コンサルテーションで時々「自分のことを語らない人」に出くわします。
それはまだ自分のことを語る準備ができていないからなのだな、と思い、私は無理にしゃべってもらおうとは思いません。
クライアントの方の内側ではいっぱいいっぱい自分との対話が始まっていて、実は内面ではおしゃべりなんだろうなぁ、という場合もあります。
そういう方は表情を見ているとわかります。
視線は下方を見たり、斜め上方を見たりして(あらぬところを見ているのは自分の内面を見ているとき)、時々苦悶の表情を浮かべたり、唇が今にも何かを語りだしそうにぴくぴく動いたりします。
こういう方の場合は、「話したくない」わけではないのです。
ただ、そのタイミングを見計らっている、という場合と、自分をこれまでオープンにしてきたことがなかったためどうしてよいかわからない、という感じだと思います。
ところが、こういう人とは別にもう1つ一風変わった(?)タイプとしての、「自分のことを語らない人」というのがいらっしゃいます。
自分のことはこれっぽっちも語らないのに“ほかの人のことで妙に雄弁”、という方々です。
一番最初にこのタイプの人に出会ったとき、私は戸惑ってしまいました。
自分がこういうサロンを訪れたとき他の人の話ばかりをするというタイプでないからというのもありますし、私の周囲にも、これまでコンサルテーションしてきたクライアントさんのタイプにもなかったタイプだったからです。
いつ、自分の話を始めるのだろう?
いつ、自分の話に戻るのだろう?
お金を払って自分の内側を見に来たのではなかったのか? こんなことで時間を費やしてしまってもいいものだろうか?
そう思いながら耳を傾けていても、彼らの話はいつまでたっても自分の話には戻りません。
永遠に“ほかの人の話”を続けます。
「で、ご自身はどうなんですか?」と時々、その方のことに話を引き戻そうとするのですが、それに気付いてか気付かずにか、話はするりとマジックのようにいつも”ほかの人の話”に舞い戻っていきます。
そして、いくらなんでも私も気付くようになりました。
彼らは、“ほかの人”の話をしているようで、それが実は“自分の話”なのだ、ということに。
“ほかの人”とは、自分の身近な家族であることもあれば、友人であることもあれば、先日出会ったばかりの人であったりもします。
そして、その“ほかの人”に対する評価はぼろくそにけなすだけのこともあれば、すごく褒めることもあります。
でも、聞いていればわかります。
自分の身近な人のことをぼろくそにけなすときには、「そんな人にいかに私が苦労させられているか。」「そんな人をいかに私はもてあましているか。」「そんな人にこれまでいろいろと変わってほしいと努力してきたが、万策つきて今はもうあきらめているか。」そんなことを語ります。
つまり、”どうしようもない人”に対して、私はやるべきことはすべてやってきた、というわけですね。
すごく褒める場合は、こちらがその褒められている人のことを「でもそういうけれど、それほどでもない部分もあるんじゃないのぉ?」などと疑ってかかっているわけでもないのに、口角泡を飛ばすほどに一生懸命褒めます。
まるで、「誰も気付かないその人の良いところに私は気付いたわけよ。」「この人の良いところっていうのは、誰にだってマネできないことだと思うわよ。」と言いたげな感じです。
こちらについてはつまり、そういうことに気付いた私って実はすごいでしょ、ということなわけですね。
それらはすべて語っているその人自身を“投影しているのだ”ということに気付いていないのはご本人ばかりなり、っていう感じです。
つまり、こういう方というのは「私はパーフェクトなのだ。」と言いたいわけですよね。
ぼろくそにけなしている場合には、
「こんな苦労は私にしか出来なかったと思う。」
「(完璧な私でさえもてあましているんだから)誰にもこの人は矯正できないと思う。」
ということが訴えたいのであり、褒めている場合は、
「ねぇ? この人の偉いところに気付いた私はすごいでしょ?」
「(完璧な私でさえ)この人のこの部分には感服した、って言ってるんだから誰もこの人のこの部分のようなことはできないはずよね。」と言いたいのだな、とわかります。
私は自分の母が「自分は完璧だ。」と言ってはばからない人でしたし、私自身も長年「その完璧さを上回るほどに自分もまた完璧でないと、人から認められないのだ。愛されないのだ。」と思ってきたこともあって、こういう人を見ると、その人が陥っている穴がよくわかる気がします。
ラハシャ博士のカウンセリングスキルコースを受けたときに、実際のカウンセリングにおいて、誰かが質問したときがありました。
「我を忘れて話し込んだり、ときには私の腕をつかんだりして離さないって言うような人はどうしたらいいですか?」
これに対してラハシャ博士は、
「私なら、『あなたが今、私の腕をつかんでいることをお気づきですか?』と言います。」と答えました。
この方式でいくならば、こういうクライアントの方には、
「あなたはずっと自分以外のほかの人の話ばかりをしていることにお気づきですか?」と言えばいいのかもしれません。
そしてそれがひいては、実は自分を投影している話であり、全然関係ないことを話しているわけではないということにお気づきですか?とまで踏み込んでもいいのかもしれません。
けれど、私にはどうしてもそれが言えない・・・
言えない、というより、言うことが良いという確信が得られない・・・
だって、そのクライアントは自分のことを完璧だ、と思っているわけです。
そういう人は他人から自分のことを指摘されるのが好きなはずはありません。
だから私が、「あなたはさっきからずっと自分以外のほかの人の話ばかりをしていることにお気づきですか?」と言ったとしたら、もし内心ではハッとしても、
「ええ、わかっていますよ。それが何か?」と言うのではないか、と思ってしまうのです。
そういうふうに壁をつくらせてしまったらおしまいだ、と思うのでどうしてもそれを言うには慎重になってしまうのですね。
しかも自分が動揺したことを顔色にも表さない、というほどの完璧さを身につけているからこちらにはどれほどその人の内心に踏み込めたのか、うかがいしれない。
でもね、こういう人は実はとてもとてもナイーブな人が多いのだ、ということにも私は気づきました。
自分が暴かれることが恐いのかもしれない。
自分の内面を見ることに恐れを抱くということは、面白半分でやってきているわけではない、実に真面目で繊細な人だということが言えると思います。
私はこういう人にこそ、オーラソーマやアートセラピーに親しんでほしい、と心から思うのですよね。
こちらから何か言ったことに対して心を開く、という必要がないから。
自分が選んだ色が物語っているだけだから。
自分の感覚を通して気付けるから。
そして幸いなことに、そういう人は意外にちゃんと来てくださるのですよね。
あれ? この前あんなに他の人の話しかしなかったからここへ来ても何も得られるものはなかった、と思っているのかな、と思いきや、せっせと来てくださる。
そして変わらずまたほかの人の話に終始しようともまた来てくださる。
きっと本能的に、自分の奥のほうでは気付いてらっしゃるんでしょうね。
オーラソーマは意識の成長を見ていくものですから、そしてボトルはその意識に通じるカギですから、カギを使ってドアを開けたら、そこに踏み込むしかないこと、踏み込んだらそこから歩き出すしかないことがきっとどこかでわかっているから続けて来てくださるのでしょう。
私はそういう人たちがとっても愛おしいと思います。
なんか、上から目線のように聞こえてしまったかも知れませんが、本心です。
わたしも、自分を見るようです。
これからもそういう人たちにいっぱい来てもらいたいな、と思います。
そして時間がかかってもいいから、いつか“自分の話”をしてもらいたい、と思います。
そして、その時に感じた解放感から気付きとはこういうことか、と感じてもらえればなお嬉しいな、と思います。
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