ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

大切な人を亡くした人の感情のプロセス

2011-10-31 09:09:00 | 身辺雑事

1年以上前にご主人を亡くされた友人と久しぶりに会いました。

この友人のことはこのブログでも時々書いています。

長い間ふさぎこんでいたけれど、ようやく会ってくれる気になったみたいです。

ご主人のこと、人が亡くなるという話、魂の話などは彼女のほうからする気になったことだけしか話さないでおこうと思っていたし、彼女が話したことに対して「それは違うんじゃない?」と否定したり、批判したりは一切しないでおこうと思ったので、せっかく彼女のほうからしてくれた話にも、正直なところ私にはなかなか理解できないことが多々ありました。

「私は浄土真宗にずいぶんと助けられたけれど、浄土真宗の教えのなかに輪廻転生はないよ。」

(・・え? でも宗派こそいろいろあっても元はお釈迦様の教えでしょ? お釈迦さまが輪廻転生を説いたのではないの?)

「その浄土真宗の教えではね、とにかくこの世は不浄土なの。辛く苦しいことばかりがこの世なの。だからみな浄土を目指すんだよ。」

(それは、せっかくこの世に生まれてきたことを感謝するのではなく、否定することにはつながらないのか・・?)

彼女はご主人を亡くして以来ずっと、自分もご主人と同じ場所に行きたい、と言い続けています。

でもそれは純粋な気持ちなのであって、それって早く死にたい、ってことを言っているのかというと、それとはちょっとニュアンスが違うようです。

生かされている限りは、そのことに意味があるのだろうから、自分に出来る限りのことをしたい、とも言っています。

そんな彼女は、私のようにお気楽な者よりずっと深いものを悟ってしまったに違いありません。

だから、人間の頭で考えることなんか天の目から見れば、取るに足らぬことであろうよ、と言われているようでどのみち、言葉で尋ねて彼女が今いる場所に到達できるものではないだろうな、と思いました。

目の前にいる彼女が、手の届くところにいるのに、とても遠い人になってしまったような感じがしました。

そんな彼女が大切な人を亡くしたときに、人がどういう感情のプロセスをたどるものなのか、ということを教えてくれました。

これは彼女に限らず、たいていの人の辿る経緯みたいです。

それによると、まず、亡くなった直後というのは、お葬式の手配だのに追われるということもありますが、「あぁ、これでようやくあの人もラクになったのだな。」という理解を示すような安らかな気持ちになり、自分でもこの程度のフラットな状態でずっといけるのかな、と一瞬思うそうです。

しかし、日常雑多なごたごたが一段落すると、どっと悲しみが押し寄せてきてどうにもならないほどのその深い悲しみに押しつぶされそうになる。

そして、その次に訪れるのが「怒り」だそうです。

「どうして私を置いて先に逝っちゃったの!?」という怒り・・・

けれど、その怒りをぶつけたい当の本人はもうこの世にはいないわけですから、いつのまにかその怒りは理不尽なことに残された家族や血縁の近親者に向かうのだそうです。

彼女の場合もそれは彼女のお母様に向かったそうです。

でも、こうした一連の感情の流れというものを「たいていこういう場合はこうなるそうだよ。」と周りのケアしてあげる立場の人があらかじめ知っておくと、真正面からその怒りなり、言葉なりを受け取らなくてもすむかもしれません。「この人は今、激しい悲しみをもてあまして、それが怒りに摩り替わり、こちらに向いているんだ。」とわかっていれば、不毛な喧嘩などはしなくてもすむわけです。

私はこれを聞いて、「人間、生まれるときに直面するときと死ぬときに直面するときと、感情のバランスをくずす、という点では同じことが起こるんだな。」と思いました。

よく、妊婦の方が「マタニティ・ブルー」なるものに見舞われると言います。

でもこれだって、姿かたちは今までと変わらない人が、実はその人の内面ではいつもと違うことが起こっているということをあらかじめ知っていないと、まともに面と向かって衝突してしまうこともあるかもしれません。

私は、マタニティ・ブルーのみならず、子どもを産んだお母さんはその後1年くらいは不安定な精神状態にある、と思ってあげたほうがいい、とも聞いたことがあります。


さて、彼女と別れる時間がやってきて、家の前まで車で送ってもらい、車のドアを開けようとしたときでした。

彼女が言いにくそうに切り出しました。

「えっちゃん、これは言わないでおこうかと思ったんだけれど・・ 言えそうだから言っちゃうわ。私はね、これからの人生、もう誰にも年賀はがきは出さない。どうしてもただ明けた年のことだ、と思おうと思っても、『おめでとう』という言葉は使えないの。だから、そちらからも出してくれなくていいよ。」

わかった、と私は言いました。

挨拶の礼儀として、寒中見舞いくらいは出そうかとも思いましたが、そんなことをしたって、彼女がため息に肩を落としながら、あぁ、来ちゃったから出さなきゃ、と思うだけのことをしても仕方がないなぁ、とぼんやりと考えました。

そして次に彼女はこう言いました。

「だから、同じ意味で、私の誕生日はもう祝ってくれなくていいから。『おめでとう』は自分ではもちろん使えない言葉だけれど、言われるのも、もう嫌なの。

嫌っていうか・・・ すごく辛いの。身内に対する怒りの次に起こることはね。自分の誕生日が1年のなかで一番辛い日になる、ってことなの。この前の誕生日のときも本当に辛かった。そして、えっちゃんから誕生日のプレゼントが届かないといいなぁ、と祈ってたの。1日が終わろうとしてあぁ、届かなかった、よかった、って思っているところへ花束が届いたから、あぁ、来ちゃったか、って悲しくなっちゃったの。せっかくくれたのにごめんね。でも、言っておかないと、また次に私の誕生日が来たときに同じことが起こるといけない、と思ったから。」

わかった、とこれまた私は短いその言葉を出すだけが精一杯でした。


確かに彼女の誕生日の日に、「おめでとう」という言葉はすごく書きづらかった。

彼女からこういう自分の感情のプロセスについての話を聞く前のときであっても。

でも、だからこそ彼女には自分が生まれてきたことに誇りを持って、前を向いてもらいたいし、そろそろそういう気になってきたかな、と思ったのだけれど、彼女はもっと深い悲しみのなかにいまだ居るんだね。

亡くなった方に対する「どうして私を置いて先に逝っちゃったの?!」という怒りが身内に向くことがある・・というところまでは、何とかわかるような気がする、と理解できました。

しかし、その後にやってくることが「1年で一番辛い日が自分の誕生日になる」ということだったなんて、それは本当に大切な人を亡くした人にしかわからないことでしょう。

そういう淵に居る人を、何とかして引っ張りあげてあげたい、などという考えは不遜なのでしょう。

これも「ジャッジする」ということですものね。

何とか私は彼女をずっと見守ってあげたい、とだけ今のところは思おう、と改めて決意しました。





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「ジャッジをしない」ということ

2011-10-30 09:20:00 | セラピー

ジャッジしない、という表現、オーラソーマでは良く使います。

ボトルには、B59「レディポルシャ」というものがあって、まさにそういうメッセージがあったりもします。

ジャッジとは、直訳すれば「審判をくだす、判定をくだす、判決を言い渡す」というようなことですね。

そして、私たち日本人は「ジャッジをするな」と言われると、「罪を憎んで人を憎まず」というような裁判の法廷を思い出し、「人が人を裁くなどということがそもそもできるわけはない。ましてや自分においてはなおさらのこと。」という気持ちになって、すぐにわかったような気になって、そうだ、そうだ、ジャッジなんてしないほうがいいよな、とうなづいてしまいがちです。

私がそうでした。

でも、どうやら私はこの言葉の本当の意味をわかってはいなかったようです。

これも表現アートセラピーの講座での気付きですが、表現アートセラピーに限らず、自分を開示することが当たり前となってくるワークショップなどでは、他人のことをジャッジしません。

それがそのワークショップに、安全な場で守られているから、自分の責任において何を言ってもよい、という空気をつくりだしているわけです。

そりゃそうですよね。

誰かが「私は今日、このようなことを感じ、こういう気付きを得ました。」と言っているのを、別の誰かが、

「いや、それは違うね。あんたがそれを気付きだ、って言ってるのはそれは気付きじゃないよ。」などと否定したら、誰も自己開示はできなくなってしまうでしょう。


そう、「ジャッジする」という言葉のなかには、「相手を否定する」「批判する」というイメージが組み込まれていることを本能的に悟るから、ジャッジすることはやめよう、と言われていると思っていたのです。
でも、「否定する」ことがいけないことなら、「それはいいことだよね。」「あなたは正しいことを感じたよね。」という肯定はいいのでしょうか? という話になります。

しかし、「それは正しい」ということもすでにジャッジでありましょう。

相手を肯定してあげて気分よくさせてあげることならよくて、否定することはいけない、というような善悪だとか正誤という基準を持ち込むこと自体がジャッジなのです。

本当の「ジャッジしない」という意味は、「相手を自分の考えている方向へ誘導したり、知らぬ間にコントロールすることをしない」ということも含まれています。


表現アートセラピーで、ペアになって、自分が描いた絵についてそれぞれ思いのままにシェアしあって、と言われたときがありました。

そしてそのとき、ファシリテーターのエリさんに、

「そのときに、相手がもし、自分でも何だかわからないけれどこういう絵を描いたの、と言ったとします。それに対して『それってこういう意味じゃないの?』などと言ってはいけません。」と言われました。

一瞬、「へ?」と思いました。

つい、よく使ってしまう表現だからです。

「え~、それってこういうことかもよぉ。」とか、「こういうことも言えるんじゃない?」とか。

むしろそういうことをこそ、シェアする、ということの醍醐味だと思っていました。


でも、エリさんはそれもジャッジだ、と言いました。

そういうことが言いたいのであれば、あくまで自分の体験として話しなさい、と。

常に会話は「I メッセージ」で話しなさい、と。

「I メッセージ」とは、「私は~」で始まる話し方のことです。

子どもを叱るような場合でも、

「なんで、わからないの! どうしてお母さんの言うことを聞けないの!」という言い方は、その前にすべて隠された主語として「あなたは~」がくっつきます。

「なんで、(あなたは)わからないの!」「どうして(あなたは)お母さんの言うことを聞けないの!」です。

でも、その「YOU メッセージ」はNGなんですよね。

この場合だと、「I メッセージ」に置き換えるならば、「お母さんは、あなたがそういう態度だと悲しいわ。」というように言わなければいけないわけです。

だから上記の話に戻せば、「それってこういう意味じゃないの?」という発言は、一見「それって(私は)こういう意味じゃないかって思う。」という「I メッセージ」のように見えますが、実は、「それって(あなたにとっては)こういう意味じゃないの?」と言っていることですよね。

これだとこれがジャッジを下した発言だということが明確になってきますね。相手の話に対して判定をしているわけだから。

これが自分の体験について自分で言っているならいいですけれど。

ちょっと疑問形にして、「~じゃないの?」と柔らかくしているけれど、「きっとこういう意味よ。」と断定的に言っていることとなんら変わりないからです。

それがなぜいけないか、というと、その人本人が気付く機会を奪ってしまうからにほかなりません。

気付きはあくまでも本人に「!」ということが起こってこその気付きです。

人から言われて、「あぁ、そう言われたらそれだわ。」って思い当たったからってたいした感動はありゃしません。

だからエリさんは、相手が「自分でもこれは何のことかわからない。」というように自分の絵を説明したら、それを見て、自分の体験のことだけを話しなさい、と言いました。

「それを見て、私は自分のことだけれど、○○を思い出した。」とかいうように。

それを聞いてまた、本人が何かを思い出したり、何かに気付いたりするかもしれない。それは自由。

そのようにしてあくまで個人的な体験の話だけをしなさい、と言われました。

つまり、「ジャッジを下さない。」という言葉のなかには、一見ごくごくナチュラルな流れに感じるけれど、実はひそかに相手をある方向へコントロールしていっている、ということも一切言ってはいけないし、してもいけない、ということだったのです。

う~ん、なかなかに深い言葉だったな。「ジャッジをくだすな」。


こういうほとんど日本語としてもなじみのあるような英語ってくせものです。

ついつい判ったような気になってあまり確かめないし、ぼんやりと色んな意味を含んでいるから。

こうして右脳を開いていくワークショップでありながら、やはり言葉に敏感になる必要もあるのですよぉ。

なかなかに神経使いますわぁ。

でも、楽しいけどね。





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身体は答えを知っている

2011-10-29 09:03:00 | セラピー

表現アートセラピーで、2日目に面白いワークをやりました。

それは“バランス”に関するワークです。


何でもいいから、自分がいま「極端に過ぎている」ということを1つ思い浮かべます。

例えば「食べ過ぎている」「飲みすぎている」「考えすぎている」・・・などなど。

そして、その反対の極になる言葉を考えます。

「食べなさすぎ」「飲まなさすぎ」「考えなさすぎ」というように。

そしてそれを自分以外のふたりの人にそれぞれの状態をボディワークで表現してもらいます。

そして自分はそれぞれの人の動きと全く同じ動きをやってみてどう感じるか気の済むまでふたりの間を行き来して、そしてふたりの間の中庸の地点を決めます。

これはふたりの間のちょうど距離的に同じの中間という意味とは違います。

AさんとBさんの間のAさん寄りのほうが落ち着くなぁ、と思えばそこで良いですし、Bさん寄りのほうが落ち着くなぁ、と思えばそれでいいわけです。

あくまでその人にとってどこが一番くつろげるか、という意味の中庸です。

中庸の地点が決まったら、今度はボディワークとしてまたふたりの中間ぐらいのポーズや動きを決めます。

これもまた自分が感じるポーズや動きでよいのです。

誰が正解を与えてくれるわけではありません。

あくまで自分が「うん、これだ。」と腑に落ちるまでやります。

このとき私はテーマとして、「お金がなさすぎ」「ありすぎ」を取り上げよう、と思いました。

けれど、これでは単にお金がない状態、ある状態という状況を表しているだけで、そこに肝心の私の意識が介在していません。

そこでファシリテーターのエリさんから、例えばこう言い直してみたらどうか、という示唆を頂きました。

「お金がなくて行き詰まっているわたし」「お金がありすぎて、散財してしまうわたし」。


3人で組んだグループの人1人に、「お金がなくて行き詰まっているわたし」は、床に身を縮めてうずくまっているようなポーズをとってもらいました。

そして、もうひとり「お金がありすぎて、散財してしまうわたし」は、無意味に歩き回りながら、両手を甲の方を向けて外側にぺっぺっと何かを追い払うような動作をしてもらいました。

それがそれぞれの言葉にしっくりとくる動作だという気がしたからです。

まずその様子をじっと見ていると、すぐに「お金がありすぎて散財してしまうわたし」の動作がすごく嫌なものに感じてきました。

なぁに、その何もかもを大切にしていないようなその感じは!って言いたくなるような思いがむくむくと沸いてきて、思わず口に出しそうになるくらいでした。

かといって、ふたりの間の中間点を見つけようとすると、どちらかと言えば、「お金がありすぎて散財してしまうわたし」の方寄りに立ちたくなるのです。

「お金がなくて行き詰まっているわたし」の方は、すごい閉塞感で息が詰まりそうになります。

あんなふうにガチガチに凝り固まってしまうのは恐い。

あんなふうになるくらいならまだ無意味であっても歩き回っていたほうがましだ、というように思えるのです。


そして私は少しだけ「お金がありすぎて散財してしまうわたし」の方に近寄りました。

そして、あんな甲でぺっぺっと小ばかにしたように払うような動きではなく、もっとすべてのものを大切にしているような動きにあれを変えたい、と思いました。


そのためにはどうしたらいいのか、頭で考えるより先に手が動いていました。

手の甲から払うのが嫌な感じに見えるなら、手のひらのほうから差し出すような動きにしたらどうだろう?

それも自分からどんどん広がりを見せるようなポーズのほうが気分がいいな。

そうしているうちにすぐに私のボディワークの中庸の動きが決まりました。

これは、左脳タイプである私が素直にそのときの感覚で動くことが出来た楽しいワークでした。

動いてみて、そしてそれを後からこれって、こういうふうに感じるよね、と意味づけをしていくことがとても新鮮でした。

私は自分のボディワークによって、「私は、お金がないよりあるほうが好きだけれど、それがなぜ?と言われれば、あればいっぱいそれを多くの人と分かち合うことができるから。」という答えを見つけたのです。

それは素敵な気付きでした。

今までずっとボランティアとかチャリティとか世のために奉仕、ということは自分から一番遠い行為だと思っていました。

それは何度もこのブログにも書いたことがあります。

だからこそ、「自分が好きなことを好きなだけやることが、それがひいては人のためにもなる。」という言葉がすごくピンと来ている、ということもありました。

でも、本当の私は結構、皆と分かち合うことが好きなのかも。

っていうか、分かち合わないと、過ぎるほどにあるお金ってどうしていいかわからないもんね。(そりゃ、どっちみちそんな状態になったことはないので、わからないんですけど。)

ひょっとして分かち合うことによって、使いすぎ、というちょっと後ろめたい感覚が払拭されるから、ということだけかもしれない。

でもそれは、どちらでもいいじゃないか。

結局、分かち合う、ということには変わりはないんだから。

このワークだって、始めは、ただ手の甲のほうをぺっぺっと払うような動作に嫌悪を感じる・・・ だからその反対の動作はないか、と考えたことがきっかけでした。

そんなやり方がいいのかどうかわからないけれど、ここは良い悪いを決めるところではない。

それでいいのだ、と思えました。

後で「バランスの法則」について講義を聴いてさらに納得しました。

「バランスをとる」というと、皆さんは、どういう感じがしますか?

不安定な足元のなか、どうにかして安定的に立っていよう、とする場所、という感じですか?

バランスをとるためには、ちょっと身体を左右前後に揺らしてみた方が、どの地点が一番バランスがよいのか、身体のおさまりがよいのかわかりますね。

そこから言えることは、バランスをとる、ということは、決して最初から「このあたりがおさまりどころかな~」とめぼしをつけて、そこから動かないでいることではない、ということです。

バランスをとるためには、ひとまず両極を知る必要がある。

この場合の両極とは理想の極と最悪の極ということではありません。

とにかく今の自分の立ち位置が一方の極だと設定すれば、その反対の極を探す、ということなのです。


そしてファシリテーターのエリさんはおっしゃいました。

「バランスをとる、ということは、その両極を行き来している動きのことなのだ。」と。

「だからバランスを崩すということは決して悪いことではない。」とも。

「そのバランスをとるための動きのエネルギーそのものが癒しである。」

これはまさにオーラソーマの目指しているものと同じではありませんか!

オーラソーマでも私たちはカラーローズの真ん中に立っている、とみなします。

ですが、常にどこかの色の方向に引っ張られる。

イエローに傾きすぎているな、と思えば、その補色であるバイオレットを補ってやればカラーローズの真ん中に立っていられる。

これを聞いたとき、私はちょっと疑問に思ったのでした。

「では、最初から何の色にも惹かれない、見ようともしない、という人もカラーローズの真ん中に立っている、ということにはならないか?」と。

そういう人がバランスがとれている、ということになるのか? ならないよねぇ。おかしいよねぇ、って。

それから、

「色のなかでは一番、何の色味も感じないクリアが好き!」という人も常にカラーローズの真ん中に立っていることになります。その人がほかの色を好きだ、という人より完璧な人だ、よいことだ、という意味なのか? ・・・違うよねぇ、と。どの色に良い、悪い、ということがあるわけではありませんから。

でも、この疑問がこの表現アートセラピーのボディワークを通して一気に氷解しました。

私たちはいろんな色に引っ張られていいんだ。

引っ張られ、そして、その反対色がまた必要だと感じ、その揺れ動くさまそのものがバランスがとれている、ということだし美しいのだ、ということに。

だから、オーラソーマが治療ではない、というのもそこなんだろうなぁ。

治療にはいつか終わりが来る。

「はい、もう来なくても大丈夫ですよ。」とお医者さまから言われる日が必ず来る。あるいは、そう言われるより先に肉体を失うか・・・

でも、私たちは生きている限り、ずっと常にどれかの色に引っ張られる。

だからオーラソーマは死ぬまで必要なツールだし、いつも身近にいて、共に自己成長を続けるんだ、と思いました。

このことが頭で考えて理解したのではなく、身体が勝手に先に動いて理解した、ということが驚きでしたし、新鮮でしたし、とても私にとっては嬉しい発見だったのです。




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「表現アートセラピー」 定期専修講座第一回目を受けて 2

2011-10-28 09:19:00 | セラピー

昨日は、「表現アートセラピー」の定期専修講座を受けに週末東京に行って、ラハシャのときと同様に初日は、軽く落ち込んでしまいました、と書きました。

どうして落ち込んでしまったのか・・・?

ラハシャのときに初日感じた気持ちは、

「なになに? いったいこれは・・・ 私は今日ここへ来るまでとても幸せだった。なのにそんな幸せだった私がどうしてざわざわとした気持ちにさせられなくてはいけないの?」という思いでした。

それは次第に怒りに変わり、その怒りは、「幸せだった私をこんな気持ちにさせたのは誰? 何者?」という対象を求め始め、罪もないラハシャ博士を憎むような気持ちすら湧き上がったのでした。

今回は、怒りは湧き起こってこなかったものの、いきなり軽く落ち込みました。

それがなぜかというと、「アートセラピー」ですから、基本的には何枚も絵を描きます。

絵を描く、ということが最も中心にあるセラピーであることは間違いありません。

「さ、それではその今の気持ちを絵にしてみましょう。」と言われると、さっと皆さん、実に簡単なこと、ワケもないことと言うように絵を描かれます。


ほかの人の絵がとびきり上手い、というわけではありません。

さっさとすぐに描きあがる、ということでもありません。

考え込むことが全くなく、すぐに絵に取り掛かれる、という意味でもありません。

ただ、皆の絵は、本当に“いのち”だったのです。


ただ殴り描きのように見えるものがある。

3歳の幼児が絵の具をねだくりつけただけのように見えるものもある。

紙の大きさではどうしても自分の気持ちを表現しきれなくて、紙を飛び出してさらに切った紙を貼り付けている人もいる。

でもそのどれもが、本当にその人の“たましい”を表しているように私には見えました。

それに比べて私の絵は、どうなの。

この説明的な絵は。

燃えるような気持ちを表すのに、文字通り「炎」を描く。

頭でっかちな自分、というのを表すのに、文字通り頭が大きい人間の絵を描く。

なんて左脳的なんだろう。

みんなのように、これは何なの? つい、手が勝手に動いてしまって絵が出来上がりました、っていうような絵とも言えない魂の叫びを画用紙に吐き出したい、もっと右脳的になりたい、と思いました。

実際に最後のシェアのときには、そう訴えたりもしました。

そしてホテルに帰って、そのことをずっと考えていました。

考えたってどうなるものでもない、という気持ちもありましたが、勝手に脳が考えてしまうのです。

誰かが、「頭で考えすぎて、苦しくなっている自分がいた。」と言った人もいましたが、私はそうではありませんでした。

考えていることが嫌いではない。

なぜなら、そのことによって、ふぅ~、頭を使いすぎて疲れた、と思うことがないからです。

むしろ、こうして考えなければ1つの感情を抱き続けるだけであろう自分が、考えることによって頭の中でいろんなシミュレーションを行い、いろんなタイプの人を演じ分けてみて、それによって気付くいろんな人の気持ち、なんてものがあって数々の感情を体験できるような感じになるのです。

そこでふいに「どうして左脳的な自分はいけないなんていうふうに左脳を否定するんだ?」と思いました。

右脳的、つまり直感的であることのほうがよりスピリチュアルな人間になれた証拠だ、という思い込み、だからそれを目指さなきゃ、という思い込みに囚われているだけじゃないか、と気付きました。

実際に左脳的であることによって、その能力は今まで私の人生を大きく支えてくれたこともあったではないか。

作文の宿題が出たとき、私は誰よりも枚数をさき、遠足の情景を原稿用紙に落とすことが出来ました。

会社人生において、フェアの企画をするときどの競合他社よりも、なるほど、そういう理由でこのコンセプトに至ったわけか、そう言われるとこのコンセプト以外にはありえない、と思われる、とクライアントがうなるような企画書を書けたではないか。

そこには恩恵もいっぱいあったはずなのに、まるで全否定するように感じる必要は何もない、と思いました。

でも、それはちょっと視点を変えてみたことによる気付きであることは間違いないのだけれど、頭で考えた結果の気付きであることがちょっと不満だったりする自分がどうしてもいることもまた間違いない事実であったのです。

授業では、抱えていたトラウマや記憶やストレスを解放するためには、それらを一度顕在化させないといけない、と言われました。

たしかに。

ひどく辛いことがあった。

それはいまだに癒されない。

しかし、そのこととは全く別に今、私は愛する人がいてとても幸せだ。

そんな癒されないものがあることなんて普段は忘れてしまっている。

だったらそれでいいじゃないか、と思うのが普通かもしれません。

でも、それでは本当の癒しはいつまでも訪れない。

今のその幸せが、潜在意識にマンホールのような重い蓋をしてしまっているだけで、その下では、癒し、許しを待っている小さな子どもがずっといる。

その子どもは何かをきっかけにまた悲鳴をあげることでしょう。


でも一度顕在化すれば、記憶と感情の統合が起こり、それが癒しにつながる。

自分の思い込みや視点を変えることができる。

意識が変化すれば、問題を根本的に解決することができる、というわけです。

ラハシャでも同じことを言われたな~と感慨にふけっていました。

あのときには何かわかったような気になったけれど、日常のなかに戻っていくとまた埋没してしまっていたんだな。

こうして何度も何度も玉ねぎの皮をむくように、自分の芯に近づいていくのでしょう。

私が「左脳的なことも肯定してあげよう。それが今までの私の助けになってくれたことは確かなのだから。しかし、右脳をもっと開発したい、と思っている自分がいることも確か。右脳と左脳は対立するものではなくて、左脳が発達しているなかで、右脳も発達する、と考えればいいじゃないか。」と思いました。

授業ではこんなことも言われました。

“エネルギーが動くことそのものが癒しなのだ。”と。


そうに違いない。

だから私がくるくると考えを巡らせることもエネルギーが動いていること。ひいてはそれも癒しです。


そして、もうひとつ授業で印象的だったのが、ファシリテーターの吉田エリさんはこうしてワークショップを開いてファシリテートするだけではなく、個人セッションも行っていらっしゃいますが、そのなかで、時々、自分の内面を絵にすることをクライアントに要求するとき、そのインナーワールドを描くことだけではなく、同時に自分の右手でも左手でもいいですが、手や指などをデッサンすることも薦める、というのを聞いたときです。


自分の内面を絵にすることが出来にくいとき、どうして手のデッサンという非常に具象的な現実を描くということを同時に行うといいのか。

それは、対象をありのままに描く、という作業は非常に右脳の活性化によいからだそうです。


左脳は意味のないものを見たくない、という抵抗を起こします。

有名なロールシャッハテストというものがありますね。

インクをこぼしたシミの痕をよぅく見ると、蝶のように見えるとか、一見老女の顔にみえるけれどよぅく見ると若い少女にも見えるとかあんな一連の心理テストによく使われるやつのことです。

あれが、たいていの人にとっては、どちらか片方だけがパッと目に飛び込んでくるように見えて、もう片方の絵が絵の中に隠されているということが読み取れないのは、左脳が意味のないものを読み取る、ということを拒絶するからだそうです。


というわけで、手をそのシワから外郭から爪から、事細かにデッサンする、ということはそこに意味がないから、左脳は働かず、そのときは右脳が働くんだそうです。

確かにただひだすら手の輪郭をそのとおりになぞろう、とするとき、その線には何の意味もありません。

だから無心に描けます。

そのとき、右脳が働いています。

こうして、右脳を働かせ、また自分のインナーワールドを描くという作業に戻っていく、ということを繰り返すと気付きが起こり、癒しにつながる、というわけです。


なんだか不思議な気がしませんか?

直感とつながっている、という右脳が、より現実的なものを写し取るときに最も働く、という事実が。

面白いですね~

潜在意識と顕在意識の関係。

これはもちろんオーラソーマのテーマでもあります。

オーラソーマでは潜在意識にあるものを色を使って顕在意識に呼び覚ます作業ですから。


こうして私は、左脳と右脳が密接に関わっているということ、その関わり方が意外なものだ、ということを知り、自分が左脳人間でダメなやつだ、という思い込みから徐々に解放されていったのでした。





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「表現アートセラピー」 定期専修講座第一回目を受けて

2011-10-27 09:18:00 | セラピー

先週の土日、楽しみにしていた表現アートセラピーのコースを受けに東京へ行ってまいりました。

場所は、新宿から小田急線に乗って2つめの参宮橋駅から徒歩5分ほどの「国立オリンピック記念青少年センター」のカルチャー棟の一室。


参宮橋駅は小さな駅ですが、そこから降りた人は、ほとんどがこの「国立オリンピック記念青少年センター」に向かっているのではないの?という感じでした。

駅から出てほんの50mかそこいらをまっすぐ歩く間に3軒ものコンビニがあります。

それぞれが成り立っている。

マックの前を通りかかると、中には入りきれない若者が外でハンバーガーをほおばっている。

そしてその姿は今風の「男娘」(おとこのこ)っていうんですか?

男子だけれど、服装のみ女装する、という人。

あんな感じの人がごくふつーにTシャツとGパンという男子と談笑している。


こういう図を見ると、(あぁ、東京へ来たな~)と思います。

岐阜じゃあ、ほんの数十メートルの間でコンビニが3軒それぞれ経営が成り立つなんてありえませんし、女装したい人がいたら、必ずある程度グループを作って群れるでしょうね。ひとりだと目立ちすぎちゃうから。

1人で行動していてもまったく溶け込んで目立たない、多様性のなかの1人ってことでいいんだよ~という空気にはならないからです。

そんなことを考えながら歩を進め、「国立オリンピック記念青少年センター」に着くとその広さにびっくりしました。

考えてみれば当たり前ですわね。

“オリンピック記念”なんですから、多分東京でオリンピックが開かれたときの競技場の跡地なんでしょう。

そして何がうらやましい、ってこれほどの敷地にいったいいくつリースする部屋があるのか知りませんが、どうやらそれらがほとんど機能している様子なところ。

表現アートセラピーが行われるカルチャー棟はその“カルチャー”という名前にふさわしく、演劇を練習している部屋、造形をやっている部屋、派手な衣装をつけてダンスを踊っている部屋など、次代のアーチストを目指す若者たちの熱気でむんむんしていました。

岐阜にだってコンセプトだけは立派な県や市の施設があるんですよ。

でも、それらはほとんど機能していない。

市民が利用しない。

だからたま~に訪れる人がいると、「なんだ・・!? たいして使われていないのに豪勢なこの施設は? 税金の無駄使いだ!」という批判の対象になってしまうのですね。

市民のニーズを掬い取れない行政が悪いのか・・・

はたまたせっかくの施設を利用しない市民が悪いのか・・・

どちらもどちらという感じがするまま、結局のところはマーケットの裾野がデカければこういうことは起こらないんだよな~なんて思うと虚しくなっちゃいます。

部屋に入ると、大きなスクリーンがおろされていて、そこには、「表現アートセラピー 定期専修コース」と書かれたその下に、「Special long course」と英語でも書かれていました。

思わず、感慨にふけってしまいました。

そうか・・・ 定期専修コースは、「スペシャル」で「ロング」なコースなんだなぁ、これから半年かけて私はこれを学んでいくんだなぁ、としみじみ思ったから。


さて、集まった人数は全部で13人。

皆で車座になってまずは自己紹介。


自己紹介となるとオーラソーマのシェアリングデーなどの場合、たいてい私が「え~、岐阜からまいりました・・・」と言うと、

「え~! 岐阜から? わざわざ? すごぉ~い。」と言われちゃったりします。

岐阜から来ることがそんなにわざわざですごいことなのか、実はご本人、岐阜の位置を失念なさっていたりする。

しょうがないよね。

佐賀と同じく日本一印象にない県だもの。

でも佐賀は「S・A・G・A さが~♪」のはなわの歌で結構有名になりましたからね~

岐阜は完全においてけぼりをくらってます。


まぁ、それほど出かけていくと「すごい遠いところから来てるのね」的扱いをいつもなら受ける私ですが、ここではそんなことは当たり前、と言う感じで、日本全国から皆さん、お越しになっていました。

そしてどこへ行っても色んな人がいるのは当たり前ですが、皆さんの自己紹介を聞いていてここは格別ディープな世界である感じがしてしまいました。

摂食障害で長年良くなったり、また悪くなったりを繰り返し苦しんでいる人・・。

夫のギャンブルになぜか人形のように黙ってお金を差し出し続けた期間10年、ついに離婚をして自分の道を見つけた、と言う人。

厳しい国家試験を合格し、晴れて弁護士になったけれど、相談者の話を聞いているうちに法曹界のことより、心理カウンセリング的なことのほうに興味がより沸いてきた、と言う人。


誰もが、自分自身でないものを背負って社会で生きていくことに窮屈さを感じている人ばかりでした。

しかし、私も含め彼らは“自分自身を見せる準備をしてきた人たち”でもあるのです。

そんな生い立ちや背景を聞かなければ、まったくそんな重いものを背負っているとは思えないほどのすがすがしい決意に満ちていました。


そんな中でも私が最も心惹かれたのは、幼い頃に小児ガンを患った、という人。

その人は、「今は全快して元気なわけですけれど、小さい頃から命をどう使うか、ということについてずっと考えてきました。」と言いました。

この言葉はいきなり私の胸を突きました。

“命をどう使うか”―――――そんなふうに考えたことは今まで一度もなかった・・・


「使う」という言葉にはどこか「すり減らす」という意味が含まれているように感じるのは私だけでしょうか・・?

自分の命をすり減らしてまで何かをしよう、とか何かをしなければ、と考えたことなどなかった。

私がいかに自分のことだけ、を考えて生きてきた、という証拠をつきつけられたような気持ちになったのです。

でも、死に直面した経験のある人は命がはかなく脆いものでもあることを知ったから、それを失わずに授かったのであれば、残りの人生でどうそれを使っていこうか、という発想をするのか・・

それとも命の輝きには人生の長短は関係ないことを早くに悟ってしまったから、たとえ命が磨り減ることになってもかまわないから輝きを増すためのことに使いたい、という思いなのか。

それを計り知ることはできませんが、死に直面したという経験のない私には、それはあまりにも重い一言でした。

もう、これだけでも十分に考えさせられるわ~、こんなお気楽な私がここに居ていいんだろうか、となんだか場違いなところへ来てしまった感覚におののいているうちにワークはどんどん進み、1日目が終わったときには私はラハシャのときと同じように軽く落ち込んでいました・・・

なぜ、落ち込んだのか?

今日は導入だけで長くなってしまいましたので、そこんところはまた明日にいたしましょう。





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