お金に関する問題は、私のライフテーマでもあり、時々私に忘れた頃にまとわりついてきます。
お金に関する問題とは、お金そのものについてというよりも、お金をどのように取り扱ったらいいのか、どのように感じたらいいのか、という自分の心のありようを試されている問題のような気がしています。
「お金なんてあるといさかいの元だ。ないほうがいいんだよ!」と明るく言う人がいたりすると、私はついその裏側を推し量ってしまいます。
(ほんとに? ないほうがいい、ってどこまでのことを言ってる? 無一文ってわけにはいかないでしょ? じゃあ3億円の宝くじが当たっても辞退する?)と意地悪な質問を投げかけたくなります。
それは自分に覚悟が出来ていないからです。
ぼんやりとではあるが、「この世はお金ではない。」ということはわかっている。
では、自分の全財産をなげうって(・・っていうほどほぼないけど)貧しい人に分け与えられるか? と言われたら「出来ない・・」とうなだれるしかない。
「宝くじが当たっても嬉しくない?」と問われれば、いや、どうしてもっていうならもらっておきますけど、とシャラッと言いますよ。
そんな腹の据わってない私ですから、いちいち何かあるたびにおろおろしたり、惑わされたりするのは当然です。
そしてそんな私ですから、たいていの他人の体験や経験を聞いても、「とはいっても、私のことじゃないからねぇ。それが私の身に起こってみないとわかんないよ。」とピンと来ないことが多いです。
一生懸命、他人の体験や経験を自分のことのように感じてみよう、とはするほうだと思うんですけれど、ではどんな体験や経験ならすーっと入ってくるのか、どんな話だと右から左なのか、と言われるとその基準もよくわからない・・
そんな私がつい先日大きな衝撃を受けました。
それはたまたま見たテレビ番組のある1シーンでした。
なんか「秘境のこんなところにも日本人がいた。」というような番組です。(このたぐいの番組結構好きなんですよね~ 自分では味わえない知らない世界をもう1度生きられるような気がして)
それはパラグアイに住んでらっしゃる1人の日本人男性でした。
もうおん年70歳になられます。
その方はご両親の時代から開拓移民としてパラグアイに移住してきて、大豆畑を営んでいました。
彼が40歳の頃、世界的に大豆の値段が高騰し、一夜のうちにして億万長者になったそうです。
一番はぶりの良かった頃は100haほどの大豆畑をもち、使用人も100人ほどいたそうです。
お金を手にした彼は、家族と世界旅行を楽しんだりしていました。
そんなある日、息子が近所の人をバイクではねる、という交通事故を起こしてしまったのです。
その近所のおたくとは同じ開拓移民の親戚関係にある日本人の家で、彼の一家が移民としてパラグアイに来たときから、たいへんお世話になった家だったそうです。
このときに彼が何を感じ、家族が何を感じ、相手の一家が何を感じたのか、ということについては一切語られませんでした。
ただ今は、あごに長いヒゲをたくわえ見かけ的にも仙人のようになった彼は、一切の財産をその一家に譲り、自分は家族からも離れ、そのときからたった1人で自給自足の生活をしている、というのです。
私なら何を感じ、どうしただろう・・・?と考えました。
はねられた側の家族だったら?
確かにどれだけお金を積まれても家族の命が戻ってくるわけではない。
だからといって、一応この事態にケリをつけるとなれば、それはやはり賠償という形でのお金でしか表してもらうことはできないだろう。
仮に世間での相場は1000万円ほどの金額だとします。
しかし、相手は億万長者。
1000万貰って、そんなの屁でもないやい、と相手の一家は相変わらず贅沢な暮らしをしているのを見て、その後の人生安らかでいられるだろうか、と考えると、とても居られそうもない・・という気がする。
相手の一家をのろってしまいそうな気がする・・
少なくとも自分の一家と同等かそれ以下の暮らしぶりじゃないと許せない、という気持ちに囚われそうだ。
そして自分はなんて小さい人間なんだろう、という被害者意識にさいなまされながら、それでもどうしようもなく、やはりそう思う。・・・と思う。
では、反対にはねた息子の親ならどうしただろう?
この人のようにすっぱりと全財産を投げ出せるだろうか?
「相場は1000万円なんだからそれでいいだろう。」とは思わないにしても、全財産を贖罪としてなげうつことができるだろうか?
そこまではできないような気がする・・・
相場よりは多く払うから何とか許して、ってしそう・・
そしていくら払おうが、決してぬぐいきれない罪悪感を背負ってずっと生きていくことになる・・
ぐあ~っつつつ!!!
どっちもこれ地獄だよなぁ、と思ったとたん、この男性がお金だけじゃなくて、血を分けた子どもたちとの縁を切ってまで一切を捨てて、ひとりさっぱりと自分の肉体だけを携えて生きていきたくなった気持ちもちょっぴりわかるような気がしました。
男性はにっこりと笑い、
「今の私の唯一の望みは、このままここでひとり死んでいくことです。」と言いました。
それは決して負け惜しみではない清清しさをともなっていました。
ここまで達観はできないけれどお金というものがあるがゆえに人間関係に暗い影を落としたり、かえって生きにくくなるってことの実感を伴った感じが少しわかったような気がしました。
決してお金そのものが悪いわけではないことはわかっています。
でも、「ありすぎても」「なさすぎても」辛いことを味わうことがあるよなぁ、とも思います。
それは結局、心のありようを試されるからでしょう。
私はまだまだ修行が足りなさすぎるようです。
せめてこうしていろんな方の体験を自分の血肉として同じ痛みを感じるくらいに感じて勉強させていただこう、と思いました。
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