ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

日春展

2011-05-31 09:17:00 | 身辺雑事

友人の息子さんが、日春展に初入選した、というので、名古屋の松坂屋まで見に出かけました。

日春展というのは、日展の新人版登竜門のようなところだそうです。

友人の息子さんは晴れて入選したので、内定していた就職先もあったけれど、それを蹴って、これから絵画の道を歩むことをご自分でも決意されたとか。

私はその世界のことはよくわかりませんが、素人が考えても、芸術で生きていく、生計をたてていく、ということがいかに厳しいか、というのは想像がつきます。

彼にはまだこれからがいばらの道なのかもしれませんが、頑張って欲しいものです。

さて、私はこのようにして「絵画展を見に行く」というのは実に久しぶりでした。

パステルアートをやって、参加した全員の絵を眺めながらシェアしあう、ということはありますが、自分が「鑑賞者」としてだけの立場でわざわざ「絵を見にいく」、というのは3,4年前、岐阜の県美術館で、ちょっと昔から好きだった作家の展覧会をこっそりと見に行ったとき以来でしょうか。

友人である、入選した息子さんの母親は、「日展と比べると、号数も小さいのが多くて、見ごたえとしてはイマイチかもしれないけれど・・・」と言っていましたが、なんのその!

まったくそんなことはありませんでした。

実に見ごたえのある数々の作品たち。

それに惹かれて多くの方がたが見に来ていらっしゃいました。

選に入った方のものばかりでなく、選考委員の作品も飾られていましたから、作品の数も非常に多く、ちょっといいな、と思った作品の前にじっくり見たい、と佇んでいるスペースもないほどでした。平日なのに!

とはいえ、ざっと見て回るだけでも1時間弱かかるほどで、ところどころ足をとめていましたから、私は約2時間近くも会場にいることになりました。
友人や気の置けない仲間と「あら、ちょっとあの作品がすてきじゃない。」とか「あれってどうやって描いてあるのかしらねぇ。」などとおしゃべりしながら見るのも楽しいですが、久しぶりにひとりきりでゆったりとこうして絵を鑑賞するのも良いものです。

久しぶりに純粋な「鑑賞者」として絵を眺めていたら、ひとつのことに気付きました。

“優秀な作品”と“そうでない作品”との違いです。

以前は、絵を見ていても、「ふぅ~ん、どうしてこれが文部大臣賞なのかねぇ。私はこっちの絵のほうが好きだけど。」なんて思っていることが多くて、「ま、そういうもんでしょ。絵なんて最終的には個人の好みよねぇ。選考委員のお偉方の好みに合ったのよ、この作品が。」ですませていました。

しかし、今回見ていて、「いや、そうではない。やはり賞をとった作品というものには明らかにひとつの共通点がある。」と思いました。

それは、「ひとりよがりでないこと。」

このようにその世界で生きていく人がみな目指すような最高峰の選考会に出品するような方がたの作品というのは、すでに皆さん、技術的な部分では一定水準以上のものをクリアされたものばかりだというのは見ていてわかります。

では、何が賞をとって、何がそれから洩れるのか、というとその絵にこめた情熱というかテーマ性に自分で酔ってしまって完結してしまっているか、第三者の眼を意識して極限まで“伝える”ということに心血を注いだか、だなぁ、と感じたのです。

たとえば、奨励賞をとった作品のひとつに3匹のワニをリアルに描いたものがありました。

そのワニはそれぞれあらぬ方向に顔を向けていて、眼もそれぞれ違う方向を見ているようなのですが、それでいて、どれもこちらを見ているような気もする・・・

ワニの目って縦に細く瞳孔が開いているようになっていて、いかにも爬虫類的な冷血そうで何を考えているかわからないような目をしています。

でも、それが何かを考えているかのように見える・・・

ちょっと角度を変えて立ってみていても、こちらを見ているような気がする・・・

近寄ってよくよく見てみましたが、この瞳孔はある程度「えいやっ!」で覚悟を決めて勢いよく描かないと描けないように思えました。

もたもた時間をかけて筆を運んでいてはこの鋭さが出ない。

よく3匹の、計6つの瞳孔をこれだけ完璧に描けたなぁ、と思うと同時に、ひょっとするとこの人はこのために何枚も何枚も、いや何十枚もこの瞳に命を吹き込むために同じ絵を描いたのかもしれない、と思いました。

そこには自分が「まぁ、このくらいでいいや。」という妥協があったらできないことでしょう。

何をその瞳にこめたいのか、でこの絵が生きるか死ぬかが決まる、というとき、その瞳にこめたいものが100人この絵を見たら、100人に伝わらないと意味がないということを知っていて描いた、ということが伝わってきました。

それは伊藤若冲の「群鶏図」を思わせるような作品でした。

かと思うと、ひととおりのものは描けているから、まぁ、あとは観る人でどうとでも受け取ってくださいな、と投げ出している、というように感じる作品もあるのです。

そういう作品はやはり入選を果たしていませんでした。

確かに、作品が作者から離れたとたん、観る人がどう受け取るかは勝手でしょう。

しかし、昔萩本欽一さんが「欽ちゃんのどこまでやるの!?」などのお茶の間とテレビをつないだような人気番組をやっていたときに「極限まで台本どおりに練習して、そしていざ本番となったときには台本を忘れて飛び出すアドリブに賭ける。」というようなことをおっしゃっていましたが、それと同じことで、絵画も最初からその作者が、「まぁ、どう受け取ってもらってもいいですよ。」と思っていたのか、作者としてのメッセージを極限まで伝える努力をしたけれど、それを飛び越えて鑑賞した方がまだそのほかに感じるメッセージがあればそれはそれでいいのです、としている作品かどうかなのかは全然違うと思います。


芸術にいそしむ人というのは、ある意味わがままでいい、と思っています。

ひとりよがりでいいと思っています。

またそうでないとオリジナリティのある作品なんて生み出せるものではないだろう、とも思います。

けれど、それが1つの作品となった時点で、それはその人から離れて独立した存在をもつものとなるのだ、と思いますから、描き終わればその時点で、描いたその本人もその作品を鑑賞する「他人」となるのだ、と思うのです。

その「他人」に対して、メッセージ性の発信が弱いものではどうしようもないでしょう。

私はふとまた、「オーラソーマのコンサルテーションも同じだなぁ。」と思いました。

最初の頃私は、すべての色の意味、ボトルの名前の意味などを覚えたときは、それをつらつらと並べてたて、4本のボトルを見たときにピピーンと「つながった!」と思うストーリーが頭のなかで組み立てられたとき、それが嬉しくて東陶とそれをクライアントに話していた、と思います。

それは、すべてのヒントを与えられないまま事件解決に挑んだ探偵が、「そうか! こう考えるとすべて辻褄が合うぞ!」と犯人を発見したときのような気分でした。


でも、クライアントにしてみれば、4本のボトルの辻褄が見事に合っていようが(というか、どんな組み合わせであろうともちろん辻褄は合うんですけれどね。)、合っていまいが、私が今日一番話したかったのは、今の私のこの焦燥感がどこから来ているのか、ということだけなんだよ、というときもあるでしょう。

本来の私がどんな使命や魅力を持っているのか、ということが知りたかっただけ、という人もいるでしょう。

そういう人には辻褄なんか合っていようが合っていまいが、そこに特化してコンサルテーションを進めればいいのですよね。

それが最近やっとわかってきました。

初期の頃の私のコンサルテーションを受けた方、ごめんなさい、と言いたいところですが、生のコンサルテーションというものは、そのときに私とクライアントの間に流れている波長というものをお互いが受け取り、そのときに必要なメッセージがちゃんと降りてきていたはずだ、と信じられるので、そのときはそれでよかったはずだ、と思います。(思おう・・・ 思うべき・・・ 思えば・・・)


いずれにしてもコンサルテーションは、私がひとりでドラマを完結しようったってそうはいきません。

あくまでも主役はボトルの説明じゃなくて、クライアントの方、そのものですからね。

日春展でもわかったように、一流か一流でないか、というのは“技術”の差なんかじゃない、いかに極限まで「お客様本位」になれるか、ということなんだなぁ、ということを改めて思ったのでした。




オーラソーマヒーリングサロン「些々羅」では、メールにてコンサルテーションのご予約を承っております。 

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後継者

2011-05-30 09:13:00 | オーラソーマ

こないうち、オーラソーマのボトルが次で最後のものとなる、という噂を耳にしてから、ふと思うことがあります。

マイク・ブース氏はオーラソーマシステムの後継者づくりというものをどう考えているのか?ということについてです。

オーラソーマを作ったのは、ヴィッキー・ウォール女史です。

しかも、信じられないことにこのカラーボトルは、彼女が重い糖尿病にかかり、失明してから出来上がったものでした。

しかも、それはまさに天の導きによって、としか思えないような誕生でした。

ヴィッキーは3日間の瞑想のとき天から「水を分けなさい。」というメッセージを受け取り続けたのです。その後、上下に色が分かれた今のイクイリブリアムボトルを誕生させました。

そして彼女自身、カラーについて全く知識もないままにまるで誰か別の人間の手が動いているかのようにボトルを誕生させたのだ、と語っています。

それが1983年のことでした。ヴィッキーすでに65歳。

そしてその翌年の1984年に、すでにヴィッキーとマイクは出会っています。

その出会いの場でヴィッキーはマイクに「あなたとは一緒に仕事をすることになりそうね。」と予言めいたことをすぐに口にしています。

そして1991年、ヴィッキーが73歳でこの世を去って以来、マイク・ブース氏がオーラソーマの全指揮を執り続けています。

ヴィッキー女史がオーラソーマを誕生させたとき、彼女は全世界にこれほどまでにオーラソーマシステムが広がるとは思いもよらなかったことでしょう。

だから、彼女が自分がもし死んだ後にはこれを受け継がせる人は誰にしよう?と考えていたとは想像しにくいです。

しかし、翌年すぐにマイクには何か運命的なものを感じていたようですから、ぼんやりと自分が死んだ後はマイクに、という考えもあったかもしれません。

何せ、システムを作り上げたときがすでに65歳ですからね。

しかも重い糖尿病を抱えていたわけですから、自分の余命ということについては思いを馳せるときがあったことでしょう。

さて、そしてマイク・ブース氏です。

私はマイク・ブース氏の正確な年齢を知りませんが、そろそろ後継者について考えてもいいようなお年頃ではありませんかねぇ。

ヴィッキー女史からマイク・ブース氏へのオーラソーマの受け継がれ方があまりにも自然な流れだったため、ひょっとしてマイクは、「そんなこと考えずに自然体で生きていれば、いずれ必要なら僕にも天からメッセージが降りてくるさ。そういう人とめぐり合うのさ。」とでも思っているのではないか、というふしがあります。

そんな思考のプロセスはまるで教団の教祖ではないですか。

私はそんなお気楽な天然スピ坊やを1つの確立されたシステムの長と仰ぐのはいかがなものか、とため息をつきたくなります。

以前にも言ったことがありますが、マイクが“感じることのできる”人であるなら、その直感によってオーラソーマシステムを支えるひとりであってもらうのは構いませんが、「プロダクツの社長」であったり、「アザイアクトの学長」である必要はないんじゃないでしょうか。


ひとつの企業の社長や学びの頂点に立つ人には、やはりその下で働いている人や学んでいる人たちの生活や勉強・研究の過程のすべてに責任を負う必要があります。

でも、マイクはもう少しお気楽な立場にいさせてあげたほうがいい人なんじゃないかしら・・・

経営を成り立たせるためには「営業」とか「利益」とか、本来彼が考えたくもないようなことに目を背けることはできないはずです。


これが後継者が育っていないからなのか、マイク・ブースが何もかも自分でやらなければ気が済まず、人に任せられないタイプだからなのか、私は知りませんが、このままだといったいオーラソーマはこの先どうなってしまうんだろう、と少し不安になるときがあります。


だって万が一、マイク・ブースにこのまま何の天の啓示も下りてこず、コロリと亡くなるようなことでもあれば、その時点で誰も指揮を取れる人がいない、ってことになっちゃうわけでしょ?

今だって、何人かの側近や家族はオーラソーマを支えているみたいだけれど、はっきりとこの人がマイクに次いでのNO.2だ、って衆知されている人はいないでしょう。

こういうことでいいんでしょうか?

このままだと万が一、ってときには確実にすごい混乱が起こりますね。

「必要なときに天から降りてくるはず」というのと、しかるべき社会の立場にいる人が、それをして「だから何もしなくていい。」というのは違うと思います。

やはり、何事においてもある程度の予測と準備、というものは当然必要じゃないですか。

マイクだって、ヴィッキー女史が死んだのでいきなり後継者となった、というわけではなく、ヴィッキー女史が生きているときからすでにボトルは誕生させ続けてきたはずです。

それも最初のうちは、マイクは自信がなくておろおろしていたのをヴィッキーさんが、「大丈夫よ。あなたには守護天使がついて見守っているわ。」と励ましたことから、初めてマイクが誕生させたボトル、B44は「ガーディアン・エンジェル」と名付けられているくらいですから。

このように、やはりいきなり後継者というものは指名された日からトップとなる、というのではなく、今から徐々に英才教育的に慣れさせておく必要があるはずです。

でも、マイクの周囲からマイクにそういう扱いを受けている人はいなさそうだ・・・

物事というのは巨大になっていくに従って、どうしても一人歩きを始めます。

そしてそこにはルールや基準など、マイクが好みそうにないお堅い決め事も必要となってきます。

でも、いつまでもマイク・ブースは家内工業のマニファクチュアリーでやりたがっているように思えて仕方がない。

ここまで育って、全世界に広がったというオーラソーマの実態に目を背けたがっているとしか思えない。

オーラソーマのボトルがどうやら次の1本でそれ以降の誕生はなさそうだよ、という噂からつらつらとこんなことまで考えてしまいましたが、この話をしたときある友人は、「だからかぁ! 次の1本でキャリーケースに収まる本数がちょうどぴったりになるもんね。最初からわかってたんだ! すごいなぁ。これ以上増えたらキャリーケース使えなくなっちゃうじゃん。どうするんだろう、と思ってたもん。」と感心していましたが、そうなんだろうか・・?

それとも帳尻あわせただけ・・?

これから先も帳尻があえばいいですが、なんかオーラソーマそのものが綱渡りのような歩みだよなぁ。

私が心配しても詮無いことですが、オーラソーマがどうかこのまま(というより改善されて今以上になって)健全に発展していくことを祈るばかりです。




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台湾の占い師

2011-05-29 09:05:00 | ニュース

もう1週間ぐらい前になるでしょうか。ニュースで、台湾の占い師が、自国で「M14の地震がくる」と予言して、「人心を惑わした」として逮捕されるという事件がありました。

なんでも、その人は「何月何日 何時何分に地震がくる」ということまで予言して、それを信じたあるお年寄りがその時刻に恐怖のあまりマンションのベランダから思わず飛び降りて重傷を負っただとか、その人の予言により行動した人の実被害も報道されていたように記憶しています。

まぁ、たいていの人は信じずに、あるいは面白がって、その時刻にはタイムズスクエアのようなところに集まってカウントダウンが始まり、その時刻が過ぎても何も起こらないことに失笑が漏れていた、というレベルらしいですが。

日本の法律がどうなっているのか、台湾の法律がどうなっているのか、その法の適用基準もよくわかりませんが、「人心を惑わした」ということで逮捕される、ということはいささか穏やかではありません。

私がこのニュースを聞いて真っ先に頭に浮かんだのは、

「どのくらい直感を信じていいものなのか?」

「直感が信じられるという人はそれに100%の自信があるのか?」

「100%の自信があっても、自分の直感を公言するということはしないほうがいい、あるいは公言したとたんにそれは当たらなくなったり、天罰が下るというようなしくみにでもなっているのだろうか?」

などでした。

その台湾の占い師が確信犯でないかぎり、その人自身は、本当に台湾にM14の地震がくる、というお告げだか直感を得て、「これは大変だ。国民のために教えてあげなくては!」と純粋に思っただけかもしれません。

それを発表することによって個人的な利益を得る、とかそれを画策した、ということでなくても、人心を惑わしたら罪になってしまうのが台湾なのでしょうか?

「M14の地震がくる」なんてことを軽々しく口にしてはいけない、ということは重々承知のうえで言うのですが、発言の根拠に科学的な裏づけがないことは全部罪に問われる、としたらそれはまた乱暴な話です。

この世には科学的な裏づけが無いことのほうが多いと言ってもいいくらいですし、それらのなかには信じられないものもありますが、信じる人がいてもいい、というのもわかりますから。

でもまぁ普通に考えれば、「何時何分」というところまで言い当てる、ということはまずありえないのでは・・・と思いますよねぇ。

その占い師も、もしそういうお告げを得たとしても、「何時何分というところまで発表するのはどうかなぁ・・・?  そこまで言っちゃうと、もしそこから多少でも外れたら、あいつの言ったことは嘘だった、と詐欺師扱いされちゃうしなぁ。」とか思わなかったんでしょうか?

いや、これは自分が考えて捏造したことではなくて、あくまで天からの啓示だったのだから、とあえて発表に踏み切ったとすれば、よほどその天からの啓示を自分が確実に受け取った、という直感に自信があったのだ、ということになります。

この、自分の直感に対する100%の信頼、というのが私にはわからない。

「直感」と「ヤマ勘」は似て非なるものです。

それが直感なのかヤマ勘なのかの見分け方としてよく引き合いに出されるのが賭け事です。

よく当たる占い師に「そんなに当たるならじゃあ、今度の10レースでどの馬が1着になるのか当ててみろ。」と言ってやらせるとたいていの人が外れる。

ほぅらみろ、占いなんて当てにならないじゃないか、ということではなく、そういう個人的な利益に属することに勘を使うこと自体、もう直感が働かなくなるから当たらないのだ、という言い方ですね。

けれど、それでは、国家の一大事なら、必ず間違いのない天からの啓示として100%信頼できる直感が降りてくるのか、というと今回の台湾の例を見てもわかるように、100%当たるわけでもなんでもなかったわけです。

それでもこの占い師さん自身は100%のものだ、と信じていたからこそ公表するに及んだのか・・?

それ、ぜひ、聞いてみたいところです。

「ええっとぉ、100%ではなかったんだけど、用心にこしておくことないから言ったほうがいいのかなぁ、と思ってさ。」なんてことかもしれませんよ。

こんな大ごとになる、とは露知らず。(そこまで予言はできなかったんですね。)

なんとなぁくですが、現在の私の“直感”といたしましては、どんな優秀な占い師さんでも、自分に降りてきた直感が100%信じられる、という人はいないのではないか、と・・・

ま、しょせんわたくしたち、人間ですからねぇ。

となると、ですよ。

先だって私は、何もツールを使わず、直感のみでセッションを行っている人のことをようやくこの頃信じられるようになった、というようなことを書きましたが、また怪しくなってきました・・・

直感のみでセッションを行っている人のセッションを、私自身も何度も受けたこと、あります。

そして、その人たちのおっしゃることを今まで信じていなかった、というわけではありません。

けれど、どういうことが彼女たち、あるいは彼らの頭の中、体の中で起こってそういう発言になるのだ、というしくみがまったく理解できなかったのですが、

最近頭で考えた理屈ではなく、なんとなくそれが理解できるようになった、というような意味です。

もし、その人たちが「このメッセージは自分の思考によって出てきたものではなく、100%潜在意識を通して天とつながって降りてきたものだから、私はただのその媒介者。ここで止めてしまってはいけない。むしろ、そのまますべての真実を今目の前にいるこの人に伝えなくては。」という使命感に帯びてやっているのではなく、

「ええっと。このメッセージについては、自分が今この人の話を聞いたことによって、自分の今までの経験や体験を通して、自分の思考によって感じたことかなぁ? ちょっとその辺が天とつながって降りてきたメッセージなのかどうかあいまいなところがあるなぁ。」と思いつつも、それらを100%伝えているのだとしたら、それは許されることなんでしょうか?

たぶん、その方たちの考え方というのは、「それでもいい。」だと思うのです。

オーラソーマでもよく、「必要なことしか起こらない。」と言いますが、少なくとも天はその人を脅すようなことを伝えてくるはずがない、その人にとって必要なこと、ためになること、良いメッセージであるなら、伝えてしまえばいいのだ、それが天も望んでいることのはずだ、というふうに考えるのではないでしょうかねぇ。

でも、もしもそこに少しでも「えぇい、何でもいいからしゃべっちゃえ。だって、これ、そんなおおごとなメッセージじゃないもん。そいでもって、良いことと思われるメッセージなんだから問題あるわけないでしょ。」というようないいかげんで傲慢な気持ちが潜んでいるとしたら、えらいことだと思います。

なにが“大ごとかそうでないか”“その人にとって良いメッセージか悪いメッセージか”なんてことは、伝える側が決めることではないからです。

そんな決め付けこそ神に唾はく行為です。

ひょっとするとその人の一生を左右するようなメッセージになるかもしれないのですよね。

でもそんな傲慢な気持ちが誰のなかにも1%も常に潜んでいないかどうかとなるとまた難しい問題だと思います。

こんなふうに考えていると、結局、“直感”というものは、あくまで“自分”がスピリチュアル的に成長するために使うものであって、それを使って他人にメッセージを運ぶとかお金をいただくセッションをするとかってこと自体が、人間にとっては分不相応な行為なのではないか、というふうに思えてきてしまいます。

ま、手垢のついた表現ですが、少なくとも自分が受ける側になったときには、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」というぐらいの気持ちで、自分にピンときた部分のメッセージだけを取り入れればいい、ということになるんでしょうか。

今まで気付きませんでしたが、世の中で、

「占いは好きだけれど、当たるか当たらないかについては話半分、って感じで聞いておけばいいと思ってるの。」という人が、占い師側の頭の中、心の中に起こっているはずであろうことまで慮って、そう言っているのだとしたら、あれは実に深い意見だったんだな、と思いました。

むしろ私自身は、(そのくらいの軽いノリでよく他人の口から出てくる自分の将来の話のことを聞けるよなぁ。そんなふうに割り切れるなら、最初から占い師のところなんて行かずに自分で自分の人生切り開けばいいんじゃないの?)って不思議に思ってましたから。

・・・・この世界、なかなかまだまだ奥が深いです。



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静岡の休日

2011-05-28 09:01:00 | 身辺雑事

静岡に「バタフライ&シーエッセンス」を受講しに行った3日目は、その日だけ受講時間が午後の13:00~20:00まででした。

これをいいことに、私はその日静岡にお泊りにして、次の日1日をなかなか会えないでいるmieちゃんと会って遊んでいこう、と思い立ちました。

mieちゃんは、以前、三重に住んでいました。(ご主人の仕事の関係で転勤族で、その前とかもありますが、私が彼女と知り合ったのは三重の時代です。)

その後、静岡に移り住み、今はすっかり静岡の空気に馴染みまくり、お子さんにも「お母さん、今が一番生き生きとしているみたい。」と言われているそうです。


mieちゃんに打診すると快くOK!

「どこに行きたい? どこか行きたいところはある?」と聞かれ、

「いやぁ、mieちゃんがメインディッシュで、どこに行くかは副菜だから、どこでもいいよ。まったり過ごそう。」と返事をしました。

次の日の朝。

mieちゃんが住む長沼駅で待ち合わせて、最初に彼女が連れていってくれたのは近くの「草薙神社」でした。

ここは、ヤマトタケル命が追っ手に追われて切り付けられそうになったとき、自らの刀をぬいて、草をなぎ払うように振り回し、追っ手を追い払った場所だ、ということから「草薙」と名づけられたということです。


そういう場所だからなのか、ここは鳥居の前に立ったときから、「どうぞ~ お入んなまし~」という優しさを感じませんでした。

むしろ、何だかちょっと恐いっていうか、厳しいものを感じました。

気持ちを奮い立て、それでも中へ。

鳥居をくぐるとその左脇にすぐご神木がありました。

気を持たせて奥へ奥へと行った奥の院のようなところにあるのではなく、入り口を入ってすぐに、ということになんだか気持ちがついていけませんでした。

「へ? ここ?」って感じで。

でもよくよく見ると、そのご神木はただならぬものでした。

いったい樹齢いくつなのか・・・

木は折れ曲がり、枝がまた地を這い、根となり・・・

外側の皮だけになって死んでいるのか、と思うとその脇から生えている枝から青々しい葉っぱをつけていたり・・・ いったい全体死んでいるのか生きているのか、どこがどう絡まっているのか・・・

人間も100歳をすぎると皮膚に刻まれた年輪がなみたいていではない、って感じになりますが、樹もやはりそうなんですね。

「写メとりたいんだけど、なんだかカメラなんてもの向けちゃいけない感じだね・・」といいつつ、携帯を取り出してカメラモードにしたとたん、「ジー」という音がして、画面は、「電池残量が少なくなりました。撮影はできません。」の表示が。

あれれ・・・

私の携帯のバッテリーはもう寿命のようで、充電しても1日しか持たなくなっています。

でも、昨日は「バタシー」の授業で、どのみち繊細なエネルギーで携帯の電源は切っておかなくてはならなかったので、2日目でももつだろう、と充電器までは一緒に持ってこなかったのが仇となりました。

やはり、かなり弱っているもよう。

でも、逆にこれであきらめがつきました。

それにしても、このご神木はともかくとして、静岡の景色のすばらしいところとかステキなお店とかは撮って、このブログで紹介したいところがいっぱいあったのに~ 残念!

せっかくの休日でいっぱい写真を紹介したかったのですが、今日のこの記事には1枚の写真もありません・・・

旅の話でありながら・・・

道をはさんでご神木ではない木をふと見やって、

「この木もかなり立派な木だね~」と言うと、mieちゃんが、

「うん。この道のあたりでこぼこしてるでしょ。絶対根はつながってると思うんだ。こっちのご神木と。神の地に入るのに、鳥居で下をくぐらせてもらって、そしてここでつながってる根の上を歩かせてもらって、上と下の両方から、どうぞお入りください、って言われてるような気がするんだ。」と言いました。

おぉ! さすがライフナンバー「7」の不思議娘!(mieちゃんは確かに私よりずーっと若いですよ。でも、中学生のお子がいます・・・ でも、わたしたちは永遠の娘なんですぅ!) 

ええこと言うねぇ。

さて、草薙神社を後にして、少し早かったけれど、私が行きたかった「サリーズガーデン」へ。

「サリーズガーデン」は、mieちゃんのブログに時々登場するのを見ていて、行ってみたいところだったのです。

到着したそこは、想像以上の場所でした。

デザイナーさんのちょっとしたテーブルウェアや雑貨を売っているスペースがあり、茶室風の空間あり、そのどちらでも空いていればコーヒーを頂いたり、ランチを頂いたりすることができます。

わたしたちは静岡市内が見下ろせる窓辺のテーブルに腰を落ち着けながらカレーのランチを頂いたり、庭かな、と思ったところには一面ご主人の本業(?)でもある盆栽が飾ってあって眼を楽しませてもらったりしました。

盆栽、けっこう、好きです。

まだ松の枝ぶりの良さがわかる年齢ではないですが、山野草ぽいものが好きで、もみじの盆栽なんて目を奪われ、あ~、これがもし自分の車で来ている旅だったら絶対連れて帰りたいんだけどな~というものがいっぱいありました。

盆栽って小宇宙だと思います。

いつまで眺めていても飽きません。

あ~、小さい頃はこんなもんのどこがいいんや、と思っていましたが、ついに私もこういうものの良さがわかる年になったか・・・

盆栽から石庭の石に興味が移るようになると、いよいよ今生でのお勤めもラストだとか・・・

当分は、ここで止まっておきたいです。

さて、それから三保の松原に行きました。

ここはわっかりやすぅ~い、昔ながらの観光地でござい、という顔をしているので、逆に今はあまり受けてない感じがします。

私はむかしむか~し、親に連れてきてもらったことがある気がするのですが、改めて来てみて新鮮でした。

両側を松の木に守られているような、木の板で作られて一段舞台のように少し高くなっている「神の道」なんて1本道があるんですよ。

mieちゃんが、「この前、娘を学校に送った帰りの朝8時半くらいにここへ着てみたらだぁれもいなくって、なんだか独り占め~って感じのリッチな気分で少し散歩したよ。」と言っていました。

それは、さぞかし豊かな時間を過ごせたことでしょう。

砂浜を少し散歩していると、おみくじが引けるようになっているところがありました。

ここでおみくじを引く人はあまりいない感じでしたが、私は「あ、ちょっと引いてみよう。」と思い立ちました。

この前「雑学王」だかでやっていたことを思い出したからです。

皆さんは、おみくじって日に何度も引くのってルール違反だと思いますか?

それともかまわないと思いますか?

正解は、かまわないんですって。

むしろ、人生全体の運勢のことを漠然と引くよりも、「待ち人は来るでしょうか?」というように1つのことだけを強く胸に念じてそのことだけについてのおみくじを引き、その後のことについては書いてあっても、腑に落ちなかったら、また1つ聞きたいことを念じてまた引く、というようにすることのほうがベストのようです。


実際、このときに引いたおみくじには「あなたの運勢は~」という全体運的なことがボンと書いてある次からは、「以下、必要のない事項は除いて読むこと」と記してありました。

私は、「私はレベル4クリアに向けて励むことができるでしょうか?」と聞いてみました。

すると、「試験」という項目があり、「大丈夫ですが、今一段の努力を要す。」と書いてありました。

ごもっとも。

神に聞くまでもないことでした。

海からの潮風を受けて、全員の松が浜方向へひどく流されたような幹をしているのと逆に1本だけ海方向に向かっていっているアマノジャクな松があって、それが有名な「羽衣の松」でした。

mieちゃんが、「初めてここへ来たとき、私は、この松に一番惹かれたんだよ。」と言っていました。

確かに大木ってそういうの、ありますよね。

なぜか、「あ、この子と相性が良さそう。」とか「あの子にどうしても惹かれる。」というようなこと。人間と一緒ですね。

まだ若干時間があったので、mieちゃんおススメのまったりできる雑貨屋さん兼カフェに行ってまたまたとりとめもない話で盛り上がりました。

ライフナンバー「7」の話には、行き着く先の結論、というものがありません(笑)

なので私が、「そういえばさ、ちょっと話がそれるけど~」と振ろうものなら、

「え? 全然構わないよ。そんなこといちいち断ってもらわなくても。どっちみちそれっぱなしですべてが構成されているような会話じゃないの。」てなもんです。


そんなmieちゃんに甘えて、久しぶりだったこともあって、ほんとにあ~でもない、こ~でもない、とオーラソーマの話をいっぱいいっぱいしました。

あまりにいっぱい話したので、何を話したのか忘れてしまいました・・・

オーラソーマでよく言うようにこれは「腹に落ちるのを待ち」、「あ、つながった」と思ったらまた降りてくるでしょうから、そのときにまた話題にするとします。

mieちゃんとも「あ~、いっぱい話したようだけど、それでもまだ足りないね。」と言って静岡を後にしました。




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蝶と蛾の違い

2011-05-27 09:14:00 | うんちく・小ネタ

突然ですが、皆さん、蝶と蛾の違いってご存知ですか?

私の周りでも聞いてみると、

「え? 昼間に飛んでいるのが蝶で、夜に飛んでいるのが蛾じゃないの?」

「は? 羽根を広げてとまるか、羽根を折りたたんだ状態でとまるかじゃないの?」

「へ? 触覚の先っぽが丸くなっているのが蝶で、くるっと丸かっているようなのが蛾じゃないの?」

など色んな回答が出ました。

皆さん、これぞ、という1つの回答がある、ってこと自体がすごいですね。

しかもかなり学術的。

私なんぞ、もっと単純に色柄がきれいなのが蝶で、地味なのが蛾だと思っていました・・・

実は上記の皆さんのお答えは、どれも正解です。(私の以外は、って意味ね。ぐすん。地味な蝶、派手な蛾というのもいるそうです。)

でも、どれも「これぞ!」という答えでもないのです。

最近バタフライ&シーエッセンスを学び、授業のなかでも先生が、「蝶ってりん粉がハラハラってすごく落ちるじゃない? あれって、どこまでがただの粉でどこからが本体(? という言い方はおかしいのかもしれませんが・・)なんだろうねぇ。」とおっしゃったこともすごく気になって、調べてみました。

一言で言うと、調べたことによって余計にわからなくなりました・・・

どうもこの境界線は実に曖昧模糊としたものがあるようなのです。

蝶と蛾は同じ「鱗翅目」であり、区別できるわけではないんだそうで。生態や形状で区別しているだけなんですって。

上にあげた区別のほかには、「蛾のほうが胴体が太い」とか「蛾のほうがりん粉が剥げ落ちやすい」とかあるみたいですが、それらにもじゃあ例外はないのか、と言うと例外はあるそうです。

だから絶対、という区別法でもないんですね。

びっくりしたのは、英語では蝶のことを「バタフライ」と言い、それに対して蛾のことを「モス」と言いますが、(モスラってここからきてたんだね、ってこの話、わかる人だけでいいです・・・)それも益虫か害虫かということで大雑把にわけているだけなんだとか。

ドイツやフランスにはそもそもはなっから蝶と蛾を区別する呼び名そのものがないんだそうです。

私が面白いな~と思ったのは、やはり「りん粉」のことです。

蝶のりん粉って何で出来ていて、落とすとどうなっちゃうの?って気になったことありませんか?

あれはさなぎの時代に羽の表面にある細胞の一部が最後の分裂をしたとき、一方がりん粉に、もう一方がりん粉の根元がはまるソケットの部分になるんだそうです。

蝶の羽根を顕微鏡で見ると、ダーツの矢のように羽根の部分と矢じりにあたる細くなっている部分があって、その矢じりがソケットのような部分にちゃんとひとつずつはまっているんです。

女性がファンデーション塗ったあとに、ぽんぽんと仕上げにはたくお粉とはワケが違うんですね~ 上に乗っかってるだけじゃないんだ。

ちょっと触っただけでも落ちちゃうくせに。

なんと、1つの細胞だったなんて。

でも、りん粉の部分もソケットの部分も蝶のあのきれいな模様となって完成をみた瞬間に、細胞としては死んじゃうんですって。

自分の死んだ細胞を常に表面にひらひらとくっつけたままでいるって・・・どうよ・・と思いましたが、よく考えたら、お肌の角質と同じようなもんですかね。

そう考えてみると私たち人間も、死に絶えた細胞をくっつけているっていうかなり気持ち悪い状態で生きてますね~

りん粉は剥がれたあとはどうなるか、ってことですが、剥がれたものはもうそのままらしいです。再生はしません。

でも、たとえ全部剥がれ落ちてしまったとしても、見た目に色は薄くなるけれど、とりあえずその場では飛べるそうです。

でも、ひらひらとあの蝶らしい飛び方ができるかどうかとなると疑問らしく、たぶん、あのりん粉は空気抵抗を適度に抑えたりする役目を負っているのではないか、ということです。

そのほかにもくもの巣などにひっかかっても、りん粉の層は2層になっているので、1層めが剥がれただけでなんとかくもの糸に囚われないで助かる、という役目もあったりするみたいです。


でも、りん粉をすべてとってしまったら水に濡れた場合、弱ってしまって結局のところはいずれ死ぬことになるようですね。

こうしてみると蝶ってとっても不思議な生き物ですね。

古くなった細胞だから不必要なだけなのか、というとそれを剥ぎ取ると死んでしまう。

古くなった細胞が蝶をあのキラキラときれいな色に見せる役割をしている。

このように一見役立たず、というか不要になったものが実は重要な役目をしていたり、不要なら、と剥ぎ取ると死んでしまったり・・・


でも実は我々人間も同じようなものかもしれません。

古くなった思い出を引きずっていたり、必要のない記憶だから、とロボトミーのようにされてしまったらいつかは死んでしまうでしょう。

そして一見いらないものに見えるような無駄なものがその人を引き立てていることだって、ある。

例えば、「家電芸人」なんて方がいらっしゃいますが、ご本人は心底家電が好きだっただけで、自然についてしまった家電に対する知識で番組からお呼びがかかったりするとは思わなかったことでしょう。

いくら「芸は身を助く」ったって、本業の芸をみがかずとも家電の知識をたくわえたほうが仕事になるなんて思いませんものね。

でも、そんな一見無駄なことがその人の魅力を引き立てていたり、よりその人らしさを表している、っていうこと、ありますものね。

こう思うと、蝶という存在が急に身近に感じられたりしてきましたが、反対に「黄泉の国のゲートキーパー」と言われる所以の不思議さが薄れてきてしまいました・・・

このあたりで蝶をこれ以上知ることはやめにしよう、っと。

一見無駄だと思えるものが魅力的、ってことがあるよね、ってことだけ再認識いたしました。

と、「捨てられない自分」「片付けられない自分」を弁護する・・・




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