少し前に「奇跡を呼ぶ100万回の祈り」という本を紹介しましたが、同じ著者の「生命の暗号」という本を読みました。
私は、直感でこれだ!と思う本があると、1冊読んでからまた買えばいいのに、最初から3,4冊同じ著者の本を買い込む、というクセがあるんです。
この村上和雄氏の著書は、だいたいどれを読んでもすこぉし視点を変えてあるだけでほぼ同じ内容を語っているようです。
だから「またかぁ。」と思うか、「余計に理解が深まってよい。」と思うかは、読み手の自由ですね。
この「生命の暗号」は、村上氏の本業である遺伝子研究のことについてちょいと詳しく触れられています。
なので、科学的な見地から見て、科学とスピリチュアルの融合ということについて深く考察してみたい、という方はこちらのほうがヒットかもしれません。
私はまぁ、そこまで遺伝子のこと知らなくてもいいやぁ、という感じなので、最初にそのへんについては平易な「奇跡を呼ぶ100万回の祈り」のほうを先に読んでよかったなぁ、という感じです。
さて、この著書のなかでまた考えさせられたことがありました。
それは「私たちはエントロピーの法則に逆らって生きているのかあ。」ということです。
エントロピーの法則・・ ちょっと懐かしくありません?
もう何十年も前になってしまうと思いますが、この言葉、その当時の経済をひもとく言葉として登場したんじゃなかったかな。
当時は、初めて聞く言葉で「なんじゃい? それはぁ!」という感じでしたが、言葉こそ「はいはい、久しぶりに聞きましたよぉ。」と思っても、結局、どういう原理だったかはまったく覚えていない・・
ま、そんなものですね。自分に特に関係のない分野の流行りモノの言葉って。
というわけで、改めて「エントロピーの法則」について簡単にご紹介いたしますと、『物質世界では、一般に秩序のあるものは、秩序のないものへと向かう方向性がある。』というもののことです。
これをエントロピーの増大と言います。
わかりやすい例でいうと、洗面器に水を張って、そこに1滴水を落としたとします。するとインクは当然のように拡散します。
あれがエントロピーの増大です。
私たちは、なぜインクは中央に集まって固まらないのだろうか、とは考えることもなく、洗面器いっぱいの水にうっすらと広がって溶けていく、ということをごく当たり前のこととして受け入れていますが、あれは科学的には実はものすごく深い意味をもつことらしいです。
さて、ここからが私を考え込ませてしまった部分です。
エントロピーの法則にあてはめて考えるならば、人間が生まれた瞬間から、崩壊と死の方向へと向かうのは、秩序のない方向へ踏み出すような遺伝子が身体のなかに存在しているとしか考えられない、ということです。
事実、身体のなかには細胞死のプログラムも備わっているということが科学では明らかになっているそうです。
しかし、いきなりそういう遺伝子が私たちがこの世に産まれ出ると同時にガンガン働いたら、産まれると同時にすぐに死んでしまうでしょう。
ですからふつう身体は生きるための遺伝子が活発に働いて、エントロピーの増大を防ごうとします。
つまり、生きているということは、自然にほうっておくと死と無秩序へ向かおうとするのを秩序だった方向へと誘導するはたらきだ、ということができるのです。
これをエントロピーの減少といいます。
エントロピーの減少のことをさきほどの洗面器のインクのようにほかの例にたとえるならば、ここに1冊の辞書があるとします。
この辞書をびりびりと細かく破ってしまい、部屋中にばらまいたとしたらどうでしょうか。
“辞書”というものを構成していた物質の総量は何も変わっていませんが、もう“辞書”としては機能しません。
そしてこの破かれ散り散りになった紙の断片を拾い集めて、丹念に糊付けして、元の使える姿へ戻す、という作業を行うことがエントロピーの減少ということになるのです。
この世で生きている以上、宇宙の法則に逆らうことが出来ないのであれば、私たちは、ほうっておいたら死に向かうに過ぎない法則に一生懸命さからって、さからって、自らの細胞の働きにさえさからって生きている、ということになります。
うへぇ、と思いましたが、これは納得できる話でもありました。
というのは以前私はインドのストリート・チルドレンについて書いたことがありますが、彼らは自らの肉体を売買されるような目にあい、社会の底辺、うぅん、社会に存在するということさえ抹殺されたようなところで、それでも「死んだほうがましだ。」とは思わずに、何とか生き延びようと、必死に生きています。
たぶん、もう「こんな目に会うくらいなら死んだほうがましだ。」という思考も麻痺して考えられないような世界でただ生きています。
思考が働かないような状態にまで肉体的に追い詰められると、人間は「もう死んでしまおう。」と思うのではなく、ただ「一瞬でも生き抜こう。」と思うのだな、と痛感しました。
このストリート・チルドレンの話には、「生き抜こう」と思うのだから、彼らはポジティブ発想、とは一概に言えないほどのすさまじさを感じますが、「生命の暗号」の著者の村上氏は、結局、私たちのDNAには、追い込まれると宇宙の法則であるエントロピーの増大にまで逆らってでも生きよう、とするスイッチがオンに入るというプログラムが組み込まれているのではないか、と言うのです。
私はこのくだりを読みながら、再び、「あぁ、だから生きる、ということは葛藤が多くて当たり前なんだなぁ。」とつくづく思いました。
前に表現アートセラピーで、「肉体だけが“今ここ”に存在するしかないけれど、感情や思考は未来や過去をさまようことができる。この一事をもってしても、すべてが自分の思うとおりにならなくて当たり前。肉体とスピリチュアルは一致しなくて当たり前。だからこそ、葛藤とは一生付き合っていかなくてはならないものなのだ。」ということを学びました。
しかし、今日はこの「生命の暗号」のエントロピーの法則によっても、またそれが裏付けられたことを感じました。
私たちはそもそも宇宙の法則にさえ逆らって生きていこう、としている存在なのだから、純粋無垢な産まれたての存在のときから矛盾を抱えている、だから葛藤はあって当たり前なんですね。
こういう話を聞いて、だからこそ自分の命が愛おしく思えるか、あるいは人間て厄介な存在だなぁ、とため息をつくか、で遺伝子のスイッチがどこでONに入るタイプか、というのがわかるのかもしれません。
わたしはどちらか?
・ ・その両方を感じますね。
やれやれ、またここでも葛藤ですかね。
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