ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

ニュー・リニューアルコースの誕生

2013-08-31 09:08:00 | オーラソーマ

おととい、asiactからメールがきて何だろうと開いてみると、オーラソーマにこのたびレベル4認定の新たなリニューアルコースが誕生しました、とのお知らせでした。

わくわくしました。

新リニューアルコースの名前は、「オーラソーマシンセシス ~オーラソーマシステムの統合~」というものです。

「シンセシス」というのは「統合」という意味だそうです。

このコースでは情報や知識のレベルだけでなく、それらを体験的な理解へともたらすために自己変容のツールとして使えるようにサポートするものだ、という事です。


具体的には瞑想だったりいろんなエクササイズが満載のコースみたいです。

是非是非、体験してみたいな~と思いました。

ここの部分の説明について、今回このコースのティーチャーをマイクから任命された黒田コマラ先生はこのようにこのコースのことを紹介されています。


・・・・(中略)・・・・・
私たちは、今までオーラソーマを通して、たくさんの叡智に出会ってきました。
「自分を愛する」「ありのままの自分を受け入れる」「ジャッジをしない」「手放す」……こういったことの大切さを私たちはすでに知っていても、どこかでそれは実際には「難しい」と思いがちです。

なぜなら、それが「しなければいけないこと」として頭のなかにあるからです。
愛はすべての人の内側にあり、その愛を感じるとき、自分自身を愛することが自然に起こります。そこには私たちが「しなければならないこと」はありません。

外側の世界では、努力でなにかを達成しますが、内面の世界ではその努力をゆるめてくつろぐことで、すでに私たちのなかに存在しているものにつながることが容易です。

私たちはどうして「ありのままの自分を受け入れること」が難しいのでしょうか?
好きな自分は受け入れられても、嫌いな自分を受け入れることで感じる痛みを避けたいのはもっともです。でも、嫌って押しやっても、それは自分のなかにあり、無視しても消えません。
そんなときに「受け入れてみる」ことでどうなるのかは、自分で体験してみるしかありません。変容を本当に理解するには、そういった体験がないと単なる知識でしかすぎないのです。受け入れるほど愛が育ち、愛が育つことで受け入れるのが難しいものも受け入れられるようになっていく、それはまさに私が体験してきたことです。

愛と気づきは、瞑想にとって大切です。自分のなかで相反する側面を受け入れられるようになると、気づきが広がり、瞑想が花開いていきます。

オーラソーマシンセシスのなかでは、瞑想やエクササイズを通して、今まで学んできた叡智を自分のなかで体験し、ライトボディを育てる機会をもちます。

・・・・・(中略)・・・・・・・・・

このコースでは、オーラソーマで今まで学んだ知識の統合、例えば普遍的言語である色と数字の統合や、「3スター」や「3つの器」といったオーラソーマの新しい情報の統合などを、情報レベルだけではなく、体験的な理解へともたらすために自己変容のツールとして使えるようにサポートします。

私はこれまでコマラ先生のコースを取ったことはありません。

ブリッジのとき、武藤悦子先生との共催というかたちで取ったことはありますが、単独ではないんです。

いつもマイクの通訳をなさっていてその様子を遠くからうかがい知ることはありましたが、彼女自身のコースには参加したことはありませんでした。

非常に評判のよいティーチャーのおひとりでもあり、是非1度受けてみたいものだ、と思ってはいるのですが、これまでにその機会はありませんでした。

このコースはレベル4認定コースであるとともにティーチャーの更新コースとしても認定されるようなので今度こそ、コマラ先生から授業を受ける機会がありそうだ~!と余計にワクワクしました。

ただ勘違いしてならないのは、オーラソーマに対する体験が浅いのに、このコースを取りさえすれば自らのなかに手っ取り早く統合が起こるんだ、ということではないはずだ、ということです。(誰もそんな勘違いしないか。ハハ)

「統合」ということは、オーラソーマの究極の目的の1つでもあります。

その昔、イクイリブリアムボトルは「バランスボトル」と呼ばれていたくらいですから、「肉体と精神と魂の統合」ということはその状態に行き着きたくて、ボトルとワークしているといっても過言ではありません。

色によって自分がいま極端に特定の色のみに惹かれている、ということを自覚しておけば(それが悪いということではありませんよ。)、いざというときにその反対色を取り入れるなどして自分の極端な状態にバランスを補うこともできるでしょう。

私自身は、この案内文に書かれているように「今まで学んできた知識の統合」、「色と数字の統合」、「新しい情報の統合を情報レベルだけではなく、体験的な理解へともたらし、自己変容のツールとする。」というあたりにとても惹かれました。

さて、反面1つだけ気になったことがありました。

それはこのコース誕生の背景として“日数”が問題になっている、ということが強調されているように感じたからです。(ちなみにこのニュー・リニューアルコースは4日間です。)

この案内文は、冒頭このような文で始まっていました。


本来は、オーラソーマシステムを学ぶためのコース(レベル1、2、3)は、6日間連続で行われるものとしてはじまりましたが、今日の日本では諸事情から多くのコースが週末2回や3回に分けて教えられていたり、極端な場合は週に1回という形で行われる現状にあります。

オーラソーマAS ACTの学長であるマイク・ブースさんと、そのような日本の現状について話しているなかで、オーラソーマの学びを頭だけの知識や感情レベルでの理解を超えて、さらに深いレベルで理解を統合し、オーラソーマの体験を新たな次元に開く可能性をサポートするために、「オーラソーマシンセシス」というコースを教えたらどうかというマイクさんの提案からこのコースが生まれました。

私自身、レベル1~3に関しては、「週末の3日間」×2、あるいは「平日の3日間×2」という形で最初は受けました。

そしてそのことに何ら疑問を持ちませんでした。

連続で6日間とった人に比べたら、頭だけの理解でなかなか落とし込めていないだろうなぁ、なんてことは思いもよりませんでした。

むしろ、1週間あいだを空けたことによって授業を冷静に振り返ることが出来て新たな質問が思い浮かんだりし、これは良いシステムだよなぁ、と思っていたくらいです。

一番良いと思ったのは、どうしてもオーラソーマの授業を受けていると、「今はこの精神世界に浸りきっていいんだ。」という安堵感からか地に足がついていないような感覚に陥るのを、半分の3日間で「いかん、いかん。こんなにポーッとしちゃってちゃ。明日からは仕事だぞ。」と戒めることが出来たことです。

これを連続6日間取っていたら幽体離脱みたいな状態になっちゃって、もう普通に仕事するのはイヤになっちゃんじゃ?と思ったくらいでした。

さすがに「週1」というペースは、カルチャーセンターのノリの習い事ではないんだから、とは思いますが・・

確かにイギリスのオーラソーマのコースはすべて連続6日間で編成されています。

そしてお国柄もありますし、本当は6日間連続がいいのだけれど、それがどうしても日本では無理な人が多いならせめて4日間というコースを設定したらみんな参加しやすいのでは?という配慮がなされたのだと思います。

でも、本当はマイクが「本来なら6日間連続してコースを受けることによって得られる変容でないと意味ないんだけどなぁ。」と思っているのなら、そこはそれ、一番譲ってはいけないところなのでは?とチラと思ったのでした。


私自身は「3日間×2」という状態や、「6日間連続」という状態でもコースを受けてきて、とくに3日間だと自分の中に落としこめる時間がないなぁ、と思ったことはなく、むしろその方が良かったと感じたとは上述したとおりですが、そういった日数設定の問題を“日本のお国事情”を考慮した上で譲歩した、ということであれば、日本の3日間に分けたコースはいつも「本来のものではない」みたいな粒子がくっついていることになりはしないか? 

そんなものは払拭してほしいなぁ、気持ちよくこのコースを受けたいなぁと思うのでした。

でもきっとこのコースを受けたら、すぐに統合や自己変容が起こらなかったとしても、「あぁ、このようなワークを自宅で自分ひとりででも取り組み続けていけばいいのか。」ということには気付けることでしょう。


P.S.

そしたら昨日、今度はまたも「リニューアルコースの追加」が発表されました!

 今度は武藤悦子先生の「カラーメディテーション」ですって。

 こちらは全3日間。

 どちらも興味深い。

 そしてどちらも瞑想というものが改めてクローズアップされている気がしました。











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世界柔道で気付いたこと

2013-08-30 09:06:00 | 身辺雑事

世界柔道で連日金メダルの報道がなされています。

何だか開催前に柔道界は不祥事の報道のほうがにぎやかだったせいか、世界陸上に比べて放映が少ないような・・

「こんなに揺れてるようじゃ、今回もロンドンオリンピックのときのように、たいした成績は残せないんじゃないか・・」ということであらかじめ放映枠をどこも買わなかったのかしらん?

そんななかの選手たちの活躍!

良かったですね~


こういう大きな大会では初陣を飾る選手の出来が、後に登場する選手たちの出来にも大きく影響するといいます。

そういう意味で、初日に金メダルをとった60kg級の高藤(たかとう)選手はお見事でした。


彼の両親は「とにかく褒めて伸ばす。」「欠点は指摘しない。」「ほかの子どもと比較しない。」をモットーに彼を育ててきたそうです。

やっぱりこうして子どもは伸び伸びと育てるべきですね~


でもそんななか私は彼の人知れぬ苦悩の話を知り、すごく考えさせられました。

柔道は日本のお家芸と言われ、世界のなかでも日本勢が強すぎるがために、伝統の種目でありながら結構コロコロとルールや判定法が変わってきているスポーツのうちの1つです。

幼い頃から高藤選手の得意技は「肩車」でした。

相手の肩と太ももをとって、相手を肩車するようにひょいと自分の背中に乗っけて完全に身体を裏返しにしてしまう、という技です。


この彼の得意技が、彼が中学のときにルール改正となり、足を取ってはいけないことになりました。

しかしその改正となった後のすぐの大きな大会で、彼はこれまでのクセから思わず相手の足をとってしまい、初戦で敗退してしまったのでした。

「思わず出る。」というのは、いかに身体にその技が沁み込んでいるかの証拠です。

沢山たくさん練習を積んだからこそ、出たことです。

柔道では一瞬の相手の隙を見逃さない、ということが勝機につながるわけですから、一流の選手ほど黙っていても「こうなったら、こうする。」ということがもう身についている、という状態になるまで練習するわけですよね。

しかし、ルール改正によってそれが裏目に出てしまった。


このとき、彼は泣いて泣いて泣いて、ずーっと泣きっぱなしで、さすがの両親も、

「ウチの子はもう立ち直れないんじゃないか・・」

「このまま柔道をやめてしまうんじゃないか。」

「ここまでの選手で終わってしまうんじゃないか。」と思ったそうです。


わずか12歳という年齢で、「将来、自分はオリンピックで日本柔道界を背負って金メダルを取る!」と決めた少年が、その柔道のためにと親元を離れて寮に入る、という道を選んでやってきた中学です。

「たかが部活の話じゃん。」

「辞めたいならやめればいいじゃない。」

というようなレベルのものではないでしょう。


確かにこのときの彼の落ち込みはすさまじく、1年というスランプに悩んだそうです。

しかし高藤選手は1年後、足を持たずに自分の肩をすばやく相手の懐の下にもぐりこませる、という手法によって再び「肩車」を自分の得意手として復活します。

それからは、今の快進撃、というわけです。

彼がここまでに至る過程で1つずつ選び取ってきた選択が間違っていなかったということの証明が、今回の世界柔道ではなされたわけですね。

決勝でも彼は「肩車」であわや1本というところでした。

私は、もし私が彼だったら、彼のような選択は出来なかったに違いない、と思いました。

それは確信です。

きっと私なら、ルール改正となって思わず反則で敗れた時点で、

「これからだってこういうルール改正は起こり続けるに違いない。こんな柔道界なんてもう信じられない。

だって、身体に沁み込ませるほどの練習がかえって仇となるようなところにどうして自分の一生をかけることができるだろう。」

・・・と、まずは柔道界そのものの批判と恨みに相当な時間を費やしますね(笑)

そしてその結果、自分の努力が水の泡となるような可能性のあるものは早いうちに見限ったほうが良いとばかりに、柔道界からきれいさっぱりと足を洗うことを考えるかもしれません。

いや、それでもどうしても柔道そのものは辞められない、という自分がそれほどまでに柔道を愛している、という気持ちに気付いた場合でも「肩車」という技をもう自分の決め技とするのはよそう、と思うことでしょう。

自分が得意としていた技で初戦で敗退するという辛酸をなめさせられた苦い経験は、その後もその技に取り組もうとするたびにトラウマとなって押し寄せるでしょうから。

しかし、彼はあくまでも「肩車」にこだわった。

そしてどうすれば反則にならず、自分の得意技とすることができるかということを徹底的に研究した。

ご立派!と拍手を送りたいです。

しかし、ここで私が「考え込んでしまった」というのは、“誰もが彼のように人生の岐路に立たされた場合、真っ向から取り組むべきだ”というのが正解だ、というわけでもないんだろうなぁ、ということを思ったからです。

先述私だったら・・と書いたように、「こんな柔道界になんてもう未練はない!」とさっさと柔道をやめ、ゆくゆくは実業家として成功しましたとさ、という人はそれはそれでいいわけです。

あるいは、柔道は捨てられなかったけれど、なるべくルール改正の対象とはならないような技を得意とすることにしよう、と違う練習に取り組んで、その技でオリンピックや世界柔道を制する人もいるかもしれない。

誰もが常に同じ場所で踏ん張り続けるべきだ、というわけではないと思うんです。

けれど、「私が高藤選手だったら、こういう考え方をして、こういう選択をしていただろうなぁ・・」という想像を自らに課したとき、私の場合はこれまであと一歩というところで他人のせいにしたり、逃げの一手のみで来ちゃったかもしれないなぁ、という反省の苦い思いを感じたのでした。

「ここまで頑張ってきて、考えなくても体が動くというところまでやってきたのに、ルール改正なんてひどい!」

「こんなもの、何がお家芸だ!」

「スポーツに政治は介入させるべきではない、と言いながら、世界のなかでの国自体がもつ力関係で日本人をこれ以上優勝させまいとルール改正になったのではないか!」

「そんなものに自分はこれ以上翻弄されたくない!」

だから、私はもう柔道はやめる、と言えば、誰もがその思いには同情してくれ、「いや、そこはキミ、違うんじゃないか。」とは言わないことでしょう。

実際、それはそのとおりだとも思いますしね。

私が“想像上の私”の友人でも、慰めの言葉を持ちえません。


けれど・・・

これは「テイのいい逃げの口上」を見つけただけではないのか。

これまでも何かケチをつけられるようなところはないか、と隙をうかがっていただけではないのか、と言われれば私の場合は、「ハイ、その通りです。」と言うしかない気がします。

そのようにして私は常に「だって、私のせいじゃないもん。」と人生から逃げてきた。

「私の大学はお嬢様学校だったせいか、就職斡旋に熱心じゃないから、なかなか東京では就職口が見つからないのよ。」

だから地元に帰って就職するしかなかったんだわ、と言いながら本当は少ない初任給ですべてまかないながら1人で生きていかなければならない、ということに耐えられそうにもない、と思ったから。

「もうこの会社のトップの考えはわかったわ。口では新しい時代対応業として、なんて言ってるけど、これ以上の成長はない、とみた。私は自分の立場で貢献できることは全部した。」

なんてえらそうな口をきいて、だから退職する、と言いながら本当はただ飽きてきていただけじゃないのか。

「これこそ私が生涯をかけたライフワークとして取り組むべきものだ!」とオーラソーマに出会ったとき思ったけれど、本当はただ自分の天命が知りたくてずっと湖の底でもがいていたような時期があまりにも長かったので、そこに垂らされたロープに思わずすがってしまっただけではないのか。


では、東京で就職していたほうが良かったのか? 

では、最初の会社を退職しないほうが良かったのか?

では、オーラソーマに夢中にならないほうが良かったのか?

といえば、答えはすべて「NO。」です。

そういう後悔をしているわけではありません。

ただ自分の岐路に立ったときの口実が「なんかもっともそうな相手側の糾弾ばかりしてきて、自分を被害者みたいに扱ってきたなぁ。」と思ったのでした。

それでは本当に自分を大切にしている、とは言えませんね。

ごめんね、わたし。

ずっと“被害者”みたいに扱ってきちゃって。

これからはもっと正々堂々と「I メッセージ」から発した言葉でちゃんと選択や決断をするように気をつけるよ。






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計画にたっぷり時間をとることの大切さ

2013-08-29 09:06:00 | うんちく・小ネタ

どうも最近、キマさんのメルマガをご紹介することが多いんですが、今日もそうです。

私がこの方のメルマガで「なるほど!」と思うことが多いのは、ただ精神論だけで「頑張れ!」とか、ヤル気さえあればあとは勢いでなんとかなるだろう!とハッパをかけられるのは好きではなく、そこに理論の裏づけとかデータが添えられていると俄然に「ふむふむ!」となっちゃうほうなので、そこが気に入っているのかもしれません。


今回ご紹介するキマさんのお話は「ヤル気がなくてもやりたいことを実現する方法」でした。

興味あるでしょう?

ヤル気がなくてもそれが実現しちゃえば、こんなラクなことはありませんもんね。

それは一言でいえば、「手順を確認する」、「きちんと計画を立てる」ということです。

種明かしをしてしまえばなぁ~んだ、っていうことかもしれません。

これをキマさんはご自身の体験を通してこんなときに気付いた、とおっしゃっています。

奥さんが仕事で疲れたときに、「もう疲れちゃって、今日は料理を作れない・・」というときが多々あったんだそうです。

でも、キマさん自身はどんなに疲れても「疲れた」→「だから料理は作れない」とはならないんだそうです。

それはキマさんが若い頃、レストランでバイトをしていた時期がありかなりの料理を鼻歌まじりに作っちゃえるからだそうです。

つまり、料理を作るのに奥さんには相当な“一念発起”が必要で、“ヤル気”を奮い立たせないと出来ないことが、自分には“ヤル気”はそんなに関係なくてなぜするっと出来ちゃうんだろう?と思ったとき、そこに「自分のほうが料理を作る手順を知っているから」だということに気付いた、というわけです。

この視点がもうスゴイ!と思いません?

私なら、「疲れた」っていってもその疲れ方のボルテージは本人にしかわからないもの。

自分より奥さんのほうがずっと疲れていたんでしょうよ、と思うだけだなぁ、きっと。

そこをキマさんは、「そうかぁ。ボクのほうが手順がわかっているからだな。」というところに目をつけたわけです。

手順がわかっていること、というものには人は大してエネルギーを必要としません。

頭で考えなくてももう身体が勝手に動いちゃうの、というように行動できます。

家事を請け負っている方ならこの感じ、わかるんじゃないでしょうか。

朝起きて、洗濯をし、洗濯物を干し、家族のために朝食をつくり、掃除をする・・

これは多分、一連の流れ作業のようにもう自分の身体に入っていることだ、と思います。

けれど最初のうちは、「ええっと。ランドリーボックスに入っている洗濯物はまずどう仕分けするのが賢いかしらねぇ?」とか、「洗濯物を干すために物干し竿まで運ぶこのキャリーケースには、先に干すものほど最後の上にくるように入れなくちゃね。」とか、「朝食の焼き魚を焼くためには、先に焼き網を温めておかなくちゃね。」とか段取りを頭で考えなくてはいけません。

それがとっても面倒くさく、大変な作業のように感じてしまいます。

けれどいったん「流れ」として身体に染み付くと、少々寝ぼけながらでもできるくらいってなもんです。


脳はいろんな情報を整理するのにかなりのエネルギーを割いている。

けれどいったん整理されたらラクチンでもうお手のもの。

だから計画や手順を整理しておく、ということにたっぷりの時間をかけるのをおっくうがらずにしましょう、ということなんです。


ちなみにこんな面白いデータがあります。

アメリカの大富豪、ドナルド・トランプの1日を調べたところ、24時間の配分はこのようになっていたそうです。

6.5時間の睡眠(5:30起床)
5.5時間の計画、準備、読書
9.5時間の行動

2.5時間の休養とレクリエーション


さて、お次はベンジャミン・フランクリン。

フランクリンの自伝には、彼の1日の予定が書かれています。一日24時間の配分で見てみると、

7時間の睡眠(4:00起床)
3.5時間の計画、準備、読書

9時間の行動


3.5時間の休養とレクリエーション

さらにもう一人、ある成功しているスーパー起業家の1日の24時間配分を見てみましょう。

7時間の睡眠(6:30起床)
4時間の計画、準備、読書
8時間の行動

5時間の交際、休養、レクリエーション」


現代の私たちは、勤め人の方であればだいたい8時間労働をしている方が多いと思いますが、人生の成功者と言われるような方は大体実際の労働に対して、その1/2の時間は毎日毎日、そのための準備や計画に費やしているんですね。

つまり、8時間働くなら、4時間は準備や計画に費やすわけです。

するとトータルで仕事に費やす時間が12時間になる。

これに7時間睡眠をとると残りは5時間しかないことになる。

この5時間やらに食事やらお風呂やらレクレーションやらが含まれるわけです。

これを多いと感じるか、少ないと感じるかは人それぞれでしょうが、昔、「アフター5」という言葉もあったくらいですから、まぁまぁ妥当な線じゃないでしょうか。

それにしてもトータルで仕事の領域と呼べるものに割くのが12時間にもなる!ということは、自分には無理だなぁ・・と思うかもしれません。

そしてどうして毎日毎日同じことの繰り返しなのにその仕事に費やす半分までもの時間を計画や準備に割く必要があるのかがわからない、と思う方もいらっしゃるかもしれません。

1つのプロジェクトが立ち上がるときならともかく、毎日毎日8時間の労働に対して4時間なんてねぇ・・と。


だけどきっとその4時間で「これからもっと効率的にするにはどうしたらいいか?」とか考えるんでしょうねぇ、賢い人は。

そうすると次の日の1日がとっても有意義なものとなって、昨日は1日かけてやったことが半日で出来ちゃったりするんでしょうねぇ。

それでその残りの時間をまた有効に使うためには?ということで計画の時間を使う・・

毎日その繰り返しだとしたら、確かに毎日フレッシュですよねぇ。

そういえば、私の友人でセミプロみたいにジャズダンスをやっている人は、毎日毎日2時間は練習するけれど、1時間は踊るんじゃなくてストレッチに割く時間だ、って言ってたなぁ。

私はどうしても“本番”というか“本チャン”というか、実質的なものに対してあまりにも計画に割く時間が多いとそれを「時間の無駄」「もったいない」と考えてしまっていました。

少し前から注目し、自分でも実践しようとしているジャネット・アットウッドの「パッションテスト」にしても、「パッションテスト」そのものは、自分の情熱に気付く、というところまでなわけだからそれを実行に移さないと意味がありません。

パッションテストにはまず自分の情熱を何十個も書き出して、優先順位をつけて、それに道しるべをつけ、ヴィジョンボードをつくり・・といろんなことをして自分の情熱を確たるものとしていかないといけないわけですが、私は優先順位をつけて自分の情熱の上位がわかったとたんに後のことはまぁ、おいおいでいいや、早くその情熱を行動に移さなくては!という方に気持ちが向いてしまいました。

けれど、「成功者は常にじっくりと計画に時間をとっています。」と言われて、ドキッとしました。


よく、「わかっているけれど、どうしても出来ないんだ。」という人がいたり、「わかる」と「出来る」は別物だ、と言ったりします。

そしてそれに対して賢人は、「わかっているけれど、出来ないというならそれはわかっていない証拠だ。」と言ったりもしますが、それをもっと噛み砕いて言うならば、このキマさんの記事にあるように、「脳には情報を整理させる時間が必要」ということが1つと、「“わかる”ということは黙っていてもその手順を身体が覚えてしまっている、というぐらいにすること。」「そしてその手順を踏まえることにエネルギーを使うことがないので、まったくストレスを感じない。そこまでの状態にすること。」ということなのだな、ということが腑に落ちました。

これからは自分の情熱の実現のためにも、たっぷりと準備と計画に時間を割こう、そしてそれをもったいない、なんて思わないようにしよう、と思いました。






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どこまで信じればいいのか?

2013-08-28 09:04:00 | ニュース

宇多田ヒカルのお母さんの藤圭子さんが自死しましたね。

私の年齢の人間は、藤圭子さんのことを「宇多田ヒカルのお母さん」として認識しているのではなく、「圭子の夢は夜ひらく」などのヒット曲をもつ歌手、として認識しています。

けれどいまやたいていの人にとってはあくまでも「宇多田ヒカルのお母さん」なんですね。


それを実証するかのように、亡くなった、という報道があってから大方の人はいつ宇多田ヒカルがお母さんと対面するのだろう、いつコメントを発表するのだろう、ということに興味が移っていたのではないでしょうか。

6日目。

娘である宇多田ヒカルさんがHPにコメントを発表しました。

その前日だかに、前夫で音楽プロデューサーの宇多田氏も同様にコメントを発表していたみたいです。

そのおふたりのコメントに共通したものとして、

「藤圭子さんはずっと長い間、精神病をわずらっていた。」

「現実と妄想の区別がつかなくなってしまっていた。」

「病院に行って診てもらおう、と言うと『そんなことを言う人間が信じられない!』と疑心暗鬼になり、怒り狂い、提案した人間をののしったりしてこちらが悪者になってしまう。」

「だから病院にはかかっておらず、長年の間にどんどん進行していってしまった。」

などがありました。

確かに統合失調症の人で自らの意志で精神科に来る人はほぼ皆無で、逆に言えば自ら「わたし、ちょっと自分がおかしいんじゃないか、と思って来てみたんですけど・・」という人はたいてい問題ない人なんだそうです。

こんなことになってしまうと、「あのとき首に縄をかけてでも病院に連れて行けばよかった・・」と家族は思うかもしれませんが、病院に行っても必ずよくなるという保証がないなら、家族に対する不信感だけ募らせてしまっても・・と思うでしょうから、難しいですね。


ここで私が思ったことは、「自分を信じることがどこまで必要なんだろう?」ということです。

そりゃあ、どこどこまででもでしょうよ、とこれまでは思っていました。

ゴールドの領域から光を発散する、ということが大切なんですからね。

実際、私は何度もこのブログでも「人は自らが信じたいものを信じればよいのだ。」と書いています。

人が何といおうと自分はこれでいいんだ、これを信じるのだ、というものを信じて生きていけばいいのだ、と。


けれど・・・

そのようにして「私はおかしくなんかない!」と信じた結果が、病院に行くことなく、病状を悪化させてしまうのだとしたら。

死に至ることもあるぐらいなのだとしたら、と思うと他人の話に耳を傾けて、自分としては全くこの人の言うことに納得なんてしていないのにな、と思いながらもその熱意がゆえに「まぁ、今回は譲ってあなたの言うとおりに病院に行ってみるわ。」という寛容性を見せたほうがいいのなら、逆にいったい何を、どの程度、信じていたらいいのか、ということなのでしょう?

これはあくまでも健常人ではなく、すでに病んだ場合だから例外でしょうか?

ではもう1つ例をあげましょう。

第二次大戦の戦時中、すべての日本人は“神風”を信じていました。

そしてもし米兵に捕虜となって囚われの身となることなぞがあったりしたら、あいつらは口では甘いことを言うかもしれないが、そんなものを信じてはいけない。

あいつらは鬼畜なんだ。

どうせ殺されるだけだ。

それならば捕まった時点で自決せよ。

そういう教育を受けてきたはずです。

そしてそれを信じた若い命は次々に散りました。

沖縄戦では、ヘリコプターから米兵が「もう戦争は終わった。キミ達の命は保障される。だから出てきなさい。」と言っても、大日本本営の言うことを信じてきた若きひめゆり学徒隊は、米兵の放送なんか嘘だ!次々に崖から飛び降り自らの命を断ちました。

本当に戦争は終わっていたのに・・

ちょっとだけ米兵の言うことも信じて自決を遅らせたら、玉音放送が流れて戦争終結で生きていられたのに・・

助かったのは、死ぬのが恐くて恐くて防空壕から出ることも出来なかったという人や、米兵の放送のほうを信じた人たちです。

これをどう捉えたらいいのでしょう?

「死ぬのはイヤだ! 恐い!」という自分の本能こそが知恵なんだから、それを信じればよかったのに、という話なんでしょうか。

それとも何でも鵜呑みにせず、時には“敵”とされた人の話にも耳を傾けてみましょう、ということなんでしょうか。

こういう事例を考えると、藤圭子さんにしてもそうですが残された者が「死=終わり、無 」と考えること自体が間違いで、何かが連綿と続くなかの1句読点として死は存在するだけなのだから、むやみに「あぁ、素直に病院に行ってさえいれば・・」とか、「あぁ、日本軍の言うことだけを信じていなければ・・」というところに判断材料を求めること自体が虚しいことなのだな、意味のないことなのだな、と思います。

残された者がそう思うのは仕方がないことでしょう。

それがいけない、そう思うことの方が間違いなのだよ、というのでもない。

ただ、生きている人間が考える倫理とはまた全然別のところに自然の摂理とか、大きな流れとかがあるんだろう、と思います。

でないと、「人は自分が信じたいものを信じて生きていけばいいんだ。」ということが成り立ちませんもの。

こう思うのも、「もし私が藤圭子さんのように精神をわずらったら・・」と考えると、私もきっと彼女のように人に首根っこつかまれて病院に行くのは何があっても抵抗するタイプだろうなぁ、と思うからです。

「捕虜となるくらいならいさぎよく自決しろ。」と言われたら、まっさきにそうしそうなタイプだからです。


そうして命を落としたとき、私はまた「魂」だけの存在となって時間という概念も空間という概念もないところへ行ったとき、自分の前世を振り返ってみて、「きぇ~、悔しいわぁ。あんなに自分を信じるタイプの人間じゃなかったら、私はもっと長生きできたのになぁ。」と悔やむだろうか、と思ったら全然そんなことはないだろうなぁ、と思えます。

だけど私が納得して、そんなこと全然悔しくないと思っているのに、残されてすごく悲しんでいる人がいたとしたらやっぱりそれは悪いことしたなぁ、あの人が悲しむのももっともだなぁ、とも思うだろうからです。

どっちをとっても100%すっきりすることはない気がします。

そしてそんなことを考える“自分”って何者で、どうして“わたし”は“あの人”ではないんだろう?なんてことを考えたりします。

こういうことって、小学生ぐらいの小さい頃からよく考えましたが、あいかわらずなぁ~んも成長してませんねぇ。






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24時間テレビを見て

2013-08-27 09:09:00 | テレビ番組

いやぁ~、今年は結構見ちゃいましたね~、24時間テレビ。

毎年土日ですから、いつもはたいていダーリンと過ごしています。

そうするとダーリンはそういうテレビを「泣くばっかになっちゃって、落ち込むからいやだ。」と言って見ようとしないんですよね。

だから必然的に私もあまり目にすることはできません。(我が家にはリビングに1台しかテレビがありませんので。そしてまぁ、たいていの場合は番組選びは私が譲ってあげるので。)

けれど、今年はたまたまダーリンが土日と出張だったため、私はずっくりと好きな番組を見ることが出来ました。

やっぱりいっぱい泣きましたねぇ・・・

私もあんまり泣くことになるのは辛いのですが、感動もいただけるっていうか、それでただ落ち込んだりはしませんので、つい見ちゃいます。


いろんな気付きがありました。

嵐の大野くんが主演したドラマは、悪性リンパ腫で20代半ばという若さで命を落とした若者の話でした。

彼は最期、自分から抗癌治療は拒否して緩和ケアだけを受けることにするんですね。

その理由は、1つには前にも抗癌治療は受けて、いまではもう自分の身体がきつい抗癌治療には耐えられなくなっているということがわかるから、というのもあるんですが、一番の理由は、「家族のなかに笑顔でいるときの自分の姿だけを残したいから」でした。


この一言からでもわかるように、この家族は大変仲の良い家族でうらやましくなるほどでした。

そして、彼は本当に家族と過ごす何気ない、何でもない日常を大切に思うんですね。

それは彼が亡くなる直前に発した言葉からもうかがえました。

彼は、

「今日の晩御飯、なに?」と言って亡くなるのです。

もう食べ物が摂れなくなってからずいぶん経ってからのことです。

痛みをコントロールするための薬で頭が朦朧となっているから言っただけの言葉なのか?

いえ、私は決してそうは思いませんでした。

「家族と食卓を囲む」というごく当たり前の日常を愛おしく思う彼の並々ならぬ気持ちがそう言わせたんだと思います。

「口から食べ物を摂取したかったんだ。」とか、「栄養を身体に取り入れてもっと生きたかったんだ。」とかそういうことではなく、家族と食卓を囲むとそこに自然発生的に起こる何気ない日常会話、団欒というものをいかに大切に思っていたか、ということだと思いました。

だからこそ、このセリフは心に染みました。

「なんでもない日常がこんなにも大切なものだったのか。」ということに気付くのに、人は死に至る病という代償を払わなくてはいけないのでしょうか・・

若い頃の私ならそうでした。

多分、こうしたドラマを見ても「う~ん、こんなことが幸せだ、って思えるときってやっぱり病気になったときぐらいかな。」と思ったことでしょう。

「当たり前に起きて、日の光を浴びて伸びをして、ご飯を食べて学校へ行く。(あるいは勤め先に行く。)」なんてことぐらいをありがたや、ありがたや、と思っているような人間では、そこどまりになってしまって大きな目標を成し遂げられない、というふうに自分をいさめてしまっていたわけです。

それは若さゆえのごう慢さ、驕りもあると思いますし、健康でありあまるほどのエネルギーを持っていると、もう少し遠い山に目標を設定しているがためにどうしても足元がおろそかになるように思います。

でもそれは見方を変えて言えばそれくらいの気概がないと、遠い山に設定した目標まではなかなか到達できないとも思いますので、しょうがない部分もあるな~という気もします。

しかし、人生も折り返し地点を過ぎるくらい生きてきますと、しみじみとこの主人公が大切にしたかったささいな日常がほんとうに愛おしいものだ、ということがわかります。

私も年とったな~、なんて思うのはこんなときですねぇ。

それから、私は岐阜に住んでいるわけですが、岐阜の目抜き通り(・・って言ってもシャッター通りになっちゃってますけど)の柳が瀬についこの春までいた、ゆるキャラの「やなな」を広報として支え続けてきた若い女性の話も出てきました。

「やなな」は当然知ってましたけど、この広報の女性のことは全然知りませんでした。

彼女は原因不明の全身倦怠感と激しい痛みに襲われるという病気を抱えているのです。

毎日毎日、痛み止めを全身の40箇所にも打ってなんとか生活しています。

薬も癌患者が使うような強い薬を毎日40錠も飲んでいます。
そんな身体でありながら車椅子で、「やなな」と一緒に柳が瀬をもっとにぎやかな若者が来たくなるような街にしよう、と活動していてくれるのです。


7年もそんな痛みと闘いながら、ようやく彼女の病名がわかりました。

それは、「骨髄液減少症候群」というもので、脳のなかの髄液がどこかから漏れているために脳が下がり神経を圧迫したりする病気のことだそうです。

通常は激しいスポーツを行っているとか交通事故がきっかけで、とからしいですが両方とも何の心当たりもない彼女は、ひょっとすると世界でもまれな例かもしれない、とのことでした。


瑞浪市という東濃に住みながら中濃の岐阜市のために、そんな身体に鞭打って働いていてくれる人がいたなんて全然知りませんでした。

自分の身近にもいっぱい立派な人がいる証拠ですね。

わたしゃ健康なんだからもっともっと頑張らなくちゃ、と思いました。

そんななか、私が一番心に残った一言があります。

それは先天性の病気をかかえている男の子が言った言葉です。

彼には妹がいます。

健常者の妹が野山を駆け回っても、彼はそれを見ているだけ。

彼は免疫力がないので、ちょっとした小川程度のところでも足だけ浸してみるということも出来ないのです。

そんな彼の妹がある日、かけっこで転んでヒザを擦りむくケガをしたとき、

「いいなぁ。僕も走って、転んで、ケガをしてみたいなぁ。」と言ったのです。

私はこれまで肉体の喜びというものは、自分の感情表現の手段として思い通りにダンスが出来るとか、鍛えて鍛えてその結果オリンピック選手のように常人には到達できないような記録を打ち立てるとか、あるいはハグしたり抱っこしたりというような人との触れ合いとかそんなくらいしか思いつきませんでした。

あとはむしろ、肉体があるがゆえに辛いことの方が多いと思っていました。

お釈迦さまも「生老病死」がこの世の4大悩みと言っているように、この4つはすべて肉体の痛みを伴うものばかりです。

「痛み」さえなければもっと人間はマインドや精神で考えた高邁なことをそのまま思い続けたり、実現することができるのに、とさえ思っていました。


しかし、この生まれたときからの難病と闘っている幼い男の子にとっては、ケガをすることさえもが喜びなんだ!

それは何を置いても、“自分の力で”“自分の意志で”“自分の喜びのために”やった結果訪れたこと(この場合だと転んですりむく、という)だからこそ、喜びとして受け容れられる、ということなのでしょう。

ヒザをすりむいて皮膚がめくれて血がにじんだとしても、それは自分が精一杯転げ回り、走った、ということの証しであればその痛みさえ愛おしい、嬉しい、ということです。


これには気付かされたなぁ。

つまり、私たちは肉体がどれだけ辛い目にあっても、それが自分が望んだ結果のことであれば喜んで受け容れられる、ということですね。

もちろん、例外はあるでしょうけれど。

そうは思っては居ても、やっぱりいざとなってみれば、こんなにも辛いものなのか、ということは体験してみないとわかりませんもん。

そういう肉体とマインドのギャップはあれど、この男の子の「走って、転んで、ケガしてみたいなぁ。」という言葉の重みはこれからの私の人生で、忘れてはならない言葉として刻んでおこう、と思いました。






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