ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

母を求めてきたコース、終了

2014-04-30 09:02:00 | 身辺雑事

 

GWのさなか、みなさんいかがお過ごしでしょうか?

 

昨日は朝からずっと雨で、そのことは天気予報で事前にわかっていたことなんですが、寒くて寒くてついにまたガスストーブとホットカーペットを点けました。

 

もうずいぶん何年も前から「GWごろまで長袖が手放せないな」というようになったことは何となく覚えていましたが、それは自分が年齢を重ねてきて新陳代謝が悪いためにいつまでも寒いのだ、と思っていました。

 

しかしさすがに今年のようにGWで、まだ暖房器具を使った年はなかったよなぁ、と思うと、異常気象と言われることに慣れてしまったのだろうか、と思いました。



さて、昨日はヌラの「レインボー・ウーマン」のコースでの自身の発見について書きました。

 

今日ももう1つ別の気付きについて、です。



私は当初このコースでは「母親との関係性についてなどにも触れるみたいよ。」と言われて、それが申し込む動機の1つでもあったけれど、徐々にそれについてはもうどうでもよくなっていた、と行く前にも書きました。

 

けれど実際にはコースでは結構どまんなか直球という感じで、両親とのことについてワークする時間がとられました。

 

私は「母親との関係性についても触れるみたいよ。」と言われても、せいぜいふと気づくと「それって母との関係に当てはめてみても言えることだよなぁ。」というワンクッションかませた感じの触れ方ではないかと思っていたので、面くらったほどでした。



これまでにもずっと母親との関係が良好とは言い難いことに対して悩んでいて、どういう態度でのぞんだらいいのか、という答えを求めてコースに参加したこともありましたが、そのどれよりも内角えぐる直球ストレートなワークでした(笑)

 

自分自身が、もういいや、そのことについては(決して投げやりな意味ではありません。自然に雲散霧消していった、という感じなのです。)と思い始めて、はじめてこのようなストレートで直球なワークのコースにぶち当たった、というこのタイミングをとても面白く思いました。

 

きっとこれまでの私なら生々しすぎて、まっすぐに向き合う勇気は持てなかっただろうと思うと、だからこそ今だったんだな、長かったな~と感慨にふけりました。



ワークをした後に私の中から浮かび上がってきた言葉は、

 

「お母さん、産んでくれてありがとう。」

 

というものでした。

 

もう、それに尽きる。

 

それ以外にはない、って感じでした。



それはこれまで生きてきてよく耳にする言葉でもありました。

 

それを聞くたびに私の上をその言葉は何に触れることもなくさらさらとただ流れていきました。

 

そして、他人からその言葉を聞くと

 

「ほんとかいな? ほんとにこの人は心の底からそう思っているのかな? どうするとそういう言葉がわき出るんだろう? わからない。この言葉にはどの程度の思いを込めているんだろうか。」

 

と不思議な「?」がいっぱい渦巻いていました。



けれど、自分の中からその言葉が自然にわき出てきたときに感じていたことはただただ「感謝」の2文字だけでした。

 

母に感謝をする。

 

母にはかなわないな、ということを認める。

 

それが新たな私の再生における、私の女性性かもしれません。



その感覚を感じることによりこれまで母に感じてきた怒りや嫌悪が消えたわけではないんです。

 

そのことがまた自分のことを他人事のように言うのもなんなんですが「おもしろいな~」と思いました。

 

これまで私は、母が死ぬときか私が死ぬときかどちらかまでには(どちらが先に死ぬかわかりませんからね。)、母との今生での関係に対してお互いに納得のいく答えを見出さなければいけない、というような何かしら強迫観念のようなものを抱いていました。

 

そしてそれが解消される時が来るとしたら、それは私がこれまでに母に対して感じてきたすべての強いマイナスの感情を流し去ったうえに、そこに新たなプラスのものがやってくるのだ、と思っていたのです。

 

でも実際にはそんな感じじゃなかった。



あるものは、そこにあるがまま。

 

それらを包含するような形で「感謝」、それも「産んでくれただけでオールOK」という多大な感謝がやってきたのでした。

 

よく、「子どもは3歳(←ひょっとしたらここは5歳だったかもしれません。)までに全部親孝行をしちゃう。」、だから親はそれ以降の子どもの態度についてはもうあきらめるしかないんだよ、それまでに子どもは十分親孝行しちゃってくれてるんだからそれでいいんだよ、というような言い方がありますが、あれと同じような意味で、私は「親はもう私を産んだ時点で、すでに親としての最大の任務は完了しちゃってるんだから、それでいいんだよ。」と思ったのでした。

 

心からそう思いました。

 




そしてそれ以降の私が母に感じてきたものもろのマイナスの感情はワインの底に沈むオリのように沈殿してまだあるけれども、それを覆い尽くすような形で良好な上澄みが注ぎたされた、という感覚でした。

 

それが私の母に対する「産んでくれてありがとう。」でした。

 

そうしたらとてもすがすがしくてすっきりしました。

 




昨晩、帰ってから母に電話をする用事がありました。

 

私は母に電話するのが嫌いなんですよね・・

 

店の営業時間中だと特に。

 

忙しいからか、極端にぶっきらぼうで愛想が悪い。

 

ひどいときには、母が出たとたんに私が、「あ、もしもし? 私。」と言うと、

 

「もしもし、あ、恵津子?」とも何とも言わず寸暇を置かずに、

 

「忙しいから早く要件だけしゃべって。」と言う。



自慢じゃないけど、私が母に要件以外ののんびりとした世間話をするために電話をしたことなんてあったか!と啖呵を切りたくなる。

 

でも、そう言われると一瞬うっと言葉に詰まる。

 

「てにをは」を一言一句間違えずにもっとも効率のよい言葉を選ばなくては、と思うからです。

 

「要件その1.本日私の知り合いが18時半に5名、そちらへ食事に行く。席を確保できるものならお願いしたく電話した候。以上。」みたいな。

 

で、切ってからはぁ~、なんでこんなに気を張って電話しなくちゃいけないんだ、となぜかむかむかしてくる、というような次第であります。



それが昨日は営業時間中で忙しそうだったにもかかわらず、

 

「あ~、そうなの。うんうん、わかったぁ~」みたいな感じでえらく人間的。

 

そうなるとこちらも機嫌よく、「うん、じゃあお願いね~」とか言えるし。

 

そして電話を切ってから、不思議~、なんだ、ふつうにしゃべれるじゃん。

 

これってひょっとして私がヌラのコースで母に対して何か1つふっきれた、っていうものが波長として伝わった? なんて思いました。

 




私はこの先、もう母との関係性改善を求めてということを目的として、何かのコースに出るということはしないでしょう。

 

考えてみれば母と直接向き合うことなく、自分だけが勝手に悶々としてその解決を何か外側(コースに出る、というような)に求めていたんですね。

 

けれど、ようやく内側から少し認識を変えることができたので、直接向き合うこともできるようになったような気がします。

 

あとはコツコツと日常のなかでこの気付きを生かして母と向き合っていきます。

 

まぁ、それはこれからも「キィ~ッツ! 憎たらしいったらありゃしない。」と思うこともあるでしょうが・・



これが私と両親のボトルたちです。140427_175104

 

不思議なことに私が「これが母のボトルだ。」と選んだB59のボトルは、おととし「リスニング・スター・ウィズイン」で4日間ずっと目の前に置いていたボトルと同じだったんですよね。

 

あのときには最後に「この子たちはあなたたちの話をずっと聞いていたんだから。」と言って、ボトルをそれぞれにプレゼントされました。

 

けれど私はそのB59をどうしようか持て余してしまって・・

 

ずっと箪笥の上に飾ったまま、いつしか埃をかぶっていました。

 

いまこそ、このボトルを「母のボトル」として塗ってみようかな、と思います。

 

私のボトル⇒母のボトル、母のボトル⇒私のボトルという順序で塗ろうか、父のボトルはそのどこに加えようか、いま楽しく悩んでいるところです。

 

 

 





 

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ヌラの「レインボー・ウーマン」

2014-04-29 09:35:00 | オーラソーマ

 

一昨日まで横浜でヌラ・クラフト先生の「レインボー・ウーマン」を受けてまいりました。

 

これまた自分の深いところを刺激されるコースだったわ~



ヌラ先生のコースを受けるのは初めてだったのですが、「エレガント」というのは彼女のためにあるのか、というような女性でした。

 

オーラソーマの動画サイトで見たことはあったのですが、実物のほうがウンとステキ!

 




コースは、「港の見える丘公園」の一番奥にひっそりとたたずむ神奈川文学館の和室で行われました。

 

ここに行くまでの道のりがまたステキで・・・140426_095001 140426_094301

 

いかにも横浜の情緒が漂う建物を横目に、港の見える丘公園内の咲き乱れるお花たちの横をすりぬけ、高台からレインボーブリッジを眺めることのできるところです。140426_095201



さて、「レインボー・ウーマン」とはどんな女性のことなんだ?

 

私は最初にこのコースのご案内を受けた時、

 

「とにかく女性性が目覚めるのよ。」

 

「母親との関係にも触れるみたいよ。」

 

「会場には男性は一歩も入ることができないんだから。」

 

などと聞いて、とにもかくにもへぇ~、何だかわからないけれどおもしろそう~と軽い気持ちで、しかし何かこれは自分にとって大切な受け取るものがありそうだ、という気持ちになって申し込んだのでした。



いま、終わってみて、

 

「レインボー・ウーマンって結局、どういうコースってこと?」と言われたら、

 

「数々の条件付けを外してラクになるコース」と私なら答えるでしょう。

 

これまで社会のなかで“女性”のほうが“男性”よりもいろんな役割を演じることを強いられてきました。

 

家族のためにこまねずみのように立ち働き、それでも文句1つ言わずにこにこといつも笑顔を絶やさないでいる母親・・

 

旦那様をいつも立て、三歩さがって控えめでいる貞淑な妻・・

 

そして一歩外へ出たら、それはそれで回転の速い仕事のできる女性・・

 

しかも、働くのはいいけれど、家の中のことは完璧にやってから行けよ、それなら働くのも許してやる、みたいな言い方をされたりして。

 




役割以外にも「女性に求められるのぞましい態度・振る舞い」ということにおいても、

 

「女性は常に気働きが出来なくてはならない。」

 

「女性はでしゃばってはならない。」

 

「女性は影の補佐が得意であるべきだ。」

 

など、要するに多くの「~べき」に囚われながら生きてこざるを得なかった。

 

そういった“条件付け”を外して自分自身をラクにしてあげましょう、というコースだった、と思います。



実際に、初日にヌラが全員に尋ねました。

 

「あなたたちは、いま、自分が条件付けで生きている割合は何%だと思っている?」と。

 

そう言われて私は考え込んでしまいました。

 

というのは、先述したような女性の「べき論」はすべて私は受けてこなかったからです。

 

私の両親はむしろその正反対に私を育ててくれました。

 

「女性であっても積極的に発言していいんだ。」

 

「これからの時代は結婚が女性の一番の幸せではないんだ。」

 

「1人でいろんな役割を受け持って大変になることはないんだから、母親になんてならなくていいんだ。」

 

Etc.etc・・・

 




きっと両親は自分たちが育ってきた時代の風潮で間違っている!と感じてきたものを自分の子どもには味あわせたくない、と思ってきたのでしょう。

 

けれどそれは新しい“条件付け”にしかすぎませんでした。

 

私にとっては「どちらだって、あなたの良いようでいいんだよ。」という選択肢の自由を与えられた、というよりはむしろ、

 

「女性であっても積極的に発言すべし。」

 

「結婚せずにバリバリ働くべし。」

 

「母になる負担から解放されるべし。」

 

というそれは教訓であり、“守るべき”教えになってしまっていた、という点では同じことだったのです。

 

しかもそれは「これまでの女性像に比べて、もっとこれからは~あるべき。」「男性と比べて、もっとこれからの女性は~あるべき。」ということでもあったわけですから、周りの誰がどうであろうと、というよりは常に何かと比較して自分の立ち位置を確認してきた、という作業でもあったわけですね。

 

それは長年のしいたげられてきた女性像を踏襲することなんてないんだ、これからの時代はもっと自由でいいんだ、という私の両親からのありがたい教えではあったわけですが、それもまた新たな条件付けではあったんですよね。

 




だから私はヌラの質問に対して、こう質問しました。

 

「それは、世間一般の女性に対する条件付けですか? それとも私が個人で受けてきた条件付けに対して?」と。

 

するとヌラはこう言ったのです。

 

「どちらであろうと、それをあなたが喜びからやってきたかどうかということで考えればいいのよ。」と。

 




なるほどね~!!!

 

私はその瞬間に胸の奥にぽっと灯りがともったような気分になりました。

 

“何事も自分の心からの喜びからできているかどうかで判断すればよい。”

 

それは何も目新しいフレーズではありませんでした。

 

これまでにもあのときにも、あそこでも聞いたフレーズではありました。

 

けれど改めてそれは私を心から鼓舞してくれました。

 




このときの私には何もわかっていませんでした。(今でもかもしれません。)

 

では、私は両親の教えを心からの喜びでやってきたか?と考えていくと、そのなかには何の躊躇もなくやってこられたものと、心のどこかでは違うと思いながらもそうしてきたほうが両親が嬉しそうだからそのほうが自分も楽だ、と思ってしてきたこともあるし、いろんなグレーゾーンがありました。

 

親の嬉しそうな顔を見るのが自分だって嬉しいから、それは自分自身も嬉しいことだと思ってきた、ということをさて、「心からの自分の喜びだったのか」「実はそうではなかったのか」どちらのバスケットに放り込むのだ?と考えるとそれは簡単にはいかないものです。

 

あえて開き直って言うならば「親を喜ばせるのが自分の喜びであって何が悪い。」という気もします。

 

たとえそこには何か自己犠牲が伴うものであったとしても、やはり喜びのほうがまさっていたのだ、と思うものもあるのです。

 




そう考えるとこの考察1つをとっても一筋縄ではいかないように思いましたが、私はそのことを、

 

「だからぁ、そんな簡単に一言で『喜びから来たものを』って言われたってそこが難しいんだってば。現実の世の中で起こっていることは1つ1つがいろんな細かい事情がからみあって判断が難しくなるんだから、そういう現実的な対応においてすぐに使える教えでないと意味がない。」

 

というようには全く思いませんでした。

 

むしろ、「数々の女性に対する条件付けを、自分の心の底からの喜びでやったことなのかどうかで決めればいい。」というただその一言がとても大切なのだ、と思いました。

 

私の中ではまだ現実問題としては整理がつかないことはいっぱい、ある。

 

けれど、「心の底からの喜びで決める」とはどういうことなのだ、ということはこれからの私の学びだ。

 

そこをヌラに詳しく語ってもらって教えを乞いたいとは思わない。

 

そんなことをされたら、私の学びを奪われた、という気持ちになってしまうでしょう。

 

十分です、十分です、これだけで十分です、という満たされた気持ちでした。

 




最近、コースに出てもこういう感じになることが多いです。

 

こういう感じ、というのは、この「たった一言」がこのコースを象徴していた、というか、自分にとってはこの一言を聞くためにここにやってきたのだ、という感じ。

 

以前はもっとコース全般ににじみ出ている空気感に酔いしれていたり、掘り出し市に行ったかのように財宝がそこかしこにきらきら、みたいな感じであれもこれも自分のものにしなくては、という感じでしたが、最近はそのなかにたった1つ、自分に必要な宝石をみつけたらあとの宝石はもう必要ないかも、という感じ。

 

これは私にとっての成長なんだろうか?

 

よくわかりませんが、これから私はいろんな人が私にくれた“条件付け”を、

 

「ありがとう。そのときには確かにこれが必要だったと思う。

 

けれど、もう誰とも何とも比較しなくてもいいようになったの。

 

だから、それらを脱いでいくね。」

 

という学びを1つ1つ日々の生活のなかで行っていこうと思います。









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いろんな暮らし方

2014-04-28 09:12:00 | 身辺雑事

 

この前、うちの近くの食堂でダーリンと夕食をとっていたときのことです。

 

注文していないのに、奥さんが、

 

「これ、食べてみて。」

 

と一皿を私たちの前に置きました。

 

それは、山ウドの天ぷらでした。

 

一口口に入れると峻烈な春の香りが立ち上りました。



「わぁ~! おいしいもんですね。山ウドの天ぷらって初めて食べた~!」

 

とはしゃぐわたし。

 

すると奥さんが目を細めて、

 

「この前ね、谷汲に小さな私たちの小屋があるんだけど、そこでは春になるといろんな山菜がいっぱいとれるの。

 

いっぱいとれたときにはタダで取れたものをお金にしようと思ってね。

 

今日は少しだけだったから、おすそわけ。」

 

と笑いながら言いました。

 




この小さな食堂は食事だけをしに訪れる人と、お酒で一杯やりながらちょいとつまみたい人が両方来ることができるような雰囲気の、ほんと下町の、その町に根付いている人たちのためにひっそりといつまでもいてくれるようなそんなお店。

 

370円の「今日のお惣菜セット」には3品もついているんですよ~!

 

めっちゃお値打ち。

 

この「今日のお惣菜セット」で一杯やって、2、3本何か串ものを注文して、ラーメンで仕上げるっていうのが私たち夫婦のいつものパターン。

 

このラーメンがまた、おいしいんだ。

 

専門店のラーメンはそれぞれが特色があっておいしいけれど、それ1杯で勝負しなくては!っていう意気込みのためか、毎日飽きずに食べられるようなふつうの醤油ラーメンが減ってきているような気がする・・

 

ここのはシンプルでくどくないから汁物とちょっとやっぱり炭水化物もほしいかな、って感覚で注文できる。

 

私の方が帰りが遅かったり、買い物にも行く暇がなかったり、疲れた~っていうことで夕食の支度をボイコットする日にはお世話になっています。

 

我が家のセカンド・キッチンみたいなお店なんです。

 




「ところで、小屋って・・  別荘があるんですか? すごいな~!」

 

と言うと、

 

「ううぅん、別荘なんていうレベルのものじゃないの。ほんとに小屋。

 

でもここから1時間もかからないところだけど、気温差は7度くらいもあるから夏には涼しいわよ~

 

あ、でも囲炉裏をしつらえたから、冬もそれはそれでいいかも。」

 

「わぁ! 囲炉裏があるなんて、やっぱり立派な別荘じゃないですか。」

 

などという会話を楽しみながら、2,3杯飲んで私たちはさっと引き上げるのです。



それにしてもそういう暮らし方っていうのも憧れるな~

 

街中でその町の人たちの日々の暮らしとかかわりながら一緒に生きて、週末はセカンドハウスへ。

 

そこでは町では味わえない里の野菜をつくったり、山菜を取ったりしながら、楽しむ。

 

単なる息抜きでもなく両方の日々が両方を引き立てあっているような感じ。



最近、クラインガルテンという滞在型市民農園の暮らしを楽しむ人が増えてきた、というのをご存じでしたか?

 

ドイツでは盛んな制度で、200年の歴史がある農地の貸借制度だそうです。

 

1区画がだいたい100坪くらいのところで、主役はあくまでも農地。

 

その脇に小屋のようなラウベと呼ばれる家屋が建てられています。

 

ただいまのところ、日本ではたいていが3年~7年契約で自動更新とかはないみたいです。

 

だからそれだけ経過したら必ず出なくてはならないわけですね。

 

ということはあくまでも「農作物をつくりながら暮らしてみる」ということを“体験してみる”ということがメインなわけで、そこに生涯住居をかまえたい、ということを前提としないでね、ということなのかな。

 

難しい規約はなくて、唯一、「必ず農地で何か作物をつくること」というのが約束ごとだ、というところが多いみたいです。

 

だから、植える作物にもよりますが、1週間以上訪れない、夏だけのリゾートとして使おうか、というのは無理でしょうね。

 

住民票を移すこともできないので、今住んでいるところとはきれいにおさらばして5年なら5年でもいいから毎日ここで暮らしてみようか、ということもできないみたいです。

 

以外に全国に何十か所もあるようで、たいていが1年40~70万くらいの賃借料金になっています。



リタイア後は本格的に田舎暮らしを考えているけれど、実際に住んでみると意外にこんなことがあったか!ということも考えられるのでひとまずプチ体験してみたい、とか週末の趣味をもちたい、とかスローライフを体感したい、というセカンドライフを考え始めた団塊世代の方たちに受けが良いようです。

 

最初、このクラインガルテンの制度を知ったときには、

 

「わぁ、なんていい制度があるんだ! こういうの、利用してみた~い!」(週末のみクラインガルテンでそこで取れた野菜を使ったランチを提供しながらオーラソーマ、なんていいですよね! まぁ、たぶん営業に使っちゃいけないんでしょうが)

 

と思いましたが、よくよく考えてみれば今いるところを離れるわけでもなく、まったくの“趣味”と割り切るなら年間40~70万というのはちょっとしんどいかもと思いましたし(借りるだけでそれだけですからね。いざ、そこに居るときのことを考えたら結局、二重の家財道具が必要になるわけですしねぇ・・)、将来田舎で暮らすのもいいかもと思って、それを失敗しないために前もって体験しておく、ということであれば、前もって体験しておくために散財しなくてももっとよく調べてえいやっ!でやってもいいような気もするし、会員制リゾートホテルという手もあるなぁ、とか思えてくるし・・(いやいや、真剣に検討しているわけではありませんよ。)



でも、日本では住宅を買うということは一世一代のことだし、これまでは持ち家なのか賃貸で一生を送るのか、持ち家ならば、それは一軒家にするのかマンションなのか、ぐらいしか選択肢がなかったのが、いろんな生き方、暮らし方の志向に合わせて選択肢が増えるのはいいことだよなぁ、と思いました。

 

この前も、証券会社に勤めていてバリバリのキャリアウーマンだった人が40代ですっぱりとリタイアして、今じゃパタゴニアで第二の人生を送っています、という方の人生をテレビで見ました。

 

「どうやって今は生計を立てているんですか?」とレポーターが聞いたら、

 

「それは40代まで働いていた時に貯めたお金です。」とおっしゃっていました。

 

へぇ!

 

ちゃんとその意識があって日々を送っていたら、20年強働いて貯めたお金であと倍の約40年残っている人生をそれで生きていけるんだ、とちょっとびっくりしました。(もちろん貯め方や住む場所によるけど)

 

人間、何を志向するかによってちゃあ~んとそれに伴う住むところも与えられるんだな~と思いました。

 

なぁ~んにも考えずに暮らしていたら、たぶん、ずーっとここにいるんだろうな・・

 

そう思ったら、住む場所にもう少し夢をもってこれからのライフスタイルを志向するのもいいな、と考え始めたのでした。







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女性の社会的立場

2014-04-27 09:03:00 | 社会・経済

 

先日、「最近年上部下(言い換えれば年下上司)が増えてきたので、やりにくい。

 

自分より年上で経験も豊富な人には言いにくいこともある。そういうときにはどうしたらよいのか?」と尋ねられました。

 




日本は長らく年功序列社会でした。

 

いくら能力があっても年齢のせいで無能で働かない人を給与や役職の面で追い越すことができない、というのはおかしい、ということで外国を見習って能力主義、成果主義になってきているところが多いですよね。

 

でもまだシステムが根本から変わったというところまではいかないので、そこにはひずみも多く出てくるわけです。

 

早い話が、お役所が良く使う「前例がない」ってヤツです。

 

前例がないということは、みんなが「ああいう風にやればいいんだな。」「これをお手本にすればいいんだな。」という規範がないということです。

 

規範がなくては誰でも動きづらくなることは当然です。

 

こういう場合は「行動原則をルール化すればいいのでは」ということをお話しました。

 

今までルール化されてこなかったんだから、ルールを作れば年上部下も年下上司もお互いに無駄なく動きやすくなるだろう、と。

 




でも、これは大企業の話です。

 

中小企業や個人商店での「年上上司」というのは、たいていの場合、長年勤めてくれているパートのおばちゃんのことだったりします。

 

彼女たちは経験年数が長いので、店の隅々のことまで精通している。

 

そして実によく働いてくれる。

 

けれど、パートだからボーナスや福利厚生の面で正社員の人に比べたら手取りが低い。

 

「おんなじことやらされているのにね~」とか「むしろ私のほうがあの正社員よりずっと働いているのに」「責任だけ重くなっても困るわ。」という不満。

 

これに対しては「ルール化」で解決するようなことではありません。

 




そんなとき私はある人からこんな話を聞きました。

 

「あるパートさんがね、その日の朝、急に子どもが高熱を出したから休みたいって電話をしてきたのよ。

 

そうしたら店長が第一声で『えっ、よりによってこんな忙しい日に!』って言っちゃったんだよねぇ。

 

別にその人の子どもだってよりによってこの日を選んで高熱を出したわけではないからねぇ。

 

彼女はその言い方がショックだったらしくて、それからめっきりやる気を失っちゃったみたいで、3か月くらいしてからやめちゃった。」



店長さんも余裕がなく働いていると思わず本音が出ちゃったんでしょうね。

 

でもここは第一声で言ってほしかったのはやはり、

 

「それは大変ですね。お子さん、大丈夫ですか?」の思いやりの一言です。

 

そうすれば、彼女もきっと

 

「はい、ありがとうございます。 まだ何ともわからないんですが、多分ただの風邪だと思いますので、今日1日様子をみたら、明日からは何とか出勤できるとは思うんですが。」

 

と言えたのでしょうが、「よりによって・・」と言われたら、「私だってそんなつもりではなかった!」とカチンときてしまったのでしょう。

 




ほんとに子どもってなぜか「よりによって」という日に熱を出しますからねぇ。

 

うちもこの前、娘の初出勤の日に孫が熱を出した、ということがあったのでまったく他人事ではありません。

 




さて、この例をみてもわかるように、経験豊富なパートさんは、自分の待遇や給与面のことを聞き出せばそりゃ不満はあるでしょうが、そのことが直接年下の上司との確執を生むわけではないんです。

 

「そのようにして日々頑張っている私に対して、その言い方はないだろー」という「わかってくれてない」「認められていない」という片鱗を見るとガクッときちゃうんですね。

 

ほんと、この例で人のモチベーションはお金じゃないんだ、と改めて思いました。



さて、話は飛びますが。

 

先日「偽せのDV離婚が増えている」という話を聞きました。

 

現在の日本では、妻側(女性側)から「夫にDVに遭った」という被害届が出されたら、夫側はその真偽のほどを確かめられるまでもなく、まずOUTだそうです。

 

けれど、まったくその事実がないにもかかわらず妻側から賠償請求やそれをタテにした離婚訴訟を起こされて逆に訴訟して勝訴するケースもちらほら出てきたようで、女性側からの「DV被害」の届け出もまるまる鵜呑みにして信じてよいのか?という社会になってきたようです。



どうしてこういうことが起こるのか?というと、妻側から「離婚したいのだが、どうしたらよいのか?」(理由はDV以外で)という相談を受けた弁護士は、「DVが存在した」ということにすると期間的にも早く片がつくし、自分の実入りもよくなるからということで必ず「DVはなかったんですか?」と尋ね、「なかった」と妻側が言っても、「よぉく考えてみて下さい。こういうこともDVになるんですよ~」とそそのかすようなことを言い、早い話がなかったものをでっちあげてまでDV離婚にもっていく、という事例が増えているんだそうです。

 

そしてそのインチキが夫側の抵抗にあって実態が徐々に明らかになってきている、というわけですね。

 

これはひどい話です。



でも、どうしても弱い立場に長く置かれていた女性からの届け出となると警察も裁判所もそのまま鵜呑みにする、という風潮があるんでしょうね。

 

まったく火のないところに煙を立てられた夫側も気の毒ですが、こういう事件が増えるにつれて本当にDVに遭っている人が申し立てをした場合にもその事実確認が異常に厳しくなってしまうのではないか、という懸念もありますね。



このように、いま日本では女性の地位というものが「まだまだなかなか変わっていないな。」と思わせられることと、「長らくに及んだ女性という立場を逆利用して・・」という事例が増えることによってせっかく進みそうだった改革が遅れそうになったりというもろもろのひずみの現象が起きているところだな、という気がしました。


オーラソーマでもB91「フェミニン・リーダーシップ」が誕生してからもうひと昔となりますが(10年ひと昔と言いますからねぇ)、ほんとうにそれから女性がリーダーシップをとれる時代がやってきたといえるんでしょうか。B091

 

オリーブグリーンには実に深い意味がいろいろとあって、何も「フェミニン・リーダーシップ」だけがメッセージではありません。

 

「自分の源にめざめる」という意味もあったりします。

 

最近、うちのサロンではこのB91を選ぶ人がなぜか続いた、というのも何か意味があることのような気がします。

 






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あるメンタルトレーナーの教え

2014-04-26 09:04:00 | うんちく・小ネタ

 

女子プロゴルファーの横峯さくら選手が自身が帯同しているメンタルトレーナーの男性(男性は当たり前か・・)と結婚しました。

 

やはりプロスポーツ選手にとってはメンタルコントロールがとても重要ですね。

 

1990年代に活躍した世界最強のアニカ・ソレンスタム選手がツアーで勝ちまくっていた頃、その強さの秘密を自身で「メンタルトレーナーのおかげだ。」と発言し話題になりました。

 

まだ当時は技術のコーチのみならず、メンタルにもコーチやトレーナーと言う人がいるんだ、というのが物珍しかった時代です。

 

私もその時に初めてメンタルトレーナーという職業を知ったのですが、彼女がそのときに「例えば・・」と公開したことは、今でもとても役立っています。



ソレンスタムは、

 

「例えば何かミスショットをする。

 

それをいつまでも引きずっていても仕方がない。

 

けれどどうしても脳裏に浮かんだり、なかなか忘れることができない。

 

次のプレーに影響してしまう。

 

そんなときメンタルトレーナーに言われたのは、パソコンの<ゴミ箱>のアイコンをイメージして、そのなかにそのミスショットをぽぉんと放りこんでごらん、そうしたらどうしてもそのショットから学びたいという気持ちになったときにはまたゴミ箱から取り出せるし、少なくとも今、デスクはきれいになるよね、と。

 

それから私はミスショットをすると、このゴミ箱にそのショットを打ったときの1から10までのイメージを放りこむことをイメージするようにしたんです。

 

そうしたら見事に忘れることができました。」

 

と言ったのです。

 

とにもかくにもイメージ。

 

この、脳を教育するのにもっとも簡単な方法は、私もいただき~!と思って何か自分がとらわれたり、こだわり過ぎたりする考えがあるときには使わせていただいています。



さて、このようにメンタルトレーナーの仕事とは、「ストレスや極度の緊張や負の感情から解放されるにはどうしたらよいか」を教えてくれるもの、だと思っていました。

 

メンタルトレーナーはあくまでも“メンタル”に関するプロなわけですから、例えばソレンスタムにゴルフのスキルの面からアドバイスなんて出来るわけがないし、そこはちゃんと別のコーチがいらっしゃるでしょうから口を出すものでもないでしょう。

 

そうしたら必然的に一流であるがゆえに押しつぶされそうになっている心のケアをしてあげることのみに専念することになるよなぁ、と思っていたのです。



けれど、最近横峯さくら選手に限らず、一流のアスリート達は自分専用のメンタルトレーナーをずっと帯同させたりする人が結構いらっしゃいますね。

 

そうなると試合などで「いま、この瞬間に私はどうしたらいいのか?」という選手に的確なタイミングでアドバイスをする必要が出てくるわけで、そういうとき、例えば横峯選手のメンタルトレーナーだとしたら「私はゴルフについては全く素人だから」で通るものなんだろうか?とふと疑問に思いました。

 

専任になればなるほどよりその選手に深くかかわることになるぶん、その選手が身を投じているそのスポーツについても深く知らないといけないだろうし、大変だろうな~と思いました。

 

そこで、この横峯選手と結婚した森川陽太郎さんというメンタルトレーナーはどういう考え方でメンタルトレーニングをやっていらっしゃるのだろう?ということが気になり、彼のHPを見てみました。

 




そうしたらそこにはいきなり衝撃のフレーズが!

 

タイトル下に「ポジティブ・シンキングは無駄」という大きな文字が躍っていました。

 

どうして?と思いながら読み進めていくと、なるほど彼の考え方がよくわかりました。

 

そこにはそもそも私がメンタルトレーナーの大きな仕事だと思っていた「緊張やストレスや負の感情から解放してあげる」ことこそがメンタルトレーナーとしての仕事か、というとちょっと違う、と書かれていたのです。

 

森川氏は言います。

 

「一般的にはそうかもしれない。

 

けれど、そうするとそこで一瞬承認されラクになることがゴールになってしまう。

 

ほんとうのゴールは、結果を出すことのはずだ。」と。(これは特にスポーツの場合には、ということもあるでしょう。)

 




この“一度承認されラクになることがゴールになってしまう”という部分にうなりました。

 

人はやはり認められれば、嬉しい。

 

これまで誰からも承認してもらった、という受容経験を感じていない人ならなおさら。

 

でもそれだけに「ここでは認められた!」となるとそれが嬉しくて、それがもうゴールになってしまうということがあるんですよね。

「よしよし、つらかったことでしょう。わかりますよ。」

「ずっと前向きに頑張ってきたんですよね。自分を褒めてあげましょうよ。」

などなど・・

 

それは心理学的なコンサルテーションでも起こりがちなことなのでわかります。

 

オーラソーマのコンサルテーションだとそこで満足してしまって、2度とコンサルテーションに訪れないという場合は「勿体ないなぁ・・」と思います。

 

オーラソーマのコンサルテーションに訪れないだけで、その人はそこをゴールだと思ったわけではなくて、そこをスタートだと認識してちゃんと歩んでいるんだ、と信じてあげたいですが。



そしてスポーツ専門のメンタルトレーナーである森川氏はこう続けています。

 

「日本人は限界を決めるということが悪いことだと思っている人が多い。

 

でも実際には“いま”できることには限界はある。

 

だから“OKライン”を設定しましょう。

 

評価基準を周りにあわせようとするとOKラインは高くなっていきます。

 

すると完璧な自分にしかOKを出してあげることが出来ず、自己否定感ばかりが強くなってしまうのです。

 

OKラインを下げて、簡単な、実現性の高いものに設定したとします。

 

できて当然のことであってもそれをクリアすると意外なほど達成感が得られるものです。

 

その小さな達成感の積み重ねがメンタル的にはとても大事で、自分に対する信頼、自己肯定感を持つことにつながります。

 

その日の体調、かかってくるプレッシャーをすべて受け入れ、その日の自分に“できること”“できないこと”を把握し、OKラインを設定する。

 

このサイクルを確立すると、目標に向かう過程でも自己肯定感を持ち続けることができるのです。」



なぁるほどねぇ。

 

これは元サッカー選手で5度の手術と5年にわたるリハビリを乗り越えた森川氏の言うことですから説得力があります。

 

この森川氏の教えによって、「いつもポジティブでいなきゃ。」と自分を無意識に苦しめていた横峯選手はOKラインを下げて”その日の自分にできること”をし続けたら自然に結果がついてくるようになった、ということです。

 

OKライン”は、“目標”とは別モノでしょう。

 

目標は少し高いところに設定しますが、OKラインはあくまでも「その日」とか「この仕事には」とかいう1つ1つの短いサイクルのものに対して「ここまでできたらよしとしよう。」というむしろ最低基準のようなものだと思います。

 

それってなかなか普段見落としている視点っていうか、設定しないことじゃありませんか?

 

どうしても「自分はもっとできるはずだ」と思いたいから、“目標”のみを掲げて生きていることが多いんですよね。



森川氏の持論の中で私は、

 

☆ゴールは承認ではなく、結果を出すこと。

 

☆ポジティブもとらわれすぎるとそれが自分をがんじがらめにして苦しめることになってしまう。

 

☆人間の能力に限界はない、ということを信じるのは未来の自分のとてつもなく大きな可能性を信じられて晴れやかになるのだが、“いま”できることには限界がある、と見知ることも大切。

 

というのがとても新鮮に感じられました。

 

私も自分のOKラインを見つめなおし、小さな達成感をいっぱい感じたい、と思

 

います。

 








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