ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

愛着障害という現代病

2019-10-10 09:01:58 | 健康・病気
「東洋経済オンライン」にちょっとドキッとする記事が載っていたので、ここでもシェアさせていただきたいと思います。
記事はこちら→
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191009-00306661-toyo-soci&p=3



そもそもこの記事は精神科医・作家である岡田尊司氏の最新刊『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』からのもののようですが、どんな記事かと申しますと、現代では「愛着障害」という死に至る病があるというのです。
それは、特別な存在との絆である「愛着という仕組み」がうまく働かないと、生存にも、種の保存にも、重大な支障が生じるのだ、という。
全身傷だらけになりながら、自傷や自殺企図を繰り返すのも、稼いだ金の大半を、吐くための食品を買うためや、飲み代やホスト通いに費やすのも、物や金の管理ができず、捜し物と借金に追われ、混乱した人生に沈むのも、原因のよくわからない慢性の痛みや体の不調に苦しむのもこれらはみな元をたどれば同じで、生存と種の維持に困難を生じ、生きづらさと絶望をもたらし、慢性的に死の危険を増やす“生きる希望や意味を感じられない病”のことだ、というのです。
あぁ、これはいかにも現代病だな、こういう人多そうだな、と思い読み進め、ちょっとドキッとしました。



こういう人はたいてい
「私なんかいてもいなくても同じなんです」
という口ぐせがあるという。
彼らにとって最も大切な存在(たぶん、幼いときならたいてい親)が、彼らをあからさまに見捨てたか、かわいがっているふりをしていたとしても、本気では愛してくれなかった、という原体験を持っている。
自分のことをとても愛しているように見えるときでさえも、実は本当には愛せていない。本当には愛せない自分だから、理想の自分でないとダメだと思い、自分に完璧を求める。自信に満ちて見えても、それは、ありのままの自分を隠すための虚勢にすぎない。
これ、全部自分のことを言われているようでドキッとしたのです。



「私なんかいてもいなくても同じなんです」が私の場合、口ぐせではありません。
でもどこかで大方の人にとってはそうだろうな、と思っている。
もともと1番最初に勤めた会社をやめたのも、ある日突然、
「私のやっている業務なんて、別にいなくても回るようなことじゃないか」
と気付いてしまったからです。
実際、大きな会社になればなるほど、企画のアイデアを出す人間と費用対効果を考えたときにそれをやるのかやらないのか決定をくだせる経営のトップとあとはそれを実行に移す人間がいれば回るはずなのに、それらの間をつなぐようなパイプ役、ようは潤滑油のような役目が必要になってきます。
私はその潤滑油のような役目でしたから。
それで会社をやめ、自分でやることならば、当然のことながら私がいなければ困るわけだから、とそれ以降は少人数や1人でやることをしてきました。
でも、いつでも私の中にはどこか
「私のやっていることはほんとうに私がやらなければいけないことなんだろうか? いてもいなくても同じではないか」
という自問自答が続いているような気がします。



そして幼い頃の原体験といえば、妙に覚えているのが、私が寝るときに母にキスしたら、なんだか興がノッテきてしまって何度もキスしていたら母がうっとおしそうに
「もうやめてよ」
と拒絶したことです。
思えば、当時の母は夜は午前様まで働き、朝は早かったので、もう一刻も早く睡眠をとりたいばかりだったのでしょう。
だからこの一時をして「可愛がっているふりをして本気で愛してくれなかった」ということにはならないし、むしろその逆で、「あれほどの忙しさのなかでもよく面倒をみてくれたほうだ」と言ったほうがよいことはわかっているのですが、このときのなんでもない日常の一コマのようなことを今でも鮮明に覚えているのはやはり、幼い私がそのときは強烈に傷ついた、ということなのでしょう。



そして自分で自分を本当には愛せていないから、常に理想の自分であろうとし、そのためには出来る限り完璧にしようとする・・。



こう考えると病とまでは言わないにしても、誰でも彼でも、多かれ少なかれ経験があるようなことがたまたま重くのしかかってしまった人や、時期的に重なって多大なストレスとなってしまった人がこの「愛着障害」にまで発展するのかもしれません。
現代病の多くが言えるように、この病も、「どこからがホンモノの病か、どこまでが似ているけれどあなたはふつう」なのかが判別つきにくいなぁ、と思います。



そして私は次の言葉にハッとしました。
『 自己肯定感を持ちなさい、などと、いい年になった人たちに臆面もなく言う専門家がいる。が、それは、育ち盛りのときに栄養が足りずに大きくなれなかった人に、背を伸ばしなさいと言っているようなものだ。

 自己肯定感は、これまでの人生の結果であり、原因ではない。それを高めなさいなどと簡単に言うのは、本当に苦しんだことなどない人が、口先の理屈で言う言葉に思える。

 いちばん大切な人にさえ、自分を大切にしてもらえなかった人が、どうやって自分を大切に思えるのか。』



自己肯定感や自己受容は私自身が自分のテーマだと思って1番大切にしてきたことですし、実際に潜在意識や起業のセミナーに行ってもよく言われたことです。
そして確かにあまりに言われると、
「そんなに自己肯定できないってことはいけないことなのだ・・」
とかえって落ち込んでしまいます。
それは、
「自己肯定できないあなたってダメよ」
というストレートなものでなくても、自己肯定できている人をことさらに褒めている場面に出くわしても感じてしまうのです。
その反対に自分は責められているような気がして。
そして、もしそう感じている、ということを言おうものなら、
「ほら、あなたのそういうところがダメなのよ」
と指摘を受けるだけだし、実際そのとおりなのだろうから、と余計に口をつぐむ。
あるいは、自分も一緒になって、その人の自己肯定話を褒めたり、我が事のように喜ぼうとする。



ただ、最近私は以前よりは自己肯定できるようになった自分を確信しています。
この前も、友人とLINEでやりとりしていたら、私とはもともとまったくタイプの違う友人の言動に
「へぇ~、そんなふうに思えるなんてうらやましいことだなぁ」
と思いました。
でも、それだけなんです。
以前の私だったら、「うらやましい」の先に、
「この友人のように思えない、行動できない私はダメな人間だ」とか、
「いったいどうしたら彼女のようになれるんだろう」
とあくせくしたと思います。
でも今は、「しゃあないやん。これが私なんだもん」と思うだけで、自分が「いいかげん」(いいかげんは良い加減であるわけですけどね・・)が嫌いで、なるべくきっぱりと完璧をめざそうとするところもそれはそれで認めてしまいます。


まぁ、早い話が「過ぎたるは及ばざるがごとし」。
どんな良いことでもやりすぎはよくない、ってことですね。

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