ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

素直になれなかったら・・・

2013-06-12 09:02:00 | 身辺雑事

先日、友人が面白いものを見せてくれました。

それは彼女が「池上彰さんの監修なら、信頼がもてるし、読む本として眺めても面白いかも・・」と図書館で借りたという「やりたい仕事がある!」というタイトルの本。Photo_2

確かに「今、自分がやっている仕事はほんとうにやりたいことだったんだろうか・・?」とか「世の中には自分が知らないだけで、どんなに魅力的な仕事があるんだろう?」とか考える人にとっては、この本を手にして中身をパラパラとめくれば、自分の適職、天職に出会えるかもしれない!とワクワクしそうな1冊です。

「で、問題はここなんですよ、ここ!」と彼女が指差したところを見ると、なんと「オーラソーマ」という文字が!

癒し系職業のなかに堂々と「カラーセラピー」という1つの職業ではなく、「オーラソーマ」という掲載があるとは!

これは「キーボード奏者」というカテゴリーではなく、「ヤマハエレクトーン奏者」が1つの職業の名前になっているようなものではありませぬか!!

しかも、彼女が言うところによると「768種」も載っている職業のなかに、「郵便局員」は載っていないんですって。

「ハテ、公務員は除外されているのかな?」と思ってみていると、ちゃあ~んと他の公務員職は載っているらしい。

池上さんの頭のなかには郵便局員は「やりたい仕事のわけはない!」ということで除外されているのか?

そして、郵便局員は除外されているのに「オーラソーマ」は載っているのか!

オーラソーマもメジャーになったものだ・・

「ちょっと見せて。」と私がそこに掲載されている内容を見て、「ん?」と首をひねる表記がありました。

それは、

『いくつかの団体がオーラソーマとしての資格を独自に実施している。』と書かれてあるところでした。Photo_3

この“いくつかの団体”とは、ティーチャーの資格を持った方が自らオーナーとして経営しているサロンのこと?

だとしたら意味は通らないでもないけれど、これは誤解を生む表現だよなぁ。

なにせ、“いくつかの団体”が、オーラソーマとしての資格を“独自に”実施してるわけではなく、オーラソーマの資格を与えることができるのはアザイアクトだけなんだから。

これではまるでオーラソーマの資格を取るためにはいろんな方法がありそうだ、というニュアンスを与えるではないか。


・・とまぁ、この話は「面白いもの見つけちゃいました~」というこれだけの話なんですが。

ここからはがらりと内容変わりまして。

先日、スタジオジブリの宮崎駿監督とプロデューサーの鈴木敏夫さんのこんなエピソードを聞きました。

それは「となりのトトロ」のさつきちゃんのこと。

最初に話が出来上がったとき、鈴木さんが、宮崎さんに

「こんなに出来た子どもなんていない。」とそのキャラクターづくりに文句をつけたそうです。

宮崎さんは、

「いる! 現にボクがそうだった!!」と言い張り、ふたりは大喧嘩に。


これ、どうして収拾がつくんだろう・・?って心配しちゃいますよね。

けれど、鈴木プロデューサーが笑っておっしゃるには、

「少し日が経つとね、必ず宮崎さんのほうから『ここ、こういう風に変えてみたけれどどうだろう?』って言ってくるんです。」ということです。

「となりのトトロ」で言うと、さつきが、

「もし、お母さんが死んじゃったらどうしよう・・」と言って、わぁ~んって大口あけてわんわん泣くシーンがあるんですが、それがこの大喧嘩のあとに加わったシーンだそうです。

宮崎監督としては精一杯、さつきが子どもらしさを見せるシーンを、鈴木プロデューサーの提言を受けて1つ加えてみました、ってことなんでしょうね。

これを聞いたとき、私は「あぁ、意外に男の人同士の社会ってこういう解決法がとられていることが多いのかもしれないなぁ。」と思いました。

女のほうが結構意固地になって、曲げたくないものは曲げたくない! 私の主張は間違ってないって言ったら間違ってない! とどこまで行っても平行線をたどりそうな気がします。


現に私は、「こんな子どもなんていないぞ。」という鈴木プロデューサーと「いる! 現にボクがそうだった。」という宮崎監督の発言を聞いて、(これはどうしようもないだろう・・)と思ってしまったのでした。

鈴木プロデューサーの発言は“一般的には”というところに立脚している。

そしてそれは正しいだろう。

出来すぎた子どもなんて、いない。 映画の中の話だ、とうそ臭くなる。

そして宮崎監督の発言は、というと“自分自身の体験では”というところに立脚している。

「いる! 現にボクがそうだった。」とおっしゃっているのだから、それはまた確かな事実なのだろう。

現にいる、と言っている限り、もうそこを突いたって白旗あげるしかない、ってことになってしまう。

お互いに違うフィールドに立って話しているのだからこれはもうどこまで行ったって交差する地点を見つけることは出来ないに違いありません。

そしてどうなったんだろう?とドキドキして聞いていると、「こうこうこういうことで、君の意見に対して、自分の意見の方が間違っていることに気付いた。」というプロセスはすっ飛ばして、いきなり「こういうシーンを加えてみたぞ。」と来たわけです。

この提案を受けた側が、「ということは、君は自分の間違いを認めたんだな?」とか追い詰めたら終わりでしょう。

プロセスはどうだっていいんだ。

どっちが間違っていたとか正しかった、っていう話でもない。

ただ、宮崎監督のほうが相手の提案を受け入れる度量があった、ということです。

そしてまた鈴木プロデューサーのほうにも宮崎監督は、必ず自分の意見を全く無視はしないはずだ、という信頼があったに違いありません。


オーラソーマでいうところの「ジャッジをするな。」というのもこういうことかもしれないな、とふと思いました。

「ジャッジをするな。」とは常に自分の意見や考えをぐっと押し込めて我慢をしろ、ということではない。

ただ「正誤」というものさしを持ち込むな、ということなだけだ。

あくまで「こうしたほうがいいのに・・」という提案があれば、それは提案したらいい。

「・・という提案をするってことは、今までの路線を否定するってことね。」と言う人もいるかもしれない。

でも、そういうことには涼しい顔をして取り合わなければいいだけのことだ。

私はこれまで“素直になる”っていうことを履き違えていたのかもしれません。

素直になるためには、必ず自分の間違いを認める、という段階を踏まえなくてはいけないのだ、と思い込んでいたかもしれません。

それができないなら、ただそこを飛び越えて「もっとこうしても良かったかな。」というところだけを改めて発言してみる、提案してみる、という風にしても、人はきっと何も言わず、すべてを察して受け入れてくれるだろう。


なんか、相手を否定せずにでも自分のなかである程度相手の意見を消化して新たな提案に組み入れる、っていうようなこの宮崎監督と鈴木プロデューサーの関係がいいな~と思ったのでした。

「このオーラソーマに関する表記はこういう風に直したほうがいいのでは・・?」ってもし、池上彰さんに提案したら、池上さんあるいは出版社の小学館は「やりたい仕事がある!」を訂正してくれるのかしらん・・






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