ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

自律神経失調症

2008-08-31 00:07:57 | 健康・病気

ダーリンが救急車で運ばれたのを受けて、私はかつて自分が救急車で運ばれたときのことを思い出しました。

それは、30代の半ばのある日のことでした。

 ワケもなく心臓が早鐘のように打って、収まりそうにもなかったんです。運動したわけでもなく、緊張しているわけでもなく、くつろいでいるにもかかわらずただひたすら心臓だけがドクンドクン打つというのは気持ち悪いもんですねえ。自分の体が自分でないようで。

 親戚の家に遊びに行っていたときだったので、家の人が救急車を呼んでくれました。不思議に病院につくやいなや動悸はおさまってしまい、そのままなんの治療もせずに家に帰されました。(なんか、ダーリンと似ているわ!)

 しかし、それ以来体が以前の状態に戻ることはありませんでした。

動悸に加え、視野狭窄、めまい、胃腸の不調などいろんな症状が表れました。病院にいき、あらゆる検査を受けましたが、どこも悪いところは見つからず、消去法で「じゃ、たぶん自律神経失調症でしょう」と言われました。

そのときに初めて発見したことですが、

「ストレスの多い生活を送っていますか?」と尋ねられ、瞬時に私は「いいえ」と強く否定していました。

 私は、ストレスを強く感じる人、というのは、実際に生活が忙しいとか重要な仕事を任されてプレッシャーを感じている、とかよりもそれに対して不満がつのったとき「言いたいことがあってもいえない人」のことだと思っていました。言いたいことがあればどういう話し方をすればいいのか、を考えるより先にまず口に出てしまうくらい言いたいことを思いっきり言う人だった私は、だから全くストレスを感じていないはずだ、と思っていたわけです。

 医者は(これ以上言っても無駄だ)と言わんばかりの苦笑をたたえて、

「ま、そういう言い方をする人ほど、ストレスが多いって場合が多いんですよ。」と言いました。それでも私は、「私のことじゃない」と思っていました。

今になってようやくわかるのですが、ストレスの多い人、というのは、「自己の内側に強烈な怒りや不満などの負の感情を溜め込む人」なんですよね。

 だったら、確かに当時の私はそれでした。

オーラソーマのボトルで言うと、5番とか6番でしょうか。

強烈に「赤」をもっていたわけです。

「赤」はそのイメージどおり、「情熱的」とか「エネルギッシュ」という意味があります。それが外に向けて、上手に発散されているときはいい循環なのですが、いった内側にためこんでしまうと、自分の内にこもった強烈なエネルギーがぐるぐる出場所をなくして自分の中をかけめぐり、結局自分を傷つけてしまうことになります。

その当時私が一番恐れていたことは、食べ物屋さんに入って、急に最初に救急車で運ばれたときのようにひどい症状がでたらどうしよう、ということでした。

もちろん、食事どころではないですし、倒れたりしたら、「うちの店の食べ物に当たった!? 」とお店の人を不安にさせ、事情がわかったら、「やあ、どうしよう。ほかのお客様の手前もあるし、迷惑な話だ。」とうとましがられるだろうな、と考えるだけでまた動悸が早くなってしまうのです。

 コーヒーぐらいの話なら急に用事ができたようなふりをして飲み残しても、さっさと出てしまって公共の道路ででもぶったおれればまだ誰にも迷惑かけないかもしれませんが、コース料理の途中なんかだったりしたらもう悲惨だな、と思うと友達とどこかレストランに出かけて食事をする、と言う気にもなれませんでした。ましてや、お酒なんてとんでもない。

 
今でも一番印象にのこっているのは、満員電車というほどではないですが、座ることはできずに立って電車にのっていたとき、バッグをだらりと両手を下げた状態でしか持つことが出来ずに、ドア近くでコンパクトなハンドバッグを

肘を折りたたむようなかたちでもっている若い女性をみたとき、強烈に「うらやましい」と思ったことです。

  こんななんでもないポーズをとることができない。そして、この光景を「うらやましい」と思った自分がいる、ということをいつまでも胸に刻みつけておこう、とそのとき思ったのです。

病気になって初めて健康のありがたみがわかる、といいますが、それだけではなく、人の痛みもわかります。

 それまでは車椅子に乗った人を見ても、自分の足で歩けない、と言う不自由さのみにしか考えが至りませんでした。しかし、けっしてそれだけではないはずです。たとえば、足がつかえずに上半身でなにもかもやるために健常人の倍以上の疲れや負担が上半身にはたまっているはずです。

そんなことにも及ばずながら少し考えが至るようになりました。

それから私がまあ、これなら普通の状態に治ったといえるだろう、と言う状態になったのは1年以上を要しました。

 今にして思うと、極端に耐性がなくなっている、というか免疫力が落ちた状態だったのだと思います。自分を傷つけてしまっていたから。

これからも人生折り返し地点をすぎていますからねえ。いろんな肉体面の不調はでてくることでしょう。

でも、少なくとも自分の内側に怒りや不満をためこみすぎたがゆえに結果的に自分を傷つけたことによる不調、というものにはもう陥らずにすみそうです。

 肉体の不調に見舞われても、その時々の現象面だけにとらわれずに、また原因に言及しすぎることもなく、目に見えないからだであるエーテル体やアストラル体の健康にも思いをはせながら、(だから、そりゃあ、不調なことだってあるでしょ)ぐらいの気持ちで乗り切って生きたいなと思っています。



オーラソーマヒーリングサロン「些々羅」では、コンサルテーションを受け付けております。場所は岐阜駅から徒歩5分ほどのところです。
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健康のありがたみ

2008-08-30 08:17:38 | 健康・病気

 夜中に先に寝ていたダーリンがむくっと起きて言いました。

「あ! 腰が痛い! 寝違えたみたいだ。」って。

最初はじゃあ、当面は炎症を起こしたんだろうから冷やしたほうがいいんじゃないの、とか冷やしてみたらかえって痛みがひどくなってきた、やれ、温めてみよう、だのあれこれやっていましたが、どうにも痛みがおさまらないみたい。

寝違えたのなら、特定の動きをするとさらに痛む場所があったり、逆にすごくラクになる姿勢があってもよさそうなものなのに、寝てようが腰掛けていようが、立っていようが痛みの度合いは同じらしい。

熊のようにうろうろするダーリン。

「どう? ちょっとは和らいできそうなのか、どんどんひどくなってくるのか?」

と聞いたら、「どんどん痛みが増してくる。」と言う。

それはいかんじゃないか、というわけで「病院いく?」と聞くと「いく」と言う。

さらには一刻を争う、もう我慢できない、というのでついに救急車を呼びました。

「歩ける」というので、アパートの1階までは自分で降りて、救急車に乗り込み、まずは問診。

「いつごろから?」「痛みの度合いは?」「年齢は?」「おしっこの色は?」などなどいろんな質問をされたけれどそのどれの答えも救急隊員の人たちに(3人も来てくれたんです・・)、ずばりと病名を特定できてこれならあの病院だ!という気にさせることはできなかったようで、「とりあえず総合病院に行きます。そこでいろいろ検査してもらいましょう。」と言われて、県立病院へ。

私も一緒に乗り込んで、外を眺めると、なんと道路は冠水状態!

今日は雷も鳴って、ひどい雨がつづいてるよなあ、とは思ってたけど、そんなお気楽なものではなかったらしい。ひえ~!

救急車の中で急にダーリンが、「あ!」と軽く感嘆符をあげたので、「なに?」と私も声を潜めながら聞くと、「治った・・・」

はあ?

「急に今までの痛みが嘘のように全く消えたんだよ」と言う。

それを聞いていた救急隊員の人が、「やっぱり、結石かもしれませんね。のたうちまわるくらい痛くても、かえって動き回ったほうが何かの拍子に違うほうに石が移動して治っちゃう、ってことありますからね。でも一応調べてもらいましょう。」と言ってくださいました。

県立病院の、救急救命センター入り口のところに到着するとすでに医師の方が出迎えてくださっていました。(ここでも4人も!)

「あの~、治っちゃったみたいで・・」と言うと、ちょっと苦笑いを浮かべながら、「ま、調べてみましょう。」とおっしゃり、ダーリンとお医者さまは奥の部屋へと消えていきました。

最近、いいかげんな理由で救急車を呼ぶ人が増えているらしいですね。

ましてやこの豪雨ですからタクシー代わりに呼んだんじゃないのかあ?!と勘ぐられてもしかたのない状況でなんだか肩身のせまい思いでしたが、先生がたは「なあに。そんなこと気にしなくていいんですよ。」とにこやかに言ってくださいました。
こういう優しさにまたつけいる人とかもいるんだろうなぁ、なんてことも思いつつ・・

受付の人に「今、あの2番でみてますからね。奥さんは、その扉の前の椅子にでも腰掛けて待っていてください。」と言われて、ぽつねんと腰掛けるわたくし。

まるでドラマの1シーンです。

長く細い廊下。

カツーン、カツーン、とだけ響く靴の音。

t-シャツにジャージというとりあえずの衣服で傘を抱えて、長いすに所在なげに座っている中年のおんなひとり。

その間にも受付にはバンバン電話が入ってくるのが聞こえます。

「はい? 手首が折れた? じゃあ、ぶらぶらですか?  はいぃー、ぶらぶらね。」

ぞぉーっ・・・

はいぃー、「ぶらぶら一丁上がり。」って手馴れた感じで言われてもねぇ・・

ますます心細くなるわたくし。

今度は長い廊下を若い夫婦が赤ちゃんを抱きかかえてやってきました。

赤ちゃんはなんだかぐったりしています。夜中に高熱でも出したんでしょうか。可哀想に。赤ちゃんは急に容態が変わるからねえ。

赤ちゃんを抱いた若いお母さんと目が合いました。


不思議ですねえ。

こういうときバチッと目が合うと、一瞬でお互いにどちらのほうが不安な目の色をしているかわかってしまうんですねえ。そして、(ほっ。私のほうがまだこの人よりはましなようだ。)なんて安堵する。


そして、いかん、いかん、人の不幸を天秤にかけるようなことをしては・・と自らを戒めようとしたとき、

「いよっ! 終わったよ。」と元気そうなダーリンの姿が。

CTを撮ったのだけれど、CTというやつは5ミリ間隔でしか輪切りにできないので、5ミリ以下の結石がちょうどその間隔に入り込み写らないこともあるのだとか。早い話がなんもわからなかったわけで。

自宅で飲んできた痛み止めが効いているだけなのか、どこかに結石が移動したから痛みを感じなくなったのかもよくわからない。

なんにもわからないままタクシーを呼んでもらって自宅に帰りました。


ダーリンがタクシーのなかでぽつりと言いました。

「俺、本気でやせよ。」

いまだって、一応、ダイエットメニュー出してるんですけど。

「いや、もっと本気にやせなあかんと思った。」

ふーん、今まではそんなに深刻には考えてなかったんだね。

まあ、ダーリンなりにすべての病気の原因になるものが今の自分にあるとしたら、それは太りすぎから来ているのだ、と自覚したのでしょう。

こういう、なんとなくの勘というやつはたいてい当たっていると思います。

Ekkoちゃんもやよ。」

へ?

Ekkoちゃんもやせなあかんて。大体、いつも聞いてるとランチにヘビーなの、食べすぎだって!」

ちょ、ちょっと待ってよ。やぶへびだわ。人間、元気になるとすぐに他人のほうに矛先を向けたがるのはなぜ?

まあ、今回はダーリンは人生初の救急車処女体験というのをしたわけですけれど、大事にはいたらなくてよかった。

と、思うと同時に月並みですけれど、ほんとうに健康のありがたみを感じました。人間、ちょっと体調を崩したりしないと健康のありがたさに気付かないんですよね。

以前に、どこかのお医者さまが言っていたことを思い出しました。

「そこに、その臓器がある、と気付かないでいられるのは健康、ということだ。」

そのとおりですよね。胃が痛いから胃がそこに在ると気付く。胸が苦しいからそこに心臓があったり、肺があったりということに気付く。

これと同じように普段は、「そこに、こんな幸せが在ると気付かないでいられることは幸せだ、ということだ。」という暮らしをしてんでしょうね。



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キャンドルの効用

2008-08-29 08:28:31 | オーラソーマ

またまたカバラ入門の書から面白い記述を見つけました。


「実際にオーラを見る」方法について、です。

「オーラソーマ」の「オーラ」が「光」や「魂」という意味をあらわし、決して神秘の「あぁ、あなたのオーラが見えます」という話でないことは、オーラソーマを学ぶ者であれば初日に知ることです。

  そして、実際私自身、自分がほかの人のオーラが見えるようになったりしたい、と思ったことはありません。(とはいえ、最近時々見えるようになっちゃんたんだよねえ・・)また、見えたら見えたで、それがその人が選ぶ第一のボトルである魂の色と合致するものであるのかどうか、その関連性などについて考察したことはありません。なにせ、時々見えるようになったとはいっても何も関係ないようなときにふとあ!今、この人黄色だ!とか見えるときがあるだけで、オーラソーマのコンサルテーションをやっている最中に見えたことはありませんので。

ですから、そこを掘り下げたいと思ったわけではないのですが、カバラのマスターである女史がその門を叩いた弟子にこう言います。

「あなたはオーラを見たことがある?」

「いえ、ありません」と弟子が答えると、「あれは誰にでも見えるものよ。見せてあげましょうか?」といいます。そしてその方法たるや、なんの練習も必要がなく、すぐその場でどんな人でも見えるものだったのです。

どういう方法かというと女史は、「部屋の電気を消して、キャンドルをつけましょう。電灯が発明されてから、人類は一気にオーラ視覚を失ってしまった。キャンドルの深い陰影の中でしか、オーラはみえないからよ。」というのです。

どーです!

これだけでも衝撃的な記述だと思いませんか!?

前にもなんかの本とかネットをひいていたときそういうサイトに飛んだことがあって、たまたまオーラが見えるようになる方法が書いてあったことがありましたが、それには「補色残像をじっと見つめる」など多少のトレーニングが必要でした。

 ですが、ここではただキャンドルのなかに身をおけばいい、というだけなのです。

まず、部屋の明かりを消して、キャンドルだけの明かりにする。

するとまず、平面的だった部屋がにわかに立体的に感じるという。(しかし、これはほとんどの家が上手に間接照明を使っていないだけかな、とも思うけれどね。)

そして、キャンドルの明かりを見つめる。


このときのポイントは、キャンドルの炎となった部分だけにじっと目を凝らさないようにすることだ、といいます。

女史は言います。

「人間の視覚は意識に導かれたところに焦点をあわせるようにできている。そこに焦点を合わせているから、その周りに何が在るのか気がつかないのよ。ちょっと焦点をずらして、明かりの周りをよく見てごらんなさい。とても淡いものだけれど、うっすらと緑や青や紫の光が幾重にも同心円状に取り巻いているのがわかるでしょう。」

そして、一方向からだけではなくて、90度、90度と角度を変えながら、4方向からキャンドルの周りを見てみる。そうすると、同じことがが起こる。つまり、この同心円は平面ではなく、立体的な球であることがわかる。そこでまた女史は言います。


「キャンドルは単なる明かりではない。それは天界の秩序をあらわす宇宙モデルなの。世界中どこでも死者には灯明をささげるけれど、それは死後に赴く天界の構造を明示し、そこに無事にいけるように導いているの。

 あなたは、その宇宙モデルが最初は見えなかったけれど、見えるようになった。何が違うのだと思う?」と弟子に問いかけます。

 弟子がよく意味がわからなくて、????でいると、

「意識よ。意識を炎からそのまわりにずらしたわね。するとキャンドルは照明器具ではなく、天界の象徴となった。ここに意識の転移が起こったのよ。すると今まで見えなかったものが見えるようになった、というわけ。」

この「意識の転換」ということがカバラの修行のポイントらしいです。(らしいです、としかいえないのはカバラについてはその周辺を取り囲むもろもろの認識だけで毎日目からうろこ状態なため、なかなかその本質にたどりつけないでいるからです。)

 つまり、「内的体験の視覚化」。

それは、内側に目を凝らして、そこに展開する世界を視覚によって捉えることを意味します。この視覚化能力を持って内側世界に入れば、そこで何が起こっているか見定めることが出来る、というわけです。

「カバラ的にいうと、肉眼の視覚対象は物理的次元、つまりマルクトしかないけど、視覚化はマルクトだけではなく、ほかの9つのセフィロトも対象にできるのよ。」


???????????

ひえ~! わっかんねえ~。

ここでようやく私が知りたいと思っていたかバラの生命の木のスフィア(球)やパス(道)の名前が出てきたけれど、意味がさっぱりわっかんねえ~

というわけで、今日は、あくまでも「キャンドルの効用」ということに話を戻して進めましょう。

キャンドルを炎を見つめるのではなく、ちょっと意識をずらしてまわりをみることによって淡い光が認識できる、というところまででした。

その感覚を大事にして、今度は同様にキャンドルの明かりの部屋のなかで、同じように自分の指先を見るんだそうです。指先に焦点をあわせるのではなく、指先のさらに先に意識をずらしてみて、暗いところを背景にして。


そうすると、キャンドルの周りの光と同じようなうっすらと淡い光が見えます。それがオーラだ、というのです。

オーラを見る一番いい方法は、キャンドルの光から周りの微細な光に意識を転移するコツを飲み込むことなんだそうで。

女史は続けます。

「生物、無生物をとわず、すべてのものはオーラを放っています。このオーラは、半分客観的、半分主観的な特性をもっていて、見る人によって光や形が多少は変わります。エーテル体の体験が深まれば(これは先日お話した呼吸法のことでしょう)、オーラの視覚化が物理的次元からエーテル的次元から発していることが理解できるようになるわ。つまり、マルクトからではなく、イエソドから発しているということね。」と。

いや~ん! また、わっかんな~い。

しかも、さらりと言うけれど、すごくいっぱい考えなければならないことがありそう!

無生物にもオーラがあるってことは「オーラ」って「波動」のことなの?

そしてそれが客観的な特性と主観的な特性の両方を兼ね備えているっていうことは、意識の次元は人それぞれの次元がいっぱいあるってことなの?
私が常々知りたいと思っているこの世の次元からではない大いなる宇宙からのメッセージを受け取るための次元とは、人それぞれの主観的な部分がまじっていていいものなの?

考えると今の私のレベルでは考えてもどうしようもない深みにどんどんはまっていくようで(これが、生命の木で習った深淵に落ちるってことだったりして)

知識も体験もあまりに未熟なうちに頭で考えすぎないようにしようと思って、ここで思考を打ち切りました。

そして、とりあえず今の私にできること、キャンドルの光でオーラを見てみよう、と思い、早速買ってきましたよ。でっかいキャンドルを。

そしたら、確かに見える、みえる。うっすらと淡い光が! 私が瞑想のときにまぶたの裏にみていたものと似ています。逆に日中、私が人のオーラがたまに見えるようになったと思っていたものとは違うような気がします。だって、日中のはもっときれいに色がついて見えるもん。あれは周りのほかの色に影響されているだけなのかなあ。

でも、みえちゃんとプラーナを見てからというもの、誰におそわったわけでもないのに、「ほんとうに大切なものは、焦点をじっと合わせては見えないところにあるものだ。」ということにはなんとなく気付いていました。

「星の王子様」も同じようなことを言っているではありませんか!

「本当に大切なものは見えないところにある」って。

さらに言えば、今見えているものの意識をずらしてみるだけで、大切なことに気付くってことでもありますよね。

私はカバラのことがわかれば、自分が生まれてきた意味やら人間の役割やら、天界の構造やらいろんなことがパーッと目の前に開けるがごとくわかるようになるんじゃないか、とわくわくしていました。

でも、そんなことではないかもしれない。実際には何も変わらないかもしれない。でも、多少なりとも知った私はやはり、すんごく変わるのかもしれない。

そのどちらにしても私の周りにいる人たちから私を見たら何も変わっていないことは明らかだろうし、実際に目に見えては何も変わらないのだろうな、と思います。


最後に私でも理解できた女史の言葉を紹介し、今日は終わりたいと思います。

「カバラの修行を志すなら、何よりもまず毎日の生活にキャンドルを取り入れてください。食卓において、夕食のときはキャンドルにするとか、ベッドルームにおいて、就寝前はキャンドルで過ごすとか、いろいろ工夫するといいわ。キャンドルを使いこなすだけで人生は大きく変わるのよ。」

オーラソーマでもいつも授業でみんなが集まると先生はまず「献灯」といって、キャンドルに光をともします。それは、たまたま同じ授業のコースを申し込んで集まったけれど全く見知らぬ者同志の胸に同じ志をともすためのものだと信じていました。もちろん、そんな意味もあるんでしょうけれど、キャンドルがこんなに深いものであるとは思いませんでした。


キャンドルで人生が大きく変わるなら(もちろんいい方向にですが)、ちょっと毎日の生活のなかにキャンドル、取り入れてみたいと思いませんか?



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「がんばらない」はかえってストレス

2008-08-28 07:18:00 | 身辺雑事

 知り合いの女の人がぽつりと言いました。

「最近、『がんばらなくていい』ってやたら言われるんだけど、あれってやめてほしいのよね。私の若い頃は、がんばれ、がんばれって言われてきたから、いまさらがんばらなくていい、って言われたって困っちゃう。」って。

  その女の人は、50過ぎだけど、独り身でバリバリに仕事をしてきて、もちろん今でも現役です。見た目にも30代にしか見えません。そんな人にとっては、がんばらなくていい、と言う言い方は「がんばってきた自分を否定されている」ように聞こえてしまうらしいのです。

なるほどな~と思いました。

私もちょっとそんなところあります。気持ち、わかります。

鎌田なんとかというお医者さんが書かれてベストセラーにもなった「がんばらない」という本は、ガンなどの患者さんに対して言った言葉です。

ガンになって病気と闘っている人に「がんばれ、がんばれ」と励ましのつもりで言っても、(十分、がんばっとるわい!これ以上どうしよ、って言うんじゃ~)とストレスを与えてしまうからそういう励ましはよくない、ということを言ったものだったはずです。

確かにそりゃそうですよね。

ガンなんて命をかけて様な病気になったら、その時点でもうがんばってるんだからそれ以上がんばれ、って言われても自分じゃどうしようもない部分もあるし・・・

そういう場合「がんばらなくていい」の前には「もうこれ以上」とかの形容詞がつくはずです。だけど「がんばらなくていい」だけが一人歩きしてしまい、なんだか世の中、何ごとにつけがんばらなくてもいいみたいに思ってしまっている人もいるみたいですねえ。

私の知り合いの人もそのように誤解していたわけです。

人の一生というたかだか70年か80年の間に180度違ってしまう価値観を突きつけられたらそりゃあ、とまどってしまいますわな。

がんばってきて、その成果があらわれ、うれしくてまたがんばり、と言う人生を歩んできた人に対して、いきなりがんばらなくていい時代になったよ、と言われてもねえ・・

その人は続けて言いました。

「わたし、がんばらなくていい、っていわれたほうがかえってストレス。私に、今までどおり、もっとがんばらせてよ、と言いたい。」と。

ほんとだよね。

がんばろうとしている人に素直にがんばらせてあげることのできる世の中でもあってほしいと思います。



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呼吸はすべてのはじまり

2008-08-27 07:45:04 | オーラソーマ

カバラの神秘を探るにも、オーラソーマをもっときわめるにもいずれにしても「呼吸」というものが重要な鍵を握るものであることはうすうすと感じていました。

私が初めて手にしたカバラ入門の本にも呼吸については詳しく述べられていました。

以下抜粋。

「内面と外面の結びつきを実感する一番いい方法は呼吸法です。・・(中略)・・

これを、酸素と炭酸ガスとの交換という風に考えてはいけません。重要なのは、呼吸を通して入ってくる精妙な実体、エーテルなのです。それをつかまなければそのあと、なにもできません。」

おまけにこのあと、ヨガではこれを「プラーナ」と呼ぶ、と書いてありました。

「プラーナ」と「エーテル」が同じものだったなんて!

だって、プラーナはみえちゃんに聞いたときも何となく生命体のような気がしていたけど、「エーテル」というのはオーラソーマで最初にならったとき、人間の肉体を取り巻く15センチくらいのところにあるエネルギーフィールドだと聞いていたからです。つまり、その人の「気」が及ぶ範囲をエーテルだと思っていたので、生命体とは若干違う、と解釈していました。

そうか、同じことなのか・・

そして、本ではそれから正しい呼吸をするための姿勢について延々と述べられているのですが、それが早い話、ごくふつーに「腰掛ける」ことなのです。

それを本では「神の姿勢」と読んでいます。でも、そういわれれば、古いエジプトの彫刻や壁画では神がよく背筋をピンと伸ばして座っている。

  と、思えば、あった、あった、やはり、そういう記述が。


「エジプトの神々やその地上的顕現であるファラオは、椅子に腰掛けていることが多いでしょう。椅子という家具は今日ではありふれて誰でも使っているけれど、元来、瞑想の体位を保つことを目的とした神聖な道具だったのよ。その瞑想によって神の意識に到達できるということから、椅子そのものが玉座とか玉座の意味を持つようになった。」

椅子にはそんな意味があったのか!と改めて驚きました。ほんとに、毎日、毎日、発見だよなあ・・

そして、本では読み進むと次のように続きます。

再び抜粋。

「呼吸法に習熟してくると、息の出し入れが空気ではなく、エーテルの出し入れだと実感するときが来る。そして自分の意識的統御から独立した実体となる。そのなかでもある種の力は固有の周波数をもち、それに対応する光と音を発する特異な存在として意識されるようになる。古代インド人はその実体をデーヴァと呼んだ。光り輝くもの、という意味だ。

  神々は超越的存在というより、宇宙に瀰漫するエーテルのなかに住まう、様々な異なった光り輝く力なのだと考えていい。これが神々の正体だ。それはエーテルを共有する自然のなかにもわれわれのなかにもいる。

  逆に言えば、そのような存在に呼応することによって、一切の事物は緊密に結びつきながら、全体を構成している。どんなに小さいもの、どんなに取るに足らないものの中にも神々は宿る。個のなかに全体が含まれており、個は全体の象徴として出現している。万物は神々に満つ、という古代の汎神論的な世界観はそこから出てくるのだよ。

 このことが理屈ではなく、実感として体験できたとき、生命の木で象徴されるカバラの体系は非常に理解しやすくなる。」


うーん、つまり、というかやっぱりというか、「神」(まあ、大いなる力の総称として、だけど)は、あちこちにいるんだ。ていうか宇宙に瀰漫するエーテルのなかに住んでいる光り輝く存在そのものが神だとしたら、私たちは意識的に神を自分のなかにこれでもか、というくらい取り込むことが出来るわけだ。

「神はわたしたちひとりひとりのなかにいる」という言葉は聞いたことがあったけれど、そしてそういう言い方は仏教でもするようだけれどそれは「意識すれば神は惜しみなくひとりひとりのそばに寄り添ってくれるんだよ。」というような意味だと思っていた。んじゃなくてまさに「なかにいる」んだね!

それでかあ、オーラソーマの授業の前には(というか、授業に突入した最初に、というか)必ず瞑想をするんですが、その瞑想は先生のナレーションの誘導によって行われます。先生はいつも「かつて私たちだったものは呼吸とともに去っていきます。」とか、「呼吸と供に手放しなさい。」とおっしゃり、いつもそれは『そのくらいのゆったりとした心構えで生きていくとラクになれますよ』という象徴として「呼吸」と言っているのだとばかり思っていた。

 しかし、そうではなく、まさしく瞑想での呼吸が通常の酸素を取り込むための作業ではなく、エーテルを取り込んでいるのだとしたら、ひと呼吸ごとに神を取り入れたり、また神がどこかへ去っていっているのだとしたら、確かにひと呼吸ごとに「かつて私だったもの」になるはずだわ。

そっかあ、瞑想というのは何かしら心を落ち着けてこれから授業をはじめますよ、という以上に何かしら潜在意識に働きかけやすい土壌を作っているのだろうな、という感じはうすうす勘付きはじめてはいたのだけれど、そういった自己の内面と外面を近づけるだけではなく、世界が成り立っている表層部分とその内面を近づけてそのどちらにも自分が往来しやすくするためのものでもあったわけだ。

そしてその要が「呼吸」だ、というわけだね。
呼吸はすべてのはじまり、でもあり、すべてでもある。

だから、どこかのティーチャーが「私はオーラソーマにとって瞑想は鍵になるものだと思っています。」と言っていたのか。

今度は、瞑想についてもっと知りたくなってきた。

だって、いつも自分が瞑想のとき横道にそれちゃうのがわかってるもん。

α波とびこえてあんまり気持ちいいんで寝ちゃったり、呼吸と姿勢にばかり意識がいくがためにかえって窮屈な思いをするだけだったり。

一番多いのは、私の場合、瞑想でまぶたをとじるとまぶたの裏にいつも何か「色」が現れるんです。それが紫であったり、マゼンタであったりいろいろなんだけれど、水に水彩絵の具を落としたときみたいにそれが広がっていったりひとつの渦になったりするから面白くてそれを見ているの。そうすると先生の誘導のナレーションをな~んにも聞いていなかった、ということが往々にしてあります。

瞑想で「無我の境地」になるのは今の私にはほど遠い道のりです。

だから、瞑想がしばし心を落ち着けるための作業だけではなく、今の世界とは違う次元にいける自分をつくるためのものであるなら、もっと瞑想のことが知りたいし、瞑想がうまくできるようになるためのトレーニングがしたいな、って思いました。

うーん、知れば知るほど奥深い。そして、目からうろこ。足元うろこだらけ。

たっのし~い!



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