ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

お弁当の思い出

2014-03-31 09:05:00 | 身辺雑事

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先日、テレビを見ていたら今は親許から独り立ちした20代の子どもにそっと内緒でお母さんが学生の頃に彼(または彼女)のために作っていたお弁当を届ける、という短い番組をやっていました。

 

一様に彼らは喜び、

 

「これこれ! これがおふくろの味なんだよなぁ。」

 

とおいしそうに平らげていました。
そして

 

「いつもこれ作ってくれ、っておふくろにリクエストしてたんだよなぁ。」

 

とも。



それを見ていて(私にはおふくろの味って言われても思い浮かばないなぁ。)と苦い思い出を思い出しました。

 

私の母はとくに料理が下手なわけではありませんでした。

 

けれど、“母の味”といって特に「懐かしい」とか「またあれを食べたい」とか思うようなものは何もありません。

 

どうしてかな~

 

すべてが平均的な味や見た目だったからかなぁ。

 

それどころかお弁当と言われると私には苦い思い出しかないのです。



忙しい母は、それでも「自分で作っていきなさい!」とか「お金渡すからパンでも買いなさい。」と言ったことはありませんでした。

 

ちゃんと毎日作ってくれました。

 

それでも私は不平たらたらでした。

 

なぜかといえば、お弁当箱をあけたときふっと一番に匂う香りがおいしそう~とは程遠いとてもイヤな匂いだったからです。

 

あれは・・

 

なんなんだろう。

 

今でもそのにおいを思い出せます。

 

いろんなものが交じり合って食べ物じゃなくて、ゴミのようになってしまったようなにおい。

 




たぶん、あれはお弁当を作って温かいうちにすぐに蓋をしてしまうからああいうにおいになったんじゃないのかなぁ、とか、白いご飯の上にいつもかけてあるふりかけがそういうにおいを放ってるんじゃないかなぁ、とか思います。

 

一度、一緒にお弁当を食べている友人に聞いたことがあります。

 

「ねぇ、お弁当って蓋をあけた瞬間に、いやぁな匂いだと思うことってない?」と。

 

私は誰もが同じような思いでいるのだとばかり思っていました。

 

しかし友人の返答は意に反して、

 

「へぇ? そんなこと、全然思ったことない。」

 

でした。

 

その友人の返事がショックで、母に、

 

「いつもお弁当を開けるとき、変な匂いがして嫌だ。私だけみたいだよ。なんでだろ? 1回、私と同じものを朝作っておいて、それをお母さんもお昼に食べてみてよ。」と言ったこともあります。

 

けれど、母は「ふぅん。」と言っただけで、そういう実験をしてみようとはしてくれませんでした。

 

だから改善されることはなく、私は高校を卒業するまで「嫌なにおいがするなぁ。」と思いながらそのお弁当を食べ続けました。

 

相変わらずぶぅぶぅと不満を言いながら・・

 




今にして思えば、いつもイヤだと思うにおいがしていようが母に一度くらい「いつもお弁当つくってくれてありがとう。」と言えばよかった、と思います。

 

それは私が今、毎日ダーリンのためにお弁当をつくっていて、ダーリンはことあるごとに「いつもおべんと、つくってくれて、ありがとね。」と言ってくれるからです。

 

それがどれだけ励みになることか。

 

っていうか、そう言われなくちゃ「んじゃ、勝手にそこいらでなんか食べればいいでしょ。」って言って私は何も作らないかもしれません。

 

そう思うと、いつもいつも感謝どころか私にぶぅぶぅ言われながらもよく母はお弁当をつくってくれたよなぁ、と思うのです。



“手をかけてくれた”ということに対する感謝とともに、もう1つ大切なことは“一緒に食卓を囲む”ということです。

 

うちは小さいころからずっと両親が食堂をやっていましたから、親と一緒に食卓を囲むという経験がほとんどありません。

 

食事は1人でするもの、でした。

 

あまりにもそれが当たり前だったからなのか、それを寂しいと思ったことすらありません。

 

むしろわずらわしくなくていいや、とさえ思っていました。

 

そしてそれはやはり親が食堂を経営していたダーリンも同じだったのです。

 




私は母が作っておいてくれたごはんを1人でテレビを見ながら食べていましたが、ダーリンはたいてい500円を渡され、

 

「ほら、なんでも好きなもの、食べてきな。」と言われていたそうです。

 

(そんな店の1つに40年ぶりにこの前連れて行ってもらったことがありました。

 

そうしたらなんとその店のおばあちゃんはもう“おじさん”になったダーリンのことを覚えていました!

 

「あの頃、毎日のようによく食べに来てくれたものねぇ。」と言って。)

 




だから、その頃のぶんを取り返すかのように私とダーリンは、とにかく“一緒に食べる”ということを大事にしています。

 

少し前にはある飲食店の知り合いの方から、

 

「ねぇ、夜だけ手伝いに来てくれない?」(ランチの人手というのはどこも十分足りているんだそうです。ですが、夜に勤めてもいい、っていう人がなかなかいないんだ、と言われました。)と誘われましたが、よくよく考えてやっぱり出来ない、とお断りしました。

 

やろうと思えば、身体はあけられないことはないんですよ、夜は。

 

ぱぱっと自分の分をすませて、ダーリンの分は作り置いておいて、「帰ったら、チンして食べてね。」と言っておけばいいわけです。

 

けれど、それをするようになったら私たちは離婚することになってしまうかもしれない、と思いました。

 

いや、大げさではなく。



毎日夕食を一緒にとり、そのときにゆっくりとお酒も飲みながら、「今日は何があった?」と話す時間の大切さは何ものにも代えられません。

 

そこをはしょったら、きっと私たちは「何のために一緒にいるの?」と疑問に感じ始めてしまうでしょう。

 

夫婦によってきっと“大切にしたい時間”とか“これだけは関係性維持のために譲れない”という箇所は違うでしょうが、それがうちの場合は「夕食を一緒にとる」なんですよねぇ。

 

それはまるで、小さいころに親との団らんを経験してこなかったふたりが肩寄せあって、その時間を取り戻そうとしているかのようです。

 




先日は私たちより少しだけ若い、子どものいらっしゃらない夫婦の方が、

 

「この前さ、あんたたちって仲いいねぇ、って人に言われたけど、そりゃ、そうでしょ。

 

子どものいない夫婦で仲悪かったら、なにもしがらみないから、すぐに別れればいいだけじゃない、ってそういう人たちは離婚しちゃうんじゃない?

 

だから残っている人たちはみんな結果的に仲のいい人たちってことになるんじゃないの、って言ったらなるほど、って言われたわ。」

と話していました。

そういこともね、あるかもしれませんね。





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擦り合わせ

2014-03-30 09:02:00 | 身辺雑事

 

今日も朗読発表会のときのことです。

 

本番は13:30~ でしたが、私たちは朝から集まって午前中もリハーサルをしました。(朗読や芝居も体力だなぁ~と思うのは、1日に2回もリハーサルをやるともう本番のときには体力残ってないんじゃないか、というくらい疲れることです・・)

 

劇団ではこういうことは当たり前なのかもしれませんが、当日でさえ、「あ、ここはこういう風に変えましょう。」という改善、ダメだしがあって、びっくりしました。

 

リハーサルと言えば、本番さながらに一度通してみる、ということだけかと思っていました。

 

けれど、極限までより良いものにしたい、という気持ちがあるとギリギリになっても変更することって出てくるものなんだなぁ、と改めて作り上げていく人のその取組姿勢の真摯さに打たれました。



そして、そういうことに臨機応変に対応できるためには「台本どおりに演じる」ことでいっぱいいっぱいではとてもできません。

 

今回も本番までにはみんなで集まっての練習は5回ありましたが、私は当初、ぼんやりと頭で(じゃあ、4回目ぐらいまでにセリフは暗記してこればいいかな? そして5回目には完全に覚えた、ってぐらいで・・)と思っていたのですが、この練習と発表会に慣れている古株の方は、みなさん早や1回目か遅くとも2回目までにはすべて暗記なさってくるんですよね!

 

そのあとの3回目~5回目までにはそれをさらに良くするためにはどんな小道具が必要か、どんな動きが必要か、さらにそれらを改善するためにはどうしたらいいか、が加わってくるのでそれに対応するための余力を残しておくためにはセリフなんぞは1回目か2回目にはもう入っていないといけない、ということをじゅうじゅうに承知なさっていたというわけです。



・・しかしほんとに難しいものだなぁ、と思いましたが、あまりに早く暗記してその抑揚やトーンなどに凝り固まってしまうとそこからもう抜けられなくなってしまい、「あ、そこ、そんな軽い感じじゃなくてもうちょっと重々しく言ってみて。」なんて言われると覚えた言葉は同じであっても、まったく新しいセリフを覚えるのと同じか、うぅん、むしろ固めてしまったイメージを一度壊してから作り直さなければいけないので容易に治らなかったり、なんでそんな簡単なことが出来ないの?ってことになってしまうんです。

 

この当日も、私は「そのセリフのあとになにかきっかけの言葉を1つちょうだい。」と言われ、「じゃあ、『いいか!』って言うことにするね。」と言っていたのに、どうしてもたったその一言が出てこない。

 

朗読の中では何度も私は「それ!」という掛け声をかけるところがあるので、その「それ!」になってしまうんですね・・

 

「もういいよ、それ、で。」と言われてしまいました・・



さて、今日お話ししたいのは、事前に言葉の意味を擦り合わせておくことの大切さを思った、ということについてです。

 

午前中にリハーサルをしたわけですが、私は「リハーサル」というものを俗に芝居の世界などで言う「ランスルー」だと思っていました。

 

とにかく最初から最後まで通してみる、ということです。

 

だから監督や先生は途中で流れを止めて、

 

「ちょっと、そこ、こういう風にやり直してみてくれる?」という指導はもうここに来たらしない、ということだと思っていたのです。

 

実際、そうでした。

 




私たちは朝から集まって、まず一等最初に行ったのは、不安の残るシーンやら、すべてのメンバーが顔を合わせるのはこの日が初めてでしたので、呼吸を合わせておく必要があるシーンだけのポイントを練習しました。(劇団の方が友情出演で尺八を吹いてくださるシーンがあり、それはこの日初めて全員が顔を合わせて行うことでしたので)

 

それから本番さながらにすべてを通して行うリハーサルをやったのです。

 




そのときに最後にお当番の方からの挨拶のシーンがありました。

 

お当番というのは、稽古する会場を手配したり必要なものを揃えたりの世話役の方です。

 

毎年持ち回りで行うらしいです。

 

今年はたまたま一番年長者の方がその役を仰せつかっていました。

 

「では、最後にお当番の方からみなさまにご挨拶があります。」

 

と司会役の先生が振ると、その方は、

 

「本日はみなさまありがとうございました。」

 

とだけおっしゃいました。

 

先生もちょっと拍子抜けした様子で、

 

「それだけ? もう少し何かしゃべってもいいのよ。」

 

とおっしゃいました。

 

しかしその方は、

 

「いえ、これだけでけっこうです。」

 

と控えめにおっしゃいました。



ま、それならそれでいいか、ということでリハーサルを終え、さていざ本番。

 

何とか無事に出し物はすべて終えて、

 

「では、最後にお当番の方からみなさまにご挨拶があります。」

 

と振られたそのお当番の方は、なんと先ほどのリハーサルのときとは打って変わってとうとうといろんなことを述べられ始めたのです。

 

素知らぬ顔をしていましたが、私たちほかの人間はみんな内心びっくりしていたと思います。

 

(へぇ、さっきのリハーサルとは違うじゃん!)って。

 




そしてその挨拶を聞いていて私はどうしてその方がリハーサルのときには「ありがとうございました。」としか言わなかったのに、本番ではこれほどいろいろとおしゃべりになるのかがわかってきました。

 

その方の役目は、“観客の皆様に対するお礼”なわけです。

 

何をお礼するのか、それは本番を実際にやってみないとわからないこともあるではないか、ということだったと思います。

 

観客の皆さんの反応を見ていて言いたくなることはその場になってみないと湧き上がらないから、リハーサルではわからない、これだけでいいです、とおっしゃっていたのだろう、ということがその挨拶を聞いていてわかりました。



なるほど。

 

彼女は「リハーサル」を「最後の練習」「最後の確認」ぐらいに思っていたのだ。

 

本番を終えてみれば、そこでまた新たな思いなども湧き上がってきて当然、それは“練習”しておけることではないでしょう?という理解をされていたわけだ、と思いました。

 

けれど、リハーサルを「本番とまったく寸分違わぬ模擬」と思っている人間にとっては、「ほ? 何を全然さっきまでにはなかったことをしゃべりだしたの?」とびっくりしてしまうわけですね。

 

どちらも「リハーサル」を“思い込み”で行っていたわけです。

 




すべてが終わった最後の挨拶のことでもあり、時間も押してはいませんでしたから、このちょっとしたハプニングで何も問題が起こったわけではなく滞りなく終わりましたが、誰もが当たり前と思っている言葉についても摺りあわせておく必要があるんだよな~ということを改めて勉強しました。

こういうことはむしろ職場などで日常的に起こっていることのような気がします。







 

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朗読発表会

2014-03-29 09:09:00 | 身辺雑事

 

 

 

さる26日、今年に入って3か月にわたって練習してきた朗読の発表会が行われました。

 

場所は「ハートフルスクエアG」というJR岐阜駅に隣接している生涯学習センターのなかの音楽室という場所でした。

 




例年はいつも使っている教室をそのまま使って行っていたそうです。(私は今回初めての参加なのでそのことを知りませんでした。)

 

音楽なので、楽器を置いてステージ風にしつらえた一段高い場所があり、私たちはその壇上で朗読をしました。

 

その下のフロアに並べられた椅子に座っているお客様とはまっすぐ前を向いたときに視線があいません。段差があるわけですからね。

 

それがとても緊張をほぐしてくれることになり、助かりました。



でも・・

 

やっぱり緊張していたんでしょうね~

 

私がメインの出し物は開始早々の楽しい童話の作品だったのですが、「観客のみなさんには笑ってもらえるようにしましょうね~」ということだけが唯一の到達目標だったにもかかわらず、緊張が伝わったのか観客席からはクスリとも笑いは聞こえませんでした。

 

ほとんど芝居といったほうがよい朗読は当然全部暗記しないと出来ないものでしたので、どこかでセリフを間違えやしないか、飛んでしまわないか、というだけで頭がいっぱいでした。

 

そんなレベルはとうに突き抜けたつもりの、寝言でさえセリフは出てくるはずだ、というほど暗記はしたのですが、それでも何度か練習では、「え!? 今更になってどうしてこんなところがこぼれ落ちちゃうの・・・!」という思いがけない経験もしたので、やっぱり緊張していたんでしょうね。

 




私のセリフから始まる出し物ですし、セリフの数も一番多かったので一瞬の会場の空気を作るのはすべて私の出来にかかっている、と言っても過言ではなかったと思います。

 

人には悟られないぐらいのつもりでいましたが、私が堅くなっている、という空気感はそれこそ波動となって、会場じゅうに一瞬のうちに伝わってしまったのでしょう。

 

私以外の出演者の方の演技も、(さっきの練習のときのリラックス感がない・・!)というものになっているのを感じました。

 




そのようにして会場がし~んとしたままだと、今度は“観客”が敵に見えてきてしまうのです。

 

(この人たちは、私たちがどんなことをするんだ? どんな程度の腕前なんだ?というジャッジをしにきている人たちだ。)

 

という気持ちになってしまい、もう早く終わらせてしまいたい、とか何とかこの空気を変えたい、と思ってしまい、余計に早口になって突っ走ってしまうのでした・・



終わったあとに、お茶会と称して観客の皆さんにも一言をいただいたのですが、そのときにはみなさん一様に、

 

「あの出し物は楽しかった~」と言ってくださったのですが、それが形式的なおべんちゃらなのか、「あはは!」と声に出すような種類の笑いではなかったけれどニコニコ微笑ましい思いでほんとに楽しみましたよ、ということなのか、今の私には正直、ほんとうにどちらなのかわかりません。



ただ1つだけ言えることは、私は今回の発表会を“仲間との一体感”を感じることによって楽しんだ。

 

けれど、“観客までを巻き込む一体感”は得られなかった、ということです。

 

まぁ、そんなことが出来るほどの人はプロだけなんじゃないのぉ、と言われればそうなのかもしれません。

 

けれど「発表会」として人をお呼びしている限りは、自分たちだけの自己満足で終わっていいはずはありません。

 

それなら、「発表会」という名の、Jリーグではないですが「無観客発表会」にすればいいわけですから。



私は当初、この朗読教室で発表会を行うということについてはそれが楽しみでもなんでもありませんでした。

 

むしろ、(うへぇ、そんな企画があるのか・・ それは気ぶっせいなことだわ。)と思っていました。

 

けれどみなさんと練習を重ねるうちに1人だけでは決して味わえない一体感に昂揚してきました。

 

それは“間合い”の問題であったり、思わぬ“アドリブ”であったり、相手が「そうきたか!」ということをこちらも真正面から受ける、みたいな1人では決してできない、相手あってこその目には見えない丁々発止のやりとりが楽しかったのかもしれません。

 

そのようにしてみんなで1つのものを作り上げる、という達成感。

 

それは学生時代の文化祭以来のものでした。

 

そしてたまにはいいなぁ、こういうことも、と考えが変わっていました。



でも、そこどまりだったんですよね・・

 

同じ出演者の人たちとの一体感を味わうことはできたけれど、その会場にいる全員との一体感を味わうところまではいかなかった、ということです。

 

それは前にもこのブログに書いた、荒川静香さんの「アスリートが『試合では楽しみたいです。』というのは自分の持てるスキルを極限まで引き出し、自分で思うようにコントロールできること、という意味で言っているのです。」という意味で言えば、私は“楽しめなかった”というわけです。

 

でもだからこそ、またやりたい! リベンジしたい!と思うから不思議ですね。

人前で何かをする、というのはそれを通してしか出せないアドレナリンを感じるからでしょうか、その麻薬の中毒になっていくような気がします・・






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ちょっとせつない話

2014-03-28 09:05:00 | 身辺雑事

 

先日、「童話を書く教室」というものの体験見学に行ってまいりました。

 

なんでまた? って?

 

“書く”ことが好きだからです。

 

ただそれだけのことです。



ほんとはジャンルとしての“童話”というものにそんなに興味があるわけではないんです。

 

むしろ“幼児向け”という意味の童話ならはっきりと興味なし、と言ったほうがいいですね。

 

このブログでもよく折に触れカミングアウトしているように、私は幼児には全く興味がないからです。

 

むしろ、大人にこそファンタジーというか童話は必要だと思っています。

 

でもジャンルなんてなんだっていい。

 

それは単なる「区分」ですから、人のものと区分けするためにジャンルのほうがあとからついてくる、っていうこともあるでしょうしね。

 




そして“書く”ということに対して、メダカみたいに頭を並べて集団で“教わる”ということに対してもずーっと抵抗がありました。

 

書くという行為はひどく孤独なものだと思っていましたし(それは今でもそう思っています。)、教えてもらうたぐいのものではないだろうと思っていました。

 

けれど、1人だとなかなか腰があがらないということもありますので、教室に通ってみることがちょいと刺激をくれるスパイスみたいな存在になればいいな、と思ったのです。



さて、恐る恐る教室の扉をあけてみると、そこには先生と2人の生徒さん(ふたりとも私より年齢が少し上かな、と思われる女性の方でした。)がいらっしゃいました。

 

この教室はふだん4人の生徒さんがいらっしゃるとのことですが、たまたま2人がこの日は欠席だったので、たった2人しかいらっしゃらなかったのでした。それゆえにとてもアットホームな雰囲気になっていました。

 

だから、だったのでしょうか。

 

どうしてそういう話になっていったのか・・

 

今でも私は思い出せないのですが、先生が小学生のとき同級生だったある女の子の話をなさいました。

ちなみに先生は、60代の男性です。



1つ1つのその女の子にまつわるエピソードはとても心温まるものでした。

 

要するに、子どもながらとても“人間ができた”“おとなでさえそういう発想をして、そういう態度はなかなかとれないのではないか、と思われる善行を数々施し”“それによってこの童話教室の先生もすごく助かったことがいくつもあるし”“同窓会などが行われると必ず彼女のまわりには人だかりができるんだ”・・という女の子のお話でした。

 

この女の子の数々のエピソードをちりばめた童話はいずれこの先生がご自身の童話のなかに昇華して書かれることでしょう。(実際、そうおっしゃっていましたし)

 

だから、たった1つでさえ、この女の子の人と成りを表すようなエピソードをここで私がご紹介するわけにはまいりません。

 




この女の子(小学校を卒業してから50年の余が経っているわけですから、もう初老の女性ですが)と先生は今でもたまに交流はあるそうです。

 

そして、お話をすすめるとき先生はときどきこんなふうに自ら口をはさみました。

 

「いや、不思議と恋愛感情はまったくなかったんだよ。親戚みたいな存在でね・・」と。

 




すべてのエピソードが語りつくされたとき、教室は一瞬静寂に包まれました。

 

そして生徒さんの1人である女性がこんなことを言いました。

 

「先生、そうは言うけれど、やっぱり先生はその女の子のことが好きだったんじゃないの?」

 

先生はわざとおどけたようなふりを見せながら、

 

「そうかもしれないなぁ。あぁ、あの子を嫁さんにしておけばよかったなぁ。あはは。」

 

と言いました。

 

生徒さんはさらに、

 

「でも、なんていうかいい子すぎて“聖域”みたいな感じで、踏み込めなかったんだね・・」

 

と言いました。



下世話なことですが、言ってしまえばそんなところが図星じゃないかなぁ、と私もそんな気がしました。

 

そして何だか「いいお話だったなぁ。」というより、とてもせつなくなってきてしまったのでした。

 

何がそんなにせつないのか?

 

世の中には、惹かれあいながらも、何かのいたずらで恋人同士にはなれない男女というものがあるよなぁ、と思ったからです。

 

違う知り合い方をしていたら・・タイミングが少しずれていたら・・実に簡単に恋に落ちていたかもしれない。

 

それは台風とか地震とか津波とか、天変地異によるとてつもなく環境が一夜にして変わる、ということによってという場合もあれば、生まれ育った環境や周りの大人たちによってのこともあるでしょうし、自分自身のスタンスの問題という場合もあるでしょう。



私にはこの「児童にしてはやけに人間ができた女の子」がどうしてそんなにも“良い子”でいる必要があったのか? その生まれ育った背景に興味がありました。

 

そして案外この女の子もこの先生のことがずっと好きだったのかもしれない。

 

けれど“良い子”だったから、“良い子なゆえにみんなから慕われているだけ”ではないか、と思い自分から告白できなかったのかも、などとも思いました。

 

だからせつなくなったのでした。

 




私にもそんな思い出があります。

 

小学校のときの初恋は高らかに「○○くんのこと好き~!」というようなオープンなものとして発令され相手に受け止めてもらう、ということとしても成就しませんでしたし、淡い思いさえ相手には伝わりませんでした。

 

それは私が“実にしっかりした子ども”としてクラスで君臨し、いつもその男の子のわんぱくさを先生のようにたしなめる立場にいたからです。

 

“先生のような立場”から“いたずらがすぎるわんぱく坊主”に告白はできませんよね・・

 

ちょっと童話の先生の話と似ていますね。

 

成就できなった思いは、何度もそれから大人になってからも夢に出てきました。

 

そして現実の世界で成就できなかったことは、たとえ夢のなかでさえ成就できるはずがなかろうと言わんばかりに、夢のなかでも「あとちょっと・・」というシーンになると必ずそこから先はうじうじして進展しなかったり、目が覚めてしまったりするのです。

 

これもせつない思い出です・・


そしてせつないけれども、それは決して嫌な後味ではありませんでした。

 

年齢を重ねても変わらない気持ちがある。

 

年齢を重ねたから昇華させた思いがある。

 

そんな男女がいる。

 

いったい日本国中に、いや世界中にそんな男女が幾人、幾百人、いや何千万人いるのかもしれないなぁ、と空を見上げました。



今日はちょっと年寄りの冷や水というか「だからぁ? 何が言いたいのよ?」というお話になってしまいましたね。

年寄りはセンチメンタルになるものなんですよぉ。許してね。







 

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ドリームキラー2

2014-03-27 09:02:00 | テレビ番組

 

昨日に引き続いて、「ドリームキラー」のお話です。

 

人の心配をしているように見せて、実際にはその人が変わってほしくない、変わることを恐れているがために引き戻すような発言をする人のことを「ドリームキラー」と言うのですが、もちろん、人には2種類あって、他人の成功を喜べる人というのもいらっしゃいます。

 

あえて名づければ「ドリームキラー」に対して「ドリームサポーター」という人ですね。



また昨日の本のなかでの記述ですが、

 

「世の中で成功している人は、明らかにこの他人の成功を喜べる人のことです。

 

みなさんは富裕層を相手に商売することをどう思うでしょうか?

 

自分はお金に困っている人にも喜んでもらえるような仕事がしたいと思うでしょうか。

 

どのような考え方も自由です。

 

しかし、富裕層というのは多くの場合、言い換えれば“成功者”ということです。

 

成功者はたいてい何度も何度もドリームキラーに出会いながらそこを乗り越えてきた人ですから、そういう人は他人の成功を喜べる人であることが多いのです。」

 

だからそういう人を相手にした商売をすることは非常に勉強になる、という意味のことが書いてありました。



この箇所を読んだとき、私は少し前のテレビ番組を思い出しました。

 

それはしょーもないといえばしょーもないバラエティ番組でしたが・・・

 

番組のタイトルは忘れましたが、「出身校によって、年収はどうなっているのか?」というところに焦点を当てた番組でした。

 

「東大卒の、テレビに出てくるような有名人たちの年収ピラミッドを見ると、どんな人が頂点にたっているのか?」というような。

 

つまり、日本の知識人としてはトップクラスの教育を受けた人がその後、年収で色分けしたときどんなことになっているのか?ということを面白おかしく紹介していました。

 

そんな、「東大―年収」という2つの軸だけで人の人生をはかろうとするほうが無理なんじゃないの、って?

 

そのとおりです。

 

答えはもう言わなくてもおわかりのように、たとえ東大卒であろうとも年収 何万円という芸能人の方から、何億円(何十億だったかな?)までいらっしゃいました。



そのコーナーで、「マジシャンの年収ってどんなピラミッドになっているのか?」というものがありました。

 

忘れてしまいましたが、確かトップの方で年収が億には達していなかったと思います。

 

ただそこで印象に残っているものがあったのです。

 

マジシャンでトップだったか2番目くらいの方だったかはまた忘れてしまったのですが・・・

 

いずれにしてもかなり稼いでらっしゃる方というのはどうしてそんなに高収入を得ているのか?ということでその人のある1日に密着した映像が流されたときのことです。



そのマジシャンは自分で作ったコネで、とてもお金持ちの起業家がほんの10名ほどのご自身の親しい方たちを集めて行うパーティの余興などに呼ばれることが多いのでした。

 

そのマジシャンを呼ぶために主催者の起業家は約束のギャラを支払っています。

 

けれど、そのマジシャンの本当の収入はそんなものではない、というのです。

 

そこでテーブルマジックなどを披露したあと、各テーブルを回ると、そのパーティに呼ばれていたお客様たちが彼にバンバンご祝儀というかチップを渡すのです。

 

それはもう私のような庶民からするとチップというネーミングがふさわしくないようなものでした。

 

少なくとも10万円、多い人だと50万円とか手渡しているようでしたね。



その様子がテレビに映し出されているのを見たとき、私は「すごいなぁ!」と驚くと同時に、そんなにあげるのっておかしいだろ、という嫌悪感のようなものを感じたのでした。

 

そのマジシャンに対する「Good Job!」をたたえるチップではなく、俺にはこんなはした金たいしたことないんだよ、とでも言わんばかりに湯水のようにお金を使うことによって自分を大きく見せたがっている恥ずかしい人たち、というように、そのチップを与えているお金持ちが見えたからでした。



けれど、私はこの人たちを誰も知らないしせいぜいテレビに向かって毒づくくらいが関の山でしたが、もし、その場に何かの拍子に参加していたとしたら、私は「ドリームキラー」になっていたかもしれない、とふと思ったのでした。

 

「ねぇ、おかしいんじゃありませんこと?

 

彼にそんな大金を握らせてあげるのって。

 

あのマジシャンのためにもならないと思うわ。」

 

なぁ~んてことを言って、多くのチップをはずもうとする人たちをたしなめる役に回ったかもしれない自分。

 




けれどあのパーティに出席していたお金持ちの人たちはやはり、相当な苦労をして今の自分の地位を築き上げた方がほとんどなことでしょう。(・・ひょっとしたらあぶく銭を手にしただけでそうでない人もいるのかもしれないけれど。)

 

そういう人があるマジシャンの芸を見て、

 

「ほう! これはすごい。とても面白い。」

 

と思うにとどまらず、

 

「このマジシャンも舞台上だけは華やかに見せているけれど、これだけの技術を身に着けるには相当な苦労をしてきたことだろう。

 

その苦労は今も続いているに決まっている。

 

私はその彼がもっともっと飛躍するためにエールを送りたい!」

 

と自分が歩んできた道とマジシャンの姿を重ね合わせて、“今、この場での彼の演技”に対してだけではないお金を払い、「ドリームサポーター」を演じたのだとして、誰がそれを「今日のマジックだけに対してだけならば、その額は相当とは思えない、ふさわしくない。」と決めつけて責めることができよう?と思いなおしたのです。

 

それはまた彼らにとってもマジシャンに対してだけではなく、自らの今後を奮い立たせるための投資にもなっているのでしょう。

 

いずれにしてもチップの多寡を自分の立ち位置からのみ“ジャッジ”することは「ドリームキラー」の仕業のように思いました。



そして改めて私自身、「ドリームキラー」になることなく「ドリームサポーター」になれるようでありたい、と思ったのでした。








 

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