ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

「だまし」の時期

2013-03-31 09:05:00 | うんちく・小ネタ

先日とあるフリーペーパーを読むともなくパラパラとめくっていたら、ある記事が目に留まりました。

それは心理カウンセラーの衛藤信之さんとおっしゃる方の書かれたものでした。

それは「人生には良いときも悪いときもあるものだよ。気を楽にして自分のことを好きになろうよ。」というような内容の記事でしたが(こうして簡潔に主旨だけを述べると、つまらない手垢のついたような記事に聞こえてしまいますね・・ そんなことはなく、なかなか読み応えのある記事でしたよ。)、そのなかで私は「どんなものにも“だましの時期”というものがある。」という部分が新鮮でした。

ダイエット、英会話などどんなものにも「だましの時期」というものがある。

それはどんな時期かと言うと、「何をやっても効果が見えない時期」のこと。

ようは、「停滞期」ということですね。

でも、そこを我慢して乗り越えるとまたグッと伸びる時期が必ずやってくる。

それを信じましょう、というお話です。

例えば雪が降ると、最初のうちは路面にあたってすっと消えてなくなる。

道を濡らすだけで全然積もらない。

それで、あぁ、今日は雪が降っているけれど積もるまでではないのかなぁ、と思っていると、ある段階から突然積もり始める。

それは、積もり始める前に解けて消えていった雪たちがちゃんと“お仕事”をしているからです。

彼らが路面を冷やし、次に降り立つ雪がすぐには消えてなくならないような温度にし、下地をつくっている。

そういう眼に見えない時期を乗り切れる人、あきらめない人が最終的に結果というものを出すのですよ、というお話でした。

オーラソーマでも、「ボトルを使っているけれど、何も感じない。」「ポマンダーやクイントエッセンスを使ってもその場でよい香りだ、とは思うけれど、それ以上に何か感じることはない。」という方は結構いらっしゃいます。

私もそうでした。

でも、そういう時期は誰にでもあるんだ、それは今は自分の基礎を作っている「だましの時期」なんだ、と思うことは出来ませんか?


でも・・としぶる気持ち、わかります。

ダイエットなどでもそうですが、ではいつその「だましの時期」が終わるのか?と言うとそれは誰にも分からない。

お隣のあの方は3ヶ月目からはめきめきと効果が出始めているというのに、私はもう半年たつけれどまだ何も感じない。

いったい、いつになったら私にはそういう時期が訪れるの?

いつまで無駄にお金をどぶに捨てるような真似をすればいいの!? という気持ち。


でも、路面に積もる雪のお話でも述べたように、「だましの時期」はまったく効果が出ていない、ということなのか、というとそうではありません。

着実に次にジャンプするための素地はそのときに作っているのです。

私は、「プロダクツの力を信じて。」とは言いません。

「自分を信じてあげて欲しい。」のです。

ちゃんと感じることのできる自分。

何にも感じない、ということをきちんと感じ続けることができる自分。

それらをひっくるめて自分を信じて欲しい。

でもなかなか自分を信じることができない、という方は多いですよね。

そんなときにもこの衛藤先生は、こういう方法があるよ、とおっしゃっています。

「積極的統合失調症になろう。」と推奨してらっしゃるのです。


どういうこと? って思いますよね。

統合失調とは以前精神分裂症と言われていた病気のことです。

つまり、あえてポジティブに自分を分裂させちゃいましょう、というわけです。

自分のなかで「どういうこと? こんなにもきちんとプロダクツを使っているのに全く何も効果が出ない、ってどういうこと? 私が悪いの? 私の感性が人より劣っているの? もともと直感に長けたほうではないからやっぱりだめなの?」と言う自分がいたとしたら、もう1人の自分を出現させ、その人には自分の応援団になってもらうのです。

「でもさ、そういうけどそれでもきちんとプロダクツを使ってる、っていうのはマメだよねぇ。それがあなたのいいところでもあるんじゃない?」

「毎日、仕事も育児も家事もマメに頑張ってるもの。そんなあなただからきちんとプロダクツも使えるのよ。」

「それに、効果が出ないって嘆きながらもプロダクツを使うことをやめないでいる、ってこと自体があなたの中のどこかではこれはちゃんとしたものだ、っていうことを認めたい気持ちがあるからでしょ? そんな自分を信じてあげればいいじゃない。」

こんな感じで自分を褒めてあげるのです。


自分を分裂させ、対峙させるということは無意識にやっていることも多いですが、それを明らかに2人の人格を登場させたのだ、と意識して行うことは効果的です。

なぜなら、「どうせダメなのよ。私なんて・・」という方の私をすぐに否定して、「そんなふうに思う必要なんてないのに。」というように戒めるのではなく、「どうせ・・」と思うほうの私にも存分に発言の場を与えてあげられるからです。

そもそも人生は足りないことだらけだから面白い。

衛藤さんのお話のなかにも、以前、星野道夫さん(故人)というカメラマンの方と出会ったときに印象深かった、という話が出てきます。

星野さんは、世界中の美しい風景を撮りたい、と思って旅に出ました。

ところがあるときにふと、

「一生かかっても世界中の美しい景色は撮りきれないのだな。」と思い、その瞬間、ものすごく楽しくなったそうです。

もし、カメラのファインダーのなかに世界中の美しい景色をすべて取り込んでしまったら、そのあとの人生に何の楽しみがあるというのだろう、と星野さんは人生には足りないものがある、成し遂げられないほどの無数の楽しみがある、ということに気付きそれを楽しんだのです。

私も似たような経験があります。

私は基本、本は買う主義なのですが、家の近くには小さい頃から図書館がありました。

今もまた図書館の近くに住んでいることを考えると、本に縁があるのだなぁ、と思います。

そして、今度その図書館が移転し(それでも歩いていけるところが自転車で5,6分に変わる、という程度)、大きくてとても綺麗なものに生まれ変わるんだそうです。

それを知ったとき、私は、

「良かったぁ。年をとって体が動かなくなり、なぁ~んにもやることがなくなっても、読みきれない冊数の本だけはあるんだな。」と思いました。

それと似ていますね。

分からないこと・・・

出来ないこと・・・

結果が出ないこと・・・

まさに人生には足りないものだらけです。

でも、そういう足りないものがある、と気付くことによって前に進もうとする力も生まれてきますね。

そして成長の喜び、克服の喜びも生まれてきます。

つまり、足りないことは幸せの種子です。(・・・と、衛藤さんは書かれています。)


どんなときだって楽しめる人っていうのはいいですよね。

人生楽しんだもん勝ちですもん。

私の尊敬するオーラソーマのティーチャーにも、

「私は感覚派ではなくて、屁理屈派だった。プロダクツを使ってもなぁ~んにも感じられなかった。だからこそ、私はそういう人でもオーラソーマに興味を持った人がいたら、そういう人たちの味方になれるティーチャーになろう、と思った。」という方がいらっしゃいます。

ね、出来ないことが武器になるでしょ?





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「気分」をつくる

2013-03-30 09:07:00 | オーラソーマ

先日、車を運転しているときに何気なくカーラジオから流れてきた言葉にハッとしました。

それは、麻生外相がアベノミクスのことを問われたときだったでしょうか?

何せ、そのハッとした言葉の前までは、ラジオから流れてくる音声はぼーっと耳を通り過ぎていただけですので、はっきりとしませんが・・

麻生外相はこう言ったのです。

「いま、日本は“気分”が上向いていることは確かなんですから、それでいいじゃないですか。何せ、“気分”をつくることが一番難しいことだ、と私は思っていますからね。」

つまり、麻生外相はいろんな経済政策や外交などより、“気分を作る”ということがいかに難しいか、そして今は政策の効果をすぐにはかる、ということより“気分が出来てきている”ことを大事に見守っていけばいいじゃないか、ということを言ったのです。

なるほど、と思いました。

「気分」。

「漠然とした心理状態」のことを指します。

“漠然として”いるわけですから、それを操作して作り出したり、なくしたりということは確かに大変なことでしょう。

こういう手を打てば必ずこうなる、というマニュアルでは謀れないものがあるでしょう。

もし、“気分”を測定するものさしがあれば、それはGDP2%UP!とかいう以上に効果を発揮することかもしれませんね。

「ただいま“気分値”5000バーレルです。これは先月に比べて5.8%のUPです。このままいけば、今年中は日本の“気分”はご機嫌で通せるでしょう。」なぁ~んて。

そしてまた私は、オーラソーマのことを想いました。

セッションをしていて、時々お客さまから、

「大体自分の考えていたこととほぼ同じことでしたけれど、なんだかすっきりしました。」とか、

「あぁ、やっぱり自分はそう考えてたんだな、っていうことが今日は確認できてよかったです。」とか言われることがあります。

そんなとき、ちょっと複雑な気持ちでした。

というのは、“自分の考えていたことと同じ”なら、たいして気付きはなかった、ということではないか? とか、ましてや“確認の作業”であったのなら新たな気付きはまったくなかった、ということだよなぁ、とか思い、ということはつまるところ、オーラソーマを受けて良かった、と思っていてくれるのかなぁ? これは褒め言葉じゃないよなぁ? と疑心暗鬼になっていたのでした。


けれど、「何となくすっきりした気分になれた。」と言うことは作り出そうにもなかなか人為的には操作しにくい“気分”というものを作り出せたわけですから、麻生外相の言葉を借りれば、一番難しいことをクリアできた、ということではないですか!

だから自信を持てばいいんだ!

そもそも「漠然としたもの」は、それを抱えている本人にとっても確認しづらいものですから、もやもやしていますよね。気分悪いですよね。

もっとちゃんとしたものさしでその「漠然」を「はっきりとしたもの」に置き換えられないか、と思っていらっしゃるわけです。

それをトレースする役割が「色」なわけです。

「あなたはご自身のことをまだはっきりと確認できていないかもしれませんが、この色を選んでいる限り、ちゃんとそれはあなたの潜在意識が考えていることなのですよ。このグリーンという色のメッセージは~ですからね。」

というようにお話すると、

「あぁ、そうなんだ。ここに『グリーン』という形ではっきりと現れているから、ほんとにそうなんだな。」

と納得しやすいですもの。


漠然としたものをはっきりと形あるものとしてそこに存在することを見せてくれるもの。

それが“色”です。

“かたちのないもの”あるいは“誰もが共通言語として持っていないもの”を“かたちあるもの”“共通言語として色というツールを使うとそれは全世界で通じる話となる”というものにするわけですから色ってすごいです。

そしてそれをして「何となく」ではあるけれど、すっきりした!ということもすごいことです。

それだけじゃあなくって、もっといっぱい提供しなくては・・なんて気持ちがありましたが、確認作業であってもそれは十分に評価できることです。

ううん、それまではどうしたってこうしたって確認しようがないことをここで初めて確認できたのだから、それはもうものすごぉくすごいこととして十二分に満足してもらって大丈夫だ、と思えました。


けれど、オーラソーマはそれだけではありません。

オーラソーマのボトルからうかがえるそれらの色たちは、49種類のハーブと、鉱物から出来ています。

植物という自然界からの言語・・・

鉱物という私たちよりずっと先輩の何万年も何十万年も前からの情報を持っている存在からの言語・・・

それらの持っている“何か”と私たちの細胞が持っている“何か”が共鳴を起こして、そこからもメッセージを受け取ることができます。

それは「脈々と生きているメッセージ」です。

オーラソーマは、無味乾燥な人為的に“作られた”色だけのメッセージではない。

自然の、生きているメッセージ、それもその存在としては私たち人間よりはるかに先達の存在からのメッセージを受け取ることができるわけです。

それを受け取ることが出来た自分、という存在をもまた認めてあげましょう。

なかなか自分のことは認めることができない・・

わかります、わかります。

私もそうでした。(「でした」っていう過去形ではないな・・ 今もそんなときがあります。)

けれど、そんなあなたはきっと世の中の人みんなが幸せであるといいなぁ、と思うでしょう?

人助けが好きでしょう?

自分を認めることができれば、“自分”という1人の人間を助けた、ということになり、つまり世界から1人の人間を救った、ということになるわけですよぉ。

おめでとうございます!

たった1人の人間を救う、ってすごいことですけれど、それが一番身近な存在の自分で成し遂げられたわけですから。

これ以上のことはありませんよぉ。

だから、オーラソーマ受けましょうよぉ。(なんだ、結局宣伝かい、という声がするぅ・・・)




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過ぎた謙虚さ

2013-03-29 09:05:00 | 食・レシピ

先日、久しぶりの友人とランチをしていて色々と近況報告をしあいました。

その中で私が、

「そういえば、最近、体調が変化したというか、そういうときにたまたま読んだ本の影響もあったりとかで、あんまりお肉を食べたいとは思わなくなったんだぁ。」と言うと、友人が、

「へぇ、それ、どういう本?」と尋ねてきました。

彼女も私と同様にかなりの本好きなので尋ねてきたのであって、彼女は私以上にヴィーガンになる可能性は低いと思われる人です。

お肉が大好き、っていうわけではなくて、自分の考え方をしっかりと持っているので、私のように1冊の本を読んだくらいでふらふらとすぐさまその考え方に影響を受ける、という感じではないのです。


ま、尋ねられたこともあって、私は先日、このブログでも少し紹介した「スキニービッチ」の話をしました。

けれど、なんと言っても楽しいランチ中のことですからね。

内容は明かさずに、一言、

「ま、動物たちは食べられたくて、好きで命を投げ出しているわけではない、ってことよ。」とだけ言いました。


すると彼女が、

「わかった。えっちゃんは動物好きだからだよ。」と言うので、私は少しきょとんとしました。

ペットのように動物が好き、というのと食肉の話とはまた別だと思ったからです。

「だってさ、人間の場合だって、どうしてこんな良い人がこんな亡くなり方をしなくてはいけなかったんだろう・・?ってことは往々にしてあるじゃない。だから動物に限らず人間だって非業の死を遂げることはあるわけだから、そこはあんまり考えてもせんないことじゃないの?」とその友人は言うわけです。


これまたすごい違和感を覚えました。

こんな良い人がなぜこんな亡くなり方を?というのは、誰のせいでもないけれど、食肉にされる動物たちの話は、私たちひとりひとりの意志でどうにでもなるわけですからねぇ・・

ただ、それを言おうとして、私ははたと口をつぐみました。

これ以上の発言は、私が自分の考えがいかに正しいかを披露し、ストームのような勢いで彼女をもその考え方で力技でもって巻き込みたい、と思っている、という論調になりはすまいか、と思ったからです。

「それはこういう部分において少しおかしいんじゃない? おかしいということを認めるのであれば、私の考えが正しいということになるわね?」というような・・


それはイヤだな、と思ったので、何となくその話題はそれで終わりになり、久しぶりに会った女性たちというのはたいていこうなるものよ、というままに、とりとめもなく結論もない話にまた舞い戻っていったのでした。

そこで、ふと私は気づきました。

そういえば、ベジタリアンの人って自分を主張しないなぁ、ってことに。

どうして自分がベジタリアン、あるいはヴィーガンになったのかということをたいていの人は語ろうとしない。

尋ねれば、まぁ、隠しているつもりでもないから、と話してくれるのかもしれないけれど、たいていの人は実に謙虚に、

「私は野菜しか食べないけれど、あなたはどういう選択をしても自由だから、好きなものをどうぞお食べになって。」という態度を崩しません。

ベジタリアンであることはひとつの生き方ではなくて、まるで機内の食事の選択のときに、「ビーフ? Or チキン?」と聞かれたときに、そんなの好みでどっちだっていいわけよ、どっちが正しいとかどっちを選ぶべきか、って問題ではないのよ、というかのように。

「スキニービッチ」にしたところがたいそう過激とも思われるような口ぶりでさんざ語っておいてから、最後の最後に来て、ベジタリアンになることの素晴らしさを説くことによって、お説教みたいに聞こえないように気をつけて、なんて注釈の箇所がありました。

実際にベジタリアンになることが正しい道で、誰もがベジタリアンになるべきなのよ!という口調はそりゃあイヤだけれど、菜食によって自分がどれだけ健康になったか、どんなに生活が変わったか、どんなに体調だけでなく気分や考え方にまで変化があったか、そういうことは活き活きと話してくれていい。

っていうか、むしろ話して欲しい。

何も1度ベジタリアンになったら、2度と戻れないんだよ、ってことでもないわけだから、そっかあ、そんなに良いことづくめなら私もちょっと1週間だけは挑戦してみようかしら、とか思わないでもないじゃないの。

人が活き活きと生活している話って聞いてるほうも気持ちがいいじゃないの。

だけど、これまでに出会ったベジタリアンの人を思い浮かべても、皆さん、異常なほどに謙虚だったなぁ。

謙虚も過ぎると意固地にみえるよ、ってくらい。

うがった見方をするならば、自分がベジタリアンであることを言うと、まるで肉食をしている人を責めているように聞こえて反感を買うんじゃないかしら、批判を浴びてしまうことになるんじゃないかしら、と恐れているようにさえ思える。

そんな、そのとおりになるかどうかもわからない恐れのためにステキなことに口を閉ざすのってもったいないじゃない!

ベジタリアンであることは、単なる食の好みの問題じゃなくて、思想に関わってくる問題の場合も多いから、「いろんな思想の人がいていい。」「違う思想の人を責めるような真似はしてはいけない。」っていうのはわかるけれど、それはムリにすすめたり、押し付けがましくなければいいんだから、堂々と話してほしいな、と思います。

じゃないと、ベジタリアンになる道というのは、皆さんそれぞれ個人的な経験として何かしらの機会にめぐり合った、という場合しかありえない、ということになってしまいますから。

それともまさにそういうこと?

ベジタリアンの人は、「皆さん、それぞれその気になればそういうものに出会う機会というものがあるはずだから、ご本人がそういう気になっていないうちにこちらからその話を持ちかけるのは得策じゃないのよ。その人にふさわしいタイミングで出会うなら出会えばいいのよ。ただし、それは“今”ではない。“私によって”では、ない。」って思ってるのかなぁ?

私はたまたま今回、自分が自分の意志で探そうとしたわけでなければ絶対にこの本に自ら手を伸ばすことはなかっただろうなぁ、という本にベジタリアンの人のおかげで触れることができたので、感謝しています。

だからもっと皆さん、声をあげて自分のステキな体験を話してあげて欲しい、と思いました。(これはベジタリアンの話に限らず、ですね。オーラソーマでボトルとワークした話でもそうですし、とにかく自分の身にステキなことが起きた、って話は人を勇気付けたり、ワクワクさせてあげることができると思います。)

もっとも、「そうなのぉ。私もさ、いかにこの前の旅行先で体験したソーセージづくりで、自分が作ったソーセージがおいしかったか、って話してもいい?」って言われちゃうこともあるかもしれませんけれどね・・

ま、それはそれで「あらぁ、ステキね。」って聞いてあげる必要もありますけれどね・・





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改めて自分の信念に限界はないのだ、ということについて

2013-03-28 09:09:00 | テレビ番組

この前の日曜日、「辺境で営む日本食堂」という番組を見ました。

この番組はシリーズ化していて、もう今回で8回目になるそうですが、世界の辺境と呼ばれるような地で食堂を営み、活躍している日本人を紹介するものです。

そういえば、以前に違う回のものを見たことがあるかな。

この日も何人かの日本人が紹介されたのですが、私はその中で、人類が住む最北端の島というスーバルバル諸島で唯一の日本食レストランを営むまだ若い33歳の青年の生き方に目が釘付けになりました。

スバールバル諸島なんて初めて聞く名前でした。

ノルウェー領だそうです。

世界地図を見るとアイスランドよりもっと北って感じのマイナス40℃の極寒の地だそうです。


ここで生活している人々はいったい何の職業についていて、どれくらいの生活レベルなのか知りませんが、物は空輸で運ぶため、たいてい何でもものすごく高い。

ノート1冊\8000、卵5,6個で\600というレベル。

これが日常的に買える人々はどんな人たちなのか・・ 日常的には買えない人が多いとしたら、通常はどんなものを人々は食べているのか・・ということが気になりましたが、それは番組ではわかりませんでした。

番組では、この最北端の島で日本食堂を開いている和田さんという男性がいったいどうしてこの島で日本食堂を開くことになったのか?という彼の人生に焦点を当てていました。


するとなんと次に彼は、ニュージーランドの自治区であるニウエという場所にも同じく日本食堂を開いている、という。

彼が行っているビジネスはこの2店舗のみ。

なぜまた最北端の島と最南端ではないけれど、暑い南国の島との2店なのか?

スバールバル諸島とニウエの移動にはなんと4日間もかかるそうです。

何回も飛行機を乗り継いで、次の便の待ち合わせに5時間も6時間も待って・・

私なら10時間飛行機に乗ったあとに5時間の待ち合わせで、次にまた11時間のフライトで、ってなったら、それだけできっと体の調子を崩しちゃいます。

実は彼が日本食堂を開いたのは、ニウエの方が先でした。

なぜ、そこに日本食堂を開くようになったか、と言うと、彼はもともとアメリカ人と日本人のハーフとして千葉に生まれました。

ハーフのせいか、小さい頃からいじめにあったそうです。

なので、アメリカ人のお父さんが暮らしたアメリカでならいじめにあわないか、とアメリカの高校に行ったけれど、やはりいじめられた。

そんななか、彼が学んだものとは、「お金だけは裏切らない。」


幸い、利発で実業家としての才能もあったのでしょう。

大学在学中に日本人向けの英会話教室をはじめ、その事業は大成功をおさめ、年収1000万円を超えるお金を得るようになりました。

当時は、より大きな億ションに住み、高級車に乗ることが成功の証だと思っていたそうです。


そんな順風満帆の人生のまっただなか、彼は結婚します。

しかし、この結婚はうまくいきませんでした。

毎日毎日喧嘩の続く生活にストレスを感じるようになった和田さんは、パニック障害になってしまいました。

一番ひどい時期は新幹線に飛び込んで自殺しようと思ったくらいだそうです。

悩んだ末、彼は離婚します。

事業もうまくいかなくなり、これからどうやって生きていこう、と思ったときにたまたまネットでニウエというところがあることを知り、ここに行ってみたい、と思うようになります。


そうして訪れたニウエは、自然がそのまま残っている理想郷でした。

電気もガスも水道も通っていない。

けれど、ここの人々はいつもみんな笑顔だ。

そして異国の人間であるボクを何の疑問ももたず受け容れてくれた。

ここでは、大きな家も必要ない。

たくさんのお金を持つ必要もない。

じゃあ、いったい今までの自分の「お金がすべて」と思ってきた人生はなんだったんだ?と彼は価値観をくつがえされます。

そうしているうちに、この国に恩返ししたい、と思うようになった彼は、図書館に1万冊の本を寄付したり、電信会社とかけあって携帯電話を開通させました。

これってすごいですよねぇ。

本の寄付については個人でもできそうなことですけれど(それでも1万冊という数はとても真似できませんが)、携帯電話を開通させる、っていうのは1個人が成しえることではないように思えます。
そうしているうちにニウエでは豊富に魚がとれるのに、人々はあまりいろんな料理の方法を知らずにその魚をおいしく食べている様子がない、ということから日本食堂を開く決意をし、実行に移すのです。


いまやこの食堂は大統領も訪れるほどの人気ぶり。

こうして彼は、「辺境の地では、まだまだいろんな食べ方を知らずに居る人たちが多いに違いない。」と考え、そうしたところに貢献したい、という思いから2店目にあえて最北端の島を選んだ、というストーリーがあったのでした。


常識的に考えれば、往来だけで8日間を要する(交通費的にはどんなものになるのか見当もつきません。が、決して安いものではないでしょう。)場所に2店目をもつなんて正気の沙汰ではありませんよね。

経営は成り立つのか?

オーナーとしてどちらかの方に居るときには、経営を信頼できる人にまかせなくてはならないわけですけれど、そういう人をどうやって探したのか?

オーナーが目を光らせていなくて味や接客のレベルを落とすことなく、店がちゃんと運営されるのか?

数々の懸念を彼は持ち前の才気でなんということもなくすいすいと乗り越えてやりとげていたのでした。

この絵に描いたような波乱万丈の人生は、まさに事実は小説より奇なり、ですよねぇ。

いじめ地獄から抜け出すには、「お金だけは裏切らない。」という信念をもった人間が、「たくさんのお金をもつ必要なんてないな。」と真逆の信念に至るに経験したことは、あまりにも極端なように思えます。

こういう経験をしたら確かにこういうように価値観って変わるだろうなぁ、いや、変わらざるをえないだろうなぁ、という気がしましたが、ふと、いや、経験が向こうから押し寄せてきたわけではなく、この経験を選び取ったのはやはり彼自身なのだ、と思いました。

仮に私が彼だったとして、いじめにあって誰も信じられない、「この世はお金がすべてだ。」と思って、がむしゃらに働いていたら事業が大成功を収めた。・・となったら、そこでシャンシャンと自分の価値観にはもう幕を引いてしまいそうな気がします。

たとえたまたま結婚がうまくいかなくて離婚に至ったとしても、ダメージは受けても、さっさと仕事に熱を入れることによってそれを忘れようとすることでしょう。

そこでパニック障害になるほど打ちのめされた彼は、その時点でそもそもひそかに潜在意識では、「この世はお金じゃない。」ということを知っていたんでしょうね。

そしてお金ではない象徴として生涯のパートナーを得た、と思っていたのにその仲が破綻したからもう自分が頼るべきよすがをスコーンと無くしたような気持ちになったのでしょう。

本当に心底「お金がすべて。」と思っていたなら、「いやいや、離婚はしたけど、まだまだボクにはお金があるじゃないか。」って思えばよさそうなものですもの。

だからこそ、番組では「そんなときたまたまネットでニウエという場所を知り、そこに行ってみたくなりました。」という一言で済まされていましたが、たまたまネットでニウエっていう場所を知ったって、普通なら、そんなところに行ってみよう、って思いませんよ。

単に気休めのリゾート地を求めていたなら、ニウエじゃなくても南国のリフレッシュできそうな場所はいくらでもありますもの。

だから“たまたま”なんかじゃないんですよね。

きっと彼の魂はニウエという場所の映像をネットで見たとたん、そこに自分の探し求めていたものがありそうだ、ということを直感で悟ったのでしょう。

「クリスタルマスターズコース」を受けたときに、「私たちの肉体というのは足の下にあるアーススターとつながっていて、生涯のうちに行くべき場所はすべてわかっている。」と聞きましたが、それをまさに裏付けるような話です。

こんなふうにして劇的に自分の使命とつながっている場所に出会う人もいるんですね。

そして何より、私が一番この話で思ったことは、「人間、限界なんてない、っていうことを信じて行動した者勝ちだな。」ということでした。

限界というのは自分が決めていたり、思い込んでいるだけのもの。

それは言葉上ではわかっているつもりでもなかなかいざとなると私たちは“常識”の枠の中にとらわれてしまう。

自分自身が自分の意志でした決断だって、その正体をよぉく観察してみたら、常識という悪魔に動かされていただけだった、ということは往々にして転がっていそうです。


彼のように誰もやっていないことだけれど、北と南の辺境に店を持とう。

辺境でいろんな“食”に出会っていない人たちにおいしい料理を提供してあげよう。

その願いが強ければ、実現してしまうんですね。


私は自分がまだまだ常識に囚われすぎている、ということに気づきました。

先述した「携帯電話が通っていない国に開通させる。」なんてことも、個人が手出しできることじゃない、って思いこんでいた。

そもそも私程度の者が思いつくことなら、その国の大統領なり、内務省の人間なりがやってるでしょう、って思っちゃう。

そしてそれが出来ていないってことはよほどの障害があって無理なんだな、と勝手に自分の中で決め込んじゃう。

お役所の大好きな言葉、「前例がないからできません。」なんて言葉は、少なくとも自分の中からは追放してしまいたい。

これまでオーラソーマと何かを組み合わせてサロン経営するっていう方法を模索してきながら、「さすがにこれはありえないよなぁ。」とか「なんでオーラソーマとそれなの?」って人がすぐに理解できないようなものには手を出したくないよなぁ、なんておりこうさんヅラして切り捨ててきたものはいっぱいあります。

自分が好きなこと、好きで好きでたまらないことは続けているうちに何かしら関連が出てくるものだ、つながってくるものだ、とは信じていてもとっかかりの段階でオミットしてしまうものが結構あったように思います。


この辺境の地2つで、どちらかからどちらかに移動するのに4日間も毎回かけてお店をやっている和田さんには勇気をもらいました。

まっさらな生まれたての気持ちになって限界だと思いこんでいるものにはさようならを言おう、と思いました。





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オーガニック食材を扱うスーパーに行ってまいりました

2013-03-27 09:05:00 | 食・レシピ

昨日は肉を食べることについて、のちょっと重いテーマに踏み込みましたが、今日はもうちょっと軽いお話です。


またまたやはり『保険の窓口』の担当者の方とお話したとき、

「でも、自分の家の近所にオーガニック食材ばかりを売っているスーパーとかないんですよねぇ。だから身近じゃないっていうか、おたくではどうなさってるんですか?」と尋ねたら、

「うちは幸いなことにそういうスーパーが近くにあるんですよ。」とおっしゃいました。

それはどこ?と聞くと、ウチからは10kmぐらいの距離。

しかも、そういうお店って小さな雑貨店みたいな感じでひっそりと個人経営されているようなところが多いんですが、聞いたところ、それはまずまず大きなスーパーでしたので、ちょいと覗いてみたい、と思い、10kmと少しの道のりを車を飛ばして行ってまいりました。

私が期待したのは、大豆などの加工品。

オーガニックのスーパーでいろいろと食材を眺めていたら、「あぁ、こういう食材を肉の代わりに使う手があるのか!」というヒントがつかめたり、メニューが浮かんだり、ということになればいいなぁ、と思って行ってみたのでした。


しかし、行ってみて、残念ながらその期待は裏切られました。

あ、ここでお断りしておきますが、このスーパーがなっとらんじゃないか! これではどういう人が行ったって評価できない、って烙印を押すはず、ってことではないですよ。

あくまで私が勝手に今回期待していたことについては、思うようなものが得られなかった、というだけのことです。

大豆加工品については、ずいぶん一般的になりましたが、「テンペ」を売っていたくらいでした。

でも、わたし、あれをおいしいと思ったこと、ないんですよねぇ・・

だから、手が出ませんでした。

そもそも、教えてもらったこのスーパーが「全製品オーガニック」ではありませんでした。

そこでこちらはオツムを使わなくてはならないということになる。

今の世の中で本当に誠意あふれるオーガニックの製品をつくろうとすれば、通常のものよりはお値段については高くなることはわかっています。

だからこそ、「オーガニックのものを買うのだ!」という人はそこは大前提として納得したうえで買い物をしようとしているはずです。

でも、オーガニックのものもそうでないものも入り混じって売っていると、まずそれはどちらなのか、を判別しなくてはならない作業から入らなくてはならない。
そして、「あ
ぁ、これはオーガニックではないのか。」となったとき、であれば、普通のスーパーと比べてここのこのお値段はどうなのか?ということを考えて、購入を見合わせたりと考えなくてはならない。

そういうことに頭を働かせなくてはならないことがもう面倒。

そして、ではここではやめておこう、となったとき、別のスーパーに足を運ばなければならないのが面倒。

そしてこういうお店ではえてしてあることですが、「目的買い」をしようにも、それが手に入らないことがある。

普通のスーパーのように手広く、何でも置いてある、というわけではないからですね。

だから例えば、「ええっと、そういえばネギも切らしていたな。」と思い、ネギを探してもない、となればそれはあきらめて、もう1度、普通のスーパーにも立ち寄らなくてはならなくなる。

この時間のロスがイヤなんだよなぁ。(たいして1日、有効に時間を使ってもいないくせに、こういうところの時間のロスだけはやたら気になる。生産的ではない、と思うからでしょうか。)


車を出して、スーパーに行く、ってたったそれだけのことですけれど、どれだけ近いスーパーに行っても、30分くらいはあっという間にかかってしまいません?

そう考えたとき、1箇所で済ませられれば30分で済むことが、もう1軒立ち寄らなくてはならなくなったためにまた30分かかる、と思うとげんなりなんですよねぇ・・

そして、一言でいうと、やっぱりこういうオーガニックにこだわったスーパーってつまらない!

なぜかというと冷凍食品が多いから。

やっぱり食品って「生」のものが大量に並んでいることが食欲や料理欲を刺激するんでしょう?

業務用スーパーなんかに行くとそのロットの多さから冷凍食品が大量においてありますが、買い物という行為はとてもつまらないものになる。

無味乾燥っていいますか・・

買い物っていうワクワクした感じではなく、工場を見学している、っていうような感じ。

あれと同じことです。

このスーパーには壁にポリシーが張り出してありました。

それによると「私どもでは、お惣菜なども冷凍を多く提供しています。なぜなら、冷凍にすることで、日持ちがするようにと添加物を入れずにすむからです。みなさまのご家庭でも、冷凍でお持ちいただければ、解凍したときに毎回フレッシュな状態で味わっていただくことが出来ます。」とありました。

現状ではこれが限界なのか、とちょっとガッカリ。

こういうスーパーで買う人が多くなって、わざわざ何日分も買いに来るんではなくて、今日の分だけを気軽に買いに来られるようになれば、スーパー側も消費する側も冷凍なんてことをしなくてもいいはず。

そうしたら売り場がもっと楽しいものになるのに、と思いました。

冷凍して提供してあることをいかにも「あなたたちのため」って言ってもらってもねぇ。

ほんとのところは、企業側の論理でしょ、ってしらけます。

マンモスの生きていた時代に住んでいるわけじゃあないんですから、冷凍し、解凍して食す、ってこと自体が自然じゃないでしょ。

このくらいなら普通に新鮮な生のものを売っているスーパーのほうがいいや。

・・・ってまぁ、結局このように思ってしまう私はオーガニックやベジタリアンにはなれないのでしょうか。

オーガニックの食材を求める方は、ネットショッピングで宅配を利用なさっている方が多いのかもしれませんね。

でも私、アレはイヤなんです。

毎日(毎日はちとキツイが・・)リアル店舗に行って、自分の目であれこれ選びながら買い物するのが好きなんです。

でも、収穫はありました。

このスーパーでは、ほかのスーパーではあまり見かけないオーガニックの「野菜だけで採っただし」や、オーガニックの「メイプルシロップ」などのドライ食品を数点買ってきました。

こうしてたまの休日、こんなものを数点買っただけで、「はぁ~、体にいいことしたぁ。」という気になって家に帰るとすぐに亜流酸塩入りのワインを開けてしまう私って、どうなんでしょう・・





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