1年以上前にご主人を亡くされた友人と久しぶりに会いました。
この友人のことはこのブログでも時々書いています。
長い間ふさぎこんでいたけれど、ようやく会ってくれる気になったみたいです。
ご主人のこと、人が亡くなるという話、魂の話などは彼女のほうからする気になったことだけしか話さないでおこうと思っていたし、彼女が話したことに対して「それは違うんじゃない?」と否定したり、批判したりは一切しないでおこうと思ったので、せっかく彼女のほうからしてくれた話にも、正直なところ私にはなかなか理解できないことが多々ありました。
「私は浄土真宗にずいぶんと助けられたけれど、浄土真宗の教えのなかに輪廻転生はないよ。」
(・・え? でも宗派こそいろいろあっても元はお釈迦様の教えでしょ? お釈迦さまが輪廻転生を説いたのではないの?)
「その浄土真宗の教えではね、とにかくこの世は不浄土なの。辛く苦しいことばかりがこの世なの。だからみな浄土を目指すんだよ。」
(それは、せっかくこの世に生まれてきたことを感謝するのではなく、否定することにはつながらないのか・・?)
彼女はご主人を亡くして以来ずっと、自分もご主人と同じ場所に行きたい、と言い続けています。
でもそれは純粋な気持ちなのであって、それって早く死にたい、ってことを言っているのかというと、それとはちょっとニュアンスが違うようです。
生かされている限りは、そのことに意味があるのだろうから、自分に出来る限りのことをしたい、とも言っています。
そんな彼女は、私のようにお気楽な者よりずっと深いものを悟ってしまったに違いありません。
だから、人間の頭で考えることなんか天の目から見れば、取るに足らぬことであろうよ、と言われているようでどのみち、言葉で尋ねて彼女が今いる場所に到達できるものではないだろうな、と思いました。
目の前にいる彼女が、手の届くところにいるのに、とても遠い人になってしまったような感じがしました。
そんな彼女が大切な人を亡くしたときに、人がどういう感情のプロセスをたどるものなのか、ということを教えてくれました。
これは彼女に限らず、たいていの人の辿る経緯みたいです。
それによると、まず、亡くなった直後というのは、お葬式の手配だのに追われるということもありますが、「あぁ、これでようやくあの人もラクになったのだな。」という理解を示すような安らかな気持ちになり、自分でもこの程度のフラットな状態でずっといけるのかな、と一瞬思うそうです。
しかし、日常雑多なごたごたが一段落すると、どっと悲しみが押し寄せてきてどうにもならないほどのその深い悲しみに押しつぶされそうになる。
そして、その次に訪れるのが「怒り」だそうです。
「どうして私を置いて先に逝っちゃったの!?」という怒り・・・
けれど、その怒りをぶつけたい当の本人はもうこの世にはいないわけですから、いつのまにかその怒りは理不尽なことに残された家族や血縁の近親者に向かうのだそうです。
彼女の場合もそれは彼女のお母様に向かったそうです。
でも、こうした一連の感情の流れというものを「たいていこういう場合はこうなるそうだよ。」と周りのケアしてあげる立場の人があらかじめ知っておくと、真正面からその怒りなり、言葉なりを受け取らなくてもすむかもしれません。「この人は今、激しい悲しみをもてあまして、それが怒りに摩り替わり、こちらに向いているんだ。」とわかっていれば、不毛な喧嘩などはしなくてもすむわけです。
私はこれを聞いて、「人間、生まれるときに直面するときと死ぬときに直面するときと、感情のバランスをくずす、という点では同じことが起こるんだな。」と思いました。
よく、妊婦の方が「マタニティ・ブルー」なるものに見舞われると言います。
でもこれだって、姿かたちは今までと変わらない人が、実はその人の内面ではいつもと違うことが起こっているということをあらかじめ知っていないと、まともに面と向かって衝突してしまうこともあるかもしれません。
私は、マタニティ・ブルーのみならず、子どもを産んだお母さんはその後1年くらいは不安定な精神状態にある、と思ってあげたほうがいい、とも聞いたことがあります。
さて、彼女と別れる時間がやってきて、家の前まで車で送ってもらい、車のドアを開けようとしたときでした。
彼女が言いにくそうに切り出しました。
「えっちゃん、これは言わないでおこうかと思ったんだけれど・・ 言えそうだから言っちゃうわ。私はね、これからの人生、もう誰にも年賀はがきは出さない。どうしてもただ明けた年のことだ、と思おうと思っても、『おめでとう』という言葉は使えないの。だから、そちらからも出してくれなくていいよ。」
わかった、と私は言いました。
挨拶の礼儀として、寒中見舞いくらいは出そうかとも思いましたが、そんなことをしたって、彼女がため息に肩を落としながら、あぁ、来ちゃったから出さなきゃ、と思うだけのことをしても仕方がないなぁ、とぼんやりと考えました。
そして次に彼女はこう言いました。
「だから、同じ意味で、私の誕生日はもう祝ってくれなくていいから。『おめでとう』は自分ではもちろん使えない言葉だけれど、言われるのも、もう嫌なの。
嫌っていうか・・・ すごく辛いの。身内に対する怒りの次に起こることはね。自分の誕生日が1年のなかで一番辛い日になる、ってことなの。この前の誕生日のときも本当に辛かった。そして、えっちゃんから誕生日のプレゼントが届かないといいなぁ、と祈ってたの。1日が終わろうとしてあぁ、届かなかった、よかった、って思っているところへ花束が届いたから、あぁ、来ちゃったか、って悲しくなっちゃったの。せっかくくれたのにごめんね。でも、言っておかないと、また次に私の誕生日が来たときに同じことが起こるといけない、と思ったから。」
わかった、とこれまた私は短いその言葉を出すだけが精一杯でした。
確かに彼女の誕生日の日に、「おめでとう」という言葉はすごく書きづらかった。
彼女からこういう自分の感情のプロセスについての話を聞く前のときであっても。
でも、だからこそ彼女には自分が生まれてきたことに誇りを持って、前を向いてもらいたいし、そろそろそういう気になってきたかな、と思ったのだけれど、彼女はもっと深い悲しみのなかにいまだ居るんだね。
亡くなった方に対する「どうして私を置いて先に逝っちゃったの?!」という怒りが身内に向くことがある・・というところまでは、何とかわかるような気がする、と理解できました。
しかし、その後にやってくることが「1年で一番辛い日が自分の誕生日になる」ということだったなんて、それは本当に大切な人を亡くした人にしかわからないことでしょう。
そういう淵に居る人を、何とかして引っ張りあげてあげたい、などという考えは不遜なのでしょう。
これも「ジャッジする」ということですものね。
何とか私は彼女をずっと見守ってあげたい、とだけ今のところは思おう、と改めて決意しました。
オーラソーマヒーリングサロン「些々羅」では、メールにてコンサルテーションのご予約を承っております。
PCにてご覧の方は、左肩上の「オーラソーマヒーリングサロン些々羅」をクリックしていただきますと、「11月の予約状況」を見ることができます。そちらでご希望の日時をお決めのうえ、メールを下されば幸いです。
携帯でご覧の方、あるいは予約状況の確認が見られない方は、どうぞご遠慮なく直接、メールにて空き日時からお問い合わせください。
メールアドレス chakra@aura-soma.name
住所 〒500-8105
岐阜市西園町24 ショウエイビル2F (駐車場1台あり)
岐阜市役所南庁舎より徒歩3分のところです。
なお、オーラソーマ製品も販売しております。全国どこへでも送料無料にてお送りいたします。こちらもご希望の方は、メールにてお問い合わせください。(恐れ入りますが、代金の振り込み手数料は、お客様ご負担をお願いしております。)
お返事は24時間以内に差し上げるようにしておりますが、万が一、24時間以内に返信がない場合は、何らかのメールの送信状態に不備が生じた恐れもありますので、お手数をかけて申し訳ありませんが、今一度催促のメールをくださいますようお願い申し上げます。