りる駅でちょっとでもまごまごしていると人の流れを滞らせている自分に気付きます。

あちこち、ごつごつと人とぶつかるから、人の流れのスピードと自分があっていないことがわかります。

ヘタすると、「ちっ」なんていう舌打ちとともに、「もたもたしてんなよ。」という捨て台詞が聞こえてきそうです。


しかし、たった4日ですが、毎日同じところから同じ場所に向かうと、自分もそちらの仲間になるのです。

もう何も考えていなくても体が勝手に動く。

勝手に動いているから、その流れをとめられたくない。

自分の流れとは違うスピードやタイミングの人がいると、「あれっ」と思う。

そして「あら、たった3日や4日で、私も東京の人になっちゃったかなぁ。」なんて思う。

それを20代の私なら「これで私も都会の一員となった」というように心地よく思ったかもしれません。

でも、今その倍以上の年月を生きた50代の私は、「いやはや、そんなことに自分は馴れたくないなぁ。」と抵抗を感じる。

いつも私が、東京へ行き、何らかのワークショップや授業を受けて帰ってくるととてつもなく疲れて、次の日寝込んでしまったり、体調を崩したりするのは、もう都会のあの距離感で人と接して行くことはできなくなっているのだな、と思います。

たまに自分が得たいものがそこにあって出かけるのはいいですが、東京に住むってことはできないな~と思ってしまう私なのでした。





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「問題」を人格の外側に置く

2011-12-28 09:03:00 | 「癒し」「ヒーリング」「セラピー」

少し前に、表現アートセラピーで行った「ナラティブ・セラピー」にとても興味を持ったので、もう少し詳しく調べてみようと、「ナラティブ・セラピーって何?」という本を読みました。(シンプルにわかりやすいタイトル!)

この本を読んだことによって、今やっている表現アートセラピーがいかに多くのエレメントを取り入れているものであるか、そしてそのことによって、1つ1つについてはこれでもほんとにさらっと触れているに過ぎないのだな、ということがわかりました。

ナラティブ・セラピーだけでも実に奥深いものだったのです・・・!


そして、ナラティブ・セラピーのことについて知識を深めることが出来たと同時に、このセラピーはクライアントと向き合って、“会話をする”ということがとても大事なセラピーなので、その会話のなかで、このような話法を用いるといい、ということがとても勉強になりました。

どんなセラピーでも、究極はクライアントとの対話だと思います。

ですから、今日はオーラソーマに限らず、セラピストの皆さんにとってとても役立つ、この本に載っていた、対話のための1つの考え方をご紹介いたします。

それは一言で言うならば、「問題を外在化する」ということです。

セラピーにやってくるクライアントというのは、たいていセラピストに聞いてもらいたい問題を抱えています。

「問題を外在化する」というのは、クライアントが援助を求めている問題をその人自身のアイデンティティから切り離すことです。

そんなこととっくに知っとるわい!という方も多くいらっしゃるかもしれません。

私はセラピストとして恥ずかしながら気がついていませんでした。

確かにこうすれば人を問題として見るのではなく、問題はあくまで問題である、問題にしか過ぎない、という前提に立って見ることが容易となります。

クライアントも、自分の人格とは切り離した位置からその問題を語ることができるようになります。

この「問題の外在化」には、言葉の使用上、特殊な頭の切り替えが必要となります。

この本ではそのことを『単なる技法ないし技術ではなく、会話における態度や方向性なのです。』と書いてありました。

具体的に、この本に書いてある例をご紹介いたしましょう。


例えばやってきたクライアントが、

    「私はうつっぽいんで、どこへも出かけたくありません。」

    「私はやる気がなく、何をするにも気力が湧きません。」

    「私は心配性です。何か新しいことをするときはいつも不安になります。」

などと言うように語ったとします。

この会話は「内在的」です。問題をその人の一部として捉えています。

こういうとき、セラピストは、

「問題が、あなたのエネルギーレベルに影響を及ぼしているんですね。」というように言うとよい、ということなのです。


「あなたはうつなのね。」の代わりに、「うつが外に出かけることを難しくしているのですね。」とか、「ヤル気がない」の代わりに、「問題が力を持っているときは、あなたにヤル気がないと思わせるのですね。」とか、「私は心配性です。」の代わりに、「心配性は、あなたの新しい試みにストップをかけているのですね。」というように外在化していくわけです。
このように外在化する会話では、問題は常に人から離れたものとして語られます。

この本では、初めて外在化した会話を学ぶセラピストは、“問題”を部屋のどこか、たとえば人の肩の上とか、空いている椅子の上などにある物体として想像してみるとよい、と紹介してありました。

上記の例で、もう気付かれたと思いますが、これは単純には多くの場合、“問題”を形容詞や動詞の状態ではなく、名詞のかたちにして、問題自体を人格化してしまえば、その人本人の人格とはもうひとりの別の人格が何か悪さをしている、という会話となりえる、ということです。

なので、実際にクライアントが好めば、その問題自体に人の名前をつけてもよい、とのことです。

アメリカでは台風が「ナンシー」とか、「ジェニファー」とか言いますが、あの感じですよね。

それを名づける場合、それはクライアント自身から出てきたもの、あるいはクライアント自身によって選ばれることが大切だということです。

そのためにセラピストは、「あなたが問題に名前をつけるとしたら、どんな名前がいいと思いますか?」とか、「あなただったら、この問題をなんと呼ぶでしょうね? 罪、それとも自己不信というように呼ぶのでしょうか? あなたが話している間に、頭に浮かんだものですけれど、どう思いますか?」あるいは、

「不安か心配という言い方は、あなたにとってしっくりきますか? それとも何か別によい名前が思いつくまで単なる<それ>と呼んだほうが簡単でいいでしょうか?」というようにクライアントと確認しながらすすんでいくのです。大切なことはセラピストが、クライアントに名前を押し付けてはいけない、ということです。

オーラソーマでは、何か問題を抱えたクライアントばかりがいらっしゃるとは限りません。

近年では、オーラソーマは「ヒーリング」よりも、「自己探求」を打ち出しているので、よけいにそういう方は少なくなっているかもしれません。

でも、多かれ少なかれ、問題を抱えていない人間などこの世にはいません。

「自己探求」にしたところが、探求が奥深いジャングルに入っていけばいくほど、猛獣や、今まで見たこともない生き物に出会うものです。

そうしたら人は戸惑うのは当たり前です。

オーラソーマがセラピーを一度十二分にやりつくしたうえで、一般的にはそれほど問題を抱えていないと見られる人にまで広がってきたから、ということで「自己探求」を標榜するようになったのなら良いことだと思いますが、オーラソーマのマーケットを見る限り、とてもそうだとは思えません。

私自身は、今一度、オーラソーマがヒーリングの視点から生まれたものであることに立ち返って人を癒すということについて、徹底的にいろんな角度からもっと精度を高めて行くべきだ、と思っています。

たとえば私たちプラクティショナーが最低でも1年に1度は受けることになっているシェアリング・デーにしたところが、そのテーマは、ほとんどがオーラソーマシステムそのものの考察をより深めたものか、オーラソーマがこういう他のジャンルのものともつながっているということがいえる、というようなものばかりです。

クライアントと向き合っているときの対話の進め方に言及したようなものはありません。


まぁ、そこに踏み入ると、臨床心理とかちょっと専門的になりすぎてしまうから、ということなのかもしれませんが、プラクティショナーが各色のメッセージに通じていればそれでよい、というのではあまりに片手落ちだと思わざるをえません。

PPSというコースでは多少それらしき視点にフィックスしたものを学ぶのですが、クライアントとの対話という点から見れば、残念ながらやはりあれでも浅い、と思います。

PPSでは、クライアントにほとんど時間を与え語らせなさい、プラクティショナーは極端に言えば、全体の10%しか話さなくていいです、と学びましたが、実際には「聞き手に徹する」ということがどれほど高い能力がいることなのかは、セラピストの皆さんであればわかるはずです。

自分がそのセラピーにおいて知っていることをどんどん話すだけのほうがなんぼ楽か。

でも、PPSでは、そのテクニック的なものについてはほとんど学びませんでした。

オーラソーマでも、このようなクライアントと向かい合ったときの対話の進め方についてのシェアリング・デーがもっとあってもいいのに、と思います。








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「怒り」のワーク

2011-12-27 09:09:00 | セラピー

今回の「表現アートセラピー」では、「怒りのワーク」というものに取り組みました。

まず自分がこれまでに感じた“怒り”を思い出す。決める。

そうしたら、ペアになって、1人が粘土にその怒りをぶつける。

粘土を自分が感じた怒りのかたちにしてもいいし、粘土自体に怒りをぶつけてもいい。

そうしたら、もう1人がその邪魔をする。

邪魔をされて自分の感情がブロックされることによって、より怒りが高まる。

その怒りが充満し、ピークまで満ち満ちたな、と感じたところで解放してやる。

具体的には「あ~!!!」とか「うぉ~!!!」とか思い切り叫びながら、足を踏み鳴らし、大地に帰してやる、というものです。

そもそもがこのワークは何のためにあるのか、といえば、“感情”というエネルギーを感じるためです。

この世はすべてエネルギーで出来ています。

思考もエネルギーですからね。

“かたち”として存在していないものでも、エネルギーを持っているわけです。


そしてそのエネルギーは、エネルギーがエネルギーである、という時点で、自然に「運動性」をもちます。

人の場合は、それはつまり何らかの「感情」を持つ、ということを意味します。

そしてその感情は何らかの発露をしたい、と自己表現というかたちをとります。

その自己表現は否定されると、アグレッシブなものとなって暴力や怒りとなるか、パッシブなものとなって自発性を失うかというかたちとなります。

自分の感情を否定されたので怒りとなった、と思っているけれど、そもそもその感情は単なる運動性をもったエネルギーにすぎない。

否定されたことに対して怒っているだけで、ほんとうはその感情がどういう“観念”に基づいているものなのかを知らないと自分が何を感じて感情に左右されているのかもわからないはずだ、ということなのです。

ちょっとわかりにくい話になってしまいましたね。

例をあげましょう。

例えば、運動会ではりきって綱引きで優勝したのに「女のくせにもっとおしとやかに出来ないのか」と親に言われたことで腹をたてたとしましょう。

そのとき自分では、せっかくの優勝にケチをつけられたから怒っている、と思っています。

優勝に対する喜びを制御されたから、否定されたから、生まれたもの、と。


しかし、実際には、そこには「女のくせに」と言った親にも、自分にも「私は女だ。」という観念があるから生まれた怒りなのです。

動物には人間と同じく雌雄を決する肉体がありますが、それぞれ「私はメスだから」とか「オスだから」なんてことは思って生きてはいません。

だから「女のくせに」ということで怒ったり、けんかになったりすることもありません。

これが人間が観念にとらわれている、ということの証明です。

それは制限された思考の固まり。

自分はどんな塊をいくつもいくつも抱え込んでいることだろう・・・

こうして見ていくと、「怒り」だろうが、「喜び」だろうが、それらの感情はもともとエネルギーにすぎない、という点では同じこと。

人間には感情があるからその時々で感じることはあるけれど、それらはみな、そこにいつまでも執着すべきものではない。

そのとき、ただそう感じた、というだけのこと。

何を感じても、最後に還るのは自分自身。

それは良い悪いではなく、正しい道。

そういうことがわかります。

喜びの感覚は、その場で発散していることが多いから、あえてわざわざ解放のワークを行う必要はないけれど、怒りや憎しみといったものは、その場で発散しきることがなく貯めてしまうことも多いため、ワークで解放してみましょう、ということなのでした。

良い感覚であっても、悪い感覚であっても、いつまでもそこに滞らせていることはいけない、どちらにしてもそれはエネルギーをどこか袋小路で止めてしまうことになるので、そのことのほうが問題。

エネルギーというものはとにもかくにも流してしまいましょう、というわけなのです。

エネルギーはすべてグラウディングして、大地に戻すもの。

だから手などの上半身を使って感情を表現せずに、下半身の足だけを使って、踏み鳴らすなどすることによって大地に帰してしまいましょう、大丈夫、大地はほんとうに受容性が高い。

そんなものでも十分に受け取ってくれる、ということでした。


こう聞くと私は実にスムーズにワークに取り組むことができました。

「え~? 何、それ? やだよ、恥ずかしいよ。そんなこと人前で出来ないよ。」と思わずに、ハイハイ、大地にエネルギーを帰すんですね、一丁あがり、って感じでした。

やってみると想像以上にすっきりする。

大声と地団駄踏んでもかまわない場所があればまたやりたい、って感じ。

またやりたい、ってことは1回ですっきりしなかった、ってことで、それは私がまだその怒りを持ち越してる証拠? だったら、このワークは失敗なんじゃないか、とか今までの私ならそういうふうに考えてしまいそうでしたが、このときはなぜか、そう思うならそれでいいじゃん、とごくシンプルにそう思えました。

そしてこれまたなぜか、そういう風にシンプルに片付けられる自分にしごく満足していました。

その怒りがどんな観念から来ているものなのか・・?

何回やればすっきりするのか・・・?

何を許したくないのか・・?

または何を許されたがっているのか・・?

そんなことすべてがどうでもよかった。

とにかく流してしまえ~

ただただエネルギーは流してしまえばいいんだ~

良いも悪いもエネルギーという点では一緒でとにかく流したほうが良いなら、そこにはジャッジメントが存在せず、こんな楽なことはない。

ジャッジせずに楽であ~よかった、よかった、って感じ。

ちなみに良い、悪いではありませんが、一番波動が低い感情とは「無気力」のことだそうです。

だから、「無気力」な感情に見舞われたら、最高級の「喜び」や「感謝」の感情を感じられるようになるためには、その過程のなかにある「怒り」や「妬み」を一度通過しなくてはならない。

それくらいなら無気力なままのほうが楽でいいや、とまた無気力の感情のなかに戻っていってしまう人もいるそうです。

でも、実際は「怒り」を突き抜けたらその先には「喜び」や「感謝」があるかもしれないのに・・

だから、人間はあえて辛い思いをしてもタイムラインのヒーリングを行わないといけないときがあるんですね。

「エネルギーを流す」ということが、癒しになるんだ、ということを体感することができたワークでした。

もう少し言えば、「エネルギーを流す」ただそれだけのことが、癒しになるんだ、ただそれだけのことが私たちは出来ていないんだ、ということがわかりました。






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