ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

ワイナリーを訪ねて

2013-09-30 09:06:00 | 旬のグルメな日帰り旅行

昨日は、ダーリンと山梨に行って、いろいろなワイナリーを訪ね歩きました。

もっちろん、ナマのぶどうも!


ぶどうって私は甘すぎてあまり好きなフルーツではなかったんですが、山梨の現地でぶどうを食べてからは考えが変わりました。

これまで私はぶどうといえば、当然、皮はむいて食べるものと思っていましたが(実際、そうしないと口の中に皮だけがいつまでも残る感じ・・・)、山梨で食べたぶどうは皮と実を分けることなんてできない!ってくらい密着しています。

皮も薄くて口の中でパリッ!とはじける感じです。

どこのぶどう園に行っても、「皮ごとお召し上がりください。」と言われるし。


魚でもなんでも“皮ぎし”がうまい、と言いますものね。

きっと美味しさの成分がぎゅっとそこに凝縮されているのでしょう。

そして、甘すぎない。

フルーツと野菜の中間のようなものを食べている気がする。(ちょっと褒め言葉になってないか。)

なので、ぶどうをつまみにワインを飲んだりできる。

そしてまた、種類が豊富なことったら!

こちらではスーパーに行ったって、巨峰いっぺんとうでもう飽き飽きしました。

マスカットやベリーAでさえほとんど見かけませんからねぇ。

けれど、山梨で、「マスカットっておいしいですよね!」と言ったら、

「??? きっとあなたのおっしゃってるのは、マスカット・オブ・アレキサンドリアのことですね。いろんなマスカットがあるから・・」と言われました。

確かにぶどう園をのぞくといろんなマスカットがあるわ・・

そんななか、いっぱい試食して「これ、おいしい~!」と買ったのが、この写真左側のちょっと細長い房の先端だけが赤っぽいぶどう。Photo

この名前はなんと「マニキュア・フィンガー」って言うんです!

確かに、つま先にマニキュアを塗った女の人の指みたいですね。(そう思うと気持ち悪くて口に入れられないじゃないか・・)

この子の“皮ぎし”がおいしくて、おいしくて。

こういう産地に行かないと手に入らないものを発見するのって楽しいですよね。

さて、事前に調べてこことここのワイナリーに行こう!と決めていたわけではなくても、勝沼ICを降りて、適当にぶらぶら車を走らせていると、もうあちこちにいっぱいワイナリーが・・

手当たりしだい、訪ねてやりました(笑)

写真がね~ UPできなくて残念。

Facebookには何枚かあげたんですけどね。

iPadで撮った写真をどうやったらメールに添付して送れるのかがわからない・・

シュミません・・

いろんなところで少しずつ試飲させてもらっても、5軒も回ると結構いい感じに酔っ払ってきてました。

ダーリンは、うらやましそうに香りだけをかいで、「くそぉ~、家に帰ったら浴びるように飲んでやる、飲んでやる・・」と呪文のようにつぶやいておりました。

ワイナリーで心に残ったお話を1つ。

「JUN」というたまたま見つけて訪ねたワイナリー。

試飲の工房には洋服も売っていたので、

「へぇ~、洋服も作ってらっしゃるんですか?」と言うと、

「ハイ。っていうか、もともと洋服屋なんです。JUN&ROPEっていう・・」とおっしゃる。

懐かしい~!

一気に青春時代に引き戻されたような気がしました。

私はそんなに着たブランドではないけれど、むしろ同世代の男の子たちは、「これ、JUNのスーツだぜ。」って言うと、「俺はIVY派ではなくて、ヨーロピアン派なんだ。」という証明になっていた、という時代でした。

「ここでワインを作り出してから、もっともっとおいしいワインを造ろう、と頑張ってるんですけどね。

日本じゃ、カベルネ・ソーヴィニヨンか、メルローじゃないと値段がつかないんですよ。

南フランスに行って、全く遜色のないカベルネ種(このあとになんちゃら、と言われましたが、全く聞き覚えのない名前で忘れてしまいました・・)を見つけたんですが、それを¥3000くらいで売らないと合わないな、と思っても、『南フランス産? じゃあ、せいぜい¥600くらいだな。』って言われちゃう。」

と、オーナーはため息をつきました。


なるほどねぇ・・

どんな業界でも、最初に新しいものを持ち込もうとするにはとてつもない壁があるんだなぁ。

「でも、これおいしいから頑張ってくださいね。」と言うと、にっこり笑って、

「ハイ! 頑張ります。」とおっしゃいました。

工房を立ち去ろうとしたそのとき、ダーリンがふと、

「今年はとても暑かったから、いいぶどうが出来たんですか?」と言うと、

「いやぁ。お天気が良すぎちゃったっていうか・・ 光は欲しいけど、熱はいらないんですよね。」と苦笑いされました。

光は欲しいけど、熱はいらない・・・

何かこの言葉がとても響きました。

オーラソーマのボトルを見るときにもそう思うからかなぁ。

バックライトをあてるけれど、いつも「光」はあてたいけど、ライトの「熱」は余計なんだよなぁ(うちはLEDじゃないので)、と思うから共感しちゃったのかな。

生きているものが熟成するには、光は必要だけれど、熱すぎる熱は必要じゃない、ということなんだろうか。

人間の身体だって、体温以上の熱は必要ないもんね。

そう思うと、ビーマーライトペンがまったく熱くないのに、「光」だけはちゃんと肉体の深部に届くということが、改めてとても秀逸なことに思えました。

さて、この日の遅い夕食は、我が家では「ハイジ定食」でした。

ハイジはもちろん「アルプスの少女ハイジ」のハイジです。

ハイジっていつもチーズとパンだけ、っていう質素な食事をしてたでしょう?

けれど、毎回、「うわぁ~!」ってものすごいご馳走にありついたかのようにうれしそうな声をあげて、おいしそうに食べてましたよね。

ああいうシーンを見ると、いつもフランスパンにチーズとワインだけ、っていう食事をしたくなるんです。

我が家のハイジ定食。

ガーリックをたっぷり塗ったフランスパンに、カマンベール、モッツラレラ、クリームチーズ、チェダーチーズなど各種のチーズ、コンソメスープ、グリーンサラダ。

以上。

あとはたらふくワインを飲みました。

おいしゅうございました。

至福のひとときでございました。

あ!

最後に1つ。

私のおススメなんですが。

安いシャンパンかスパークリングワインを買ってきて(できれば辛口で)、ぶどうを凍らせて、その凍らせたぶどうをそのままミキサーにガリガリとかけまして(皮ごとですよ~)、適度に細かくなったものを、そのシャンパンかスパークリングワインに入れて、頂きます。

高級感が出ますし、おいしいですよ~。

是非、1度お試しください。






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般若心経の世界観

2013-09-29 09:11:00 | 宗教

土曜日は、サロンで月末の「瞑想会」をやりました。

今月は、「般若心経の現代語訳 誘導瞑想」でした。

前にもこのブログでご紹介した本ですが、「般若心経 絵本」というこの本、ほんとにいいですよぉ。51va5d9fsnl__sl500_aa300_

「般若心経っていったい何を言ってるの?」ということをご存知のない初心者の方にももちろんおススメですが、般若心経の解説書というよりは、「絵本」とあるように、それをかみくだいて赤ちゃんにもわかるように絵とともに自然に知らしめてくれる本です。


しかし・・・

たった276文字の中身にこんなに深い意味があったとは!と仰天すること請け合いですよ。

ご存知の方には解説するのもはばかられますが、この般若心経は、こんな流れで始まります。

お釈迦さまがこの世にいらっしゃった頃、ある日お釈迦さまは観自在菩薩や出家の弟子達と一緒に霊鷲山という山に登られました。

頂に来て、こんなに気持ちのよい場所で瞑想をしたらきっと素晴らしい境地が味わえることだろう、と考えたお釈迦さまはあっというまに瞑想に入られました。

それにいち早く感応してやはり同じ様に瞑想に入られたのが観自在菩薩でした。

それはそれはえもいわれぬ気持ちよさげな様子でした。


それを見た弟子のシャーリープトラくんは「こんなに幸せそうになれる瞑想っていいよなぁ。どういう瞑想なんだろう?」と観自在菩薩に質問しました。

すると観自在菩薩が、

「これは般若波羅蜜という瞑想だよ。」と言って、それがどんな教えの瞑想なのかを説いていく、というストーリーなのです。


そこには何も宗教色はありません。

ただ、この世のしくみを諄々と説いていく、というのが般若心経です。(あ、それこそが宗教ってことなら、宗教です・・)

だから、般若心経のなかには時々合いの手かのように「舎利子・・」と語りかけるところがありますが、これはこの「シャーリープトラくん」のことです。

マントラのなかに説法を解いてもらっている弟子の名前が何回も出てくるなんて、なんだか面白い話ですよね。

さて、この絵本という優しい仕上がりになった本でもところどころ飛ばしながら、誘導ナレーションとして使おうとすると、30~40分にはなります。
この日、私はゆったりと声に出して読み上げながら改めてこの般若心経の世界に感心していました。

そして、私がこれまで気付いてきた、と思ったことは全部ここに書いてあるじゃん!と思いました。

例えば、少し前にこのブログにも書きましたが、アニマルコミュニケーションで私が「どうしてそういうコミュニケーションが出来るわけ?」という疑問に対して、自分自身が納得したのが、

「大きな集合無意識という地球のような塊りがあり、そこには私もあなたも、動物も何もかもの生きとし生けるものたちの意識が詰まっている。

そして個としての“私”はその地球に根ざしている氷柱のようなもの。

それは自分だけの部分もあるけれど、根っこから下はみんなつながっている。」という説明で、でした。

つまり私は、それまで“個”はあくまでも“個”であり、空気中をテレパシーというものが眼に見えない電気のような磁場を帯びたものとしてびゅんびゅん飛び交うことによってコミュニケーションが可能となるのか?と思っていたのでした。

そして、そうだとするならば、到底自分にそんなことは出来るはずもなければ、可能だ、という気が1%もしないわ、と思っていました。

けれど、この「般若心経 絵本」では、そのことを違う例えからこのように説いています。

『この世界を形づくっている色や形や感覚や思いなどは、すべてみな海のおもてに起こっては消える波のようなものだ。

波を固定してつかまえようとしてもつかまえられないように、それらはつねに移ろいゆき、そこには何一つつかまえられるような実体はない。

波は海そのものと切り離すことはできない。

波と海とはつねにひとつのもの。

それが般若波羅蜜の大海なのだ。

私たちも含め、この世界のすべてのものは、それぞれが般若波羅蜜の大海とひとつにつながったものとして存在している。』

ね?

一緒でしょ?

私が納得した地球という土に氷柱がささっているのも、海と波との関係で説明しても。


これがさらに心の醜い人と美しく清らな人がいても、それらは波なのだから本体に違いはないのだよ、とか私たちは日ごろ価値の世界に生きていて評判や名声が上がったり下がったり、財産が増えたり減ったりすることに一喜一憂したりするけれど、それらもみんな波が大きくなったり小さくなったりすることで海そのものはまったく減りもしなければ増えもしないのだよ、と手を変え品を変え親切丁寧に教えてくれています。

あ~ぁ、古来からのお経にこんなにわかりやすく記されているのだから、もっと早く仏教の教えに出会っていたら、あるいは仏門にでも入っていたら手っ取り早く私は悟りの境地にたどりつくことができたであろうに、わたしってば回り道しちゃったなぁ・・・というようには思いません。

私にはオーラソーマに出会い、紆余曲折してそれ以外のスピリチュアルなものも認め、そして最終的(?)には何のツールも使わないチャネリングというものも認めかつ自分にも出来るんだな、そういうこと、というのがわかるようになるには、これまでの年月、そして寄り道がすべて必要だったんだ、と思います。


きっと右も左もわからないような若年で仏門に入ったとて、この般若心経が言っているような世界観が本当に腑に落ちるにはもっともっと年数がかかったことでしょう。

単なる表面上の言葉の意味として「わかる」のと、うまく言えないけれど自分の深いところのお腹で「わかる」との間には、天と地ほどの開きがあることでしょうね。

その腑の落ち方をパーセンテージとか尺度ではかれないのが残念ですが。

何だかこれまたうまく言えないのですが、そういうことを、自分が歩いてきた道のりを思いながら、非常に感慨深く思ったのでした。

瞑想はなにも難しく考える必要はないと思います。

この世で一番仲良くしとかなきゃならない人物は誰だ?って言ったら、そりゃあ自分でしょ、ってことですから、そのためにはちょっと自分と向き合える環境を整えてわざわざ時間をつくれば、そうしないより多少はましでしょ、ってぐらいの捉え方でいいんじゃないでしょうか。

いろんな瞑想がありますが、そのどれかを「邪道」と決め付けてみたり「これこそが!」と王道を見つけたりする必要もないと思います。

「自分と向き合う」ためには、「自分と向き合わざるを得ない」という状況をお膳立てする方法もあるでしょうから、さしずめ、来月の「瞑想会」では、“歩きながらの瞑想”を行おう、と思っています。

オーラソーマでもデヴ・オーラではチャクラウォークをやりますよね。

あれと一緒です。

ただ「あぁ、今右足が出た、今度は左だ、ア、右、左・・」という単純なことに意識を集中すれば、少なくともそれ以外の雑念は舞い込む余地がありません。

そんなして、サロンから15分ほどの道のりにあります「伊奈波神社」(全国パワースポット100選にも選ばれたそうですよ。)に行き、参拝をして、帰り道はわいわいおしゃべりしながら帰ってこようと思います。


それだけのことなんですけれど。

参加ご希望の方は、メールにてご連絡くださいね。

<次回 瞑想会>

 毎月その月の最終土曜日に行うのですが、来月は該当日に私がコース出席しているため不在です。

そのため1週早いというイレギュラーな流れとなりますが、19日(土)といたします。


 1019日(土) 

過ごしやすくなっているであろう秋の日に一緒に瞑想ウォークしませんか?

10:30~12:00  サロン集合のち、ちょっとしたワークをやってから瞑想ウォーク

参加費:¥1500

参加希望、お問い合わせは、以下へ。

 chakra@aura-soma.name






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「憧れ」

2013-09-28 09:09:00 | 身辺雑事

先日、テレビで俳優の村隼さんが、こんなことを言っておられました。

村隼さん(「隼」って書いて、「じゅん」ってお読みするんですね。)は、渋い俳優さんです。

悪役をやっても、やさしいおじさん役をやってもサマになるので、私は大好きなんですけど。


最近、「地獄でなぜ悪い」という主演映画が封切りされるようなので、その宣伝をかねてテレビでインタビューを受けてらっしゃいました。

インタビュアーがお決まりのしょーもない質問をしました。

村さんにとって、映画って何ですか?」

いきなりのオープンクエスチョン。

だからこれにどう答えたって、「へぇ~」と受けながらそこから話を広げて行くことができる。

「映画は、映画ですよ。」と答えたっていいわけですけど、「映画はボクにとっては人生そのものですね。」とか答えれば、また、「村さんの人生ってどんなものだったんですか?」と尋ねればいい。


これは聞き手が職務放棄したようなもんだと思います。

それに対して、聞かれたほうは「なにか洒落たことの1つも言わなきゃ。」と思うだろうし、「そんな範囲の広い質問、簡単には答えられないぞ。」と構えもするでしょう。

答え手があまりにも能力を試されるようなことになるのに対して、聞き手は何も聞き手としての能力を問われない―――――。

このバランスの悪さというか収まりの悪さが、聞いていて、見ていて、何だか腹立たしくなってくるんですよね。

対談とかインタビューってもっとお互いが魂賭けてる、って感じでなくちゃ、と思ってしまう。

ま、それはいいんですが、この「あなたにとって映画とは何ですか?」という質問に対して、村さんはこう答えたんですね。

「ボクにとっては、憧れですね。」と。


そのとき彼は、映画を自分から切り離した存在として語った、という感じではなかった。

ほんとうに目をキラキラさせながら、その憧れ続けている存在の映画に出る身として関わっていられることが心底嬉しくて仕方がない、という様子でした。


これが、年間に何百本という映画鑑賞をすることが趣味だ、という人が言うならわかる。

ポッと出の俳優さんが言うのもわかる。

けれど、映画に出演して俳優として30年以上も一線で戦っている人が言うとなるとそれは驚きでした。


“憧れ”というのは“夢”とほとんど同義語で、「焦がれ続けているけれど、なかなか手の届かないもの」というイメージでいました。

それを、あなた、すでに手にしているでしょーが、という俳優さんがおっしゃることにびっくりしたんです。

そういう意味で私にとって「オーラソーマ」はすでに憧れではないんです。

まぁ、金銭的な問題はあるにせよ、「あぁ、このコース受けたいな~」「あの先生の授業、取ってみたいな~」と思えば、それを受けるだけの日程とお金が確保できれば、手中にすることのできるもの。

そしてそれをまた自分の栄養や知恵として内に取り込み、いかに自分のものとしてまた外側は放出しようか、と練るもの。

そういう存在です。

「オーラソーマという、その渦中にいる」という感じが私にとってはピンとくる表現であって、「憧れ」ではもはやないんだよなぁ。

「憧れ」は昔は「あくがれ」と言った、という語源から考えると、「あくがれ」とは「あく=場所」から、「かる=離れる」ということですから、「ある場所から離れる」ということが「あくがれ」です。

そして「どこから」「何が」離れることをいうの?といえば、それはやはり、「今、この現実の場」から「心」が離れるほど、そちらに心を奪われることでしょう。

つまり、魂が奪われてぼーっとしてしまう状態のことを「あくがれ」→そしてひいてはそれを「憧れ」と言うようになったのでしょう。


魂が奪われてぼーっとしてしまうほどの状態になること、それならオーラソーマでもたまにあります、あります。

セッションでお客さまの話、人生そのものに心奪われてしまうとき。

コースに出てワークをしたとき。

きれいな111本のボトルをただぼーっと眺めているとき。

    ・・などなど。


けれど、その感覚というのは長続きしません。

長続きしないからあの、ランナーズハイのような高揚感をまた味わいたくて、「また何でもいいからコース出たいな~」「早く次のお客さん、来ないかな~」「ちょっとこのプロダクツ、こんな使い方してみちゃおうかな~」なんてことを思うわけです。

ある意味、オーラソーマとは麻薬ですね。

そこから離れていることに「恐れ」さえ抱くようになってしまう。


でも、このように自らを鼓舞し続けないと、魂が奪われてぼーっとしてしまうほどの状態ではなかなかいられない、というのはやはりオーラソーマは私にとって「憧れ」ではないのでは、と思ってしまいます。

もっとごく自然に、自らの内側の決して枯渇しない泉から湧き出るような感覚として、「いつもそんな状態に陥ってちゃいけないよ。」と人にとがめられようがどうしようもなく焦がれてしまうもの・・

それが「憧れ」じゃないの?


考えてみれば、「憧れ」という字は、りっしんベンの「心」に幼な子を表す「わらべ」と書きますねぇ。

そうして字から考えたら、子どもの頃からずーっと心に留めおいているもの、あるいはいくつになっても子どもの心のままにずーっと心がワクワクするもの、それが「憧れ」ということかもしれません。


子どもの頃からずーっと心に留めおいているもの・・・

いくつになっても子どものようにワクワクするもの・・・

それは何だろう? と考えたら、それは私にとってはやはり「本を読むこと」「何かこうして書くこと」に尽きるかなぁ。

それならば、事態がどう変わろうといつも私は「憧れ」ていられそうな気がする。

本がこの世からなくなることはないだろうし、誰に読んでもらうわけでなくても書くこともやめないだろうし。

仮に私が本を出版することになったとて、「あ~、もうやるだけのことやっちゃった。もういいや。もう書くことは今日限りやめだ。」とは思わないでしょう。

村さんのように「憧れ」を職業として、そのなかにずっくりと身をおくか、それはそれとして別のなりわいで生きていくのか。

それはまた別問題です。
別問題なんですけど、そして、自分の中では十分に折り合いがついていた、と思っていたのに、最近私の中では「オーラソーマ」「書くこと」「アニマルコミュニケーション」をどうやってそれぞれ位置づけるか、にまたなんだか心がざわざわするんです。

もう季節の変わり目の病気みたいなもんです(笑)

ざわざわしなくなる日はくるんでしょうか。

そう願いたいんですけれども。


「心に響くことだけをやりなさい。」のジャネットも、「パッション=情熱」は半年に1度は見直しなさい、それは変わってきて当たり前だから。

なぜならそれに向かってまい進している限り、それ以下になることはない、自分の想像を超えて、「それ以上」になっていることがある。

だから、書き直して当然なのよ、と言っていました。


そろそろ、今一度、自分の「パッション=情熱」を見直してみようかな、と思っています。






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パソコンはやっぱり生きている

2013-09-27 09:06:00 | 身辺雑事

昨日の話の続きですが、修理屋さんに来てもらったときには私は「専門の修理屋さんが来てくれたからには、もう大丈夫。なにせ作業が遅いのを早くなるようにしてもらうだけだもん。」と軽く考えていました。

まさか、もう使い物にならなくなることになるとはそのときには思ってもみませんでした。


しかし、どうやらこれはかなりヤバそうだぞ・・という気配が漂ってきたとき、私はパソコンにオレンジポマンダーを施してみることにしました。

オレンジは大手術のあとやショックやトラウマなどに効きますが、それは人間だけじゃないんですよ~

今までもそうして危機を切り抜けてきたことが何度もありました。

私がなにやら色と香りがついた液体を手につけてハードディスクやディスプレイの周辺をなぞるようにしているので、当然、オーラソーマやポマンダーのことなんて何もご存じない修理屋さんには異常に映ったようで、

「・・・な、なにしてんすか?」と言われてしまいました。

「いや、ちょっとね。こうしたら直ったことがあったもんですから。」と言いましたが、明らかに修理屋さんは(こいつ、頭おかしいんじゃないのか。ヘンなとこへ来ちゃったよ~)という顔つきに変わりました。


私は、(あ、そうだ。ターコイズも試してみよう、っと。)と思いつき、またターコイズのポマンダーでパソコンのエーテル体あたりをな~でなで。

オーラソーマのボトルではターコイズという色が最初に現れるのはB3「アトランティアン」のブルー/グリーンのシェイクカラーとして、です。


アトランティスの世というのは今の世の中よりよほど発展しており、アトランティスの人々はテレパシーで会話ができた、と言われています。

そして「ターコイズ」という色には、ブルーですから「コミュニケーション」の意味がありますが、そのコミュニケーションには1対1の膝詰めで、というよりはデジタルやマスコミなど1対多数での現代風のコミュニケーションの意味があるのです。

まさに「ターコイズ」という色はパソコンちゃんにとって必要な色ではないか、と思いました。

しかし、修理屋さんはもはや(こういうおかしな人には関わらないようにしようっと。)といわんばかりに私のほうを見ようともしません・・・

そりゃあね、確かにおかしな人にみえるでしょうねぇ。

Mr.マリックの超魔術じゃあるまいし。

狂った人と思われてもいけない、と私は「カラーブリージング」に切り替えました。

自分の傍にオレンジポマンダーとターコイズポマンダーとB26とB3を持ってきて、じーっとその色を見つめてから、その色がパソコンの心臓部に染み渡るというところをイメージしました。

もう眼力の世界です。

すると不思議なことにオレンジやターコイズの色が、パソコンの冷たく堅い外側の箱にはじき返される、という感じのするときとふっと中に浸み込んだ、という感覚が得られるときがあるのです。

浸み込んだ、という感覚が1度得られるようになるとその成功率が飛躍的に高まりました。

(おっ、いいぞ、いいぞ、なんだかパソコンが元気になっていくのがわかる・・)と思っていると、直後本当に、修理屋さんが、

「あっ! 動きましたね。ちょっと調子いいかもしれません。可能性が出てきたかもしれません。」と言う。

でもしばらくするとまたヘタっちゃうんですよね。

それで頑張って私もまたカラーブリージングする。

するとまた、

「おっ、いけるかもしれません。」と修理屋さん。


こんなことを4、5回も繰り返したでしょうか。

私は確実にパソコンに「色の治療」が効いているというのを実感しました。

けれどもう私の集中力が続きませんでした・・・

なにせ午後1時に修理屋さんが来てから、4時間以上もこんなことばかりやってたんですもん。

この修理屋さんは成功報酬ではなくて、何時間いてもらっていくら、という単位の人なので、パソコンの立ち上がりが遅くて思ったように修理の作業自体がはかどらないというなかで何時間もいてもらうことは、どんどん支払いが増えるということだし、その支払いの額に対して、瀕死のこのパソコンを今とりあえずだけでも復旧させることにそんなに意味があるだろうか、という気がしてきてイライラしてきました。

私はパソコンの傍から席を外し、(もう、修理屋さんの判断にあとはまかせた。)と、別の机で別の仕事をはじめることにしました。

何せ今日は半日以上ただ修理屋さんの横にくっついてただけだもん。

時間の大ロスだわ。

・・・と思ったらもうダメですね。

修理屋さんが、

「・・・もう、見切りつけますか? 1%でも見込みがあればなんとか復旧してほしいと言われるお客さんがほとんどなんでそう言われるとその1%に賭ける、ということもボクとしてはしてみますが、お客さんの場合、バックアップもとってあるし、そんな未練もないということなので、これ以上の作業をすることはコストパフォーマンスとして合わないかもしれないです。」と自身からそう切り出されました。

「ですよね~ 私もあとはリカバリーCDをとにかく探してみて、なければもう買い換える、ということにします。」と言いました。


「では、このパソコンはちょっとたまたま機嫌がよければ立ち上がるときもあるかもしれない状態なので、また明日にでも試してみてください。」と言って修理屋さんは帰りました。

パソコンは自分で自分を修復しようという働きがあるので、それに時間がかかるため、立ち上がりが遅くなっているパソコンにとってはさらにそれに時間がかかる状態になってしまっているので、今日はもう無理かも、ってことでした。

「ま、自分で自分を手術するようなものですから、ブラックジャックじゃありませんし、その成功率はあまり高くないんですよね。」とあくまでも修理屋さんはパソコンを“人間”にたとえて帰っていきました。

自分で自分を手術しようとして、それに失敗して命を落とすかもしれない私のパソコン・・

そうなったら、勇敢な戦士に対して心を込めて葬ってあげることにしよう。






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パソコンって生き物?

2013-09-26 09:02:00 | 身辺雑事

パソコンがついにダウンしました。

2,3ヶ月前から、立ち上げるときに何やらわけのわからない画面が出るようになり、英語ばかりで何が書いてあるかわからないので、ダーリンの会社が定期的にお世話になっているパソコンの修理屋さんに聞いたら、

「それは一応、何があっても知りませんからね~というお知らせみたいな画面です。すぐになんかあるってわけでもないかもしれませんが、一応バックアップはとっておいたほうがいいと思います。

いつ完全にダウンするかは明日なのか、それとも10年後なのかはわからないのです。」と言われました。

それからすぐにメモリースティックにバックアップは取りました。

なんだかやたら立ち上がりが遅くなっていたのですが、それでもいったん立ち上がれば何とか支障がないほどには使えたので、ま、こんなもんでもいいか、と思いそのままにしていました。

そうしたらついにもうこの遅さではパソコンの意味がない、というほどに遅くなりました。

もう私の手には負いかねるとその修理屋さんに来てもらいました。

彼は来るなり、

「だいたい予測はつけてきたんですよ。」と言いました。

それは「PIO病」という病気にこのパソコンがかかっているのはではないか、ということです。

「ぴー・あい・おー、ですか?」となんのこっちゃわからない私がそのままオウム返しにすると、

「要するに、何かの拍子で遅くないと解析できない情報がもぐりこむわけです。その情報を処理するためには遅いほうがいいんですが、そうでない場合にも6回、そういうことが続くともう遅いモードに勝手にパソコンがなってしまうんです。」と修理屋さんは言いました。


ただでさえ機械に疎い私にはなんのこっちゃよくわかりませんが、その“状況に合わせてあえて遅くなる”というところが、パソコンが賢いがゆえにかえって陥ってしまう病気なのだろう、ということだけは推測がつきました。

彼はどこかをクリックしながら、

「ほら、やっぱりそうだ。PIOモードになってる。」と言いました。


ではそれを早いモードに直してもらえば直るのか、とほっとして簡単に考えていた私は甘かった・・・

それだけでもなくいろんなことが複合的に絡まっていたようです。

それから4時間。

修理屋さんはパソコンと格闘しつづけましたが、結果から言うと、修理に来てもらう前にはただ異常に遅かっただけだったのが、完全にイカレてしまいました。


なんでそういうことになったか、と言えば、直すためにいろいろ試すことをしたりしているうちにもうそれだけの作業量にいきなり耐えられなくなった、ということみたいです。

例えていえば、もう柔軟性のなくなったゴムをだましだまし、引っ張るようなことはせずに使ってきたのに、いきなり目一杯そのゴムとしての能力を試そうとするかのように引っ張ったものだから、そのとたんに「あ、もうボクだめ。」とパソコンは自らの命を落とす前には、ということで仕事を途中で放棄してしまったようなのです。

いろいろと修理屋さんはやってくれましたが、もう改善することはないみたいでした。

そしてそれに対する今後の次善策を修理屋さんは提案してくれました。

「1つ、リカバリーCDに記憶をさせてハードディスクだけを変える。

2つ、リカバリーCDが見つからなければ、これは『Windows XP』が入っていますが、それごと入れ替えなければならなくなるのでパソコン自体を変えてメモリースティックの中身を入れ替える。

3つ、『Windows XP』は来年の4月でサービスを終了する事になっているのでパソコンを買い換えると同時に、『Windows 7』に入れ替える。」

簡単に私は言いました。

「じゃあ、とりあえず一生懸命リカバリーCDを探してみます。そして見つからなかったらPCを買い換えます。」

だって、それしかないんだろうが、って感じでした。

すると修理屋さんはまた私を惑わすようなことを言います。

「あ、でも、動きを見る限り、このハードディスク自体はたぶん、全体を100とすると95%くらいは正常でいい動きをしていると思うんですよ。仮にもともと100ギガのものが95になったって全然かまわないわ、ということならそのおかしいことになってる5%の部分だけを切り取ってしまう、という方法もあるんですけどね。」なんて。

はぁ~ん、トカゲのしっぽ切りみたいなことができるわけか。

「じゃあ、そうしてみてくださいよ。」とまた単純に私はお願いする。

すると、

「ただね、その5%のなかにウィンドウズと結びついているものが含まれているとするとすべてオジャンなわけですよ。だからイチかバチかの賭けになりますねぇ。しかも通常正常なパソコンでもその作業には5,6時間を要するのですが、ただでさえ遅くなっているこのパソコンだと丸2日間くらいかかるかもしれませんねぇ。それだけのことをやってみる価値があるかどうかですよねぇ。」とおっしゃる。

どっちなんだ。

どうするのがおススメなんだ。

どれを選ぶのが賢い選択なんだ。

あ~、めんどくさ。

「いやぁ、1%でも可能性があるなら試してみてくれ、っていうお客さまが多いものですからどうかな~と思って。」

「いや、私はとりあえずバックアップはとってあるからいいですよ。別に未練はないです。」

「あ、そうですか。」

「そもそもなんでこうパソコンってめんどくさいんですかねぇ。いろんな選択肢がありますよ。けれど、そのどれもが明日起こることかもしれない、けれど10年先のことかもしれない、とかさぁ。

これが洗濯機や冷蔵庫だったら、だいたい黙って毎日酷使しても10年くらいはもって、それで壊れたらもう買いかえるしかありませんね、っていうシンプルな図式でしょ。それがどうしてパソコンとなるといろんな“可能性”とか“選択肢”とかわけのわからない話になるの。」と言うと、修理屋さんはおごそかにこう言いました。

「それは、パソコンが人間に似せて作られているからです。」と。

修理屋さんいわく、

「つまり、人間ならもし腕に何かの菌が入って大変な病気にかかった、という場合、全身にその菌がまわらないうちにその腕自体を切り落とすか、完全に不安を拭い去ったわけではないけれど、菌が残っているという可能性のある周辺の肉片だけを切り取るか、あるいは腕は使い物にならなくなるかもしれないし、ひょっとすると全身具合悪くなる可能性もあるけれど五体満足のまま残しておく、っていう手と3つあるでしょう。

それと同じことですよ。

そしてそれを決めるのはその本人です。

本人が何に基づいて決めるかは、宗教的な問題やら、倫理観やら、肉体をどう思っているかや、今後のライフスタイルにどう影響するかなどによって、ですよね。

それと同じことです。

どれが正解とかではなくて、その人にとっての一番良い選択をすればいいわけです。」と。

まったく機械に疎い私は、この例えにえらくわかった気になって感心してしまいました。


結局、4時間を費やしながら状態としては前よりも悪くなってお引取り願うことになったわけで、修理屋さんは、

「すみませんねぇ。かえってボクが壊したみたいになっちゃって。」と恐縮していましたが、人間と同じならそういうこともあるでしょう。

例えば癌患者が手術をしたのに病巣を全部取ることは出来なかった、と言って病院に支払いを拒否する人がいないのと同じことですものね。


「いいえ、けっこうですよ~ よくわかりました。」と言って丁重にお引取り願いましたよ。

やれやれ。

しかし、パソコンのこの、「このままにしておけば明日完全にダウンするかもしれないし、それは10年後かもしれない。」とか、

「Window XPのサービスは来年4月で打ち切る、と言っているけれど、これまでの成り行きをみると、それは売れている間は1ヶ月伸び、2ヶ月伸び、3ヶ月伸び、こりゃあこのままもっと延びるに違いないな、と思っているといきなり本当に打ち切られた、なんてこともある。」とか、もう全くもって信用のならない世界ですね。

これだけ雲をつかむような話って、“あの世”のことが現世で証明できないのと同じかそれ以上じゃありませんか。

それでもパソコンなどのIT機器は「最新の頭脳」であり、誰もがそういうことを折り込み済みで仕方のないこと、として了承している。

“あの世”のことなら、ちょっと矢追さんが何か言っても目くじらたてる科学者がいるのにね。

いっしょじゃないか、って思いました。

面白いもんですね。






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