ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

DV加害者の罰

2013-06-13 09:06:00 | ニュース

先日、テレビでDVのための更正施設を紹介していました。

DVを“更正する”のですから、DV被害者のためのシェルターの紹介とかではありません。

DV加害者たちの更正学級のようなものでした。

かつて自分の妻にDVを働いていたという夫たちが当時どういうつもりでそういうことをしたのか、という話をみんなの前で開示させ、自分が間違っていたということに気付かせ、今後はどんな言動で臨めばよいのかということを学んでいく、というクラスでした。

彼らの発言を聞いていて私はだんだんムカムカと胸が悪くなってきました。

「妻を殴っておいて子どもにも『見ろ、お母さんはバカだからこういうことになるんだ。』って教育していました。」

「ほかの人からいくら何を言われても、自分にはこれが暴力だ、という意識はありませんでした。だって、家庭内のことなんだから・・」

こう語る彼らの口調は、人前で自分の思いを吐露できる喜びに嬉々とさえしているようにこそ見えても、反省しているようには全く見えませんでした。

特に後者の人なんて何を履き違えてるのか、「これが暴力という認識はなかった。」ということと「家庭内のことだから。」がなぜ、「だって」で結びつくのか?

自分の妻は殺したってどうしたってかまわない自分の所有物だとでも思っているのか?

さっぱり理解できません。

これを“だから”という接続詞で結びつけて語っていること自体、まだこの人が何にも更正なんてしていない証拠じゃないんでしょうか、と言いたくなります。

そもそも1週間にたった1度、それも2時間程度、1年続けるとの話ですが、そんなもの、カルチャーセンターのノリじゃないですか。

ほんとにそんなレベルの講習で彼らの性根が叩きなおせるんでしょうかね。

麻薬や覚せい剤にハマってしまった人たちを更正する施設は全寮制で1年とか2年とか「年単位」で常に監視の目のもと生活させられます。

それくらいのことがDVを犯した人たちにも必要じゃないんでしょうか。

どうやら聞いているとこの更正施設では、「今後どうしたらいいのか?」ということの授業のほうに重点が置かれているような気がしました。

それはまるで私がやっている接客講習の内容にも似たようなもので、“言葉の置き換え”が中心でした。

「おい!」と妻を呼ぶところを「ねぇ。」と言いましょう。

「なんでそんなこともできないんだ!」は、「こうしたらどうかな?」という提案にしましょう。

ぬるい・・

実に手ぬるい・・!

こんなことで彼らのやってきたことが帳消しにされてもいいのか!

怒りにも似た気持ちが湧いてきました。

私は個人的には全くDVには縁がありません。

ダーリンは優しいし、両親もむしろ父のほうが母の言葉の暴力を受けていたきらいがあるほどですが(これは、私が時々このブログにも書く母のエピソードなどからも想像がつくことでしょう・・)父はまったく温厚な人柄だし、身近な人や親せきにもそんな人はいませんでした。


なのに、DVのニュースを聞いたりするとどうしてこんなにも血が騒ぐのだろう・・?

それはきっとものすごく「不公平感」を感じるからでしょうね。

そもそも男女ではその筋力、パワーが肉体の構造からして違う。

もともと頑強に出来ているほうが、弱い者を傷つけて「それほどの意識じゃなかった。」といけしゃあしゃあと言い放ち、自己開示をするという手ぬるい方法での更正というぬるま湯のような中に浸かっていられるというのが許せないんですよ、どーしても。

人の肉体の痛みは自分の肉体の痛みでもって知れ! と言いたいわけです。

こういう人は、自分よりさらに頑強なプロレスラーのような体格の人に一発殴られてみるといいんだわ。

こんなことを言い放つ私は、とてもオーラソーマチックじゃありませんが、肉を持ってこの世に生まれた以上、精神論ばかりではどーしようもない、この「肉が疼く」っていうような痛みを他人事であっても感じることがあります。


そんなとき、ニュースでアメリカでNFLのスター選手だった人が妻にDVを働いて禁固1年という判決が下りた、という話を知りました。

この話にはまだオチがありました。

アメリカには司法取引があります。

それによって彼は、いくらかのお金と引き換えに実刑の禁固をまぬがれ、その代わり保護観察の期間が3ヶ月延びる、という異例ともいえる処遇を勝ち取ったのでした。

アメリカではこのように有名人やスターは、司法取引で優遇されるような傾向があるといいます。


問題はここから。

裁判長からこの決定を聞いた彼は、「やったぜ!」というつもりで、隣に立っていた弁護士のお尻をポォン!と平手で叩いたのです。

スポーツの世界ではよくあるようなシーンです。

例えば野球であわや外野に抜ける!と思われた打球をショートが横っ飛びで捕球し、一瞬のうちに3アウトになり交代。ベンチに戻るときにほかのナインがショートに対して、「お前、でかしたぞ!」って感じでグラブでポォンとお尻の辺りを叩く。

あんな感じです。

しかし、これに対して裁判長は激怒しました。(ちなみにこのときの裁判長は女性でした。)

「あなたね、裁判ってものをナメてるの?」

「・・・いや、そんなつもりは。」

「だったら、その軽い態度はなに? 取り消し! 取り消しです。司法取引は今の行為を持ってなかったことにします。被告○○を禁固1年の実刑に処します。以上。」

被告、見るも無残なほど肩を落とし、がっくし。

この被告はそれ以前にも保護監察官と会うことになっていた約束をすっぽかすなど不真面目なところが見えたとのことですので、そういうことも含め合わせ技1本、って感じだったと思うんですが、いま、アメリカではこの裁判長がとった処置に対して賛否両論分かれてケンケンガクガクなんだそうです。

「よくやった!」という人たちと「ちょっと厳しすぎるだろう・・」という人たちと。


私はもちろん、前者の「よくやった!」というほうです。

スカッとしました。

「厳しすぎるだろう」という人は、そもそも自分より明らかに弱い女の人に対して暴力をふるった人間が経過観察の保護処分になっている、というところを改めて思い出していただきたい。

お尻をポォンと叩く、なんてことは日常のなかでもよくある握手と同じようなレベルのものであり、裁判所という中でそれをやったのは確かにそぐわなかったかもしれないが、まぁそれで刑罰の軽重が変わっちゃう、というほどのものではなかろう・・ということではなく、それ以前にこの男が何の罪でここへ来ているのか、ということですよ。


このNFLのスター選手かなんか知りませんが、裁判を受けている間にも妻は「ちょっとぐらいの刑ですぐに出てくるなら、また私は暴力を受けるのかもしれない・・」と怯えているかもしれない。

その傷は跡になって残り、一生消えないのかもしれない。

心にも傷を負っているでしょう。

それを本当に重く受け止めているなら「やったな! お尻ポォン」なんて出来るわけがないでしょう。


この加害者が犯したことと、加害者に課せられた罰の比重の悪さに腹が立つんですよ、いつもDVの話になると。

「言語道断」という言葉があります。

仏教の教えの奥深さは言葉では言い表せない、ということを語源とした言葉で、あまりにひどいこと、もってのほか、という行為のことを「言語道断」というようになりました。

このように時々言葉の無力さを思うことがあります。

DVを働くような人は、言葉の贅を尽くして説法してあげるより、同じ肉の痛みを知ったほうが早いんじゃないですか、と思ってしまう私なのでした。






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