ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

ときたま顔を出すお金の話

2013-04-30 09:04:00 | テレビ番組

お金に関する問題は、私のライフテーマでもあり、時々私に忘れた頃にまとわりついてきます。

お金に関する問題とは、お金そのものについてというよりも、お金をどのように取り扱ったらいいのか、どのように感じたらいいのか、という自分の心のありようを試されている問題のような気がしています。

「お金なんてあるといさかいの元だ。ないほうがいいんだよ!」と明るく言う人がいたりすると、私はついその裏側を推し量ってしまいます。

(ほんとに? ないほうがいい、ってどこまでのことを言ってる? 無一文ってわけにはいかないでしょ? じゃあ3億円の宝くじが当たっても辞退する?)と意地悪な質問を投げかけたくなります。

それは自分に覚悟が出来ていないからです。


ぼんやりとではあるが、「この世はお金ではない。」ということはわかっている。

では、自分の全財産をなげうって(・・っていうほどほぼないけど)貧しい人に分け与えられるか? と言われたら「出来ない・・」とうなだれるしかない。

「宝くじが当たっても嬉しくない?」と問われれば、いや、どうしてもっていうならもらっておきますけど、とシャラッと言いますよ。

そんな腹の据わってない私ですから、いちいち何かあるたびにおろおろしたり、惑わされたりするのは当然です。

そしてそんな私ですから、たいていの他人の体験や経験を聞いても、「とはいっても、私のことじゃないからねぇ。それが私の身に起こってみないとわかんないよ。」とピンと来ないことが多いです。

一生懸命、他人の体験や経験を自分のことのように感じてみよう、とはするほうだと思うんですけれど、ではどんな体験や経験ならすーっと入ってくるのか、どんな話だと右から左なのか、と言われるとその基準もよくわからない・・

そんな私がつい先日大きな衝撃を受けました。

それはたまたま見たテレビ番組のある1シーンでした。

なんか「秘境のこんなところにも日本人がいた。」というような番組です。(このたぐいの番組結構好きなんですよね~ 自分では味わえない知らない世界をもう1度生きられるような気がして)


それはパラグアイに住んでらっしゃる1人の日本人男性でした。

もうおん年70歳になられます。

その方はご両親の時代から開拓移民としてパラグアイに移住してきて、大豆畑を営んでいました。

彼が40歳の頃、世界的に大豆の値段が高騰し、一夜のうちにして億万長者になったそうです。

一番はぶりの良かった頃は100haほどの大豆畑をもち、使用人も100人ほどいたそうです。

お金を手にした彼は、家族と世界旅行を楽しんだりしていました。

そんなある日、息子が近所の人をバイクではねる、という交通事故を起こしてしまったのです。

その近所のおたくとは同じ開拓移民の親戚関係にある日本人の家で、彼の一家が移民としてパラグアイに来たときから、たいへんお世話になった家だったそうです。

このときに彼が何を感じ、家族が何を感じ、相手の一家が何を感じたのか、ということについては一切語られませんでした。

ただ今は、あごに長いヒゲをたくわえ見かけ的にも仙人のようになった彼は、一切の財産をその一家に譲り、自分は家族からも離れ、そのときからたった1人で自給自足の生活をしている、というのです。


私なら何を感じ、どうしただろう・・・?と考えました。

はねられた側の家族だったら?

確かにどれだけお金を積まれても家族の命が戻ってくるわけではない。

だからといって、一応この事態にケリをつけるとなれば、それはやはり賠償という形でのお金でしか表してもらうことはできないだろう。

仮に世間での相場は1000万円ほどの金額だとします。

しかし、相手は億万長者。

1000万貰って、そんなの屁でもないやい、と相手の一家は相変わらず贅沢な暮らしをしているのを見て、その後の人生安らかでいられるだろうか、と考えると、とても居られそうもない・・という気がする。

相手の一家をのろってしまいそうな気がする・・

少なくとも自分の一家と同等かそれ以下の暮らしぶりじゃないと許せない、という気持ちに囚われそうだ。

そして自分はなんて小さい人間なんだろう、という被害者意識にさいなまされながら、それでもどうしようもなく、やはりそう思う。・・・と思う。

では、反対にはねた息子の親ならどうしただろう?

この人のようにすっぱりと全財産を投げ出せるだろうか?

「相場は1000万円なんだからそれでいいだろう。」とは思わないにしても、全財産を贖罪としてなげうつことができるだろうか?

そこまではできないような気がする・・・

相場よりは多く払うから何とか許して、ってしそう・・

そしていくら払おうが、決してぬぐいきれない罪悪感を背負ってずっと生きていくことになる・・

ぐあ~っつつつ!!!

どっちもこれ地獄だよなぁ、と思ったとたん、この男性がお金だけじゃなくて、血を分けた子どもたちとの縁を切ってまで一切を捨てて、ひとりさっぱりと自分の肉体だけを携えて生きていきたくなった気持ちもちょっぴりわかるような気がしました。

男性はにっこりと笑い、

「今の私の唯一の望みは、このままここでひとり死んでいくことです。」と言いました。


それは決して負け惜しみではない清清しさをともなっていました。

ここまで達観はできないけれどお金というものがあるがゆえに人間関係に暗い影を落としたり、かえって生きにくくなるってことの実感を伴った感じが少しわかったような気がしました。


決してお金そのものが悪いわけではないことはわかっています。

でも、「ありすぎても」「なさすぎても」辛いことを味わうことがあるよなぁ、とも思います。

それは結局、心のありようを試されるからでしょう。

私はまだまだ修行が足りなさすぎるようです。

せめてこうしていろんな方の体験を自分の血肉として同じ痛みを感じるくらいに感じて勉強させていただこう、と思いました。






メニュー、料金、オーラソーマってどういうもの?ということをもう少し詳しくお調べになりたい方は、「HP 些々羅」をクリックしていただき、「オーラソーマ」のナビゲーションから、お知りになりたい項目をご覧になってください。

そこに直接「予約フォーム」に入れる表記があります。

ブログ左肩の「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」をクリックしていただきますと、最新の「営業案内」を見ることができます。

ご予約はメールにて受け付けております。

「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」は、岐阜市中心街にあるサロンです。(岐阜市役所南庁舎すぐ近くです。)


予知能力?

2013-04-29 09:11:00 | オーラソーマ

いよいよGWに突入ですね~

皆さんはいかがお過ごしですか?

私はダーリンの仕事がお天気商売ということもあって、直前になるまでなかなか確定しないために、今年も暦どおりのお休みの日に1回か2回ゴルフに行くって程度で終わりかな~

たまってる仕事もあるしな~

あ~、“大型連休”というお休みらしいお休みを体験したい・・・


さて、先日用事があって車で家を出て、一番最初にある信号にさしかかる手前のときです。

50mぐらい手前のときから、

「おっ、今日はついてるぞ。今ちょうど青だ。歩行者に気をつけながら青のうちに渡りた~い。」と運転しながら思い、そのとおりに悠々と点滅もせず、青のうちに突き進むことができました。

そして通り過ぎてしまった瞬間に、ハッと気づきました。

どうしてわたし、50m手前のときから信号が青だってわかってたんだろう・・?

その信号機自体は、ほんとに真ん前まで行かないとちょうど建物の影や育ちすぎて突き出た木の枝に阻まれて赤なのか青なのかわからないはずなんです。

けれど確かにいま、私は信号機そのものが見えてないうちから、「あ、ついてるぞ。青だ。」と思った。

どうしてわかったんだろう・・?


なんだかこのことにちょっとゾッとし、その後もその信号にさしかかるときには気をつけてどれくらい手前になるとその信号機が確実に見えるのか意識して見ていたんですが、どう考えてもやはり私はあのとき見えていないときから「青だ。」と確信をもっていた。

私には予知能力でもあるのか? なぁ~んて。


今のところ、多分ですが、信号機そのものは見えていなかったにせよ、光を発する色って、その周辺の空間にまでうっすらとその色を放射しているじゃないですか。

私はその色を認知していたんだろうなぁ、というのが有力な説です。(説って、誰も何も言ってないよ。はは。)

しかし、そう考えるとオーラソーマのボトルを選ぶときも、私たちはボトルそのものの色を見ているというよりもそのボトルが光を通して発しているその周辺までにも及ぼしている色の大きさを捉えているのかもしれませんね。

だから、

「なんとなくだけど・・ わからないけれど・・ なぜか今日はこのボトルにばかり目が行く。」という表現になっている、という時もあるのかもしれません。

その色のオーラがやたら大きく感じるときがあって。


ふぅ~ん。

面白いな。

今度、意識的にそれをやってみよう。

ボトルを選ぶときにあまり焦点をしっかりとボトルそのものの本体に合わせる、ということをせずになんとなくその周辺をボーッとみる。

それで惹かれたボトルはどれか、というように選んでみよう。

またいつもとは違うボトルを選んだりして。

ボトルを持ってらっしゃる方は試してみません?


しかし、一瞬でも自分にはひょっとして予知能力があるのか?と思ったことで、思い出したことがあります。

それは今から10年近く前になりますが、両親が終の棲家として新しく家を建てたときのことです。

当時私はまだダーリンと出会っていませんから、その家にいつかは両親と一緒に住むことになるのか、という思いで建築のときから思い入れ深く見ていました。

家が建ち、中の調度品を揃え、母と一緒にキッチン用品のあれこれを買いに行ったときのことです。

その家はオール電化にしたので、当時はあまり出回っていなかったオール電化専用の鍋やら調理器具をそろえるのにあまり選べるほどのラインナップがなく、ちょっと不満でした。

そうして、母が

「土鍋も買っておかなくちゃね。」と言い、私が

「土鍋でオール電化専用ってあるんだろうか?」と言って探すと、一応あるにはありましたが、それは3人家族には大きすぎるようなものでした。

母は、

「まぁ、いいじゃない。大は小をかねるって言うし。」とそれを購入したのですが、そのときになぜか私は、

(大は小をかねるどころか、この家で父と母と私との3人で鍋を囲み、一緒に食事をすることはないような気がする・・)とふと思ったのでした。

なんの根拠もありませんが、その考えは私の中から湧いた、というよりはどこからか春一番の風のようにすっと私の中にもぐりこんだ、という感じでした。

そのことを当時、友人に話すと、

「やめなさいよ。そんな縁起でもない。」と、もうそんな話はなしなし、というように手のひらをパタパタを顔の前で何度もひらひらさせました。

つまり、その家で親子3人で仲良く食事をすることがない、ということは、イコール私の両親ともかどちらかが早死にして存在しなくなるから、という場合しか考えられなかったからです。

それは友人でなくても私でもそう思いました。

だって、当時はまさか自分がその後結婚することになり、家を出ることになろうとは微塵にも思っていなかったからです。

しかし、このときの予感は当たったわけだよなぁ・・

まぁ、確かに結婚したってあの家に今度はダーリンも交えて4人集まり、鍋を囲むって図式もこれからないとは言えないけれど、それはかなりの確率の低さだろうなぁ。

外で4人で外食する機会はこれからも何回もあっても、あの家で、っていう確率は低いだろうなぁ。

どうして私はあのときそう思ったのかなぁ?

やっぱり私には予知能力でもあるのかしらん?

本当に予知能力がある方がよく口々におっしゃることですが、ほかの人のことはわかっても、自分自身の寿命に関することだとかは決してわからない、って。

寿命どころか、私には自分の5年後、10年後がさっぱりわかりません。

それは言い換えれば、「こうなるはずだ。」「こうなっていたい。」という希望、目標がしっかりしていないという表れでしょうか・・

あるいはどんどん肉体的には衰えていくであろう自分の今後からは眼をそむけていたい、と潜在意識で思っているんでしょうか・・


いま、唯一の気がかりは、まだ1歳の猫のアクアが年をとって天寿をまっとうする、という姿がどうしても想像できないことです。

これは彼女の身に天寿をまっとうする途中で何か起こる、ということなんでしょうか・・

これだけは当たってほしくないなぁ。






メニュー、料金、オーラソーマってどういうもの?ということをもう少し詳しくお調べになりたい方は、「HP 些々羅」をクリックしていただき、「オーラソーマ」のナビゲーションから、お知りになりたい項目をご覧になってください。

そこに直接「予約フォーム」に入れる表記があります。

ブログ左肩の「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」をクリックしていただきますと、最新の「営業案内」を見ることができます。

ご予約はメールにて受け付けております。

「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」は、岐阜市中心街にあるサロンです。(岐阜市役所南庁舎すぐ近くです。)


朗読

2013-04-28 09:07:00 | 本と雑誌

なぜか思い立って「朗読教室」に行きました。

思えば、あれは一昨年だったかなぁ。

「嵐の夜に」というひとり朗読演劇のようなものを劇場で見たとき、感動のあまり号泣し、こんなことができたらいいな、と思っていたのでした。

お話がよくできていて引き込まれたのももとより、朗読というのはたった一人で出来るのに何人もの登場人物がまさにそこにいるかのように聴いている者の前に彷彿とする。

まるで映画をみているようだ。

ひとりで小説を読んでいるのとは違う。

そのものすごいパワーをもっと味わいたい、そして自分から発散できるようになったらすごいな、というのが朗読に触れた最初の思いでした。

それがどうしてその直後に動かなかったのか・・

またなぜ今なのか・・

自分でもよくわかりません。

機が熟して「さぁ、今こそ!」という状態になったという気はしないんですが。

忘れていたようで私の内側で脈々と息づいていたことだけは確かだったんでしょうね。

さて、そうして初めての教室に出掛けました。

ほんの少人数の教室かと思っていましたが、まずは意外にも人が多いのにびっくり。

15人以上いらっしゃいました。

朗読って、ひそかに人気のあるところでは人気があるんだろうか・・

そしてある程度想像していたとおり、ほとんどの方が女性で、それも私より年齢は上の方が多いかな、と思うのにそのパワーはすごい!

「先日、自分が死んだときに飾る写真を撮っておこうと思い、写真館に行ってまいりました。」なんて話をされながら、どこから出てくるの! その声!! ってくらいハリがある。

その感じだと、私の方が先に逝くかもしれません・・ってくらいのパワーです。

2週間に1度の教室なので、皆さんがほんの2~3分、それぞれの近況をお話になり(これも上手にお話を取りまとめて人の前で話す、という練習なのでしょう。)、それから体をストレッチ、そして発声練習と続き、さぁ、いよいよお話の朗読です。


この日は、「方丈記」「枕草子」「平家物語」の一節。

中勘助の詩、その詩に対する石垣りんさんの感想文。

そして今メインで取り組んでいるという中勘助の「銀の匙」へとすすみました。

このようにしてだんだん自分も声を出し、人の書いた文章を読んでいるうちに、私の中で何かが変わってきました。

最初に「朗読教室」に行ってみようか、と思ったのは自分が感動したお話をいつか人前で読み聞かせてあげるような機会があればいいなぁ、という想いからでした。

しかし、実際に朗読に触れていくうちに、「日本語の美しさ」「声を出して読むことによって、黙読では得られなかった理解を得るものがあることの楽しさ」に引き込まれていきました。

最初は題材を知ったとき、正直なところ、(ははぁん。受講年齢が高いからその人たちに合わせて、こういった古文やら教科書に出てきそうな昔の作家の小説を取り上げてるのかなぁ。もう少し現代の絵本とかそんなのもやらないのかなぁ。やっぱり私のテイストには向いてないかしら・・)と思いました。

しかし、皆さんもご存知の枕草子の、

「春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山際すこしあかりて・・」とか、

祇園精舎の有名な始まりの一節、

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。・・」とか、

方丈記の始まりの一節、

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。・・」など、これらの文章というのは、声に出して読んでみると黙読することに比べて、「なんて日本語って綺麗なんだろう!」と感動します。

枕草子はやはり女性らしいまろやかな、文字で言えば行書のような味わいがありますし、祇園精舎はその反対に男性的で漢文を読んでいるようなキッパリしたところがありますし、方丈記は厭世的でありながらも世を拗ねているわけではなく、どこか心が澄んだ感じを味わえます。

ちなみに上記の一文たちだけでもどうぞ、ためしに皆さん、声を出して読んでみてください。

ハイ、どうぞ。


ね、なんかいい感じでしょう?

あ~ぁ、高校生の頃にもっと勉強しとけばなぁ、なんて少しばかりの懺悔の念が浮かぶのはこんなときです。

けれど、またどこかで「そぉんな高校生ごときに、こんな人生の味わい深さが現れているような文章の良さがわかるわけなくても当然じゃん。そんな年齢に無理にそういうことをわからせようとするほうがおかしいのさ。」という気もしています。

だから、大人になってから初めてわかることってありますから、そんな“大人のための学校”っていうのがあるといいですよね。

メインの中勘助の「銀の匙」にしてもむかぁし、読んだ覚えはありますが、「どこがいいの? これの。」って全然お話の世界に入り込めませんでした。

けれど、改めて朗読してみると彼の持ち味というものが何となくわかってきました。

まず、中勘助の文章には極端に句読点が少ない。

例えばこんな感じです。

「・・そのとき困りはてた東桂さんが指に唾をつけて1枚1枚本をくっては薬箱から薬をしゃくいだす様子は私を育ててくれたひょうきんな伯母さんの真にせまった身振りにのこっていつまでも厭かれることのない笑いぐさとなった。」

なんとこの長い一文のなかに1つも句読点がない!


かといって、だからこれは長~く息を吸って一度も息継ぎをすることなく続けて朗読しなくてはいけない、というものではないと思うのです。

「、」を感じさせないように読めばいい。

でも「、」を感じさせずに、かつだらだらと聞こえるのではなく、リズムがあるように読み聞かせる、というのはかなりのテクニックです。

そうして読んでいくうちに、「あぁ、この中勘助と言う人は、自分の身に起こった事実だけで言えばちょっと暗い話を軽妙なタッチで語る能力のある人だったんだな。」ということがわかってくる。

「てやんでぇ。」というような江戸っ子的な感じ。

彼はところどころ「短い柄がついているので・・」と普通なら言いたいところを「短い柄がついてるので・・」と書いていたり、「あかず眺めていることがある。」と普通なら書くところを「あかず眺めてることがある。」と書いていたりします。「レ」抜け、「ら」抜けの文章ですね。

どうしても「ついている」「眺めている」と言うほうが言いやすいので、読むほうも彼のこういう文章をよく間違える。

そうすると先生に、

「読みやすいように勝手に読んじゃダメ。ちゃんと読んで。」と叱られます。

これも最初は「どうして彼はわざわざこのように書いたのだろう。」と思いましたが、句読点のほとんどない文章をリズムよく読もうと努力するうちに、あぁ、このほうが彼は“気分”をあらわせたんだな、ということがわかってくる。

何度も読んでいるうちにそういうことがわかってくる。

そういうひそかな愉しみも朗読にはあるのだな、ということがわかってきました。

ちょっと本来の目的とはズレてきて、「朗読教室」というよりは「日本文学を声に出して読むことによって気付かなかった気付きを得よう教室」に、私的にはなってきてますが、新たな楽しみが見つかりました。

少し続けてみようと思っています。






メニュー、料金、オーラソーマってどういうもの?ということをもう少し詳しくお調べになりたい方は、「HP 些々羅」をクリックしていただき、「オーラソーマ」のナビゲーションから、お知りになりたい項目をご覧になってください。

そこに直接「予約フォーム」に入れる表記があります。

ブログ左肩の「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」をクリックしていただきますと、最新の「営業案内」を見ることができます。

ご予約はメールにて受け付けております。

「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」は、岐阜市中心街にあるサロンです。(岐阜市役所南庁舎すぐ近くです。)


ヨフィエルの最後の試練

2013-04-27 09:09:00 | 身辺雑事

やっと、B101「大天使ヨフィエル」を使い終わりました。

・・ふぅ、最後の最後まで厳しい天使だったなぁ。

「ハートをオープンにする」ということは、ひとりで勝手に自己消化のような形で起こることは少ないんだ、と思います。(たいていの“気付き”はそうかもしれませんが)

どうしても「人間関係のなかでそれを試される」というようなことが起こります。

考えさせられたり、イヤな思いをしたり、「これは私の方が悪いんだろうか?」と胸に手を当ててみたり、実にいろんなことが起こり、そしてそれは今も続いています。

ボトルとワークするとき、今までの私は、たいていボトルの3分の1を使ったくらいのところで、「これがこのボトルからのメッセージか!」というような大きな気付きを得ていました。

そうなるとそのあとの3分の2はもう惰性のようにジャバジャバ使って、「はい、次~!」って感じでした(笑)

すぐに次のボトルに手を伸ばしていました。

けれど、ほかの人の話を聴いていて、「そうかぁ。ボトルを使い終わってしばらくしたあとでも余韻というか、そのボトルからのメッセージを受け取ることもあるんだな。」と気付いてからは、少しボトルとボトルのワークの間隔を空けることにしました。(とはいっても、1週間かそこいらですけれど)

どのボトルからどういうメッセージを受け取ったのかをはっきりと感じ取りたいからです。

別に2本から同時に何か1つのメッセージを受け取った、と感じたってもちろんいいんですけれどね。

そして、実際には「このボトルからはこのメッセージ。こちらからはこれ。」というようにびっちりと線引きできるようなシロモノでもないんでしょうけれど。

ま、これは性分ですね。

このヨフィエルからは特にそんな感じがしているので少しゆっくりしようと思っています。
というのも、今回のヨフィエルからの気付きのなかには、「気付きというレベルで終わらせずに、行動でそれを指し示さないとこれからも同じ課題が何度もやってくるよ。」ということを薄々感じていたからです。


そんな矢先、いろんな方から同じような出来事をうかがいました。

それらは一言で言えば、「相手のこの態度を自分はどのように推し量ったらよいのだろう?」という出来事の数々です。


たいていの場合、このあとには、「自分だったらこういう態度をとらないので、相手の真意をはかりかねるのだけれど。」と続きます。

そしてまたたいていの場合は、それを相手にただすことなく、人はみな、自分の胸にそれをおさめます。

(ま、いいや。こういうときにはこの人はこうするものだ、って覚えておけば・・)と。


けれど、これは実に危険だと思うんです。

というのは、応用が全くきかないからです。

例えば相手が「Aはやめてね。」と言ったとします。

Aがなぜいけないのか?

自分にはさっぱりわからない。

けれど、いいや、仕方がない。

それを問いただす雰囲気でもないし、とにかく「Aはだめだ。」ということだけは覚えておこう、とする。

こうすると、今度、Bが候補にあがったときに、AはダメだったけれどBなら良いのか?という判断がまったくつかない。

だから、また相手に尋ねる。

Bはどうします?」と。

すると相手が烈火のごとく怒って、

「そんなこともわからないの!この前のAはやめてね、って言ったときにわかってくれたかと思ったんだけど!」と言われてしまったとします。

しかし、そう言われてもわからない・・・

Aはやめてね。」と言われた時点で、「Aは時間がかかるから。」とか「Aだと値段的にあわないから」とかその理由がわかっていれば、Bが自分の中では候補にあがった時点で、(あぁ、これも同じように時間がかかるからやっぱりダメかもな。)とか予測をつけることができます。

けれど、とにかくAはだめだ、ということだけが頭に残っていて、その理由はわかっていないわけですから、BCDを検討することができないわけですよね。


こんなとき人はどういう結論を下すか、と言えば「この相手はすぐに怒る人だ。」とか、「怒るだけでAがなぜいけないのか、という理由は教えてくれないのだから不親切な人だ。」とか、「そんなこともわからないの、と言われたけれどあの人が常日頃、たいして人の身になって考えている人だとは思えない。だから身勝手な人なんだな。」とか。

エトセトラ、エトセトラ・・


ここで何が始まっているか、といえばAがなぜいけないのか、Bはどうなんだ?という物理的なことを解決したかっただけなのに、結局相手の“人間性”のジャッジが始まっているわけです。

先ほどのABCの例は、物事そんなに簡単じゃない、ということもいっぱいあるでしょう。

けれど、とにかく「人間性のジャッジに向かう。」もっと平たく言えば、「相手の傾向値を知ろうとするところに全力でアンテナを働かせる」ことになることは間違いないでしょう。

でも、そこに力を注いでも虚しいだけだと思うんですよね。

大げさに言えば、他人なんてどこまで一生懸命理解しようとしたってしきれるものじゃあ、ないんですから。

冷たい言い方のように聞こえるかもしれませんが、むしろ逆です。

相手を理解してその上で「この人とはウマが合う。」とか「愛せる。」とか「距離を置いて付き合おう」とか決めようと思うより、もう丸ごと「そういうものだ。」と認めてしまったほうが自分のためにもラクだ、と思えるのではないか、ということです。

なかなか出来ることじゃないんですけれどね。

でも意識してそうしてみるだけでも、少しそのほうがラクだ、って感じは味わえるかもしれません。

土台、他人どころか自分のことが大してわかりもしないのに、他人を一生懸命「こういう人かな?」「だからこういうことを言うのかな?」というところに全力を注ごうと思ってももったいないじゃないですか。
たいていこの「この人ってこういう人なのかな?」はかなり長い間引きずりますし・・


でも私たちはついちょっと緊張が走るような場面になると「Aはなぜダメなのでしょう?」という最初の質問を発するときこそが、その人の人間性を一番否定しているように聞こえる質問を自分がしているのではないか、という恐れから躊躇してしまい、ずっと「あそこで聞いておけばよかった・・ 今さら、聞けない。」ということを引きずってしまうことってあるんじゃないでしょうか。

でもそここそ、本当は“人間性”とは何も関係のないことなのだから、と思いきって勇気を出して聞いておいたほうが良いと思います。

これは私がほかの人の話をうかがっているうちに自分自身にこそ言い聞かせたことです。

ケーキをつくるときにほんの少しばかり気泡が出来たのを「まぁ、いいや。これくらいのこと。」と見てみないふりをしたことによって後々の仕上がりに大きな影響を及ぼすことがあるように、最初の段階で勇気を持って相手に質す、ということをしていかないと「相手変われど、主変わらず。」という諺のように、私にはまたきっと同じことが起こることでしょう。

これがヨフィエルがくれた最後の試練かなぁ、と思っています。








メニュー、料金、オーラソーマってどういうもの?ということをもう少し詳しくお調べになりたい方は、「HP 些々羅」をクリックしていただき、「オーラソーマ」のナビゲーションから、お知りになりたい項目をご覧になってください。

そこに直接「予約フォーム」に入れる表記があります。

ブログ左肩の「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」をクリックしていただきますと、最新の「営業案内」を見ることができます。

ご予約はメールにて受け付けております。

「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」は、岐阜市中心街にあるサロンです。(岐阜市役所南庁舎すぐ近くです。)


美文字をめざして!

2013-04-26 09:14:00 | 身辺雑事

いま、テレビ番組でも「美文字」を取り上げたものがあります。

タレントさんがどんな字を書くのか競い、点数をつけて「美文字」「汚文字」と判定していくものです。

テレビですから、公共の電波に顔を出すことをなりわいとしているタレントさんが、「あの人、顔はきれいだけど、それに見合うような字を書くのかしら・・?」「あら、意外にもこの人って字が上手ね。」というような巷間の好奇の目をあおるようなものであることは仕方がないことかもしれません。


しかし、この番組を見ていて、改めて綺麗な字をしたためたいものだ、と切に願うようになりました。

なんといっても、その番組に出演してらっしゃる中塚翠涛先生という若くてそんじょそこいらの女優さんもまっつあお、というくらいの綺麗な先生の字の美しいこと!

その昔、サラ・ボーンという歌手はメニューを読み上げただけでレストラン中を感動の涙に誘うことが出来た、という逸話がありますが、こんな字をボールペンでさらさらと書けたらそれだけで尊敬を集めることができるかもしれません。

私は、といえば、小学生の頃習字を習っていました。

確か・・・ 2段か3段まで取得したんじゃなかったかな。

それなのに・・ あぁ、それなのに・・

字の上達は小学生で止まってしまいました。

習字を習っていて一番の思い出は、あるとき習字教室に行くと先生から、「今日は『ぼうえき』と書きなさい。」と言われました。

いつもと様子が違うので、何だろう?と思いながら、いつもの練習が始まる前の余興みたいなものか、とあんまり気合も入れずにさっさと書いて「はい。」と出したら、一発で先生が「よし!」と言うではありませんか。

周りを見ていると、ほかの子どもたちは先生が赤字で何度も指導をいれたりして書き直しているというのに。

わけのわからないまま、私だけが「ぼうえき」をさっさと切り上げ、いつものとおりの練習に向かったのでした。

そうして数日が経ったある月曜日の全校朝礼で、私はいきなり校長先生に呼ばれました。

そして先生たちが立つ高い壇上に呼ばれました。

いったいなんだろう?と思っていると、どうやら私の書いた「ぼうえき」という文字が、なんちゃらという大会で「総理大臣賞」という一番上の賞をとったらしい、ということがわかりました。

校長先生がそれを紹介しながら、「わが校の誇りですね!」みたいなことを言って、「みんなで拍手をしましょう!」と言われました。

褒められても私には自覚がない・・

ものすごく一生懸命その賞を取るために頑張ったということでもなければ、目指していたわけでもない。

なんだかとてもこそばゆい不思議な体験としての記憶しかありません。

後に自分の手元に返ってきた「ぼうえき」を眺め、ふぅむ、これが賞をとるような字ということなのか、と感慨にふけりました。

字が走っていて、勢いがある。

のびのびとしている。

それだけは、自分にも分かる。

きっとそこがよかったんだな。

うまいかどうかはよくわからないけれど、きっと習字に求められる「無心になり心を澄ます。」という状態にたまたま偶然なれたんだろう、と思いました。

しかし、それ以来2度と私はそのような境地になれることもありませんでしたし、何かの大会で賞をとるということもありませんでした。

つまり、あれは偶然すべてのことが重なってぴたりとはまったけれど、そもそも実力ではなかったので、続けることによってそのことがむしろあらわになった、という感じです。(笑)

人生には時々、ふっと神さまのいたずらのような出来事が起こる。

「総理大臣賞」というような栄誉を受けることは後にも先にもこのときの習字以外にありませんが、それが特に努力をする事もなく、自分の意志で「この大会に参加する!」と決めて目指したようなことでもなく起こってしまったがゆえにせっかくの栄誉を私はじっくりと味わうこともなく通り過ぎてしまった、という感じです。


努力もしないことで頂点に立つ。

努力をしたことで、ようやく中より上くらいの位置に立つ。

どちらが幸せでしょうか?

後者だろうな~ということを私は小学校の低学年で学んだのでした。

だからでしょうか。

それ以降、私はどうも自分が「やった~! やり切った・・」と思えることでないと、お尻がこそばゆいというか、人の利をかすめとったような収まりの悪さを感じてしまうのです。

努力こそが美しい、と思える下地をこのような年齢で知ることができたのは幸せかもしれませんね。


さて、もともと習字を習っている頃から(いま思いましたが、「習字を習う」って重複してますよね。どう言ったらいいんだろ?)、こりゃあ、いくら筆文字がうまくなったって、ボールペンの字がうまくなることにはつながらないぞ、という予感を持っていました。

なにせ、筆の持ち方から動かし方からその特長から筆とボールペンじゃあ、なにもかもが違うじゃありませんか。

だから、しかたのないことなんだ、とあきらめてもいました。


いまでも、太い線と細い線があらわせる昔ながらの太いマジックとか万年筆とかのほうが字がうまくかけてほっとします。

ボールペンやシャープペンが一番嫌い。


それにしても、PCが普及してから、とんと自分で字って書かなくなりましたねぇ。

だからこそ、ほんの一言その人の肉筆で書いてあったりすると、それだけでとても心が添えられている気がして嬉しかったりもします。

なので、よし!と一念発起して私もボールペン字をもう少し練習しよう、と本屋さんに行きそれらしき本を探しました。


しかし、ない、ない・・

おかしいなぁ。

あれだけテレビ番組でも視聴率がよさそうな気がするのに(深夜だけれど)、そういう本の1冊ぐらい出ててもよさそうなものなのに。

どうしても見つけられなかったので、カウンターに行って、

「あの、ボールペンの練習帳のような本って出てませんか?」と言うと、

「あちらです。」とすぐ目の前のテーブルを指差されました。


なんと!

そこには山積みの数々の出版社から発行されているボールペン字がうまくなるための本が!

私は(「生活」と言うコーナーにあるのかなぁ? 「新刊」のコーナーにはないよなぁ。)と歩き回っていたのですが、まさかレジ前のこんな大きなテーブルの上に山積みの状態でわんさかあったとは!

あまりにも目の前すぎて、そして大量すぎてかえって気付かなかったのでした。
「ペン字講座」なんていうものは、昔から通信教育のメニューには定番としてあったものですが、そんなに人気のある講座とは思えませんでした。

だからまさかちょっとくらいテレビでやるようになったからってここまで人気になっているとは思いもよりませんでした。

あらためてテレビの影響ってすごいよなぁ、と感心しました。

そしてその中から、私は一番使いやすそうな簡単そうなものを選び購入しました。Photo

たまたまテレビで見た、中塚翠涛さんの監修のものでした。


これは1日1ページ、30日かかって仕上げたらどれ、ちょっとはうまくなっているでしょう?というように作られた練習帳です。


早速取り組んでみました。

すぐに気付いたことがありました。

私は筆のように力を入れて書いた箇所、抜いて書いた箇所を書き表せないボールペンでは、「丸文字」と呼ばれる少女文字のような字のほうがかえって映える、とこれまで思ってきました。

しかし、先生のお手本に従って書いていき、きちんとした書き順である程度、画をきちんと表していくと、筆文字のように見えるではありませんか。Photo_2

やっぱり基礎だなぁ、と思いました。

私の友人なぞは、自分の子どもにまずは習字を習わせるんだ、と言ってます。(まだ2歳ですけどね。)

「だって、字が綺麗だと頭よさそうにみえるから。」

なるほどねぇ。

一理あると思います。

何か習わせたい、と思うなら「習字」というのは今の時代に最もそぐわず必要がなくなってしまった隅で埃をかぶっているようなものに見える人もいるかもしれませんが、なんの、結構威力を発揮しそうに思います。

私も30日で美文字をめざします!





メニュー、料金、オーラソーマってどういうもの?ということをもう少し詳しくお調べになりたい方は、「HP 些々羅」をクリックしていただき、「オーラソーマ」のナビゲーションから、お知りになりたい項目をご覧になってください。

そこに直接「予約フォーム」に入れる表記があります。

ブログ左肩の「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」をクリックしていただきますと、最新の「営業案内」を見ることができます。

ご予約はメールにて受け付けております。

「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」は、岐阜市中心街にあるサロンです。(岐阜市役所南庁舎すぐ近くです。)