ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

貴婦人と一角獣

2013-06-30 09:05:00 | アート・文化

今、東京六本木にある新国立美術館にて、「貴婦人と一角獣展」が開催されています。

これは、フランス国立クリュニー中世美術館の至宝といわれている1500年前後に製作されたと見られる6連の連作タペストリーです。

この珠玉の名品が過去フランス国外に持ち出されたことは1974年のアメリカメトロポリタン美術館のみで、日本ではもちろん今回が初めてのことです。

しかし私はこの名品の存在も、いま、東京でその展示会が話題となっていることも何も知りませんでした。

どうして知ったのかと言うと、今月のはじめに青山マリアいく子先生のところへシェアリングデーを受けに行ったときのことでした。

今後のスクールスケジュールのお知らせを頂いたときに、この「貴婦人と一角獣」についてのお話会というのがあって、(これは何のことだろうな?)と思ったのでした。

その後、授業のときになんかの拍子でこのお話に触れたときがあり、先生が、

「これにはとっても不思議で面白いお話があるのよ~ あ! そうだ。えっちゃんはこれが新国立美術館で開催されているうちにまた東京へ来ることはないかも、なのね? もう、えっちゃん! 今日の授業はあなたはここでよろしい! 今から六本木に行っちゃいなさい! それくらい見る価値のあるものよぉ~~~!」と言われ、ま、それは冗談としてその場で、「んじゃ、ちょっくら失礼しますわ。」と席を立つことはいたしませんでしたので、その日にその展示会に行くことはなかったのですが。

そして実際そのときには、マリア先生がそんなに興奮するほど、私は「この作品が見てみたい!」と気持ちをかき立てられたわけではなかったということもあります。

そうして日にちが経過し、先日、朗読教室に行ったときのこと。

教室ではいつも15人ほどいらっしゃる出席者が人前で話す訓練もかねて、13,4分の近況報告をします。

そのときに私の隣の方が、

「この前、主人の退職祝いをかねて、少し旅行をしてまいりました。最後は、東京の新国立美術館へ参りまして、かねてよりテレビで見てからずっと見たい、見たいと思っておりました『貴婦人と一角獣展』をみてまいりました。」というお話をされました。

その方のお話のポイントはご主人の退職のことだったので、それ以上に展示会の話には触れられませんでしたが、これで私は再びこの「貴婦人と一角獣」のことを耳にしたわけです。

そして2回にわたって耳にしたことで、(こりゃあ、見てみないとなぁ。)という気持ちになりました。

そこで家に帰ってからネットでこの「貴婦人と一角獣」の事を調べてみましたら、一気にぐぐぅ~んと惹かれてしまいまして、どうして私はマリア先生のところではあんなにへぇ、ぐらいの興味で済ますことができたのかしら、と自分を疑うほどでした。

この6枚の連作タペストリーは、「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」という五感を表現したものと、あと1枚「我が唯一の望み」という1枚で出来上がっています。

オーラソーマをやっていて、五感を研ぎ澄ます、自分の感覚をより磨くということに取り組んでいる人たちが惹かれるのは当然、というテーマです。


この「我が唯一の望み」とは何のことなのか? 何を表しているのか? というのが諸説あり、謎に包まれた神秘の作品になっています。

高貴な貴婦人と実在しない一角獣という組み合わせに惹かれるのはもちろんですが、250pxthe_lady_and_the_unicorn_desir 私も例にもれず、この「我が唯一の望み」とは何のことなのか?という解釈に一番惹かれました。

この絵は(※画像はwikipediaからお借りしました。)、中央にロイヤルブルーの円形のテントがあり、その頂の部分に「我が唯一の望み」(A Mon Seul Desir)と書かれています。

そしてテントの入り口の前に立つ貴婦人は、それまでの5枚のタペストリーで描かれていたネックレスを外しており、右側にいる侍女が差し出した小箱にそれを収めようとしています。(あるいは再び身に着けようとしているところだ、という見方もあるそうです。)
彼女の左側にはコインが入ったバッグが低い椅子に置かれています。

そして獅子と一角獣が貴婦人の両側で旗を捧げ持っています。

これまでの解釈としては、

1.貴婦人がネックレスを小箱にしまおうとしているところから、五感によって起こされた情熱を、自由意志によって放棄、断念することを示している。

2.五感のあとにくる「理解すること」という6番目の感覚を指している。

3.この貴婦人が愛とか結婚を望んでいることを表している。

       などがあるそうです。

それ以外の作品が「五感」を描いているのですから、2.の「六感」を描いているという解釈が明解な気もします。

私はこのタペストリーのタイトルが「唯一の望み」ではなく、「我が」とつくところが何だか引っかかるのです。

だったらほかの五感のことも「私の視覚」「私の聴覚」・・・というように名づけられていてもいいのではないか、と思えて。

ここだけ「我が~」となぜか「私の場合は、だけどね。」みたいなエクスキューズめいた言葉が入るのであれば、3.の解釈である「この貴婦人の望むのは結婚なのかな。」って急に下世話な解釈になるのが案外当たりだったりして、なんていう風にも思えます。

いずれにしても物語には、決して解き明かされることのないミステリーがつきもののほうがロマンチックです。

皆さんにはどう見えますか?


私はこのタペストリーをパッと全体で捉えた瞬間、このロイヤルブルーの丸いテントが「あ、地球だ。」と感じました。

そして獅子と一角獣が捧げ持っているものが、陰陽のポールのように見え、貴婦人が侍女の宝石箱に手を入れているのは、自らのブループリント(トーラ)をまさにつかもうとしているところなのではないか、というように見えたのです。

まさにオーラソーマタロットのB2に該当する「ハイプリーテス」(女教皇)のように見えるのです。Photo

つまり、五感の旅を終え、自らが統合されると自らの魂は地球という枠さえ超えて自由に飛翔できるのだよ、ということを表している絵のように思えました。

そしてそういう状態になることこそが「私の唯一の望みなのよ。」というように・・・


実際に実物を見たら、また違う解釈が湧き上がるのかもしれない。

是非、実際にこの目で見たい!という思いがつのりました。

そして自分のスケジュールを見てみると、7月の第一週に東京に行くのですが、そのスケジュールのなか、2日目の午前中だけぽっかりと自由時間として空いていることがわかりました。

東京の土地勘がない私は、泊まっているホテルから新国立美術館まで、新国立美術館からその日の午後に予定されている場所まで行くのはどういうことになるのかと調べてみたら、なんとそれは六本木から両方とも近く、20分ほどで行き来できることがわかりました。

こりゃあ、行くっきゃない!

今からワクワクしています。

私はこのように、目的のものに会うために予習していく、っていうか自分の解釈を1つ固めて出掛けることが結構好きです。

だってこういうこともありえるな、これもありだな、とそれまでの時間をずっと楽しむことができますもん。

先入観を持たずにステキなものに遭遇する楽しみも捨てがたいですが、私のロイヤルブルーのテントをまるで地球のようだ、と感じた感覚が、実物を前にするとまたどんな感覚の変化となって現れるのか? 

そのギャップをまた楽しみたいと思っています。

幸いなことに東京での展示は715日までです。

まだもう少しありますね。

でももし見逃した人には、大阪・中ノ島での展示が次に727日~10月20日まであります。

興味をもった方は是非、どちらかでごらんください。

そして、もう行ってきたよ~という方も、その感想、わたしはこういうふうに解釈した、というお話など聞かせていただけると幸いです!


原っぱ

2013-06-29 09:04:00 | 身辺雑事

まずは何も言わずに次の文章を読んでみてください。


          原っぱ        長田 弘:作


原っぱには、何もなかった。

ブランコも、遊動円木もなかった。

ベンチもなかった。

1本の木もなかったから、木陰もなかった。

激しい雨がふると、そこにもここにも、おおきな水溜りができた。

原っぱのへりは、いつもぼうぼうの草むらだった。

 きみがはじめてトカゲをみたのは、原っぱの草むらだ。

はじめてカミキリムシをつかまえたのも。

きみは原っぱで、自転車に乗ることをおぼえた。

野球をおぼえた。

はじめて口惜し泣きした。

春に、タンポポがいっせいに空飛ぶのをみたのも、

夏に、はじめてアンタレスという名の星をおぼえたのも、原っぱだ。

冬の風にはじめて大凧を揚げたのも。

原っぱは、いまはもうなくなってしまった。

 原っぱには、何もなかったのだ。

けれども、誰のものでもなかった何もない原っぱには、ほかのどこにもないものがあった。

きみの自由が。


この詩を読んで、私は自分自身が小さい頃にはそういやあ、原っぱというものがあったなぁ、と思い出しました。

原っぱとは、この詩にも書いてあるとおり、文字通り「何もない」ところです。

「何もない」からこそ、子どもの創造力をかきたてる。

カミキリムシをつかまえたり、野球をおぼえたりしたこの詩の主人公はどうやら男の子のようですが、私も幼い頃には男の子も女の子もなく、いろんなことを原っぱから学び、原っぱで発見しました。


友達と秘密基地をつくりました。

それはさながら「20世紀少年」のあの世界です。(物語の発展があんなおどろおどろしいことにも何もならず、たいていは計画だけで終わったものですが。)

ただもう“秘密基地”という言葉の閉鎖的な世界にもうそれだけで酔っていました。


鈴虫がいっぱい生息している原っぱを見つけて、親しい友達だけにそれを教えてあげました。

しかし、その友達がまた「おまえにだけだぞ。」と言って教えるので、結局、2、3日もすれば全員に知れ渡り、鈴虫は獲り尽くされましたけれど(笑)


「ねぇねぇ。誰にも言わないからさ。好きな男の子の名前教えてよ。」なんて会話をしたのも原っぱでした。

それも次の日にはクラス中の全員に知れ渡っているのですけれどね。(笑)


ところが今は、純粋培養された「原っぱ」というものがまず、ない。

公園とは絶対的に違うんです。

広い公園には芝生しか植えてないような、何もないスペースってあるよ、とおっしゃる向きもあるかもしれませんが、とにかく行政なり大人なりが、子どもたちに向かって「どうぞ、どうぞ。ここは何して遊んでもいいところなんだよ~」ともろ手を挙げて許可してくれているところなんて、原っぱじゃあ、ない。

子どもは「いけない。」と言われていることがしたいんですよね、なぜか。

だからもし見つかったら、「こらぁ! そこで何してる! ここには入っちゃいかんって書いてあるだろうがぁ!!」と叱られる場所で、ひそかに集まり秘密の遊びをするのがドキドキワクワクするんです。


今では子どもが入ることが出来るようなところで万が一子どもの身に何かあったら、多少「ここで遊んではいけません。」なんて看板が立っているくらいでは責任を追及されてしまいますからね。

だから絶対入らせちゃいけないんだ、という固い意志が感じられる場所には、何が何でも絶対に入ることができないような高い塀や鉄条網などが張られていますものね。

それに比べると私の小さい頃なんて、もっと世の中がいいかげんでした。

ビルが壊された跡地、工場の跡地、行政のものだけれどまだ何が造られるとか決まっていないような宙ぶらりんな土地、そんなところはただ放ったらかしにされていて、草がぼうぼうに生えたままで手入れもされておらず、立ち入り禁止の塀も鉄条網もなく、子どもたちの恰好の遊び場だったのです。

ここはこういうことして遊ぶといいよ~

ほぅら、下からは噴水のように水が吹き出るところがあって、楽しいでしょ~

ぐるぐる回る遊具、ゆらゆら揺れる遊具、とびこえるべきもの、ぶら下がるべきもの、またぐべきもの・・・

そんな風にオトナの思惑が読み取れて、まるでレールに敷かれた人生を歩むがごとくに遊べ、と言われるほどつまらないものはありません。

まさしくこの詩のごとく、「何もない原っぱには、どこにもない自由」だけはあったのです。

どうしてお膳立てされたオトナの思惑の中で遊ぶことが自由でしょうか。

いまや、ただの河川敷の、誰のものでもないスペースさえが、必ずサッカーゴールがしつらえられ、どこかに使用許可を申請するのでしょう、土日などはきちんと練習や試合が行われています。

ただぶらっと川べりを訪れてぶらっと遊ぶ気になることは許されないありさまです。

でも、それでも私たちは誰もが自分の真ん中に「誰にも侵されない自由なスペース」を持っていますね。

たとえ人ごみに居たところが、グリーンのポマンダーを施せばスペースが生まれてホッとしますし、なにかグループで居て全体の質を上げたいと思えば、アークエンジェロイエッセンスという強い味方もいます。

プロダクツの力を借りながら、私たちはたとえ今この瞬間に地球が最期を迎えようと自由でいられるはずです。

それを信じられる私でいたいです。

・・・それにしても、原っぱ、なつかしいなぁ。






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能動的沈黙を味わっていますか?

2013-06-28 09:02:00 | 精神世界

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         明日、6月29日(土) 「瞑想の会」 \1500

            10:30~12:00

            1席 お席あります!

               一緒に瞑想を楽しみませんか?

     やってみたい! 参加してみたい! と言う方は、

           chakra@aura-soma.name

                    まで、ご連絡お待ちしています。

**********************************

一昨日は全国的にも雨のところが多かったようですが、岐阜も朝から大雨で、その勢いは止むことがなく、1日中ざぁざぁと降っていました。

久しぶりじゃなかったかなぁ・・ あれだけの雨量って。

なんだか私だけじゃなく、街ごと浄化されたような気がして気分が良かったです。

雨ですから当然湿度も高かったはずですが、気温も久しぶりに25℃くらいで一番気持ちいいくらいのひんやりとした質感の日でした。


わたし、かなり強めの雨の日って割りと好きなんですよね。

深夜しんとした静けさのなか、どこへ行くという当てもなく車を運転するのも好きです。


この2つに共通していること、っていうのは“人が活動していないとき”、あるいは“人が比較的おだやかに身体をやすめようとするとき”だからですね。

今なんて都会は24時間眠らない街でしょうから、ドライブとはいえそういうところへ行くのは好きじゃないですね。

昔は夜10時を過ぎたらたいていの家では眠りに入っているか、眠りに入る準備段階をしているような感じが町全体に漂っていて、そんななか私だけは起きている、っていうのを味わいながら車を運転するのが好きだったんです。

雨のなかわざと傘をささずにぶらぶらと歩く。(職務質問されないように気をつけないといけません・・ それと、風邪をひかないように事後すぐに温かいシャワーが浴びれる態勢を作っておくのも大切ですね。)

深夜ドライブする。

このどちらも1人に限ります。

これは、自分から“積極的に沈黙を楽しみにいく”ということでもあります。


皆さんは普段、生活の中で“積極的に沈黙を楽しむ”ということを取り入れてらっしゃいますか?

仕事がオフの休日、ふっと気付いたら、あれ・・ 今日1日中、誰とも口きいてないや、とかそういう受身の沈黙のことじゃありませんよ。

そういうときはきっと生身の人間とは口をきいていなくても、テレビをつけたり、音楽聴いたりと何かしら自ら音源を求めてはいるでしょう?

そうじゃなくて、積極的に自ら音のない世界を選び取ってその中でじっとひとときを過ごす、っていうことをしていますか?

それの最たる代表のひとつが瞑想ではないかと思います。

つまり、積極的な沈黙を選び取る、ということは内観するということでもあります。

では、内観すると何がいいのか?

いろんな答えがあるでしょう。


“無”になることができる。(=無我の境地を味わうことができる。)

自分の内面を見つめることができる。

雑念を取り払うことができる。

どれも瞑想に慣れ親しんだ方が得られる素晴らしい境地ですね。

けれど、実際に普段修行のようなつもりで瞑想に取り組んでいるわけではなく、ちょっとした気分転換とか何となくそのほうが気持ちがいいから、ということだけで瞑想しているだけではなかなか上記ほどの境地にたどりつくことはできません。

私が瞑想をしていて一番いいな、と思うことは「思考」より自分の「心の声」を聴くことに素直になれる、ということです。


「思考」、この場合イコール左脳と考えてください。

左脳は簡単に自分に嘘をつきます。

例えば自分がこれをやりたい!と思うものがあっても、

「いやいや、そのための費用が今捻出できない、ということはやめておけ、ということではないか。」とか、

「私がその間、家をあけるということについて家の者は良い顔をしていない。家庭内の空気を悪くしてまで自分を押し通すこともないのではないか。」とか、“やらない”ための実にもっともそうな理屈を考え出してくれるのが左脳です。

これらの理由は一見、実にごもっとも、というように見えますが、どうしても私はこれをやりたい!ということがあれば、それ以外のあとのことはすべて“手段”に過ぎないじゃありませんか。

夢、目的、目標の場所へ進むためにはどうしたらいいか、ということについてはとりあえず「そこへ行くのだ。」「私は到達するのだ。」「どうしたってこうしたってやるのだ。」ということを大前提とした上での後の問題じゃありませんか。


だからこの場合、「思考」の力を生かすのであれば「今はその費用はない。で、いつまでにどんな方法で作ることができるだろうか?」という部分で使うのが健全であるはずです。

「家の者が良い顔をしないのはなぜか?」その本当の原因を突き止めてみる必要がありそうです。

自分では、「わかってるわよ、そんなもの。家事をこなす人間がいなくなって家の中が片付かなくなり、自分の負担が増えるのがイヤなだけでしょ。」と思っているかもしれないけれど、本当の理由は“嫉妬”かもしれません。

自分の本当にやりたいこともへったくれもなく、ただ生活するために毎日会社へ行っている俺のことはそっちのけでおまえは夢、夢かよ、という旦那さんの心の叫びが嫉妬となって、ぶすっとした顔になって跳ね返ってきているのかもしれません。

そうであれば、「あなたも夢を見つければいいじゃん。」ではなく(というのは男の人っていうのはそういうの、苦手みたいなんですよ。生活費のために会社へ行っている自分をよし、としているんですね。そこ自体には不満はない、と思っている。)、「帰ってきたらさ~、それからの1ヶ月間、休みの日はぜぇ~んぶ、あなたの趣味につきあってあげるから。」とか「やっていいよ。(行っていいよ。)」と、自分にも対等なご褒美があり、それを全力で応援してあげるよ、と言ってあげれば旦那さんは満足なのかもしれませんよ。

自分の本当の心からの願いと理屈が対決して、理屈が勝つことなんてありません。

だから自分では自分がつくりあげた理屈に満足して、「だから今回はあきらめたのよ。」なんて言っているけれど、ふつふつと絶対また心からの願いは頭をもたげてくるでしょう。

あなたが本当にその願いを叶えてあげない限り。


そういう心の声に気付くことが何か特別なスピリチュアルな勉強をしたり、直感を磨くことだったりするわけではありません。

誰にだって簡単にできることなんです。

ほんの少し、自分から“能動的な沈黙”の時間をつくれば。

現代人のほとんどのストレスは「人と会いすぎる」ことからくる、と言われています。

実際に対面するわけでなくても、電話で、メールで、facebookで、ラインで、とかまびすしいほどに現代にはコミュニケーションの手段が横行しています。

それらを全部受けていると、ものすごく五感が刺激を受けすぎている状態になっているんだと思います。

現代のコミュニケーション手段は便利になりましたが、ときには自らそれらを一切遮断する時間を積極的につくる、ということも大切だと思います。

そうすると自分の心が一番望んでいることが何なのか、それを気付かせないようにシャッターを下ろしていたものの正体にもきっと気付くことができるでしょう。







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B80「アルテミス」

2013-06-27 09:02:00 | オーラソーマ

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                新メニュー!

     「クリスタルリバランシング」オプションとして導入

  必要なクリスタルをベッドに横になった身体に配置することによって、

  肉体レベルからエーテル体、アストラル体のバランスを調整します。

    「クリスタルリバランシング」・・・+¥1500

  オプションメニューとしてのみ提供いたします。(※クリスタル

  リバランシングのみのコースはありません。)

  ex.

   ☆レギュラーコンサルテーション+クリスタルリバランシング

        ¥10000(ボトル付)+¥1500=¥11500

   ☆バタフライ&シーエッセンスカウンセリング

                  +クリスタルリバランシング

        ¥10000(25mlエッセンス付)

               +¥1500=¥11500

   ☆レギュラーコンサルテーション&バラフライシーエッセンス

     カウンセリング+クリスタルリバランシング

 

        ¥15000+¥1500=¥16500


      

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このブログを書くようになってからずっと1週間に1度の割合で、1本ずつボトルに対して私なりの解釈の記事をUPしてきました。

しかし残り数本となってから遅々として筆が進まず・・・

ここ1年ほどずっと放ったらかしになっていました。

というのも1つには、私自身がそのボトルを使ってみてこう感じたとか、何かエピソードがあるとか、こういう思い入れがあるなどのことがないとなかなか書けなかったからです。

そうしてこの前ふと「何番と何番があと残ってたっけかなぁ?」と控えてあったものを見てみると、B80「アルテミス」って私まだご紹介していなかったんですね。B80

どうしてだろう・・?

このボトルは好きだし(選ぶことはあんまりないんですけれどね)、サロンにいらしてくださるお客さまも結構選ぶことが多いし、語ることも多いボトルなのに。

というわけで、久々に今日はB80「アルテミス」のご紹介です。

まずアルテミスとは誰ぞ?ということからですが-------

いまだと「パズドラ」のほうを思い浮かべる人も多かったりして・・・

アルテミスとはギリシャ神話に登場する狩猟と純潔の女神です。Photo (※画像はwikipediaからお借りしたものです。)

全能の神ゼウスの娘でもあり、太陽神アポロンと双子でもあります。

ゼウスには何人もの子どもがいましたが、アルテミスのことを「アルテミスがわしに一番似ておる。」と言ってことのほか可愛がったとも言われています。

ギリシャ神話の神々って、喧嘩したり嫉妬したりとっても人間くさいでしょ?

このアルテミスも例外ではなく、いろんなエピソードを残しています。

母親を侮辱した女に対してはその娘たちを殺してしまうし、母親を犯そうとした男は撃ち殺しています。

水浴びするアルテミスの裸身を見た男は鹿に変身させられ、犬の餌食とされてしまいました。

アガメムノンはアルテミスを挑発したため、船の無事の航海を祈るための人身御供として娘を犠牲に捧げねばならなくなります。

このように若くて美しいアルテミスはやたら血気にはやり狩りを好み、頭に来たり揉め事になったりするとすぐに相手を殺してしまうということで幕引きをするという解決法をとりたがります。

これだけだとこんなただ勇ましいだけの恐ろしい女神がどうしてイクイリブリアムボトルの名前となったのだろう?って不思議に思っちゃいますよね。

実際、このB80の上下の色を逆にしたB84「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」と比較B80_2 されることも多く、B84がマリリン・モンローに象徴されるようなはかない女性らしい女性性を表しているのに対して、B80「アルテミス」は男性性の強い女性なのよね、で片付けられていたこともあったように思います。

けれど本当にそうなのでしょうか・・?

ただ勇ましいだけで、何かというとすぐに血を流すという狩りの女神というだけのことであったら、わざわざマイクがこのボトルに彼女の名前を冠すわけはないだろうと思えます。

実は彼女には数々の武勇伝とは別に、こんな悲しい恋愛にまつわる話もあるのです。

彼女はギリシャ随一の狩人であるオリオンと仲良くなり、やがて結婚するだろうと周囲も本人たちも思っていました。

しかしアルテミスと双子の兄弟であるアポロンは粗野なオリオンが嫌いでした。

そして当然ふたりの結婚にも反対していました。

あるときアポロンは策略を練って、アルテミスの弓の腕をわざと本当はたいしたことないよな、とからかい、憤慨するアルテミスに対して海に入って頭部だけ水面に出していたオリオンを指差して、

「だったら、あれを射ることができるかい?」と挑発します。

遠くて肉眼ではとても人とは気付かなかったアルテミスは、

「もちろんですとも。」と言って矢を放ち、オリオンは彼女の矢に射られて死んでしまいます。

実は自分が射ったのが愛するオリオンだったと知ったアルテミスは医神を訪ね、復活を依頼しますが、冥府の王に異を唱えられてしまいます。

ならば、と父であるゼウスに訴えるのですが、全能の神ゼウスであろうとも神々の秩序が乱れるのを恐れ、死者の復活を認めるわけにはいかない、と拒否します。

そのかわり、オリオンを天にあげ、星座とすることでアルテミスを慰めたとさ、というお話があるのです。

オリオン座はそのオリオンです。

恐ろしく勇ましいことで名を馳せたアルテミスは、実は大きな悲しみを背負った女性でもあったのです。

自らの手で最も愛する者を殺してしまうということほどのショックとトラウマってあるでしょうか。

アルテミスがオリオンを殺してしまったあと、何を思い、どのようにして生涯を終えた(?  のか・・? 神だからねぇ、人間のように年齢が来てお迎えが来た、ということではないと思うけれど・・ どうなんだろ・・?)のか、私には想像もつきません。

けれど、自らの血管のなかを荒れ狂うほどに余り持っている情熱をどう使っていいのかわからず、バッサバッサと人を切り捨てていった処女神が、オリオンという神を知り、彼を失ってからはきっと彼女の考えや見方に厚みを加えたのではないか、と思うんですが。

戦争にかりだされた兵たちの中でも少年兵が一番残酷だ、と言われているように、人は“機微”とか実際の“体験”がないほど、見事に割り切る理屈ですっと行動できちゃう、というところがあります。

アルテミスも産褥で苦しんでいる女性を見たら「だったらラクにしてあげるから。」と簡単に殺し、「だから私は結婚とか身ごもるとかイヤなのよ。」と処女神でいたときを経て、人(神)を愛するということを知り、そして失い、そこには理屈だけでは割り切れないものがいっぱいあるのだな、ということを知ってからのほうがきっと神としても人々の気持ちをわかってあげることができるようになったのではないでしょうか。

けれど、それを知らしめされんがために彼女にはオリオンを射るという体験があらかじめ使命として用意されていたのだとしたら、それはなかなかなに不条理ですね。

このレッドとピンクという、いわば「レッド/レッドの強調」というボトルを見ると、その反対色であるグリーンのメッセージ「カルマの解消」を思ったりもします。

そしてB80のアウトワードジャーニーがB2「ピースボトル」であることを思うとき、B80_3 平和でありたい、と願う気持ちは誰にもあるだろうけれど、それは全く波風たたぬ水面のようなものではないのだよ、荒れ狂うほどの気持ちを持っていても、水面だけは穏やかでいられる人が本当に平和を知っている、ってことなんだよ、と言われているような気がします。

いずれにしても「アルテミス」の神話を知ってから、私の中では、B80が単に「強い女性像」ではなくなりました。

皆さんはどうとらえたかな?

B80「アルテミス」。

「愛と解放のためのエネルギー。」

アファメーションは、「この瞬間に私は自由になります。」

自分のエネルギーの使い方がわからなくて、もてあましたり、自分のエネルギーに自分が傷つけられてしまっている、と感じたりすることはありませんか?

何かの板ばさみになるということは美しいことです。

なぜならそもそも肉をもたない「精神」や「魂」と、肉体をもった自分自身を与えられていることの中にこそ学びがあるのですから。

天使のような存在なら肉体の痛みや老いを知りませんから、そこから派生する悩みにもとらわれず高尚な精神を保てるかもしれません。

けれど、私たちはそういうわけにはいきません。

そのギャップ、はざまのなかで矛盾に苦しみながらも一生懸命に生きようとする姿こそが尊いのです。

けれど、辛いときは辛いですよね・・

そんなときは、神であったけれど人間と同じような自らのギャップに悩んだアルテミスとワークして、彼女と痛みを分かち合ってみてください。

少しラクになれるかもしれませんよ。






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二重被害

2013-06-26 09:03:00 | ニュース

昨日の話の後日談なんですがね。

今朝、ずーっと無くしてたと思っていたグリーンガーネットの指輪が見つかったんですわ。

おとといジュエリーのいくつかを処分しようと思い立ったときにまたふと(そういえば、相変わらずあれ、出てこないなぁ・・)と思い出したけれど、それは気に入っていたので、もしあっても売りはしなかったものです。

それが今朝、ふっとジュエリーボックスの中を覗いたらちゃあ~んとあるではありませんか!

びっくり!

ですから厳密に言えば「失せものが出てきた、というわけではなく、元々あるべきところにあった」だけのことでした。


しかし不思議だなぁ・・

このジュエリーボックスのなかは何度も何度も見て確かめたんですよね。

でもやっぱりこの中にはないなぁ、と思っていたのにちょこんと鎮座ましましているではありませんか。

どうしてこれまで確認できなかったのか不思議でしょうがない。


しかし、モノが出てくるときってたいていこんなものですね。

何か必要がないから姿をあらわさずにいて、必要になったから「どれ、出番がやってきたか。」と姿を現した、って感じ。

グリーンに興味が出てきたわたくし、当分の間、身に着けていよう、っと。

さて、ヨットで太平洋横断に挑戦していた全盲の岩本さんとニュースキャスターの辛坊さんがヨットが浸水したために挑戦をあきらめて自衛隊に救助されましたね。

残念でした。

昨日、ようやくその原因がどうやらマッコウクジラに突き上げられたのだ、ということが残されていたビデオテープからわかったみたいですよ。

そしてその会見のときに辛坊さんが自ら、

「大切な皆さんの税金を使って、申し訳ありませんでした。」と述べたことによって、冒険に失敗したときの救助に税金が使われるということに対して賛否両論が湧き起こりましたね。

私は山岳登山で遭難したときに莫大な費用を請求された友人の話を聞いたことがあったので、

「え? そうなんだ・・ 山は自己負担だけど海は全額税金ってことになってるのかな?」と思いました。

もし同じような感想をお持ちの方がいらっしゃれば、ということでその後私が知った事実を一応書き添えますと、海でも山でも基本、全額税金なんだそうです。

しかし、山の場合は遭難の場所や状況、タイムリミットなどを考えて民間のヘリに飛んでもらうことがあるので、民間に対しては自己負担になる、ということらしいです。


話を戻しまして・・・

遭難の救助に税金が使われることに対しての賛否はほんとに難しいですね。

「自分が好きで行った冒険が頓挫したからって、それに対して税金が使われるのは納得がいかない。」という人の気持ちもわかります。

ただ、自衛隊というのは法律でたとえ目の前で遭難している人が明日死刑が決まっている人間であろうと、他国籍の人であろうと救助するんだ、ということが決まっているらしいですから(自衛隊! すばらしいですね。理屈抜きにして、目の前で苦しんでいる人がいたら、助けざるをえない気持ちになるのが人間でしょう、というのが明文化されている組織ってことです。)そういう人たちに対しても税金が使われることが当たり前であるなら、犯罪者でもなく、日本人で果敢にチャレンジした人を救うのは当たり前である、という気もします。

ましてや冒険というものは、人類共通の夢でもあるじゃないですか。

しかしそのリスクや過酷さを思うと、夢より恐れの方が先立って、なかなか冒険に乗り出すまではいかない、というのが一般人だと思います。

冒険家の人たちというのは一般人である我々の想いを代行してくれているとも言えるわけですから、よけいに無碍にもできない・・という気もします。

だってすべて自己負担と決まったら、世の中から冒険家っていなくなりますよ。

遭難しなくてもものすごくお金かかるみたいですもん。

だったら・・と私が思ったのは、税金も使わず彼らだけの自己負担にもならない方法として、冒険家のためのNPO法人とか財団法人とかを立ち上げて寄付で基金を作ればいいんじゃないか、ってことです。

そしてその冒険の規模とか人類にとっての必要性みたいな審査のもとに万が一のことがあった場合はそこからお金が出る、っていうふうにすれば。

「国境なき医師団」みたいに、各国で勝手に、っていうんでもなく地球規模のNPO法人。

簡単に考えすぎ?

いずれにしても岩本さんや辛坊さんたち個人を責めるのは違うと思うんですよね。

彼らは冒険が頓挫し一命をとりとめた、っていうだけで十二分に傷ついていると思うし。

二重に傷つける必要はないと思います。


そんな昨日、地元の中日新聞で、原発以降福島から愛知に避難してきている福島の被災者が国と東電を相手取って訴訟を起こした、という記事を見ました。

改めて何について訴えたのかな?と思いその記事を読んでみると、彼らが被災者ではない私が思わぬ想像もつかないところで傷ついているのがわかりました。

その訴えている家族は、ご主人の親せきがある愛知に自ら避難してきたそうです。

そうしたら、同じ福島の被災者の人たちからも「故郷を捨てるのか。」「裏切り者」とののしられ、家族が7人と人数が比較的多かったこともあり、愛知に来てからもなかなか一家全員で住める規模の家が見つからなかったため、役場に行って相談すると、「自ら避難してきた人は“被災者”とは認定できないので、役場としてお手伝いできることはない。」と言われたんだそうです。


はぁ~~~・・・

辛いねぇ・・・

家を失い、職を失い、安全に住める土地を失っているのに、それ以上にどうしてまた同じ人間の発言によって傷つかねばならないのか。

同じ辛い目に遭ってる人がどうしてそんなひどいことを言うのか。

「人の気持ちのわかる人になりたい。」というのは人類共通の望みでもあろうに、こうした二重被害というものが後を絶たないのは、ほんとに悲しいことだと思います。

結局、人の気持ちがわかるだけではダメなんですね。

自分がその人に成り代わったとしたら今後どんなことが起こりえるか、ということまで想像できないと。

そしてそのための行動が出来ないと。


そのためにはいろんなアプローチがあると思いますが、第一歩として私はオーラソーマを学んできて「みんな1つなんだ。」という概念を培うことができて本当によかったと思っています。





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