ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

"ありのままの自分”と”努力する自分”との折り合い

2013-06-06 09:08:00 | 身辺雑事

このところずっと“ありのままの自分でいい”ということと、“自分を叱咤激励して生きるべきだ”という狭間のバランスについて考えています。

もともとこの2つを両極に位置する言葉のように並べて判断すること自体、間違っているのだと思います。

けれどどうしても“ありのままの自分でいい”と言われると、「頑張って努力しなくてもあなたはあなたなのよ。」と自分を甘やかしてしまいそうになりますよね・・

「ありのままの自分でいい」、ということを「努力しなくてもいいんだよ」、というように曲解していってしまっている自分がいることに時々気付くんです。

そして、オーラソーマで言うところのこの“ありのままの自分でいい”という言葉も、その言葉だけを切り取って取り上げると、頭でわかってはいてもどーしても「頑張らなくても・・」「努力しなくても・・」というほうに流れてしまいがちなものを感じます。

ようはバランスなのですから、「頑張り過ぎなくてもいい」けれど、「自分を甘やかしていてもダメだ。」ということなんですけれどね。

そんなとき、テレビで異色の臨床心理士を紹介している番組をみました。

その臨床心理士、奥田健次さんは「行動分析学」に基づいてこれまでに自閉症で悩む親子を1万5000件も見てきた人です。

見かけは頭にターバン巻いて、派手なめがねをかけて、眼光もするどく、中年ロッカーみたいでしたけれどね。

自閉症のお子さんに対してはたいてい「いいよ、いいよ~。」とにこにことして何にも叱らないというように接する人がほとんどのなかで、奥田さんのやり方は「子どもの行動の奥にひそむ心理にいかに気付けるか」というところに目を向けなくてはいけない、というやり方です。


子どもが泣いてわめいてもすぐに「大丈夫だよ~」といい子いい子するのではなく、その子どもがもし「親に関心を持ってもらいたくて叱ってほしくてやったことなら、その原因を見つめて対処しなくてはいけない。」というのです。

つまり、“自閉症のあなたは自閉症のあなたであったもあなたはあなた。それをひっくるめて認めて愛しているよ。”とニコニコしていていいわけじゃあない、ということです。


例えば具体的には、どうしても指しゃぶりをやめることができないという子どもについては、家族全員が笛を首からぶら下げて指をしゃぶった瞬間を見つけたら「ピッ!」と笛をふく。

その瞬間、子どもは自分が指しゃぶりをしていたことに気付く、というものだったり・・

でも、これなんかは「あ、また指しゃぶっているよ。」と口で言うのがどうしていけないのか私にはわからない。

どうしてもそこに非難めいたものとか注意する空気が出てしまうからかなぁ。

私なら「ピッ」と笛を吹かれたほうが、パブロフの条件反射じゃないんだし、わたしゃ犬じゃないよ、と腹を立てそうですが・・

ま、そりゃあいいとして。

私が一番ハッとしたのは、奥田さんが「子どもを指導したり、治療したりするときに何を目的にしているの?って言うことなんです。ボクは、『自立して生きていけるようにしてあげる』ことだと思っているので、そこを目指してやっています。」とおっしゃったところでした。

そうですよね・・

自閉症の子どもを「よしよし、無理しなくてもいいんだよ。」と言ってあげることは誰にだってできる。

だけど親御さんが一番心配なのは、寿命の順番でいけば、確実に自分たちのほうが先に死ぬ、ってことです。

自分たちが死んだあとに一体この子はどうなるんだろう?

どうやって生きていけるというんだろう?

それがやるせないから、心を鬼にして治してあげたい、自立できる人間に育てたい、と思っているわけですよね。


それを見たとき、“ありのままの自分でいい”ということと“自分を叱咤激励して生きる”ことのバランスのとり方が少し判ったような気がしました。

私たちは常にいろんな仮面をつけて生きています。

    ○さんチの奥さん。

    ○ちゃんのお母さん。

    ○さんの長女。

    ○会社の営業職。

    ○サークルに所属している人。

                    などなど・・・

これらはいろんな“条件付け”でもあります。

“○○さんチの奥さん”としては旦那さんの恥にならないように良い奥さんを演じなくてはならないとか。

“○○ちゃんのお母さん”としては、いつもニコニコ仲良し親子を演じなくてはいけないとか。

“長女”としては、常にしっかりとして妹や弟の面倒をみなくてはいけない、我がままを言うもんじゃない、とか。

“営業職”としては、実はいろんな人と顔を会わせるのが苦手で億劫だ何て口が裂けても言えない、とか。

でも「○○だからこうでなくてはならない。」という条件付けを取り払ったあとにも、そこには「私はこうでありたい。」と魂がマグマのように雄たけびをあげたがっている自分というものがありますよね。

それが“ありのままの自分”だと思うんです。

それだけは守ってあげなきゃいけない。

それは自分にしか守れない“自分”だから。

私だったら、

「坪内さんとこの奥さん、旦那さんは毎日塗装会社の営業兼社長さんとして忙しそうに飛び回っているのに、毎日毎日あんな長ったらしいブログ書いてる暇があったら、ちょっとは会社の経理でも手伝ってあげりゃいいのにねぇ。」と言われても(断っておきますが、例えです。例え。誰かに言われたわけではありません。)、お金の計算は大嫌いだし、帳簿なんて見るだけでも頭がくらくらする。

毎日の長ったらしいブログもやめるわけにゃあいかない(笑)

これが私です。

そしてそれを守り続けるには、ちょっとやそっとの弊害があっても頑張り続けねば。

こうして公に自分の考えを述べていれば、「私はそういう考え方じゃないな。」という人の意見を受けることもあるでしょう。

それがとても傷つく表現だったとしても、公に文章を書く、ということは私が私らしくあるために続ける、と決めたことなんだから、そんなことぐらいでへこたれていてはいけないと思う。(や、これもそういうことがあったわけじゃないですよ。例えですってば、例え)


子どもが将来自活できる人間になるように、というところに目標を置いてカウンセリングに当たっている奥田さんと同じように、私は、“ありのままの自分”をもっといくつか見つけて(1つではないと思うんですよね。)、それをやるためにはどんな障害があっても頑張ること、逆に言えばそれ以外のことはたいていどうだっていいや、と流すことを身に着けながら毎日をとつとつと生きていきたいな、と思ったことでございました。





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