ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

焦る~!から一転・・・

2012-09-30 09:15:00 | 身辺雑事

いやはや、焦りました~!

おとといのことですが、接客研修講師の仕事で朝、車ででかけようとしました。

ガソリンがないことはわかっていました。

よっぽど前の日にガソリンだけ入れておこうか、と思いました。

けれど良く考えてみたら、ガソリンスタンドは通り道にあるんですよね。

そのせいで遠回りになるどころか、ちょっと寄り道ってレベルでさえ、ない。

だから、明日の朝、ガソリンスタンドへ寄るぶんだけ少し早く家を出ればいいだけのことか~と思って、前の日に入れておく、ということまではしなかったのでした。

さて、ガソリンスタンドへ寄るぶんを考えていつもより15分早く家を出たわたくし。

いつもだって、予定より20~30分前には着くんです。

それに対してさらにガソリンスタンドへ寄るぶんを15分みているのですが、ほんとはガソリン入れるのに15分もかかるなんて思っちゃいない。

けれど、まぁ、何があるかわからないからね。

・・・ってほんとに何かあったじゃない。


ガソリンを入れるためのキャップがどーしても開かない。

あれ?

エンジンは完全に切ったよな・・

ドア開けてるから開かないのかな? いや、閉めてるから開かないのかな?とまぁ、あれこれ試してみたけれど、どーしてもうんともすんとも開かない。

開かないったら開かない。

まぁ、いいや。

たいしたことじゃないでしょ。

これはマシンに疎くて、非力な女だからこうなるんだわ、とガソリンスタンドの人を呼ぼうとしたら、事務所に行っても誰もいやあしない。

嘘でしょ。

いくらセルフのスタンドだからって誰も事務所に詰めてないってありぃ?!

私はそのスタンドをあきらめて、次のガソリンスタンドに向かおうとしました。

ま、この時点ではガソリンスタンドのお兄ちゃんレベルで、

「あぁ、これはこうすればいいんすよぉ、奥さん。やだなぁ、もう。」なんて解決することだと思ってたんですね。
しかし、この時点で、次のガソリンスタンドへ寄るより先に、すぐにディーラーがあるではないの、ということに思い至り、そこへ寄りました。

すると対応に出てきた男の人がああじゃこうじゃといじくってもやっぱり開かない。

この時点でちょっと私は青ざめ始めました。

(もうこれ以上の時間のロスは許されないわよ。遅刻しちゃったらどうしよう・・?)

(あぁ、こんなことだったら昨日のうちにガソリン入れに行っとくんだった。そうしたら、昨日の時点でキャップが開かない、なんてことには気付けたはずだったんだわ。なんでもやっぱり準備はより用意周到じゃなきゃダメね。)

(今すぐに家に引きかえし、電車で向かうことにしたら、ひょっとしたら何とか間に合うかもしれない。決断するなら今だ。さぁ、どうする、私・・)
確実な方法を選択するなら、ここで電車を選択したほうがいいかも・・と思った次の瞬間!


「いちおう、直りましたよ。」のディーラーの修理マンの声が天使のように聞こえたではないか!

なんでも、キャップの内側にあるバネのようなところが不調なんだそうだ。

今はとりあえず直ったけれど、またすぐに開かなくなったりする可能性はあるから、落ち着いたら交換した方がいいかも、とのこと。

「それかいっそ、バネごと取っちゃうかですよね。」

「・・取っちゃうって? キャップがぶらぶらな感じってことですか?」

「ん、まぁ、その・・ キャップがキャップとして用を成さない状態っていうか。」

と、ディーラーの人とは思えないような発言。

思わず、ここは10万キロ以上を走った日本車を輸入している東南アジアのどこかの国か、と錯覚を起こしそうになりましたが、まぁ、それくらい鷹揚に考えたほうがいいのかもね。

さて、それから高速にのったのですが、今度はなんとラジオの交通情報を聞いていたら、すぐ先のところで交通渋滞が起こっているというではないか!

え~っつ!

ただでさえロスしているというのにこのうえ渋滞だったら今度こそアウトだわよ~!

・・・と思いましたが、ラジオに耳を傾けていると、これがまた微妙な渋滞。

私は東京方面に東名を走らせていたのですが、事故は反対側の下りで起こったとのこと。

そして上りはそれによる物見渋滞が1~2キロ起こっている状況だとのこと。

1キロか2キロの渋滞かぁ・・・

それだったら下道に下りることなく我慢してそのまま高速にのっていたほうが早そうだなあ、と判断。

そのときにはもう腹も据わり、もし間に合わなくても行くだけは行って、午前の部と午後の部の2回あるうちの午後の部は何とか変更せずにそのまま出来そうだから、午前の部に参加を表明していた人たちだけにさて、後でどうするかを考えよう、なんて頭を動かしていました。

そしてそんな次善策を考えながらも、人っていうのは車で移動している人に対してどのくらいの時間の誤差を「それならしかたがないね。」と許す気になるのだろう、とぼんやりと考えました。

土地柄もあるかもしれませんが、たとえば1時間かかるところなら、私なら1時間半くらい前に家を出ます。

そして何事もなく30分早く着けばそれはそれでよし、として近くでお茶でもしてよう、と思います。

逆に、そのお茶をするくらいの時間もなくあわただしくギリギリに着くことのほうが私にしてみれば焦っちゃってダメかなぁ。


つまり私にしてみれば、30分のゆとりをみて出発地を出ておりますから、それ以上に渋滞が起こっていたり何らかのアクシデントが起こったりした場合は、もうそれは私のせいではないよね~と大目にみてもらえないかな、と考えているわけですよね。


でも、何があったって約束の時間に遅れてくるのは許せない、って方もいらっしゃいますよね。

ましてや、その約束の仕事がその人の時間を奪うものだけではなく、大勢の人の予定を組みなおすことになるような場合ならなおさらだろーって。

そして反対にスムーズに何事もなく行った場合の時間しか見ずに、何かアクシデントがあった場合はすべて「それは不測の事態なんだからしょうがないでしょー」と考える人もいらっしゃいます。

でも、交通手段が車である以上、まったく何事もなくスムーズに、っていう場合しか考えない、っていうのはどうかな、と思ってしまう私です。

日本のようにきちんとダイヤに基づいて運行が行われている電車ならともかく、1時間以上の走行なら車なんてすぐに5分や10分狂っちゃいますもん。

まぁ、そんなことを考えながら、イライラしないように、と高速から降りて下道になってからは信号で止まったときに、もっていたピンクポマンダーとセラピスベイを施しました。

すると、なんとピンクの沁みること、沁みること!

手のひらに3滴落として、ちょっともみこむようにしただけで早やどこにもその存在はない、って感じ。

残った香りをかごうとしてもどこに?っていうくらいのかすかな香りしか残っていやしない。
ありゃりゃ?! こんなはずは・・と思ってもう1度次の信号待ちで3滴たらすのですが、これまたあっという間に香りはどこかへ行っちゃいました。

あるティーチャーが以前に、ポマンダーは直接に鼻からその香りをかぐことが重要なんじゃなくって、入念に肉体のまわりの電磁場にほどこしたら、あとに残った香りをちょっとかぐくらいで効用は十分なのよ、っておっしゃっていましたが、今日ほどそのことを実感したことはありませんでした。

もう、かぐ前にそれはあっというまに吸い込まれて無くなってしまってるんですもん。

よほど私、イライラしていたのかしら・・

自己受容が必要だったのかしら・・

でも、おかげさまでピンクが効いたのか、急いで制限速度以上にすっとばしたというわけでもないのに、着いてみれば、なんといつもと同じ時間でした。

ディーラーに寄って、ガソリンスタンドに寄って、高速では渋滞に見舞われ・・それでいて時間通りに着くなんて考えられません。

どこか天界で時間調整が行われた、としか思えないほど。


おかげさまで私はバタバタの状態で研修を始めることをしなくてもよく、いつもより落ち着いて、皆さんに伝えるべきことを伝えられたように思いました。

何を試されたのかよくわかりませんが、まぁ、充実した1日でした。





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食べるだけならなんとかなる、という予感があれば明るく生きて行ける

2012-09-29 09:14:00 | 本と雑誌

いやぁ~、あと少しで自分のバースボトルであるB37をようやく使い終わるんですけどね。

通常だと1本をだいたい3週間ぐらいで塗り終えちゃうのがいつものパターンなので、この子とは今回長いお付き合いでした。

けれど、最初からどうも今回はそうなるぞ、という予感めいたものはあったので、“ようやく”終わるか・・というほど遠い道のりだった、という感覚でもありません。

ま、予定どおり、むしろここ2ヶ月弱、意外に早かったな~という感じです。

B37は以前にも使ったことはありましたが、そのときはたいして何の気付きもなく行き過ぎてしまいました。

しかし今回は、この子からサインを送ってくれただけあって、多大な気付きをもらいましたわ~(※この子からのサインというのは、前にこのブログにそのときのことは書いたことがありますが、コンサルテーション中にピシッ!という音がしたかと思うとモクモクと竜巻のような煙がボトルのなかに起こったんです。)

もう毎日いっぱいいろんな気付きがありすぎて、って感じだったんですが、一番大きな気付きは何だったか、というと、それは「お金」についてでした。

私のアイデンティティを語るときに「お金」についての自分の捉え方が一番大きな気付きだったなんて、意外なような、やっぱりな~というような・・

でも、「やっぱりな~」のほうかな、やっぱり。(くどい・・)

だって、オーラソーマで生計を立てて行けるかどうか、っていうことがそもそもこのブログのテーマでもあるくらいだし。

さて、そんなお金に対する気付きのことをお話したいと思うんですが、最後にきてどぉ~んときたのは、やっぱりこの本を読んだことでしょうか。

西原理恵子 著 「この世で一番大事な『カネ』の話」 角川文庫Photo


この本を手に取ったのはお金の話だったからじゃなくて、そもそもわたくし、この西原理恵子さんが好きなんですよ。

もう、彼女の本や漫画は全部読んだかな。

でも、たまたまこの本は知らなかったので、本屋でみつけたときには「あら? まだ私の知らない西原さんの本があったわ。」というだけですぐにレジに進みました。

西原さんの本との出会いは、「裏ミシュラン」。

一般人のふりをして有名店へ食べに行き、そこの化けの皮をはぐっていうような採点と批評をしたもの。

もちろん、ほんとうにウワサどおりステキなサービスと味だったら褒めていたけど、そんなことは2,30軒に1軒ぐらいの割合でしかなかった。

たいていはボロクソだった。

そのボロクソさがすさまじくて、「・・・大丈夫なのか、この人。ここまで書いちゃって。」と読者ながら心配しました。

でもその内臓までえぐりだしたろか、おんどりゃ~というような本音さが痛快でおなか抱えて笑ったなぁ。

こんな人は不世出だと思った。

こういう人にはずっと波乱万丈な人生を送ってほしい、なんて思っていたら、自分以上に波乱万丈な旦那と結婚しちゃって、その人が結局アル中で亡くなって・・

西原さんはただの「かあさん」として、やっぱりタダでは起きない人だった。

そんなあたりの事情は、小泉今日子さんと別れた永瀬正敏さんが夫婦役をやる、ということで話題になった「毎日かあさん」という映画にもなりました。

まぁ、そんな彼女の「お金の話」ですから、ちょー現実的で生々しいに決まっている、と思って読んだら、期待以上でした・・

「お金」の話がずっと書いてあるわけじゃないんですね。

でも彼女の人生を語っていったら、それはお金の話でもあるでしょーって感じ。

たぶん、タイトルは書いてから、編集部のほうで勝手につけたんじゃないのかな。


彼女は、幼い頃からやっぱり彼女らしい破天荒な人生を歩んできているんですが、青春時代にいたるまでの彼女の半生の部分を読んで、私は「貧しさっていうのは、お金で買うしか食べ物は手に入らない、というところから生まれたんだな。」と思いました。反対に言えば、「お金で買わずとも食べ物がそこらじゅうから簡単に調達できるわ、っていう環境のなかで生きていれば、貧しさとは無縁」ということでもあります。

ちょっと変な言い方ですが、説明させてくださいね。

彼女は幼い頃、お母さんが離婚して実家のある高知県の貧しい漁師町に連れてこられました。

そしておじいちゃん、おばあちゃんに育てられました。

その頃、彼女はとっても幸せだったそうです。

人生の中で一番幸せだった頃、とまで言っています。

それはなぜか、と言うと。

みんな貧しいんだけど、食べることには困らなかったから。

やっぱり海沿いに住んでいると、ちょっと海岸を歩いているだけでワカメは拾えるわ、貝は採れるわ、小魚もゲットできるわ、で「お金」という通貨がなくても食べるものだけには最低限困らない、という気持ちがみんなにあったそうです。

人間、どれだけ貧しくても食べることに困らなければ心まで荒むことはない、というのが彼女の持論です。

私はそこまで貧しいなかで育った経験はないけれど、言わんとするその感覚はわからなくもないな~と思いました。

何十年も前、友人たちとフィリピンに旅行に行ったとき、日本に比べたら30年くらい遅れているっていうか、貧しい国なんだなぁ、と思いました。

ちょっと田舎に行ったら一間しかないような今にも壊れそうな茅葺きの家に何人もが住んでいるし、なんでもかんでも「そこらの川で洗えばいいじゃん。」って感じで衛生状態なんて存在しなかったし。

けれど、みんななぜか明るかった。

誰も将来を憂えて悩んでいる、なんてことはないように見えました。


それは、舗装もされていない道路の両脇に生えているバナナの木からバナナをもいで食べればいいだけだし、おなかをとりあえず満腹にするだけでいいなら、そこいらじゅうになんだかんだあるっしょ、という感じだったからにほかならないと思うんです。

そして何といっても温かいところっていうのはいいよね~

そんな半分かしいだような茅葺きの家だって、雨風さえしのげればいいんだから。

寒さ対策をしなくていい、っていうのは人間が生きていくうえで大きく寿命が延びることだと思う。

西原さんも高知の片田舎で無邪気にのびのびと食べる心配をせずに育ちました。

しかし、しばらくするとお母さんが再婚し、その結婚相手の新しいお父さんとともに海沿いからは離れた工業団地に移ることになったのです。

すると・・・

とたんに彼女は周りじゅうの大人たちの心が荒んでいることに気づきます。

漁師町と比べて、貧しさの度合いは変わらなかった、同じようなものだった、と彼女は言います。

けれど、工業団地だから、そこいらを歩いていたら何か食べ物が落ちているわけではない。

工場に勤めている父ちゃんのサラリーのなかですべてをまかなわなければいけない。

それはとてつもなくオカアチャンたちの心を蝕んでいきました。

パーマをかけてもなるべくもたせようと考えるから、最初のうちはクルックルのパンチパーマみたいなんですって。

もちろん、本人も子どもたちもそれがステキでない、イケテない、ってことはわかっている。

でも貧しいから、2ヶ月に1回パーマかけるくらいだったら、最初の2ヶ月みっともなくても4ヶ月もつようにきつめにかけるってみんながしちゃうんだって。

結果、実際は若いのにおばさんくさいお母さんたちが町にあふれる。


ステキじゃないお母さんたちははけ口がないので、子どもに当たる。

どこのお母さんもそれはそれはいつも怒っていたそうな。

彼女は1つ学ぶ。

どんな人間であってもイライラしたら、自分よりも弱いものを見つけて、そこに当たるんだな、ということを。


当然、子どもは家になんていたくなくなる。

中学生くらいの物心つくようになると中卒の先輩で一人暮らしをしながら働いている、というような家にあがりこんで家に帰らなくなる。

それでもみんなお金があるわけじゃないから、集まったってどうしようもない。

それでカツあげやら、かっぱらい、万引きなんてことぐらいは平気でやるようになっちゃう。

こんな町、いつかは出て行ってやりたい、と思ったってとりあえず先立つものがないからどうしようもない。

そうして男の子たちは先輩の車を乗り回し、憂さ晴らし。

立派な暴走族の誕生ってわけですね。

女の子たちはまだ男の子たちよりはちょっとまし。

ちょっと自分が可愛いって思ったら東京や大阪の都会へ出て行って、水商売に飛び込んだら何とか食べて行ける。

けど、都会に出て行って、自分の可愛さなんてたいしたことない、ってことを知る。

田舎で垢抜けない可愛さをちょっと売りにしていたって、都会へ行けば、もっともっと洗練された綺麗な人たちがいっぱいいて打ちひしがれているところへ、自分に自信がないもんだから、ちょっと優しい言葉をかけられるとすぐなびいちゃって、挙句の果てには妊娠して捨てられて・・

ボロボロになって故郷に舞い戻ってくる。


「その子、どうやって育てていくんだよ。その子の父親が誰であってもいい。俺が父親になってお前ともども守ってやる。」なんていう地元の男の子にまたよよとなびいちゃって、結局、若くして結婚。

けど、そのなびいた男の子っていうのも甲斐性があるわけじゃなくって、結局地元に進出してきた大企業の工場に勤めに行くしかないんだよね。

気付けば、あんなに嫌っていた自分の母親と同じようになっている自分に気付く・・って図式。

貧しいのに3人も4人も次々に生んじゃって、髪振り乱してパンチパーマみたいなきついパーマをかけて、「私の人生こんなはずじゃなかった。」と思いながら、子どもに当たる母親。

なぁるほどなぁ、と私はまるで自分が高知の貧しい工業団地に生まれて、イヤだった母親のとおりに自分がなっていくという人生を駆け足で1度送ったかのような気分になったほどでした。

これまでは自分とは遠い存在だと思っていた不良の子たち。

何が寄り集まって一緒に暴走することがそんなにも楽しいのかわからなかった。

グループで行動するってことがそもそも好きでなかった私は、ほんとうにそれが好きなら、群れずにやってみやがれ、と思っていた。

だけど、彼らにはこういう背景があったんだね。(そりゃ、全部が全部同じような人生ではないだろうけど。)

いったん負の連鎖が始まるとなかなかそこから抜けられない、っていう感じがよぉくわかりました。

それにしても、私の心には、西原さんが幼い頃にほんの数年暮らした、という食べ物には困らなかった漁師町のことが色濃く残ったのでした。

その描写に割かれたページ数はたいしたものではなかったけれど、「そうか・・ 政治が悪い、とか自分がもっと強くならなくちゃ、という以前に、食べることだけなら困らない、という感覚があれば、人間、不安を感じずに生きて行けるんだなぁ。」ということがとても強く心に突き刺さったのです。


その時点において「食べることだけなら困らない。」というだけでなく、大切なことは「この先も、食べることだけなら(ここに住んでいるかぎり)困らないだろう。」という“予感”が大切なんですよね。

たいていの“恐れ”とは、まだ見えない、まだ来ないものに対するものですから。

今の日本に住んでいて、「この先、もっと良い社会になるに違いない。」という明るい予感を抱いて生きている人はどれくらいいらっしゃるのでしょう?

明るい予感を抱いて、明るく生きていくためには自己防衛として、自然がいっぱい残っているようなところに移り住むしかないんでしょうかねぇ。

でも、“予感”や“恐れ”とは、全部、心の中で起きていることです。

そう思えば、外側で何が起こっていようが、もっともっと自分の内側を豊かなもので満たし続けることに専念したほうが得策のようですね。





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権利と義務

2012-09-28 09:09:00 | 社会・経済

今の若い世代の人たちは、なかなか昇進したがらないようです。

「役職的に昇進するよりも、今の自分の仕事の内容がおもしろいから、このままでいい。」

そう考える人が増えているようです。

気持ちはわかります。

自分の仕事に誇りを持っていればいるほど、こういう気持ちになっても無理からぬことでしょう。

あるいは“誇りを持ちたい”とその仕事に精進を続けた結果、それを見出せるようになったのだからもう下手に俺の気持ちをかきみださないでくれよ、という場合もあるかもしれません。

例えば、今の学校の体質に対して、部外者の私はニュースなどを見ていてとても校長にはなりたかないなぁ、と思います。(向こうも頼まない、ってば・・)

いじめがあった、なかった、と騒がれる。

当事者の生徒が自殺する。

すると決まって会見に登場し、頭を下げるのは校長です。

その組織のトップとして管理不行き届きだ、と言われればそのとおりでしょうが、1クラスのなかで起こったことの一部始終をいちいち管理者が把握しているものではないでしょう。

でも、たいていは「○○くんは、こういう生徒でした。」なんていうその子の人となりのようなことまで校長が会見する。

内心(うっそ~、そんなことまで担任でもない校長がほんとに知ってたの?)と思っちゃう。

けれど、そういうことも含めて何かあると全部校長のせい、ということになるんだったら、この人はこの人で大変だよなぁ、とちょっと同情の気持ちもわきます。

何でも聞くところによると、「その学校でいじめがあった。」というだけで、その校長の評価は下がるらしいです。

「いじめがあったけれど、みんなで取り組んで見事に減らした。」ということよりも「あった。」ということだけで評価が下がるなら、そんな役職に誰だってつきたくないわ、と思うのも道理でしょう。

そして、そんなしくみだから当の校長も、いじめがあったときにそれを隠そうとしてまた恥の上塗りのようなことをする。

こんな尊敬できない上司であれば、(給料があがることと引き換えに、あんな役職にはつかなくていいわ。)という若い人が増えてきても当然かもしれません。

たまたま学校を例にあげましたが、一般の企業でも似たようなものでしょう。

それも社会的にその存在や動向の注目を集めているような一流企業ほど、いまの学校と同じようなものを孕んでいるに違いありません。

まぁ、このように私としては今の若い人が自分の今の仕事が楽しいからこそ昇進はしたくない、ということに同情的に思ったのですが、次の瞬間、ハッとしました。

それは、ある50代の管理者側の男性の意見でした。

「自分が楽しいと思う仕事をやり続けるには、ある程度そのための立場を獲得しなくてはならないと思う。そういう責任を負う、ということも大切なんじゃないかな。」と。

これは、要するに“権利”と“義務”の関係ですよね。

「自分が楽しいと思っている仕事を続ける」というのは“権利”の主張です。

「これが楽しくて、このままでいいっつってんだから、文句ねぇだろー」ということです。

けれど、そう開き直ってばかりいてもいけないよ、とこの人は言っているわけですね。

会社にいる全員が、「うん、あの人には好きなことをさせておいてあげよう。」と認めたくなるような“義務”を果たしているか、ということです。


例えば、「なぁ、この仕事はこういう点が楽しいんだぜぇ。みんなこの仕事はつまんないものだと思っているかもしれないけれど、この仕事にこういう視点を持ち込めば楽しくなるものなんだ。」という普及活動に努めたとしたら、その人は“義務”を果たしている、と言えると思います。

会社に入って間もない、一番下の立場のときから、「あ、俺、もうこの立場でずーっといいっすから。これが好きなんで。もう俺のことはかまわずに放って置いてください。」なんて言って、どうやら本人は楽しそうに仕事をしているようだけれど、そのまた下も入社してくるし、彼にはもう少し責任のある仕事も任せたいんだがなぁ、と上司は思っているのにこういう態度でいられたら、会社としては困ってしまいますよね。

秩序が保たれない。

全員が彼と同じように「このままでいいで~す。」ということを主張しはじめたら、組織は硬直してしまい成り立たなくなってしまうではありませんか。

私はふとわが身を省みました。

「私は自分の好きなことしかやらない。それがひいてはあんなに楽しそうに自分の好きなことやってる人っていいよなぁ。私もあぁ生きたいものだなぁ。」と人に思ってもらえるような生き方をする、それが私の信条のはずでした。

しかし、このところ『好きなこと』ってどこで折り合いつけたらいいの?っていうことに改めて悶々としてしまっている自分がいます。

『好きなこと』は『好きなこと』に違いないけれど、それでは食べて行けない、ってことが分かっている場合、どのあたりで折り合いをつけたらいいのか・・

それで食べていっている人が世の中に1人もいない、ってわけでもないんだから、あくまでもよし、何が何でもそれで食べて行けるように頑張るぞ!とパワーを集中すべきか・・

それとも『好きなこと』はゆったりと『好きなこと』としておいておけるように、ほかの事で食べていく手段を見つけたほうがいいのか・・

そこの自分なりのスタンスの求め方というところに迷いが出てしまっているのです。

この迷いって1年に1回くらいは必ず顔を出すなぁ。

このブログのテーマでもあるもんなぁ。

・・っていうことは、全然私って何年も前から同じ悩みのなかばかりにいて解決してないじゃん、と思うと余計にわが身の情けなさに落ち込みます。

でも、今日はちょっとヒントをもらったような晴れた気持ちになりました。

『好きなこと』をやらせてもらっているのに時々もたげる「ほんとにこれでいいのか感」は、自分が「好きなことだけやるのが私の使命なんだもん!」という信条の上に胡坐をかいて、義務を果たしてこなかったからに違いありません。

『好きなこと』をやらせてもらうためには、その普及に人事を尽くすとか、そのなかにある義務にもっと目を向けるべきでした。

“義務”というとちょっと堅苦しいかもしれませんが、自分が「好きなんだもん。」ということに対して、もっと周りに影響を与えるにはどうしたらいいか、そういう考え方を波及させるにはどうしたらいいかということを私なりにこれから1つずつ見つけていき、行動に移したいと思いました。

そして、そういう行動をとっているときのことを「こんなことしてていいのかなぁ。」とは決して思わないこと。

好きなものをもっと波及させていることに関わっていられる時間を愛おしく思うこと。

うん、そうだよな。


今の若者に対しては「おまえのそういう考え方は、身勝手なんだよ! 会社っていうのはそんな甘いもんじゃないんだよ。」という頭ごなしな言い方ではなく、「権利を主張したいなら、やはり義務も遂行しなくてはいけないよ。それは会社だけでなく、この社会で生きていくにはどこでだって同じことだ。」ということを本人たちがわかるように話してあげられる上司がいてほしいなぁ、と思います。





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演劇人だったかもしれない私?

2012-09-27 09:10:00 | 身辺雑事

なぜかしらふっと「そういえば、若い頃、私って演劇の道に進もう、って思ったことあったよなぁ・・」ということを思い出しました。

中高生の頃は、学校にも部活動でもちろん演劇部というものは存在しましたが、あまり花形的な存在ではなく、“ちょっと変なやつら”の集団というイメージで、その“ちょっと変な”方向が私の好きな“変さ”の方向ではなかったので、部活動で演劇部に入ることは考えもしませんでした。

そして晴れて大学に入った暁には長年の夢であった演劇部に身を置こう、といろんな大学の演劇部を見て回りました。

私の大学は女子大だったこともあってか、近くにある他校のマンモス大学で部活動だけはそちらに入部するという選択をしている人も多かったので、私も自分の学校だけでなく、何校もほかの大学の演劇部の活動を見て回りました。

しかし・・・

なぜかどの大学の演劇部も通称「アングラ」、アンダーグラウンド的な方向を目指しているようなところばかりで私の趣味には合いませんでした。

とっても不思議でした。

どうして、テレビやドラマや舞台で実際に一般の観客が眼にしているような王道の「演劇」をやっているところがないのだ?

そういう演劇がしたいなら、劇団に入るしかないのか?

というわけで、ある劇団の入団テストまで受けに行ったなぁ。

「ある」と書いたのは別に名前を伏せたいわけじゃなくて、そこがどこだったかさえもう忘れてしまっているほど、私にとってはほんとに遠く、つたない記憶なんです。

そこは確か子役を輩出していることでは有名な劇団でした。

入団テストにかかる費用だけでも当時にしてみれば高かったので、(変なところじゃないはず)というだけで受けてみたのでした。

なぜか演じるのではなく、最初のテストが「歌」だったことと、その日に私が着ていった洋服が黄色のワンピースだった、ということだけはよく覚えています。

当時はまだ色の知識なんて何にもなかったはずなのに、テストでは目だたなきゃ! 楽しまなきゃ!って潜在意識が知ってたのかなぁ・・?

(えっ、歌かぁ。歌は苦手なんだよな・・)と「何でもいいから、好きな持ち歌を1曲歌ってみろ。」と言われて、歌詞カードも見ずに歌える歌なんて何があったっけ?と瞬時にくるくると頭をめぐらせました。

そのくらい当時の私は、ふつうに世の中で流行っているJ-POPは知りませんでした。

そしてふっと浮かんだのが、ダイアナ・ロスのLPに入っている、シングルカットされていない曲。

歌詞を間違えてもわからないだろうから、これでいいや、とその歌を審査員の前で歌いました。

おそらく人前で歌を歌ったのって、これが初めてじゃないかなぁ。

当時はカラオケなんてまだない時代でしたから、人前で歌を披露するなんてことはほんとにそれを職業にしている人でもないかぎり、そんな機会はなかったんです。

その後、何種類かの演技のテストを受け、(やっぱり、何の経験もなくこういうところへ来ちゃいけなかったよなぁ。)と打ちひしがれていると、なんと数日後、「合格」の葉書が届き、びっくりしました。

すると途端にこの劇団に対する私の興味が薄れてしまったのです。

(私ごときの、あんな入団テストで受からせるここっていったい・・?)って感じで。

しかも、入団するとなったら、1年の授業料はかなり高額なものでした。

確か30年以上も前で、何十万だったと思います。

それでさらに(劇団っていったって、単なる金儲けのためにどんどん合格させているだけじゃないのかぁ?)っていう疑いの気持ちがモクモクと頭をもたげたというのもあります。

そして結局私はこの合格通知を放置し、その劇団に入団はしませんでした。

何十万というお金、ちょっとやそっとのアルバイトじゃ工面できませんでしたから、入団するとすれば、親に頭を下げてお金を出してくれ、と言わなければならない。

親は私のヤル気の本気度を確かめたうえで、「そうまで覚悟があるのならば・・」と許してくれるでしょうが、その覚悟を確かめられる場面を想像しただけでも自分にそれほどの本気度はない、ない、と首をふってしまったのでした。

そもそも私は大学の演劇部にもっと「これこれ! 私が求めていたものって!」という活動をしているところがあればそれでよかったんです。

充実した学生生活が送れそうであればそれでよかったんです。

それがなかったから劇団しかあとは手がないよねぇ?と思って入団テストを受けただけで、何十万払ってっていう腹くくってプロになる気があったわけでもないし、と。

でも、今になってなぜふっとそんなこともあったなぁ、と思い出したのか自分でもよくわかりませんが、人生にはいろんな選択をするときがありますよね。

ものすごく一生懸命考えた末、こっちの道を行くことに決めた、っていうものもあるけれど、私のこの演劇のときのように、そういえばこんなこともあったなぁ、って程度の選択もありませんでしたか?

私たちは常に何らかの選択を迫られ、実際に決断を下し、生きているわけですが、たいして自分が重い選択をしたわけじゃない、ということについては忘却の彼方になってしまっていることも少なくないんじゃないでしょうか。(あ・・ そんなに生きてない、って? )

でも実はそんなときこそ、ものすごく天の意思が働いているのかもしれませんよ。

この人はそっちに行くべき人じゃないなぁ、って。

どれ、本人もそんなにそっちに気がいっていないうちにさっさと行き過ぎさせちゃおう、って。

今、私がもしあのとき、わたしが劇団に入団していたらどんな人生になっていたかなぁ、って思いますもん。

そんなには変わっていないのかもしれない。

でもものすご~く違う人生になっていたのかもしれない。

それとも表面にあらわれている人生がものすごく違ったものであっても、私のなかで醸成される気付きについてはどちらでも同じようなものであったかもしれない。

それはわからないけれど、いま私は、「そういえば、私はあのときもし、こっちへ行っていたら私は演劇人としての道をずっと歩んでいたかもしれないなぁ。」なんてことは微塵も思いませんもん。

大学のサークルを回って、あのなかの1校でも「ふぅん、ここの演劇部でもまぁ、いいか。ここ、入ろうかな。」と心動かされたところがあったか? 皆無。

あの劇団の合格通知を受け取って、入団しようかなぁ、という気持ちが1%でもあったか? 皆無。

だから、いるべくしている私が今、ここに居るんですね。


なんだか今日はとりとめもない話になってしまいましたが、長い間自分の中でさえ埋もれていた記憶にちょっと日の目を当ててみたくて、記事にしました。





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自分自身が前を向いて生きる、と決める

2012-09-26 09:11:00 | テレビ番組

おととい、朝のテレビ番組で東日本大震災で被災した79歳の方のこの1年半を追ったドキュメンタリーをやっていました。

その方の息子さんがテレビ局のディレクターだったので、ずっと自身のお母さまのことをそこまで追ってカメラにおさめることができたのです。

そのお母さまは、震災の起こる3年前にご主人を亡くされました。

ふらりと自転車に乗って出掛けたかと思うと、転倒し頭を打って、脳挫傷かなにかであっけなく逝ってしまわれたそうです。

まだその悲しみが癒える前に今度はご自身が被災してしまわれたのです。

「助かってよかった、って・・ 命だけは何とかあってよかったって人は言うけれど、この年になってこのあとまだこんな苦労を背負って生きていかにゃいかんのか、と思うとよかったのかどうか・・ これが戦争だったらまだ憎むべき相手がいるからいいのかもしれない。でも天災ではこの怒りと悲しみをぶつけるところもなくて・・」とそのお母さまは生きる気力を失くされていました。


そこへもってきて、半壊の家は取り壊すことが行政で決定し、長年住み慣れた思い出の家は取り壊されることになりました。

ご主人の遺影を胸に抱き、「お父さん、よぉく見ときよ。」とクレーン車が家を取り壊してくさまをずっと見てらっしゃいました。

すると突然、お母さんは泣き出してしまいました。

「あぁ~・・・・! お父さんが大好きだった茶の間がなくなっちゃう・・」と言って。


ご主人は茶の間が大好きでした。

それはみんなが集う場所だったから、ということもありますが、全面窓ガラスで外の日差しが明るく入り込む茶の間に、自分が外で何か買ってきたり、魚を釣ってきたりすると玄関から入ってくるのではなく、いきなりその茶の間のガラス窓をあけて、「お~い、母さん!」と呼んで、そこから自分の買い物の成果や釣果を見せるのがお父さんのクセだったようです。

ちょうどそんな様子をとった生前のホームビデオが、取り壊されていく家の様子と交互に映し出され、涙を誘いました。

「こんなことなら、もっと生前に仲良くしておくんだったねぇ。」とお母さんは涙をぬぐいました。

子どもの目からみても、お父さんは破天荒な人で、家族はそれによって振り回され、さんざ苦労したようです。

それでもそのお父さんがなくなって3年たった今でもまだお父さんが亡くなったとは信じられない、と言って涙するお母さんを見ると、夫婦って重いなぁ、と思います。

そのお母さんは震災後、長女の家に身を寄せていたようですが、1年半たってお父さんの命日の日、お坊さんにお経をあげてもらっているとき突然涙ぐみ、長女とその旦那さんの手を握り、「ありがとうな。ありがとうな。1年以上も置いてもらって・・」と感謝の気持ちを述べました。

いったい、このお母さんがこの娘さんを立派に1人前に育て上げるのに何十年家に置いていたというのでしょう。

それなのに、年老いた自分が、それも震災というどうしようもない事由があってのことなのに、たった1年ちょっとのことをこれほどまでにすまながり、感謝するなんて・・と思うと、私まで涙ぐんでしまいました。


親ってほんとにどこまでも親なんだなぁ・・

常に子どもの幸せだけを願っているから、自分が身を寄せていたこの1年ちょっとの間は、子どもの家計にも負担をかけたし、家も狭くなったし、それは迷惑以外のなにものでもないと思っている。

だからこういう発言になるんだろうな。

そんなお母さんがふと空を見上げ、雲に話しかける。

「白い雲よ。おまえはあの日にもいたかい。そしてありんこのように人間が逃げ惑う姿を何もせずにただ黙ってそこから見ていたのかい。お前は、あの日のお前ではないかもしれないね。でも、私もまた、あの日の私ではないんだよ。」

そう言って、79歳のお母さんは、生きていく決心をします。

「被災者自身が自分の意志で前を向いて生きていく、と決めない限り、立ち上がることはできないと思う。」と言って。

私はこの言葉に胸打たれました。

同じような言葉はこれまでにも何度も耳にしたことはあるように思います。

でも、なんでなんでしょうねぇ。

このとき私はこのタイミングで、この言葉がものすごく新鮮に響き、初めて聞いたフレーズのように胸にしみたのです。

このお母さんがどうして再び前を向いて生きていこう、と決心したのか本当のところはよくわかりません。

ある日衝撃的な出来事があって、ふと我に立ち返った、という感じでもない。

毎日毎日をコツコツと精一杯生きていくうちに、少しずつ地固めができていって、ある日「よし、そろそろ自分にそういう宣言をしても大丈夫かな。」と思いいたった、という感じでした。

そのほかにも「自分が生きているのではなく、生かされているのだから生きなくてはな、と思った。」とか「毎日毎日ただ感謝の日々で、それだけで生きています。」など感動的な言葉がありました。

そしてスタジオのコメンテーターの人などは、こちらのほうの言葉に感動した、と言っている人もいました。

けれど、なぜか今の私には、

「被災者自身が自分の意志で前を向いて生きていく、と決めない限り、立ち上がることは出来ないと思う。」と言う言葉が必要だったのだ、という気がしました。

私は、自分が「必ずこれで前を向いて生きていく」と“決めているだろうか”と恥ずかしくなりました。

オーラソーマのティーチャーになる!と言っても、実際にやっていることはレベル4をクリアしなければまずはその権利すらない、だからそれに取り組んでいるというだけのこと。

自分がティーチャーになるならこういうティーチャーになりたい、こうありたい、こういうふうに変えていきたい、というところまで気が回っていない。

接客講師をやっている、と言っても前の会社からの引継ぎもあってまだその需要があるからやっている、というだけのこと。

表現アートセラピーもやっていく、と言ってもオーラソーマが「静」のことが多いので、もっと五感を刺激して「動」のことも加えたらいいな、という理屈でそう思っているだけのこと。

エステもやろう、といったって、オーラソーマからAEOSが発売されたからそのトレーニングも受けて、ならばせっかくだから始めようか、というだけのこと。

なんだかこうしてみるとすべて私のやっていることは、「成り行き」であったり、「需要がありそうであればやってみようかな」というスケベ心であったり、望まれるものであればと環境から自分がそこへ行くことを押し出されたような気になっているだけであって、ほんとうの意味で“前を向いて”“そこへ行く”と“決めている”とは言えないのではないか、と思いました。

”決めていない”から、なかなか次の行動に移せないし、いつも何かしこりがあるような、モヤモヤしたような、ほんとうにこれでいいんだろうか、という戸惑いがぬぐいきれないなかで生きている・・

なんか・・・  うまく言えないけれど、“前を向いて生きていく、と決める”ということはもっと重々しい決意と行動がともなう、何があろうと自分から決めて、動き出すことだろうと思いました。

自分から能動的に行動すること。

そして、自分の人生は自分だけの人生なんだ、と自覚すること。

そんなようなことが私にはまだまだ欠けていたように思いました。


そしてふと、ここ最近の私がオーラソーマのコンサルテーションを受けた場合のことを想像しました。

プラクティショナーの方に、「あら? まだ何か迷っていることがあるの? いま、何か決断しきれないようなことがありますか?」と選んだボトルを見て、問いかけられたとする。

でも私はきっと、「え? 全然心当たりないですね。今は何も迷っているようなことはないし、決断できていないこともないですね。」と答えていたことでしょう。

自分の心のうちが明るみに出て、他人の口というツールを使って今一度自分に刺激がやってきても私には「それ、なんのこっちゃ? ちょっと的が外れたリーディングね。」としか思えないほどに自分のことがわからなくなっていたはずです。

まだまだ潜在意識から顕在意識に上ってくるにはいくつものブロックがあった、というか。

でも、このドキュメンタリーにおける被災者のお年寄りの言葉ではハッと気付くことができた。

こうしてみると、「気付く」ためのツールというのは常にどこに転がっているかわかりませんね。





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