ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

癒しが訪れる瞬間

2014-09-30 09:06:00 | コンサルテーション

 

またまた昔の友人たち2人と久しぶりに再会しました。

 

遠くから来てくれた彼女たちのために、私はオーラソーマのセッションをほんのちょっぴりやってあげました。

 

そうしたら2人とも涙ぐんでしまいました。

 

コンサルテーションを始めた初期の頃はクライアントに泣かれると戸惑ってしまったり、自分のコンサルテーションがさぞやよかったからであろうかと勘違いをしそうになったりしましたが、今は彼女たちがただ自分と真正面から向き合ったんだな、とその状況を喜ぶことができます。



ちなみに許可をもらったので、ふたりのセッションのほんの一端をご紹介しますと、ひとりは娘さんとの関係に悩んでいました。

 

でもボトルを選んでもらうと意外にも希望に満ち満ちた状況にあり、将来についても彼女が言うほどに憂えてはいないのだな、と思いました。

 

それはすべてが「愛」に支えられている、ということがわかったからです。

 

私は言いました。

 

「私も母親とは何かかみ合わないと思ってきたけれども、それでもどこかでお互いにもうしょうがないな、という“愛”を携えてきていることは自覚している。きっとあなたもそんな感じじゃないのかな。

 

いくら娘さんと険悪な雰囲気になることがあっても、根底には無条件の愛が常に横たわっている。

 

家族って家族だからこそ時に他人には絶対に使わないような辛辣な表現を採択してしまうことがあるけれども、それは根底に無条件の愛があるからこそ言えるのだとも思う。」と。

 

すると彼女は「私と娘の間にも親子ならではの愛があると思う。」と言って涙ぐんだのでした。



もう1人の友人の場合は、順調そうで何も問題のない日々を送っているようなことを言っていたけれど、いざボトルを選んでみると、非常に疲れていて、自分がいつも犠牲になっているというように感じている、というように受け取れました。

 

そこで私は「正直に言うね。」と言ってそのように彼女に伝えました。

 

すると彼女は、「えぇ~、そんな心当たりは全然ないんだけど。」と言いました。

 

以前の私なら、ここで、

 

「そうですか。オーラソーマのボトルの色たちには単一の意味しかないわけではなく、今は私が感じ取った一番これではないか、という強い可能性のあるものを言ってみたのだけれども、それが少しもピンとこないのであれば当たっていないのかもしれませんね。

 

では、別の意味を探っていきましょうね。」

 

と言ってすぐにも別の探求を始めていたところでしょう。



けれどもこのときには友人だということもあって、私はもう少し踏ん張ってみました。

 

「顕在意識と潜在意識の関係は7:93%なんだよね。だから、自分では気づかない自分の方が圧倒的に多い。けれどもどこかから少し刺激を与えて突っついてやったりすると、あぁ、そういうこともあったかもしれない、という気持ちが少しでも浮かび上がってこればやっぱりそれはあったんだなぁ、ということなんだよね。

 

93%も表に出してこなかった自分がいる、ということはラクな人生じゃないよね。せっかくここで色によって表に浮かび上がるかもしれない可能性のある自分を見出せたのだとしたら、それはやっぱり表に出してやったほうが楽なんだよね。

 

1mmもピンとこないということならば話は別だけれども、胸に手を当ててみて、今までそこには触れようとしてこなかったけれども、やっぱり少しはあるかなぁ、とかそんな感じはしない?」

 

そう言ったら、彼女は、

 

「犠牲になっている、と思ったことは表現がちょっと過激だったせいもあってすぐには納得できないっていうか、今もよく考えてもやっぱりないかなぁ、って思うけれども、私は頑張ってたのかなぁ、表に出せてない気持ちがあったのかなぁ、閉じ込めていた気持ちがあったのかなぁ、って思ったら、そりゃああるよなぁ、って思えた。」

 

と言ってそこに気付いたことに泣けてきた、と言って少し涙ぐみました。

 




そして彼女は、

 

「自分が今、息苦しいと感じていたんだ、と気付いたことによって癒された。ありがとう。」

 

と言ってくれました。

 

これは彼女が「私って、息苦しい思いをしていたんだ。我慢していたんだ。」と気付いたことにより、そのことを認めることができた瞬間です。

 

そして認めるということは、認めたことによりそれが“今”感じ続けている感情だ、という「~ing」ではなく、「~ed」という“過去”として見つめられることが出来た瞬間でもあるわけです。

 

だから癒された、という感じがするんですね。

 

良かった、良かった~!



この2人の友人たちはすごく久しぶりに会ったということもあり、私がやっている「オーラソーマ」と言うものがどういうものかもよく知らないし、ほぼ初めて触れるものでした。

 

これまでの人生、彼女たちはごくごくまともに生きてきており、それゆえにただ前向きに生きて行かなくては、と自分を叱咤激励し、だからこそ自分とまともに向き合ったことがないんだと思います。

 

そんな彼女たちが初めて“自分”というものをボトルに置き換えて出会い、それをちょっと離れた第三者かのように見つめることで、「この人(=自分)、こんな風に思ってたんだ。愛おしいよなぁ。」と言う気持ちになれた経験をした。

 

こんな嬉しいことはありません。

 

自分と向き合うということは、いつも深刻に思慮深く考え込む、ということではないんです。

 

ただただ、1人の人間として自分を客観的に眺めることができたとき、「あぁ、この人、頑張ってるじゃん。」と抱きしめてあげたいような気持になるのでしょうねぇ。



最近ではエネルギーワークを信じることができるのであれば、もっともシンプルで手っ取り早いのはストレートに相手のハイヤーセルフや潜在意識と交信することであって、それがチャネリングなどによって可能なのであれば、オーラソーマのように何かいったん別のツールに置き換えることによってその人を見ていく、というものはまだるっこいものに過ぎないのかもしれない、と言う気持ちになっていたところでしたが、改めて今日は「自分というものを別のもの(=色)に置き換えて見てみる」ということのクライアントに及ぼす影響の素晴らしさについて再認識しました。

 

やっぱりオーラソーマって素晴らしいわ!

 




彼女たちがこれから自分とどう向き合い続けていくのか、見守るのが楽しみです。


メニュー、料金、オーラソーマってどういうもの?ということをもう少し詳しくお調べになりたい方は、「HP 些々羅」をクリックしていただき、「オーラソーマ」のナビゲーションから、お知りになりたい項目をご覧になってください。

そこに直接「予約フォーム」に入れる表記があります。

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「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」は、岐阜市中心街にあるサロンです。(岐阜市役所南庁舎すぐ近くです。)

些々羅では製品1品から全国送料無料にて承っております。(※支払方法は振込です。振込先はゆうちょ銀行と普通銀行があります。ゆうちょ銀行に口座をお持ちの方であれば振込手数料は発生いたしませんが、それ以外の場合は振込手数料が発生することをご了承ください。製品の大きさによって通常郵便か宅配便になるかはこちらで決めさせていただきます。ご指定はできない場合がありますので、ご了承ください。)


カバリング

2014-09-29 09:04:00 | 身辺雑事

昨日と同じお知らせですが、日曜と平日とで確認される方が違うかもしれませんので、

もう一度同じワークショップのご案内をさせていただきますね~


************************************ 

10月17日(金)   ワークショップ

 

                       「パーソナルカラーを楽しもう

 

  場所:オーラソーマヒーリングサロン 些々羅 (岐阜市役所近く)

 

  時間:12:00~16:00

 

  参加費:¥7000

 

  講師:飯塚香織氏

 

  残席:2名

 

10月18日(土) ワークショップ

 

 「パーソナルカラーを楽しもう

 

  場所:オーラソーマヒーリングサロン 些々羅 (岐阜市役所近く)

 

  時間:10:00~17:00

 

  参加費:¥10000

 

  講師:飯塚香織氏

 

  残席:2名

  どちらも若干数のみお席がございます。

  パーソナルカラーとは、その人の肌の色、目の色、髪の色、などのもともと持っている要素を事細かに

  みていき、似合う色を分析するものです。

  知っておくと、より自分を活かすことができるようになりますよ!

  今回は、自分がこれまでに好きだ、と思って購入したのだけれどなんだか似合わない気がしてタンスの

  肥やしになってるわ・・というお洋服を持ってきていただいて、アドバイスを受けることもできますよ!

  ぜひ、この機会にあなたもパーソナルカラー診断を受けてみませんか?

 

************************************

先日、いつものように緑内障の検査にいきました。

 

何か月に1回かは視野検査を行います。

 

結果は進行していないし、変わりなし、ということだったんですが、この日の検査ではやけに視野を失っているほうの左目が暗く感じました。

 

そこで、

 

「やたら暗く感じるのは、やはり視野が狭ければそれだけ取り入れられる光も少ないからってことですよね。」

 

と何気に口にしてみると先生は、

 

「いや、それは視野とはまた別の問題だね。視野をつかさどる細胞が集まっているのはこのへんだから(と眼球の図を取り出して指し示して見せながら)、このへんの細胞が弱っているのかもしれないね。」

 

と言いました。

 

ええっ!

 

そういうことなのか・・ 別問題なのか・・・

 

私の左目は視野が大きく欠損しているとともに光を感じる力も弱まっているのか・・

 

と、ちょっと落ち込みかけていると先生が、

 

「でも、よかったな~! 両方の目が極端に違ってて。」

 

とおっしゃいます。

 

「?」

 

とちょっと戸惑っていると、

 

「いやさ、左目がこれだけ悪くて、右目はまだほとんどよくて、ってときにそういう症状がわかると、右目はとっても早い時期から治療を始められたってことになるわけだから、良かったよね!」

 

とおっしゃいました。
「・・・・・・・。」

 




私は言葉を失いました。

 

これはほれ、あれだね。

 

コップに半分水が入っているのを見て、「まだ半分もあるのか」と捉えるのか、「もう半分しかない」と捉えるのかで人生違ってくる、ってやつと同じだね。

 

私は、「左目は視野も失い、光も失うのか・・」と思ったわけですが、先生は、

 

「視野と光を失うってのが右目はそれほどでもない、ってことがわかってよかったね! 右目の状態からみたらこんな早い時期に治療をはじめられるのはラッキーだよ!」とおっしゃっているわけです。

 

まいった。

 

そこまでポジティブには捉えられなかった。

 

ハイ、そう考えるようにいたします。



さて、先日、何年ぶりかに前の職場の友人と会いました。

 

すると友人が、「私さぁ、ちょっと娘のことで今悩んでるんだ。」と言います。

 

何でも25歳になる娘さんとどうにも折り合いが悪いんだそうで。

 

それは2年前に職場の勤め先の関係で独り暮らしを始めた娘さんが、また職場の事情で家にいったん戻ってきたときからとみに感じるようになったそう。

 

喧嘩ばかりしているとか、いがみあうというほど表だって何かあるわけではないけれど、お互いに一言一言がトゲのある言葉を投げつけあうような関係なんだそうです。



聞いていたら、

 

「それって、なんだか私と母との関係みたい。」

 

と言ってました。

 

もちろん、彼女が私の母で、彼女の娘さんが私で、って立場として似ていると思ったのです。

 

そして私は先日このブログにも書きましたが、母が「お惣菜をあげる」と言ってくることに対して、「必要か? いらないのか?」と聞いたうえでさらに「何個必要か?」と聞いてくることがなんだか追いつめられるような気がして、重くて仕方がないのです。

 

そしてそう聞いてくるのは母にとっては必要な情報たればこそ、と思って尋ねてみるだけでそれが私にイヤな思いをさせているなんてことは思いもよらないみたいだ、だから母は私がどうして不機嫌なのか知る由もないだろうし、話したってピンとこないからわからないのと同じなのだ、と彼女に話しました。

 




すると彼女は、

 

「あ~、なんかすごいわかる気がする。似たようなこと、私もしているかもしれない。

 

だって私、白黒はっきりつけたいほうだもの。

 

この前も何年ぶりかに会った友人に、『あんたも少しは丸くなったわね。』って言われたんだよね。っていうことは逆に言えば、いかに角々しかったかってことでしょ。

 

自分ではそうは思ってないんだけどねぇ。

 

何か私の言い方が娘にとってはイヤなのかもしれない。

 

でも、ほんとになんの他意もないんだけどねぇ・・」

 

と言いました。



母から何度も聞いたことがある言葉。

 

「聞いてるだけじゃないの、それの何がいけないの?」

 

それを友人から、

 

「ほんとになんの他意もないんだけどねぇ。」

 

という言葉として聞くと、不思議となぜかようやく「あぁ、母もほんとに聞いてるだけで何の悪気もなかったんだろうなぁ。」とすとんと腑に落とすことができました。

 

なんだか不思議な瞬間でした。

 

母からはどれだけ言葉を尽くしてもらっても、「うるさい! 何を開き直って言ってんだ!」とか、「探りを入れたくて言ってるんでしょーが。それを悪気はない、っていうならあなたにとっては悪気ではないんでしょうがね。」などとしか受取れなかったわたし。

 

それを別の人が同じ体験として「悪気はなかったんだよねぇ。」と言ったとき、それはその人の言葉でありながら、なんだか初めて母の言葉としても受け入れることができたのです。



私が本当の意味で客観的に受け入れることができるためには、母でない人から母の気持ちはきっとこうなんだよ、と聞く必要があったんでしょうか。

 

そしてそれによって私も初めて統合が起こったんだろうか、と思える出来事でした。

 

それはまさに右目が左目の欠損部分を補っているのと同じように、母ではない友人が母との確執についてのことをカバーしてくれたように感じたことでした。








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子どもに近所の人を教える

2014-09-28 09:03:00 | 身辺雑事

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10月17日(金)   ワークショップ

 

                       「パーソナルカラーを楽しもう

 

  場所:オーラソーマヒーリングサロン 些々羅 (岐阜市役所近く)

 

  時間:12:00~16:00

 

  参加費:¥7000

 

  講師:飯塚香織氏

 

  残席:2名

 

10月18日(土) ワークショップ

 

 「パーソナルカラーを楽しもう

 

  場所:オーラソーマヒーリングサロン 些々羅 (岐阜市役所近く)

 

  時間:10:00~17:00

 

  参加費:¥10000

 

  講師:飯塚香織氏

 

  残席:2名

  どちらも若干数のみお席がございます。

  パーソナルカラーとは、その人の肌の色、目の色、髪の色、などのもともと持っている要素を事細かに

  みていき、似合う色を分析するものです。

  知っておくと、より自分を活かすことができるようになりますよ!

  今回は、自分がこれまでに好きだ、と思って購入したのだけれどなんだか似合わない気がしてタンスの

  肥やしになってるわ・・というお洋服を持ってきていただいて、アドバイスを受けることもできますよ!

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お問合わせは、

      chakra@aura-soma.name

                                                           まで。何でも聞いてね!

 

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先日ニュースで、愛知県で年間800件もの児童への声掛け事案件数があることを知りました。

 

800件というのはのべ件数でしょうし、愛知県全体でのことですが、少し乱暴ですが都市圏に集中しているだろうことと1件1件が別人物だったと考えると人口250分の1の確率で声掛け事案が起こっていることになります。

 

これを小学生の年齢に限定したら、不審者に声をかけられたことのない子どもを探すほうが難しいのでは、と思ってしまいます。

 




児童を守るためにでは親はどんなことができるかと言えば、せいぜい「知らない人とは口をきくな」とか「知らない人についていくな」ということぐらいでしょう。

 

先日起こった神戸長田区の児童殺傷事件も、被害者の児童と犯人との接点はどうやら猫であったらしいということがわかってきたようです。

 

犯人のアパートにいた猫を動物好きだった児童がしょっちゅう見に来ていたみたいでね。

 

可愛い動物を児童に悪さするための道具に使うなんて、とまた新たな怒りがわいてきますし、親として猫を見ていたときに、「お嬢ちゃん、猫、好きなの?」と話しかけてきた人がいたら無視しなさい、という教育もどうしたものかな、と思います。

 

ワンちゃんを散歩させている人たちはワンちゃんを通して挨拶をするようになったり、少し話をするようになったリすることが多いでしょう?

 

そういうことを制限して人とコミュニケーションすることを極力最小限にとどめさせておいて、その子どもが大人になったときに「人とコミュニケーションがまともに出来ない大人になって!」と糾弾するのは理不尽だ、という気がします。

 

そんなの、コミュニケーション不全の大人を作ったのは子どものときからのあなたの教えじゃん、と思えるからです。

 

けれども・・

 

親の身となってみれば、多少欠陥人間になろうとも生きてさえいてくれれば、死んでしまっては元も子もない、という心境でしょうから、これまた一概に責められないしねぇ・・・

 




しかし、そもそも思うんですが、小学校にあがるかどうかという年齢の子供に対して、

 

「知らない人にはついて行かないように。」

 

という指導は果たして適切なのでしょうか?

 

大人の考える“知らない人”と、その年齢の子供にとっての“知らない人”のエリアには雲泥の差があるはずです。

 

大人であれば町内の人の顔ぐらいは全員覚えているかもしれませんが、小学校にあがるかどうかという子どもにとっては、向こう3軒両隣くらいのおうちの人を知っているくらいであとは“知らない人”ではないでしょうか。

 

それを自分と同じ程度だと思いこんで、「知らない人にはついていっちゃいけないよ。」と言ったら、子どもにとってはほとんどの人にはついていっちゃいけないと言われたのと同じ、ということになります。(あ、ここで気付いた。「ついていく」って行為をうながすような言動があった場合は、たとえ知っている人であってもだめだよ、って教えてる人も多いかもな・・ 知らない人とは口をきかないように、って言ったほうが正確なんだろうか。)



そもそも子どもがどうして町内の人の顔を覚えていくか、と言ったら、親といっしょに外出したときに親が挨拶を交わした人は知っている人、挨拶もせずに行き過ぎた人は知らない人、という分類によるものでしょう。

 

それも「おはようございます。」「こんにちは。」ぐらいでほかに何も言葉を交わさなければその人の住んでいる環境やほかの人との人間関係なぞわかりようもありません。

 

1人1人、ただこの人は「知っている人」「知らない人」という色分けをするだけに過ぎなくなります。

 

そして幼い頭ではそれが精一杯でしょう。



私自身のことですが、母はあまり近所づきあいをする人ではありませんでした。

 

まぁ、商店街の中に生まれ育ちましたので、どこの家の人も忙しく、道で井戸端会議をしているような人もいませんでしたし、深く人のなかに干渉してくるような人もいませんでしたので、だいたいがみなさんそんなものだったかもしれませんが、母はそのなかでもとくに人づきあいそのものを最低限のものにしておきたい、という意志がみなぎっていました。

 

ですから近所の人と顔を合わせても、ほんとに短い挨拶しかかわしません。

 

「おはようございます。」のあとに「今日は暑くなりそうですねぇ。」とか、「こんな暑くなりそうな日は、おじいちゃんの体調が心配ですねぇ。最近、お元気ですか?」なんて一言はかけるわけもない。

 

だから私はたまに母が家で、「あそこのお嫁さん、体調くずして寝込んでるそうよ。」みたいなことを言うとたいそう驚きました。

 

なんで母がそんな人の家のなかのこと、知ってるんだ! と思って。

 

大人になれば町内会の付き合いや回覧板をまわしにいくときの玄関先でのほんの一言なんていう場合でも、子どもよりは情報量が多く入ってきて当然だったのでしょう。

 

けれど、私の頭のなかでは「あの人は顔を知っている。」「あの人も知っている。」けれど、あの人とあの人のつながりが何であるのかは知らないというものでした。

 

点と点がつながらない。

 

決して線にはならない。

 

そんな感じでした。

 




私が小学校に入学することになったある日、知らないおばさんにいきなり、

 

「ちょっと! あんたの写真が銀行に飾ってあったわよ。すぐ、そこの銀行! ほら、今、おばさんが連れて行ってあげるわ。」

 

と手を取られました。

 

私はびっくりして、「知らない人にはお母さんがついていっちゃいけない、って言ったもん!」と抵抗しました。

 

そのおばさんは少しひるみましたが、すぐさま気を取り直したように、

 

「なぁに言ってんの。ま、いいから、いいから。」

 

と多くを説明するのも面倒だ、とばかりにぐいぐいと私の手をとってずんずん歩いて行きました。

 

道すがら、私は泣きそうでした。

 

そして銀行につくと、確かにそこのロビーには地元の子どもたちの写真がいっぱい飾ってあり、そのなかには私と母のものもありました。

 

話がほんとうだったんだ、ということで私は少しそのおばさんを信用しかけていました。

 

しかし、銀行からの帰り道、偶然ばったりと道で母に会った時には、

 

(知らない人についていくな、って言われてたのについて行ったことがバレて叱られる!)と身がすくみました。

 

しかし、案に相違してその“知らない”おばさんと母は「あらぁ。」と親しげに挨拶をすると、母は私を引き取りました。

 

なぁんだ、知っている人だったのか。

 

あとでわかりましたが、そのおばさんは角を曲がったところにある焼肉屋のおばさんでした。

 

ですが、町名こそ同じであるとはいえ、ひとつ角をまがったところにある家の人なんて当時の私にとってはまったく“見知らぬ人”でした。

 




おばさんは母に私が、「知らない人についていっちゃいけないって言われたもん!」と言ったことを面白おかしく報告し、母は「まぁ、それはどうもすみませんでした。」なんて言っていました。

 

帰り道、母の顔を盗み見ると少し困ったように笑っていました。

 

言いつけどおりのことを言った私を叱るわけにもいかないし、近所の人にもバツが悪いし、ということだったのでしょう。

 




それ以降、母の教育方針が変わったわけではありませんでした。

 

母は相変わらず近所づきあいが苦手でヘタで、挨拶程度の言葉しか交わしませんでした。

 

そんな母のもとで育ったので、私も「ご近所」というだけでどうやって親しげにあいさつ以上の言葉を交わす手立てがあるのかよく知らないままに大人になりました。

 

けれどこういう事件が相次ぐのを見ると、子どもに「知らない人とは口をきくな」「決めた時間より遅れて帰るな」「暗い道を通るな」などと「~するな」という禁止事項ばかりを増やすのではなくて、まずはそういうことを言う前に、親が積極的に「知っている人(=安全な人)を作るにはどうしたらよいのか」という行動を身をもって教える必要があると思います。

 

自分が子どもを連れて外出した折に近所の人に出会って、「こんにちは」とあいさつしたら、別れたあとに「あの人はね、あそこの角を曲がったところに焼肉屋さんがあるでしょ? そこのおばちゃんだよ。○○ちゃんのお母さんでもあるってわけ。」というようにちゃんと説明して子どもの頭の回路をつなげてくれないといけないと思います。

 

そうして「知っている人」「知らない人」の分類がほぼ大人の自分と子どもとが同じ程度になったなぁ、と見切ったら、ようやく「知らない人にはついていくな。」という言葉が生きてくるんだと思います。

 

 

 

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毎日が奇跡

2014-09-27 09:06:00 | 身辺雑事

 

もう9月も終わり・・・。

 

先日テレビを見ていたら、ある女子アナが「9月っていえば、もう年末ですよね!」って発言して、ほかの共演者たちから、「アホか!」「そんなわけないやんか」みたいに突っ込まれていましたが、私は彼女の気持ちがよくわかります。

 

というのは、数年前から“10月始まり”の手帳というのが盛んに出回り始めましたね。

 

私もこいつは便利だ、と2年前から愛用しています。

 

しかし、一度“10月始まり”の手帳を使ってしまうと、次の年にも使わざるを得ない状況となり、となるとその手帳は9月からバンバン文房具屋さんの店頭に並び始めるので、結果、「9月」と聞けば、「あぁ、もう年末か・・」という気分になってしまうのですね。

 

ひょっとするとあの女子アナも「10月始まり手帳」の愛好家かもしれません。

 




ゆうゆうと年末までのスケジュールを立てて、本当に年末が訪れたときにはバタバタしないのであれば、この「10月始まり手帳」も意味があるのですが、早めに対応しても、年末にはやはり年末独特のあの雰囲気に気おされ、バタバタはしてしまうので「年末がもう9月にやってきてしまう・・」とだけ感じるのは、1年が短くなるだけで損をしているような気がしてきました。

 

ふつーに1月から始まる手帳に戻そっかなぁ。

 

あ、それかいっそ4月始まり手帳にしようかなぁ。



ま、そんなことはいいんですが。

 

昨日の朝、娘から電話がかかってきて、「朝から急に孫が立てなくなった。」と言います。

 

「どゆこと?」

 

さっぱりわけがわからずちんぷんかんぷん。

 

でもそのちんぷんかんぷんでまるでキツネにつままれたような気分になっているのはむしろ娘のほうでした。

 

「さっぱりわけがわかんないの。だって、夕べまで何ともなかったんだもの。朝起きたら、いきなり2歩くらいしか歩けなくなってて・・。

 

すとんと坐りこんじゃうの。どっか痛いの?って聞くと、膝が痛い、とか言うんだけれど、あんまり痛そうな様子でもなくて・・

 

とりあえず、痛そうじゃないならいいか、って私も仕事に出たんだけど、仕事場についてからその話をみんなにしたら、そりゃ大変なことなんじゃないか! 今日はもういいからすぐに帰って病院に連れて行きなさい、って言われちゃってさぁ。

 

これから連れて行くとこ。」

 

と言いました。

 




それから昼ごろに今度はダーリンから電話がかかってきて、

 

「おい、ナオトが入院したぞ。」

 

と言います。

 

「入院~~~??!!」

 

いきなり、声が裏返ってしまいました。

 

「なんでいきなり入院ってことになるのよ? 何だったの? そんなにひどいことなの?」

 

と矢継ぎ早に質問攻めにするものの、ダーリンも要領を得ず、「詳しいことはわからん。」を繰り返すのみ。

 

「昼からMRIとるんだって。」

 

と言います。

 

MRIってあ~た、予約して何か月も先にしか検査受けられないような最新機器でしょ。

 

それを昼に病院行って、すぐにMRIに回されるなんてよほど緊急性が疑われる病気ってこと!?

 

もう私はパニック寸前です。

いくら私が子どもが苦手だから孫に対してもちょっとおどおどとした付き合い方しかできないといったって、身内が重病かも!?ってことになればそりゃああたふたしますよ。

 

それなのにダーリンは、

 

「俺はさ~、風邪ひいてたじゃん、ナオト。そのせいじゃないかと思うんだけどなー。」

 

なんて呑気にのたまう。

 

風邪ひいて歩けなくなった、なんて聞いたことないぞ。

 

そんな簡単なことでMRIなんか撮るもんか。

 

「もういい。」

 

と電話を切りました。



娘に電話しても全然でないし、私は1人でパソコンで「朝 突然歩けなくなる 子ども」とか打ちこんで検索をかけました。

 

そうしたら余命1年とか恐い病気ばかり出てくるので、もうやめ、やめ、見ないことにしよう。

 

医者の診断が待てずにパソコンでこんなことシロウトが検索したって意味がない、とやめました。

 




夕方。

 

MRIと骨髄液を採取した結果、股関節に水がたまっていることがわかったそうです。

 

まだ正確なことはわかりませんが、それで医師は「神経系統の病気ではなさそうです。」と言ったそうな。

 

ダーリンは相変わらず、

 

「だから俺が言ったろー。風邪で関節になんかバイ菌が入ったんだって。」

 

とまだ能天気なことを言っている。

 

でも、神経系統ではなさそうだ、というところまではわかって少しほっ。

 

それにしても・・・

 

骨髄液とったなんて、さぞかし痛かったことだろうな。

 

あの小さな体にぶっとい針を直接背骨に突き立てられて・・・

 

可哀そうに・・・。

 

大の大人でも思わず泣きわめいちゃうっていうくらい痛いらしいから。

 

親は可哀そうで見ていられないだろうから、っていうことでそばにいることをやめてください、って部屋を出されたんだって。

 

ぐわ。

 

想像するだけで耐えられない・・



それにしても小さい子ってほんとにいきなり何が起こるかわからないんですね~

 

生きてることが毎日奇跡なんだな、って思える。

 

そして、誰に話を聞いても1つや2つはこういう逸話を持ってるからなぁ、ってことは誰もが1度や2度は、すわ、これはたいそうな病気かも、って疑うようなことがあって、大きくなってるんだなぁ。

 

私は小さいころ、とくに心臓が弱くて風邪もひきやすかったし、いろいろ心配かけたろうなぁ、と改めて、両親に感謝の念がわきました。





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選択できるから気付きもある

2014-09-26 09:03:00 | 精神世界

 

昨日も「選択」ということに思いを馳せた記事を書きましたが、ほんとにつくづく思いますが、私たち人間に「選択の権利」というものが与えられている、ということが、この世に人類というものが存在してからの一番のヒットだったんじゃないか、って思います。

 

そのことに気付いたことも、ここ数年での一番大きな私自身のヒットだったように思います。

 

なので、今日は改めてそのことを、最近の思いとも混ぜながら少しまとめてみようと思います。



そもそも、聖書の創世記にアダムとイブが楽園を追われる、という有名な話が出てきます。

 

で、ここで私は不思議に思いました。

 

「生命の木と善悪の木があって、生命の木の実はいくらでも食べていいけれども、善悪の木の実は決して食べてはいけないよ、と神がアダムとイブに言い置いていた、というのだけれども、どうして神はそんな面倒なことをしたのだろう?

 

神は全能のはずだから、本気で善悪の木の実はアダムとイブに食べさせたくないのであれば、彼らが善悪の木に近づこうとしたときに結界でも張ってあって、あるところからはどうしても近づこうとしても近づけない、というようにしておけばいいだけのことではないか。

 

いや、それ以上にそもそも彼らが住む楽園のなかに善悪の木なんて植えなければいいのではないか。

 

どうしてこれ見よがしに植えて置いて、この木の実は食べてはいけない、なんてアダムとイブを試すような真似をする必要があるのだろう?」

 




そしてこの疑問に対する答えが、大元をたどるとオーラソーマの創始者ヴィッキー女史のお父さまがマスターだったと言われるカバラの教義だったのです。

 

いわく、

 

「神は自分に似せて人間を作った。そして神は自分と同様に、人間にも選択ができる、という力をお与えになった。」

 

だから、神は「約束だよ。」と言って善悪の木の実は食べないこと、としたから約束といった限りには一応罰を与えるけれども、アダムとイブが神の約束を破ったことについては何も悪いことでもないし、神は怒ってはいないと解釈している、とのことでした。

 

この教義は旧約聖書を信じるユダヤの人々に受け継がれ、彼らはこのアダムとイブが楽園を追われるという話を決して悲惨なものとも思っていない、というのです。

 

なるほどー!

 

すごく納得しました。

 

このときの気付きがずーっと今の私の根底をなしているような気がします。

 

この解釈に何かひずみを感じたことも全然ないし。



そして、この前私にゲシュタルト療法についてちょっと調べてみようというきっかけをくれたJ-Fariyさんが、コメント欄にメッセージをくれました。

 

それがまた新たな気付きを与えてくれました。

 

それは、私が読んだ「気づきのセラピー」という本を書いた著者、百武正嗣さんの言葉です。

 

今の自分に気づいたらOK・・・それだけでいい。
  苦しいのは無理に変えようとするから。
  自分が何かに気づいてるからこそ選択(表現)できる。

 

というものです。



無理に変えようとしなくていい。気付いたらそれだけでいい。

 

気付いていれば選択できるのだから、という言葉は胸に沁みますね。

 

気付けば選択ができる。

 

では、気付くにはどうしたらいいのか?と言えば、「今ここ」を大切にすることです。

 

これは前にも書いたことですが、“過去”に原因を求めて理由を探すことは、思考の領域に入ってしまうことであり、思考の領域とは過去の経験や体験から積み上げられたものなので、決して“過去”を乗り越えられない、ということになってしまうからです。

 




そっか~

 

じゃあ、これまでにインナーチャイルドのワークとか、過去に受けたトラウマを癒そうというようなワークをやってきたけれど、あれらはみんな無意味だったのね、というとそうではありません。

 

“過去”を“過去”のものとせず、“今ここ”で体験すればいいのですから、過去の辛かったこと、痛みなどをただ過去の出来事として話すだけでは意味がないけれども、言葉や記憶による「~であった」という状態から、その過去のことを「今ここ」で再体験することにより、「今まさに~しつつある」という経験へのシフトを起こせばいい、ということなのです。

 

ですからやってきたワークは無駄でも何でもありません。

 

むしろ、「今ここ」のワークをまさに体験したワークだったことでしょう。

 

「今ここ」という成長した自分の立場から再体験することにより、「あれはしょせん過去のことだった」と理解することが大切だということです。



百武さんの「自分が何かに気付いているからこそ選択(表現)できる。」という言葉にあえてその先を付けくわえるとするならば、

 

「そして選択できれば、人は必ず行動に移す」と言ってあげたいですね。

 

「今日のお昼は○○のパスタにする!」と決めた人が、「いや、とりあえず決めただけであって、ほんとうに○○に行くかどうかは別モノだよ。」と言うでしょうか。

 

口の中には○○のパスタの味がよみがえり、そそくさと席を立ち、早く○○に向かいたいと思うばかりのことでしょう。

 

「将来は医者になる」と決めた人が、ボイラー管理士になるためのマニュアルを読んで過ごすでしょうか。

 

そりゃ国家資格の必要なものはなるかならないか以前にまずは試験を受からなくちゃなりませんから、1年では目標に到達できなかったり、途中で挫折することも考えられるでしょう。

 

けれども少なくとも「医者になるためにはどこの大学に行くのがいいんだ?」とか、その大学の入試問題を取り寄せて検討するとか、行動は起こすはずですよね。

 

その先にはまた新たな選択が待ち受けているかもしれません。

 

でも、私たちはこのように選択と行動、その間を行き来しながら生きていく権利を有している。

 

その間にある悩みなんて塵ほどのものだ、という気になってきます。

 

あぁ、素晴らしきかな、人生よ!

 

・・とつくづく思うわけであります。







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