ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

どんな自分でも受け容れられるようになる、ということは・・・

2019-08-28 09:01:00 | 精神世界
<neW !>

   「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
                          リリース!  
   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、こちらの「自己受容ヴァージョン」は自己受容に特化した凝縮版です。

   今だけの特典あり!
   是非こちらをご覧下さい。

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<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/11(水)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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昨日は、ずっと自分を受け容れることができなかった自分がいたことを述べました。
しかし、そのうえで私自身は生徒会をやったり会社でも面白いポストを与えられたりして「他人が自分より先に自分を認めてくれる」という状況だった、と書きました。
ならば、それでいいじゃないか? どうしてそこに「もっと自分を受け容れなくては」という疑問や焦燥感を抱く必要があったのか? というところが疑問ですよね? と投げかけました。
明日はそれについて書きます、というところまででした。



結論という点ではすでに昨日書いてしまっています。
そのままでも何ら問題があるわけでもなんでもない。
何ら不自由なく生きているのだし、と。
しかし、自己受容できたほうがもっと豊かでもっとラクに生きられるのではないか、ということです。
今日はそんな経験をしたことについて書きたいと思います。



あるとき、私はたいそう辛く悲しく、落ち込んだことがありました。
そのエピソードそのものについてはここでは暴露しません。
そのエピソードそのものに意味があるわけではないし、私自身のことというよりは他人の人生を暴露することにつながるのでそれを避けるためです。
いずれにしろ、O型ってちょっとやそっとではめそめそしないんですけれど、いったん落ち込むと相当長い期間立ち上がれないっていうか、どよ~んとしてしまうんですね。(これをひとえにO型は、で片づけるのもいかがなものか、とは思いますが)
で、そのときに
「今の私って何色だろう・・?」
と色を選んでみたんですね。
これはね~ もうクセになっていますが、われながら本当に有効な良いクセだと思っています。
毎日色を選ぶ。
ただそれだけ。
ただそれだけのことなんですけれど、毎日毎日選んでいると、その色の意味をまったく知らなかったとしても、
「ふ~ん、私って精神的に辛い時にはディープマゼンタを選ぶんだな」とか、
「辛いだけじゃなくて、もうどうしていいか皆目見当がつかないようなときはイエローを選びがちだな」
とか自分なりにパターンが見えてくるんです。
人って“現状”の自分を確認できるだけでなぜか落ち着きます。
そこにすぐ解決策が見えるわけではなくても、自分の立ち位置というか精神状態を「ハイ、これに確定」という感じでスタンプ押される感じがあると、どしっと構えることができるっていうか。

※このあたりのことにご興味がおありの方は、是非「色で暮らしを彩る講座」を
 視野に入れていただけないでしょうか。
 どんな内容なのかお問い合わせください。
 chakra@aura-soma.name



それだけでも少し落ち着いたんですが、そのあと私は
「では、私にはピンクがいま必要だな」
と思って、オーラソーマ社が出しているピンクポマンダーを丁寧に丁寧に施したんです。
そのとき、クンと1つ次元が上がったのがわかりました。
不思議な世界の話に急に飛んじゃったなって終わらせたくはないんですが、確かにそのときにそう感じた、としか言いようがないんです。
これまで私はポマンダーを施すときの一連の儀式のような動作をあまり信じていませんでした。
信じていないというか、そんなにもそこにこだわる必要なんてないでしょ、と思っていたんです。
だからただ香りをかぐだけのときも多かったのでした。
でも、丁寧に施してみるとそれはただ手のひらに3滴とってこすりあわせて香水と同じようにその香りをかぐだけとは厳然と違うものがあることがわかりました。
そしてそのあとも私は世界中の人々がこのピンクの愛で満たされますように、私の周囲の大事な人たちがこのピンクの愛で満たされますように、と祈りながら連続して3回ほどピンクを施しました。
彼らの身体の周りがピンク色で覆われ、にこーっつと笑顔になっていくのがわかりました。
すると自分自身もすごくピンクで満たされたのがわかりました。
そして何かが解決したわけでもなんでもないのだけれど、私は自分がとにかく愛をいっぱい受け取り、自分自身もいっぱいの愛で満たされている、ということを実感でき、なぜか静かに心が高揚し幸せに包まれるのがわかりました。
その瞬間、
「あぁ、私は以前よりずっとそのときそのときのありのままの自分を受け容れることができるようになっているな」
と確信したのでした。
辛いことがあっても、悲しいことがあっても、その中にも慈しみや愛や思いやりにあふれた世界があることを感じることはできる。
そう思って、なぜかとても幸せだったのでした。
心頭滅却すれば火もまた涼し、ではありませんが、周りがどれだけ騒がしくとも自分の中心に静かに座っていることはできるな、と実感したことでした。



そんな頃、たまたま私はamebloの方で募集している「無料メール講座」でくっつけている毎日のミニワークにワークをやったときの感想をシェアしてくださっている方が常時何人かいらして、そのうちのお1人が、16日目のメルマガのワークについてシェアしてくださった感想を読んで、ハッとしました。
その日のワークとは、
「自分の身の回りにある“在るもの”をただ、『私は○○がある、ということに気付いています』と挙げて行ってください」
というものでした。
ワークに正解があるわけではありません。
何に気付いたっていいんです。
「あぁ、自分はなんて多くのものに恵まれているんだろう」
ということに気付いた、という方は多いですし、
「すでに在るものに感謝の念が湧いてきました」
という方もいらっしゃいます。



その日、その方は、
「最初は『私はテレビがあることに気付いています』とか、『炊飯器があることに気付いています』と目の前に実際にある“モノ”を挙げていきました。そのうち、そのネタが尽きると自分の内側に“在るもの”に関心が向いていくことに気付きました。
『私は幸せを感じていることに気付いています』とか、『私はイライラしていることに気付いています』とかそんな感じです。
そしてふと気づきました。今の精神状態の私は、かなりネガティブなものばかりを抱えていると思っていたのですが、こうして挙げたものを自分なりに俯瞰してみるとけっこうポジティブなことも挙げている。たとえ辛いときやネガティブな感情のなかにいる、と思っているときでさえ、幸福感を感じることはできるのだな、と思いました」
と書いてくれたのです。
これはまさに私と同じ気付きでした。
私が気付いたことが鏡となってやってきたような気がしたほどです。



なんて大切な、そして素敵な気づきなんでしょう!
人間はどんなに落ち込んでいるときでさえ、瞬間瞬間、目を向けるものを変えることによって、つまり自分に意識的になることによっていくらでも幸福になれるのだ、というこの気付き。
これこそが「自己受容」だ、と思いました。
楽しいときに、「今、楽しいと感じている自分を受け容れる」ということは容易なことでしょう。
同様に、「幸せを感じている自分を受け容れる」「喜びに浮き足だっている自分を受け容れる」などもみんなそうです。
しかし、悪感情となるとどうでしょう。
「悲しんでいる自分を受け容れる」「落ち込んでいる自分を受け容れる」「自己嫌悪に陥っている自分を受け容れる」「他者に向けて多大な怒りを覚えている自分を受け容れる」・・・etc.
これらはとても難しい。
なぜならそんな悪感情は抱え込んでいたくない自分がいることがわかっているからです。
抱え込んでいることは損だ、ということがわかっている自分がいるからです。
そんな自分は賢くない。
わかっているのにどうしてそこから離れられないんだ、とまたもどかしい・・。
自分でもこんな感情の渦のなかにいつまでもいたら精神衛生上よくないことはわかっているし、「こんなにもなかなか立ち直れない自分」をまた認めなくてはいけなくなるのも嫌だ、という考えもまた湧いてくることもあるでしょう。



しかし、それでもそんな自分を優しく受け止める。
うんうん、いいんだよ、って。
だって他者に対してならできるでしょう?
どうして人は自分に対してだけそんなに厳しいんでしょう。
他者に対してなら、
「そりゃちょっとやそっとで立ち直れなくって当たり前だよね~ うんうん、いいんじゃない。無理に自分を丸め込もうとしなくても」
なんて言ってあげたくなるに違いないのに、自分にはそれを戒める。
でも、他者と同じように自分にももっと優しくなりましょう。
そして受け止めきれると、ふぃにピンクポマンダーを嗅いだときのように優しくなれる自分がいることに気付くのです。
このときの幸福感って、ただただ良いことばかりが続いてウキウキとしているときの幸福感とはくらべものにならない。
もっと深く滋味あふれる幸福感なんです。



だから今、私は思っています。
「自己受容」とは、ネガティブな状況のなかにいるときでも幸福感を抱くことのできる能力だ、と。
ポジティブなときに自己受容できるのなんて当たり前。
でも、ネガティブななかにいるときにも幸福感で満たされるにはある程度のトレーニングが必要だと思います。
それを提供するのが、冒頭でご紹介しています「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」です。
 是非こちらをご覧下さい。



あなたにも、もし必要だと感じたら、是非ご連絡をお待ちしています。




「自己愛が強い」=「自己受容ができている」ではない

2019-08-27 09:01:06 | 精神世界
<neW !>

   「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
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場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
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STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/11(水)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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今日は、タイトルのとおり、「自己愛が強い」ということは「自己受容ができている」ということではない、ということについて書きたいと思います。
もちろん、イコールの場合もありますよ。
しかし必ずしもそうでない場合もある、というお話しです。



昨日私は、自分がルィーズ・ヘイの「鏡のワーク」をしたときに、3歳の頃の自分の顔を思い浮かべて
「愛してるよ。可愛いね」
という言葉が言えなかった、と書きました。
けれどこれまでの自分の人生を振り返ってみた時、特別に「自分を受け容れることができていなかったから、ほんとうに困った」という思いを抱いたことはなかったのです。
幼稚園でたまたま選手宣誓をやらされてそれがすこぶる父兄の評判がよかったことに端を発して(このときはほんとうにあいうえお順で役割を決めて行ったら私にそういう役割が振り当てられたのか、どうしてそうなったのかは全く覚えがありません。別にそつなくそれをこなせそうだから選ばれた、ということではなかった、ということだけは確かです)、学童のときには学級委員をやり、生徒のときには生徒会の副会長をやり、常に立候補という形ではなく、押しだされるような形でなにかの役割をやってきました。
つまり、生徒たちみなの代表として何かする、ということに対してまったく違和感を抱かずに大人になったのですね。
そして大人になってからも会社では社長賞をとるなど、そういう役割は続いていきました。
私は、
“自分より先に他人から「わたし」という人間を認められることによって初めて自分を受け容れることができていた”人間だったのです。
だから自分で自分を受け容れられていない、ということに気付きにくかったのですね。
「どうやらあの子は仕事をこなし成果をあげるから優秀らしい」という眼で扱われることによって、その社会的役割をこなし、自分の存在価値に気付く・・。
この繰り返しでした。



では、逆に他人から認められない人はどうなっていくでしょう?
最近、連日話題になっていた「あおり運転」の容疑者を思い出してください。
宮崎容疑者という人は、大学までは快活で親も「優秀な子に育ってくれてよかった」と周囲にもらすほどの出来の良い子どもだったらしいです。
しかし就職をして、その会社と何か折り合いが悪かったのか、その会社ではたまたま宮崎容疑者の能力が発揮できなかった。
となったとき、挫折を味わったことのない彼はガラガラと崩壊していったようです。
それからはたまたま親の資産であったマンションの管理をすることによって羽振りもよかったようで、自分という人格ではなく、背後にお金をちらつかせることによって自分の価値を周囲に認めさせようとしてきたのではないでしょうか。
そしてそれもうまくいかなくなったとき、どうなるか・・?
異常に「自己愛」が強くなるのです。
「どうしてこんな優秀な俺を誰も認めないんだ!」
という反発が、せめて自分は自分を認めてやろう、俺は俺の優秀さを知っている、という形で異常な自己愛となるのですね。
もちろん、反対に「俺って実は優秀じゃなかったんだ・・」みたいに自分を卑下し、落ち込んでしまう人もいると思います。
その真逆の反応を見せた典型例が宮崎容疑者のような人だ、ということです。



過剰な自己愛はすべてをぶち壊します。
「わたしは正しい」
「わたしは能力がある」
といった強い思い込みは、周囲への不満や他人へのうらみ、社会に対する反発となっていくのです。
自己愛自体は本来、誰にでもあるものです。
自己愛自体がまったくない、という人はいません。
現在アメリカで1番人気のある精神分析論を編み出したコフートも、「自己愛のどこが悪い」という基本理念から出発しています。
それが悪いわけではなく、他人に認められないから自己愛が高まり、自分可愛さのあまり、他人に対する攻撃やわがままや身勝手なふるまいが昂じることが問題なのです。
「あおり運転」の宮崎容疑者はまさにそれを体現してくれた人だった、と思います。
そしてそんな彼をかくまったということで現在逮捕されている通称「ガラケー女」の喜本容疑者との関係も、お互いに唯一無二、自分を認めてくれる、という相手だったからこそ離れられなかったのではないでしょうか。
逮捕され、引き離されたあとのふたりはまるで別人のように良くも悪くもそれまで放っていた「気」を失っていましたものね。



以上で「自己愛」と「自分を受け容れている」ということとは別物だ、という説明になったでしょうか。
感情が安定していて「自己愛」に満たされている人は、たぶん「自己受容」も出来ている人です。
ただ順序が逆で、あまりにも対人関係が悪くなってしまったがゆえに、自分を愛してくれる人間はもはや自分しかいない、という状態になったときに異常に自己愛が高まるとそれは反作用として人を憎んだり攻撃的になったり、という行動としてあらわれるから、そういうものは違う、というお話しでした。



では、「自己愛」と「自己受容」が必ずしもイコールではない、ということはわかったけれども、あなたの人生何が問題だったの? と言われそうですよね。
私自身の生い立ちとして、小さいころから人に頼られるような役目を負ってきて、そして現実的にそれらをこなしてきた、という人間がかりに「私は自分自身を受け容れてこられなかったのか!」ということに気付いたからといって、何の問題があるの? ということについてです。
外側に現れている現象としては、たいてい何らかの役目を与えてもそつなく期待以上の成果をあげるよなぁ、とそれらをこなしてきて、本人としては疲弊してしまいました、ということでもありません。
それは自分を偽ってきたのだ、ほんとうはそんなに私って優秀じゃなかったのに、やりたくなかったのに、と言いたいわけでもありません。
では、何が問題なのか?
何も問題ではありません。
問題がある、とかこういうところを直さなくてはおまえは絶対に幸せにはなれないよ、ということではなくて、そこに気付いて認めてあげるだけで今よりさらにラクに自由になれるよ、ということだけなんです。
だから
「私も似たような人生だったな」とか「似たようなことを感じてきたことがあるな」という方で「このままでまったく満足しているし、より良くなんてことも求めていない」という方はそれでいいんです。
ただ私は、少しばかりの違和感をずっと抱いて生きてきました。
社会的な役割から解き放たれたときの自分には何が残っているんだろう?
何かしらちょっとした視点の違いで、パタパタとオセロの黒が白に変わるように私はもっとラクに生きられるのではないか、という思いがくすぶり続けていたのです。
それが探れないことにはこれまでずっと自己探求をしてきたことが意味をなさなくなってしまう、ここに目をつぶっておくわけにはいかない、みたいな。
そんな私がどうして「自己受容」ってやっぱり必要だなぁ、すべての根底と言っても良いよなぁ、と確信するに至ったかはまた明日お話ししたいと思います。


もし私と同じように、
「単なる自己愛とは違う、自分をほんとうに受け容れるという感覚が知りたい!」
と思う方は、是非冒頭でもご案内していますが、「太陽の自分コース ~自己受容ヴァージョン~」の案内を見てみて下さいね。
是非こちらをご覧下さい。



神はなぜ生贄を要求するのか?

2019-08-21 09:01:07 | 精神世界
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STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000
8/26(月)  10:00~15:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
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昨日は映画「天気の子」を観て、「思考は現実化する」について改めて考えさせられたことを書きました。
でももう1つ、どうしても書いておきたいことがあるので、今日も映画の話の続きです。
主人公の帆高少年(青年と呼ぶのがいいのか、少年でいいのかびみょーな16歳ですが・・ ここでは少年とさせていただきます)を東京で拾ってくれて、飯付事務所に泊まるということで良いのなら雇ってやる、と言った須賀は、都市伝説を扱う雑誌の外部ライターでした。
たまたま帆高少年が入社した月は「天気」についての都市伝説について書くことになっていた月でした。
それで須賀は帆高に
「なんでもいいから街に出て天気に関するいろんな都市伝説を集めろ」
と言います。
それによって帆高は「100%晴れ女」の陽菜と再会することにもなるのですが・・。



その取材の一環で、帆高はあるお寺を訪ねます。
お寺には天井画として龍の絵があり、昔から龍は雨ふらしの神、晴れ女は各村に1人は必ず居た巫女だった、という話をしてくれます。
そのとき住職が晴れ女について、
「彼女たちはほんとうにすごい高い確率で晴れにすることができた。しかし、彼女たちには悲しい末期が待っておったのじゃ。彼女たちは人柱として捧げられた」
と話します。
これは新海監督自らの原案のあくまでも“作り話”ですからね。
ほんとうにそういうことがあったわけではないでしょう。
でも、少なからず似たような伝説はあったと私は思います。
お天気を晴れにするかどうか、ということだけに限らず、あらゆる面において人間の願いを叶えるためには常に生贄が必要だった、ときにはそれが人身御供だった、という話は聖書のなかにもよく出てきます。



これが私には聖書にどうしてもなじめなかった理由の大きな1つでもあります。
「神は優しい父のような存在だ」
と言いながらも、やたらと捧げものとして生贄の羊やら動物たちを求めている描写に出くわします。
そしてうろ覚えですが、敬虔な信者だった(つまり、何にも悪くない)ヤコブだかイサクだか何かに対してはついに
「ならば息子を捧げることができるか」
とその者の信心深さを確かめるためだけに人身御供を求めています。
同じ一件だったかどうかさえわかりませんが、オーラソーマのB99「大天使ザドキエル」は慈悲の天使として、神の言いつけどおり我が息子を差し出した者に対し、ギリギリのところで
「もう結構です。息子さんを生贄にするのはおやめなさい。私から神にお願いしておきます」
と言ってやめさせた天使じゃなかったかなぁ。
こういう逸話を聞くと、つい私たち人間は「ほっ、よかった。ザドキエルってば優しい」と思ってしまいがちですが、これは神の眼から見たらものすごい反逆であって、優しいとかなんとかそんなレベルで片づけてよい話ではないはずですよね・・
この逸話はザドキエルの口を借りる形にするしか鉾の納め先がなかった神の計略でしょうか・・



聖書では「全能の神」という意味は、「なんでもできちゃう神」という意味ではありません。
神は不合理なことはしないし、自らの力をむやみに見せつけるようなこともしないし、罪を犯した者に対しては必ず償わなくてはならないのでその代償を求める、という意味のことが記されていたと思います。
そしてそれが理不尽かどうかは私たち人間の眼から見るジャッジであって、神の眼から見たらそれは何にも理不尽なことではないのだ、と言われます。
特に
「人間のジャッジでは理不尽に見えることでも神の眼から見たらそれでつり合いがとれているのだ」
ということについては、それを言っちゃあおしめぇよ、という寅さんのセリフをつい吐き出したくなりますわねぇ、と思っていました。
だって、私たちごとき人間のオツムでは及びもつかぬほどのもっと広く大きい視野から見たらこの生贄はちゃんと折り合いのついた正しい行為なのだよ、それは君たち人間のオツムじゃわからなくてしょうがないのよ、と言われたら、納得できないまま、ふぅん、そんなものですか・・としか言いようがないじゃないですか。
ひょっとすると神って単純なのかもしれない。
”人の心”とかそんなものはおかまいなしに、ただただこの「宇宙」というものを成立させつづけるためにはバランスが必要なので、そのためなら人を生贄に求めることもあるし戦争もまた致し方ない、という意識で居るだけなのかもしれない、と思ったりもします。
私はずっとそういうぶすぶすとくすぶり続ける思いを抱いてきました。
そしてこの映画を観たとき、改めてその思いが湧いてきました。
「どうして村人のために祈った晴れ女が神に供されなくてはいけないのか」
と。
そして実際に陽菜の身にも似たようなことが起こり始めるわけです。



もし、聖書の言っている意味が、
「キリストが現れるそれよりもっと以前には確かに動物や人間の生贄が行われていた。しかし、それは神が要求したわけではない。
神は自らの子どもと呼ぶほどに溺愛していたキリストを犠牲として捧げることによって後々の人類のすべてにおいての犠牲はもうこれ以上払わなくても良い、ということにしたのだ」
ということであれば、現代においてもまだ古い風習が残っているようなところではいまだ人身御供が行われていることについてどう説明がつくのだろう?と思います。
それは悪魔(サタン)のなせる業?
それは人間が神の意志に反して勝手にやっていること?
なんだか都合が悪くなると「それは神のせいじゃないから」と逃げられているような気がしなくもないです。
伝統や風習が生き続けるにはそれなりの理由があると思います。
聖書が世界中の99%の土地にまで普及したと豪語するなら、どうして間違った常識が残るのでしょう?
それが不思議でたまりません。
これもまた集団心理の潜在意識奥底に根強くあるものは外側の世界で実現してしまう、ということなのでしょうか。



私には、時々神が「人型」をしたような存在として、私たちの「父」として扱われるとそこがよりわかりにくくなってしまうのだ、としか思えません。
だって人なら人らしい心をそこに求めてしまうから。
けれども、この世に最初に生まれたものは何かしらの有機体が結合したことによる「意識」。
それが私たちが「神」と呼ぶもの。
その「意識」が、ある特定の方向性をもったときに現実化する、という程度に「神」のことを思っておいたほうが腑に落ちるなぁ、と思うのです。
そしてどういうときに特定の方向性をもつのか、と言ったら、この「世界」がバランスを保って存在し続けるためにはどちらかに極端にブレが起こったら、自然に是正が起こるのだ、というぐらいに思ったほうが説明がつく、と思ってしまいます。
そうなると神は拝むもへったくれもない存在になってしまいますがね。
いずれにしても、「天気の子」が再びその問題を考えさせるきっかけを与えてくれたなぁ、とは思ったのでした。





九星気学の「線路」

2019-08-18 09:01:44 | 精神世界
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9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
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お盆のさなか、「九星気学」の先生による特別講座「線路」が行われ、参加してまいりました。
河瀬七映先生、良い先生です。
これまで私は四柱推命や風水となるとどうも良い先生に巡り合えなかった。
なぜならそれらの方がみなその前身、「保険のおばちゃん」だった方だからです。
保険の外交員がいけないわけではありませんが、保険の外交で契約の決め手として
「あなたの運勢を四柱推命で見ると、今年は絶対に保険に入ったほうがいいわよ」
とか、
「保険のことで迷っていらっしゃるなら、わたし、風水ができるからそれを使ってみてあげようか」
なんて持ちかけるという使い方をすること自体が好感が持てなくて。
そして大体は「お金」についてその運勢を使ってきた人たちでもあるので、物言いがよく言えばさばけている、悪く言えば即物的というか、そこまであっけらかんと言い切ったら身も蓋もないやろ的な感じで、どうも私には合わなかったんです。
でも河瀬先生はおっとりされていて、心から九星気学を愛し、自らの生き方を糺すためにそれを使い広めたい、と思っておられるようで好感が持てます。



さて、「線路」ってやーだ、あの電車の線路のことじゃないわよぉ、って冗談ぽく言いたいところですが、実はその電車の「線路」から来ています。
昔、「駅」というものは馬を使って乗り継ぐ場所のことでした。
それはもう先を急ぐために馬を生き物とも思わぬ扱いをしていました。
走るだけ全速力で走らせ、もはやここまでだ・・という限界のところにだいたい「駅」が設定されており、そこには次の元気な馬が用意されていて次はそれを使い、精も根も尽き果てた、という馬はそこへ捨てていく、という使い方です。
ですから疲れ果てた馬は回復せず、そこでそのまま死んでしまうことも多かったそうです。
ですので、「駅」という場所は決して綺麗な場所ではありませんでした。
馬の屍やらそれらが朽ち果てて骨になったものなど、それを餌にしようと集まる獣などが集まるような場所でした。
ですから「駅」は人里離れた場所、その町がもっとも栄えている場所からはあえて少し離れて作られました。
今でも、昔ながらの面影を残す町では駅は「なんでこんな外れにあるんだ?」というところだったりします。
それは昔の馬を使っていた頃の名残りなんですね。



そんな決して綺麗な場所でなかった「駅」が電車が出来てからというものは「線路」というものが必要になりました。
線路とは「進展性の法則」と九星気学では呼ばれています。
その働きは大きく進展しながら継続し、最初の状態が末永く継続していく意味を持ちます。
汚くて馬の死骸が放置されているような場所だった駅が、線路ができたことによって早くその場所へ安全に到達できる夢の場所に変わったのです。
ですから人びとはその線路を最初どう名付けようか、と困っていましたが、なぜか九星気学の発想から
「そうだ! 進展性と継続をあらわす線路と名付ければいいのじゃないか」
ということになり、以来、電車のレールは「線路」と呼ばれるようになった、という話です。
ですから「線路」という言葉そのものは、駅と列車があってこそ、そちらの象徴ではなくて、むしろ九星気学の発想のほうが先だったんですね。
この話、初めて知りました。



それからなぜか話は
「進展性の法則ということでいえば、引き寄せの法則もね・・」
というように少し話がそれましたが、私にはそのときにすこぶる心を掻き立てられた言葉がありました。
それは先生が、
「棚ボタって言葉があるでしょう? あれ、皆解釈を間違っている人が多いのよ。棚の下でじぃっと待っていたって、ぼたもちが落ちてくるわけないじゃない。
よほどのアクシデントでもない限り、100年待ってたって落ちてきやしないわよね。
棚からぼたもちを落としたいなら、なにか棒を持ってきて下からぼたもちを突くとか、棚の下の壁をドンドン叩いてみるとか、棚をゆさゆさ揺さぶってみるとか、何かしら自分から行動しないと落ちてきやしない。
だから棚ボタを望むなら、自分でもそれなりに積極的に打って出ないといけないのよね。じっとしていていいわけではないの。それをわかっていない人が多い。
『生きよう』とするのと『ただ生きている』とは違うでしょ。
私たちが『生きよう』とする意志を見せるからこそ、天も『では、活かそう』という意志が働くのよ。引き寄せの法則というのはそういうものだ、ということを腹に収めなくてはいけない」
という話をされた時でした。



私にはなぜかそのとき、
“『生きよう』とするのと『ただ生きている』とは違うでしょ。
私たちが『生きよう』とする意志を見せるからこそ、天も『では、活かそう』という意志が働くのよ“
という言葉がとても沁みました。
取り立ててハッとするような言葉ではありません。
これまでにも何度も少しだけカタチを変えて聞いてきたことのあるような言葉だと思います。
それがこのときにはなぜかとても沁みた。
そういうことってありますよね。
今の私に必要な言葉だったんだなぁ、と思います。



これまでの人生において私は、
「『生きよう』とするのと『ただ生きている』とは違うでしょ」
と言われたら、「生きようとする」ことは私にとってイコール積極的に何か打って出る攻めの姿勢のことを問われている、と感じたことと思います。
大望を掲げなければ「生きよう」としていることにはならない、みたいな。
でも今の私の望みは、ただ「当たり前の日常に感謝し、ほんのちょっぴりの非日常(おいしいものを外食するとか日帰りのドライブを楽しむとかそんなこと)を心から楽しめたらそれでいい」なんですよね。
それって「生きよう」とすることにちゃんと該当している、って言って良いんだろうか・・?
ふと不安になりました。
でも先生はそんな私にきっぱりと
「それは生きよう、としていると思う。それで立派な姿勢だと思いますよ」
と言ってくださいました。
なんだか私はしみじみとその言葉をかみしめました。



さて、「線路」の語源はわかったけれど、で、それを九星気学ではどう取り入れて日常に活かしていけ、って言ってるの? ってことですよね。
ごめんなさい。
ただ今日はそれを習いに行きました、という自分の日常のなかの一コマを書きましたが、それそのものの意味や役にたつ豆情報をお教えしようと思ったわけではないんです。
いや、お教えできればそれに越したことないんですが、簡単なことではありますが、文字だけで書き起こして説明することが困難です。
やはり先天上位盤とか後天上位盤とか指し示しながらしか私には説明できない・・
ようは、自分の本命星に対応する十二支を使ってほぼ3日に1度は巡ってくるその「線路」の日を初めてのことをするときにそれが「進展しますように」「継続しますように」という願いを込めるために使いましょう、ということなんですね。
だから、「新しく起業しようと思っているんですがいつがいいですかねぇ?」という相談などにはうってつけ、使えると思います。
ご興味があれば、ネットで検索してみてください。
すぐに出てきます。
ただ、九星気学というものもただその方法だけがわかっても、自分の人生をいかに糺しながら生きるか、ということに使わないと意味がないと思いますし、そういう姿勢はなかなかネットで検索だけでは身に着くものではないんですよね。
ご興味が出てきた方は、お近くの九星気学の先生を探されたらよいと思います。



変わりたいのに変われないのは・・

2019-08-09 09:01:06 | 精神世界
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STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000
8/26(月)  10:00~15:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/11(水)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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最近、つくづくと
「変わりたい。だけれどどうしても一歩を踏み出すことができない」
という人が多いなぁ、ということを実感しています。
ていうか、そういう人しか世の中にはいないんじゃないか、と思うほどです。
私はそういう人はちょっと冷たいようですが、
「ほんとうは変わりたくないとどこかで思ってるのではないか」
と思います。
昨日も講座の生徒さんとそんな話になって、
「いや! 絶対にそんなことはありませんよ。ちゃんと変わりたいと思っていますよ。だってもう何年もこんなもやもやとした思いを抱えている生活が続いているんですよ。もうほんとに変わりたいって思っています」
とおっしゃるのですが、
「いや、あなたの潜在意識の深いところではそうは思っていないに違いない」
と私は言いました。
だって、これ本人の意志だけの話ですもん。
「変わりたいのにどうしても一歩を踏み出すことができない」というその原因は、いざ一歩を踏み出そうとするといつも外部から横やりが入る、とかそんな話じゃないんですよ。
自分が「変わる」と覚悟を決めて動き出すことがどうしてもできないのを、
「どうしてでしょうね?」
って他人に聞いたってわかるわけないですよ。
「ハイハイ、それはですね~~~」
って優しく回答するのがセラピーでもなんでもありません。
まずは正直に自分に聞いてみなくちゃ。
そうするときっと「ほんとうは変わりたくない」という本音に行き当たるに違いない、って思います。



なぜなら私自身がそうだったからです。
30代前半から40代後半にかけてほぼ20年という長きにわたって「このままじゃだめだ。変わらなくちゃ」って本気で思っていました。(というつもりでした)
なぜなら、共同経営していた会社がずーっと低空飛行だったからです。
どんな角度から見てもこれ以上浮上することはないと思いました。
でもどうしても「いや、ひょっとしたら・・」という1%の望みにすがってしまうということがありました。
会社が順調なら何も私は、「変わる」必要がない。
だから1%に夢をみてしまうんですね。
「今月はなんとか乗り切れた。だったら来月だって乗り切れるんじゃないか」
そう思いたい。
だからどうしても自分からえいやっ!と行動が起こせなかったのでした。
つまり、私の「変わりたい」は、本音で言えば、
「変わらなくても済むなら変わらないを続けたい」
だったのです。
そして「ほんとにダメだ」と見切りをつけることが出来たのは、それから何年も経ってからでした。



「こんな状況には飽き飽きしている」
それは「変わりたい」と口にする人の、確かに本音でしょう。
でも、「飽き飽きしながらも」、なにか素敵な白馬に乗った王子様のような事態が向こうから飛び込んできて、私をこの状況から救い出してくれるようなことでもあれば、それが1番望みだわ~と夢見ている。
心はいつもざわついているけれども、「一応今日も何事もなくやり過ごすことができた」→だったら変わらなくてもいいじゃん。
と思っているというのが本音じゃないでしょうか。
潜在意識は現状維持が大好物です。



経済的によほど追い詰められた人でない限り、自分の心の問題のほうを後回しにするのです。
これがもし、
「今日もご飯が食べられなかった。これでもう3日もなにも口にしていない・・ 明日もご飯が食べられないのだろうか」
なんて切実な状況だったら、人間絶対すぐに変わりますよ。
今の日本だったら、条件でごねなければ、今すぐどこかに面接に行ってとりあえず正社員でなくてもアルバイトでもパートでもいい、すぐに何らかの仕事はあることでしょう。
そうしたら少なくともすぐに何かは口にすることができます。



しょせん、「変わりたい」と言って変われない人は贅沢病だ、って言いたいのか、って?
いや、そんなつもりはありません。
ただ自分の内側で常に「まだ今のままでもいける」とか細かいジャッジが行われていることは間違いない、と思うんですよね。
「こんなに苦しいのに!?」
「こんなに何年もこの状況なのに!?」
と言っても、です。



では、こう自分に問いかけてみるといいかもしれません。
「あなたが変わりたい、やりたい、と言っていることは、日常生活が豊かに満たされて何の問題がなくても、それでも変わりたいですか?」
もし、自分の心の中に、
「う~む、すべて経済的に満たされた生活をしていたら、それで私は満足してしまうかもしれない・・」
と少しでも思うのなら、あなたの「変わりたい」はその程度のものだ、ということです。
非常にモチベーションが弱い、と言わざるをえません。
周囲の環境がどう変わろうと、私は、私の魂が「どうしてもそれをやりたいんだ!」と言っている、というほどの狂おしさで「変わりたい」と叫ぶなら、必ず変わるための一歩は踏みだせるはずだ、と思います。



この前、たまたま車に乗っていたときにカーラジオをつけていたら「人生相談」が始まりました。
わたし、こういうのを聞くとつい
「私だったら、どう答えるかなぁ」
と考えてしまうんですね。
一種の職業病でしょうか・・
このときには、
「夫と離婚したくて申し出たのに、夫はしたくないようで取り合わないんですよね。どうしたらいいでしょうか?」
という質問でした。
私はもうこれは単に「したい人」と「したくない人」の間でどう事務的な折り合いをつけるか、という弁護士レベルの答えしかないかなぁ、と思いました。
そうしたら回答者はこう言ったんですね。
「あなた、どうしてご主人と離婚したいのか、て理由をご主人にはっきりと言ったことがあるの? ご主人はあなたが口だけであなたもそんなに本気ではない、とタカをくくっているからそういう態度に出るんじゃないの?」
と。
それから質問者は「子どもがいるから子どものためにはあまり修羅場を見せたくない」とか、いろいろおっしゃいました。
それらも全部私にはごもっともに聞こえました。
私もそうするだろうなぁ、というようなことばかり。
でもこれにも回答者は一刀両断でした。
「きれいごとばかり言ってるんじゃなくて、あなたの本音でぶつからないと解決しませんよ。そんな言葉、あなたの本音じゃないでしょ」
と言ったのです。
それからは質問者は泣きながら、夫のことを
「殺してやりたいくらい嫌いだ。死ねばいい、といつも思いながら接している」
と過激な言葉を並べたてました。
でも、こんな言葉は彼女は誰にもぶつけたことはないのでしょうね。
一度、吐き出す必要があったのでしょう。
これで私は「本音」ということを考えさせられましたね~



さて、世間ではお盆となりますね。
私もこのブログを開設してから初めて、1週間ほどお盆休みをいただこうかなと思います。
毎日読んでくださっている方、ありがとうございます。
またお盆明けにでも再会いたしましょう。