ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

般若心経にまつわる一休さんの小話

2012-07-31 09:05:00 | 宗教

読んでいた本のコラムに、人間の欲が実によくあらわれている小話だなぁ、というものが載っていました。

紹介しますね。


あるとき、一休さんのもとに1人の老人がやってきました。

「私はもう80歳になりました。死が近づいたようで落ち着きません。もう少し長生きできるようなご祈祷をしていただけませんか?」と言います。

そこで一休さんは、老人にどのくらい長生きしたいのか尋ねました。

すると、老人は、

「そうですね。100歳までぐらいお願いできませんか?」と言いました。


一休さんは、「あなたは欲が少ない方ですねぇ。100まででいいんですか!」と言うと、老人はさらに欲が出てきたようで、

「もっと生きられればなお良いんですが。」と言い出しました。

「それなら、何歳までにしますか?」と一休さんが再び尋ねると、

「では、150歳にしておいてください。」と言います。

そこで一休さんはさらに、

「あなたは今80歳なんでしょう。これから150歳になるには、70年だから、これまで生きてきたぶんほどもないんですよ。そんなんでいいんですか?」と言うと、老人は黙って考え込んだあと、ポツリと、

「人間というのはいったいいつまで生きたら満足できるものなんでしょう・・」と言いました。


そして一休さんに質問をしました。

「禅師さま、あなたはいくつまで生きるおつもりですか?」と。

すると一休さんは、「私たち坊主は死なないことになっています。」と答えました。

老人が驚いて、「そんなご祈祷があるのですか。」と言うと、

「ありますとも。お釈迦さまのご説法はそれすべてが祈祷です。これにより私たちは法身になるのです。そうなれば、肉体は死にますが、法身は死にません。お釈迦さまは亡くなられることを少しも嘆かず、むしろ法身になることを喜んでおられました。あなたも自分を法身にしてしまえば、150歳で終わりということはなくなりますよ。」と一休さんは老人に説いたのでした。

そして老人は、般若心経を毎日となえることを日課とし、安楽に往生できましたとさ、という小話です。

これは、ほんとうにこういうことがあった、というよりは真言である般若心経を毎日唱えるだけで、果てしない欲望からおさらばできますよ、という作られた小話のように思えます。

だって、一休さんの伝記を読むかぎり、一休さん自身が死ぬ間際はかなり往生際悪く、もっと生きたいという苦しみを味わったようですから・・


お釈迦様はこの世は苦しみだと言い、その苦しみの源は“無明”(むみょう)から来る、と言っています。

その無明のことを私はどこかで「無知」のことだ、と聞いたようにずっと思っていました。

つまり、すべての苦しみは、物事の本質を理解しようとしない智恵のなさから来るのだと。

だから人間学ぶことが大切だ、というように思っていたのです。


しかし、般若心経のことが書かれた本には、無明のことをお釈迦さまは別の言葉で、「渇愛」とおっしゃっています、と記されていました。

渇愛とは、宇宙的な欲望とでもいうべきもので、その巨大な欲望の力が、私たち1人1人の奥底に、私たちの日常の意識が届かない深い深い奥底にごうごうと流れているらしいのです。

そしてこの無明という渇愛があるからこそ、私たちは、永遠に生まれては死に、死んでは生まれる輪廻のあり方を続けなければならず、お釈迦様はそのような世界のあり方を苦しみであるとおっしゃった、ということです。


私はまだ仏教のここがよく理解できません。

これまで仏教に惹かれ、学んでみたい!と思わなかったのも、せっかく日々楽しく生きているところを「この世は苦しみだ」などと言われたくなかった、という単純な気持ちがあります。

そしてその苦しみが、少しばかり勉強したら、「あぁ、私たちが日ごろ使っている意味の苦しみではないんだな。」とおぼろげながらでもわかるような気がすればまだ仏教を学ぼうという気持ちが起こるかもしれないのに、と思っていました。

しかし、相変わらずこの説明では納得できません。

私は、魂は常に成長を続けたがる存在であり、しかし、成長を続けるためには体験や経験を通してしかそれがなされず、ということは肉体という箱がないと体験や経験はできない、ということから魂と肉体は常に一体の存在であり、魂だけの存在となって天にいつまでもたゆたうばかりがいいわけでもないんだな、人間としてこの世に肉がある存在として生まれてきたことは尊いことなんだな、とわかったばかりです。

なのに、渇愛という欲望がある限り、この世は苦しみだ、しかも苦しみの意味は、それがあるかぎり輪廻しなくてはならないから、というのでは、生まれてきてまた転生することを「おぉ、可哀そうに・・」と哀れんでもらっているようでどうも気分がよろしくないです。

そこにこそ、誇りを持っているというのに。


それよりも私はこの“渇愛”という言葉を激しい欲望のことだ、と解釈せずに、文字通り、渇き、飢えるほどに求めてしまう愛情のことだ、と考えたほうが理解しやすい、と思いました。

人はこの世に生まれてきて、愛すること、愛されることをやめることはできません。

そのことで傷ついても、傷ついても求めてしまう・・

しかも、これだけあればもう十分、というようにはならない。

もっと、もっとと砂漠で渇いた土壌がどんどん水を吸収するようにどれだけでも愛情を求めてしまう。

その姿は醜いときもあるし、それがゆえに美しいときもある。

自身の身を削っても求めたり、与えたりする愛のときもあるだろうし、人から見れば十分に持っているように見えるのに、本人はまだまだ渇いている、という場合もある。

それって業(ごう)よのぉ、というように捉えたほうが無明を言い表している気がするんですけれどね。

そして、だからこそこの世は苦しみだ、という理由も愛あればこそ、と考えたほうが何となくわかるような気がする・・

もちろん、愛も欲望のかたちをかえたひとつの姿ですけれどね。

どうなんでしょう・・・


まぁ、いま私は性急にこの答えが欲しいとは思っていません。

オーラソーマにしても仏教にしても、「その答えはこうだよ。」と人からポンと与えられて、すぐにわかったような気になったり、満足するようなものではないと思うから。

自分の人生を歩みながら、その過程のなかで「あ、あのとき疑問に思ったこと、こういうことかな。」と気付いていくものだと思うから。

これから私が徐々に仏教のことを学んでいこうとするなかで、行く先の楽しみをもらった、というふうに思っていましょう。





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般若心経にかかれていること

2012-07-30 09:08:00 | 宗教

はてさて、オーラソーマは仏教とも関連しておりますです、ということを昨日は3原色の傾向とともに書かせていただきましたが、今日は、私が最近、観音経と般若心経は唱えられるようになりたいな、と思い買った本から得た知識をそのまま受け売りしようと思います。

まずは般若心経について。


これは観音様があまりにも気持ちよさそうに瞑想していたので、弟子のシャーリープトラが、

「観音様がされている瞑想はどのようなものなのですか?」と尋ねると、観音様が、

「これは私がはるか昔から慣れ親しんできた般若波羅蜜という瞑想なんだよ。」とその境地を教えてくれたところから始まります。

般若心経とは一言で言えば、「智恵の大海」です。

誰の心の底にも大きな広い悟りの海がある。その海のことを般若波羅蜜といいます。

観音様は自分の智恵の海に下りていき、改めてそこからこの世のありようを眺めてみると、世界がこれまでとはまったく違った新しい姿で見えてきました。

そこで観音様は悟ったのです。

この世界を形作っている色や形や感覚や思いなどは、すべてみなこの海の表の起こっては消える波のようなものだった、ということに。

そしてそれがわかったとき、観音様はこの世のすべての悩みや苦しみからいつしか解放されていたのでした。

そう、ここではこの世のありさまを海の波にたとえています。

それがちょっと新鮮で、わかりやすいと思ったので、皆さんにも紹介したいと思いました。

私たちがふだん自分で眼にしているものは確かにそこに存在していると思っている、けれど本当はそうではない・・

そのことについて私はこれまでいろいろな本を読み、それぞれの著者がわかりやすく説明してやろう、という方法に従って、少しばかりわかったような気になったり、かえってわからなくなったりしたものでした。


般若心経のものはかなりわかりやすくなぞらえられています。

私たちがそこに「在る」と思っているものは、私たちが思いこんでいるような確実なあり方で存在しているわけではない。

それは、例えていうなら、海の上に立っては消える波のようなもの。

波を固定してつかまえようとしてもつかまえられないように、それらは常に移ろいゆき、そこには何ひとつつかまえられるような実体はない。

実体がないとはいえ、ではそこにないのか、といえばそうでもない。

波は海そのものと切り離すことはできません。

波と海とは常にひとつのもの。

それが般若心経のもっとも有名な、「色即是空 空即是色」の意味だったのです。

私たちはこの世に産まれ、また死んでいく。

それは大海のひとつの波が生まれ、また消えていくようなもの。

しかし、その大きな海そのものは生まれることも消え去ることもない。

ただ、そこにある。

この大海こそが私たちの本体なのだから。

私たちはだから、実は最初から生まれることもなく、消滅することもない、そういう存在だったのだ、と言っているわけです。


心のみにくく汚れた姿と美しく清らかな姿も、波の形の違いのようなもの。

どちらも般若波羅蜜の大海の表面に立つ波なのですから、その本体に違いはないのだ、というわけです。

醜く汚いものと清らかな姿とは正反対のように見えるけれど、どちらも同じ大海の波のかたちなんだ。

どちらもひとつの真実のあらわれなんだ。

欲望をいちがいに悪いもの、汚れたものと決め付けていたらこの世の深い真実はつかめない。

もっと広い大きな見地から眺めれば真実の姿に気付くだろう。

人間が死を恐れるのも、波のカタチだけを見ているから。

でも、もし自分というものが表面の波のひとつにすぎないのではなく、その大きな海そのものなんだということが本当にわかったら、死を目の前にしてもあわてたり恐れたりすることはなく安らかでいられるはずだ。


少しばかりの財産が増えた、減ったと喜んだりがっかりするのも、日ごろ私たちが価値の世界に生きているから。

でも、それもただ波のカタチがすこし大きくなったり、小さくなったりするようなもので、海そのものは増えも減りもしない。

本当の自分である般若波羅蜜の真実の世界は永遠に変わらない。

とはいえ、俗人である私たちは苦しいことがあればやっぱりそれは現実的な苦しみだし、欲望もあるし、でどうしたらいいんだ?となるわけですが、実際にお釈迦様も、この般若波羅蜜の世界は、わたしたち人間の知力で理解できるものではありません、と言っておられます。

それは人間のはからいをはるかに超えたものなのだから、人がそれを悟ろうとするならば、ひたすらただ信頼して、般若波羅蜜の大海に自らを投げ入れるほかない、ということなのです。

そこで、シャーリープトラはさらに観音様に尋ねます。

「では、実際に私たちがその般若波羅蜜の世界に飛び込むとしたらどうしたらいいんですか?」と。

それに対する観音様の答えが「般若心経をとなえろ。」ということなわけですね。


シャーリープトラは「え? たったそれだけのことでいいんですか?」と拍子抜けして聞き返します。

観音様は、「そ。たったそれだけのことでいいんだよ。」と繰り返します。

なぜ、たったそれだけのことでいいのか?

その答えは、般若心経が“マントラ”だからです。


皆さんは、“マントラ”という言葉を聞いたことがおありでしょう?

マントラとはサンスクリット語で「真言」のことです。

真言とは何か、というと、「その言葉自体が指し示すものそのもの」のことです。

わかりやすく言うと、普通言葉とは何かを指し示すもののことですよね。

そこに蓮の花がある。

だから「ハス」と言葉でその名を呼ぶ。

しかし、真言とは、何もないところに「ハス」と唱えれば、そこにホンモノの蓮がぱっと現れる言葉だ、ということなわけです。


つまり、般若波羅蜜の大海のことが理解できなくても、そこに飛び込む勇気がなくても、ただ般若心経のマントラを唱えれば、そこに般若波羅蜜の大海がパッとあらわれ、唱えた人は般若波羅蜜の大海の真ん中に存在することができる、というわけです。


こりゃあ、大衆に受けるはずだわ。

難しい修行した悟りを開いた人にならなくてもいいんだもん。

マントラとはバイブレーション(波動)でもあります。

この世はすべて波動でできていますから、そのマントラのバイブレーションに波動をあわせて、日常世界で汚れてしまった心の洗濯をする、と考えればいいでしょうか。

人間のバイブレーションはけっこう粗雑に出来ているらしいです。

だから汚れや垢をためやすいんだそうです。

そこで汚れを取り去ってくれるマントラ(洗剤)を入れて、そのバイブレーションの洗濯機でぶるぶるっと洗うと次第に心が澄んでいく、というわけですね。

わかるような気がするなぁ。

だって、一番シンプルなマントラである「オウム」というこの世に最初に出来たといわれている音を唱えただけで、心が澄むと同時にぴぃ~んとギターの弦を調律して張り詰めたような気持ちよさがあるもん。

表現アートセラピー講座で、5人ずつぐらいのグループに分かれて、みんなでいろんな高さの「オウム」を輪唱していったときの心地よさ。

あれは、「カエルの歌が・・」の輪唱にはない心地よさがやっぱりあったよな。

それは真言の力だったのでしょう。


オーラソーマはいろんなものとつながっていて奥深く、探究好きの私を飽きさせません。





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仏教とオーラソーマとの関連

2012-07-29 09:06:00 | 宗教

昨日は、私がダーリンの月に1度のお参りに付き合っているうちに、自然と観音経と般若心経とは唱えられるようになりたいと思うようになった、という話を書きました。

そして、そもそもオーラソーマと仏教は密接なつながりがあり、それはレベル2の教科書にも載っていることだ、と書きました。

今日は、自分自身の復習の意味もこめて、改めてこのレベル2の教科書に載っている仏教とオーラソーマのつながりについて、皆さんにもお伝えしようと思います。

そもそも、仏教とオーラソーマとは密接につながっている、なぁ~んて言ったって、仏教の何千年という歴史に比べたらオーラソーマはほんのひよっ子なだけだし、オーラソーマが仏教の何を真似したっていうの?って話かと思っちゃいますよね。

私はずいぶん前のこととなりますが、2009年3月7日に「仏教とオーラソーマ」という記事をUPしておりまして、そこでは「天上天下唯我独尊」の意味について述べました。


今一度この意味についてここで述べさせていただきますと、これは、「自分という存在はかけがえのないたった1人の存在で、尊い命を持っている。このことに気付けば、ほかの人の命もまた同様で、すべての命の尊さがわかり、生きとし生けるものすべてが尊い存在であることに気付く。」というものです。

これはオーラソーマで使われる「ブルーグローブメディテーション」そのものだ、と言えます。

そしてすべての命の尊さに気付き、自分もその命の一員なのだ、と気付くとき、ワンネスの感覚を味合う・・ それこそがオーラソーマの目的の1つかもしれません。


さて、2009年の私はそんなことを考えておったのだのぉ、ということで、再び我に返り、その発祥ということでいえばずんずんと先を行っている仏教とオーラソーマがどのように関連しているか、ということについて、改めて教科書をひもといてみました。

それはレベル2の教科書によれば、「三位一体」の概念です。


キリスト教には、「父と子と精霊」という三位一体が存在します。

原子のレベルには、陽子、中性子、電子の3つの要素があります。

アーユルヴェーダにはその体質をはかるものとして「ヴァータ」「ピッタ」「カパ」の3つの質が存在します。

そしてオーラソーマで使われる色は3原色から始まりました。すなわち「ブルー

、イエロー、レッド」です。

そして、仏教では生きるための智恵として3つの傾向があることがここでは語られています。

その3つの傾向とは、

1.            与えられた状況に対して“YES”と言い、開いていく。物事を取り入れ   る傾向のこと。それはしがみつく傾向と言ってもよい。

2.            与えられた状況に対して“NO”と言い、閉じていく傾向。物事を排除すること。反発すること。

3.            取り入れるべきか排除するべきかわからず、状況にどう対処してよいかわからない傾向のこと。混乱する傾向。


これらは字面だけ見ていると、どれも悪いことのように見えますが、どれも本来ネガティブなものではありません。

それぞれに適度な度合いというものがあり、それぞれの役割を果たしている、というだけのことです。

しかし、それらを意識的に認識していないと、それらが私たちの人生をあやつり、ネガティブな結果をもたらすことにはなるかもしれません。

単細胞のアメーバから複雑な多細胞生物まで、存在するすべての生物は究極的に上記の3つの反応の仕方を持っているんだそうです。

ですからもちろん我々人間もそうだ、ということですね。

そして、これは単なる反応の仕方であり、良くも悪くもないのだ、ということでいえば、「中道をいく」状態である、どれもがバランスよく存在しているのが良い状態といえるでしょう。


この1.「取り入れる傾向」は3原色の最初の色、ブルーと関連しています。

2.番目の「反発する傾向」はレッドと関連します。

そして、3.番目の「混乱する傾向」はイエローの意味合いと一致しています。
オーラソーマのコンサルテーションシートには、クライアントが選んだボトルに現れた「ブルー」「イエロー」「レッド」を数値化してどのくらい持っているかを記入する項目がありますが、それで今現在の自分の反応の仕方がどこに偏っているのか、を見ることができます。


そして仏教では、お釈迦さまが、この反応の仕方と同様のことを苦悩の究極的な3つの原因だ、と説いていらっしゃいます。

すなわち、

1.持っていないものを欲しがる。(ブルーの傾向)

2.欲しくないものを持っている。(レッドの傾向)

3.何が欲しいかわからない。(イエローの傾向)


またまたもう1度言いますが、この字面だけ見ているとそれぞれの傾向ともに悪いことのように見えますが、決してそうではありません。

例えば、ブルーの傾向である「しがみつく」ということは、私たちは肉体にしがみつき、肉体を欲しい、と思うことによって、魂は転生するチャンスをつかむといえます。

魂は肉体を持ち、いろんなことを体験することによってのみ成長できるのですからブルーの質を持ち、「取り入れる」「しがみつく」傾向をある程度持つことも必要なことに違いありません。

ここで、レベル2の教科書にはこのように書かれています。

“ブルーのエネルギーを活用する際に最も適切なことは、信頼と言う質を育てること”だ、と。


そしてレッドのエネルギーについてはこのように書かれています。

“嫌いなものをはねつけようとすればするほど、それをひきつけることになる。この場合、拒絶しているものとの間に距離を置いて眺めることができたとき、それはもう私たちの元へは戻ってこないだろう”、と。

そしてイエローのエネルギーについてはこのように書かれています。

“混乱しているときに唯一わかっていることは、自分はなにもわかっていない、ということだけ”だ、と。

だから、自分が混乱のなかにいる、ということがわかったときは、まずそこから先へむやみに進もうとしないことが大切だ、と説かれています。

そうすると、状況が落ち着き、物事をよりはっきりと見ることができるようになり、ここに明晰性がもたらされるのだ、と。

う~ん、なんて奥深いんだ!

オーラソーマの究極的にシンプルで、かつ真髄を言い当てたコンセプトが、レベル2の教科書のわずか4ページほどの間に記されているなんて!

こんなにさらっと流していいものか!

改めて私はもだえ苦しむほどに感動したのでした。


つまり、信頼することによってしがみつき、取り入れたがる傾向から解放され、距離をおくことによって反発する傾向から解放され、明晰性を保つことによって混乱から解放される・・・

それを仏教は生きる智恵の三位一体として説いており、それはそれぞれブルー、レッド、イエローの色のメッセージとも一致するから仏教とオーラソーマは密接に関連しているんだよ、ということがここで書かれていたのです。

う~ん、なんて素晴らしいんだ! 仏教も! オーラソーマも!





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お経をとなえたくなりました

2012-07-28 09:03:00 | 身辺雑事

いま、私は月に1回、ダーリンと一緒に仏教の、とある寺院の岐阜支部のようなところにお参りに行っています。

なんでこういうことになったのか、と言うと、ダーリンが知り合いの方からこの仏さまを拝むことによってのご利益は大層なものである、ということを聞き毎月お参りに行くようになったからです。

そして、できればご家族の方もご一緒にどうぞ、ということで付いて行っています。


最初にこの話を聞いたとき、私はダーリンに、

「どういうところがいいと思ったから、ここへお参りに行くの?」と尋ねました。

すると、しばらく考え込んでから「・・・・・わからん。」と一言。

この答えを聞いたときにはさすがにびっくらたまげました。

そんなわからんようなものにどうしていくのか・・?

私に「オーラソーマのどんなところが素晴らしいわけ?」と尋ねる人がいたら、私はきっとその人の前で1時間でも2時間でも話し続けることでしょう。

しかし、「・・・わからん。」というようなものにどうして行くのか?


しばし考えましたが、逆に私は「これは面白い。」と思いました。

「出来ればご家族の方も一緒にお参りしたほうがいいですよ。」と言われるなら、おうともよ、行こうじゃないか。

そして私は自分の目で、ダーリンがこの宗教のどこにそんなに惹かれたのかを見極めるのだ、・・・なぁ~んて最初は息巻いていました。

行くと、毎月少しずつメンバーの顔ぶれは違いますが、2、30人の方がいらっしゃいます。

そして時間になると、その総本山は山梨県にあるのですが、岐阜支部長のような方が月に1回、総本山に行って、ありがたい住職のお話を聞いてきて、それをビデオに撮ったものが流されます。

お話はほんの5分ほどのものです。

そして、観音経と般若心経とそのお寺独自のお経の3種類を全員で唱和して終わりです。


宗教独特の囲い込みと申しましょうか、自分のところの宗教が1番ですべてであり、他の宗教なんてくそくらえだ、というような雰囲気がここにはないので、まぁ、嫌な気にもならず、面倒でもなく一緒に行っていますが、逆に感動することも「これはいいわ~」と思うようなこともなく、何度通っても、ダーリンが「これだ!」と思った理由はわからずじまいです。

何でも月に1度のここへのお参りをかかさず24回行い、お札をもらうと満願で願いが叶うんだそうです。

どうやら、肉体の不調や障害を負った人などがわらにもすがる思いで来てらっしゃることが多いみたいだ、ということも薄々わかってきました。

そもそも私はこの仏に帰依したら、病気が治ったとか、商売が繁盛するようになった、とかの現世でのご利益をえさのように顔の前にぶらさげられ、そのえさにつられて信者がやってくる、というような宗教が好きではありません。

ダーリンもそういうのはあまり好きではないはずだし、ダーリンに特にわらにもすがりたいような願いがあるとも思えないのに、ダーリンはどうしてせっせとここへ通うのだろう・・?

それは謎のままでしたが、あるとき、私の中に少しだけ心境の変化が生まれました。

それは、今月、いつものようにお参りに行ったときのこと。

相変わらず私はもっと深くこの宗教のことが知りたい!とか、仏にすがりたい!とかこの教えを学びたい!とかも思っていないので、なぁ~んにも知らないままに参加していました。

そうして、いつものように観音経と般若心経とこのお寺さんのお経が唱和されたとき。

私だけ(でも、ない様子でしたが・・ ほかにも数人はいらっしゃいました。)が一緒に唱和できずにただ座っている。

これは寂しい。

理屈抜きにお経だけは一緒に唱和できるようになりたい。

そう思ったのです。


そう思った背景には、もちろん、私がオーラソーマをやっていて、言霊の力というものも信じるようになっていて、そして天使の名を毎日チャンティングするようになり、そのように天の力の名を呼ぶことの意義というものを肌身で感じるようになったからです。

最近の私はAEOSにしてもそうですが、より具体的に自分の五感、肉体を使って感じることをしたい、と思うようになっていたから、ということもあると思います。


そうしたら、その月のビデオでの住職のお話は、

「ここにこうして来ていても、ただみんなの後ろをついてきているだけ、ではなんのご利益もない。いつまでたってもその人は何も変わらない。」というような私の痛いところを突かれるようなものでした。

帰り道、私はダーリンにいきなり、

「私さ、せめて観音経と般若心経だけはとなえるようになりたいわ。」と言いました。

ダーリンだって唱和できないうちの1人ですし、そのことに対して何の後ろ暗さも感じていなかったようなので、

「えぇ!?」とびっくりしていました。

次の日、私はさっそくアマゾンで、観音経と般若心経のわかりやすそうな本を4冊買いこみました。

そして、まずは般若心経の意味から読んでみると、なるほどぉ!と改めてお経の深さとそれを唱えることの意味深さにひとり深くうなずくのみでした。

これについてはまた日を改めて語りましょう。

そもそも、オーラソーマはいろいろなものと密接につながっています。

仏教もしかり、です。

これについてはレベル2の教科書にも詳しく書かれています。

これについても後日改めて語りたいと思います。


そして、実際にオーラソーマの現在111本あるボトルのなかには、仏教と深くかかわりのあるネーミングのボトルもたくさんあります。

B60「ラオツー&クァンイン」は老子と観音様のことです。

B61「サナトクマラ&レディーヴィーナスクマラ」は韋駄天のことです。

B73「チャンツー」は荘子のことです。

そのほかにもB50「エルモリヤ」、B51「クツミ」のマスターは両人とももともとインドの霊的指導者でしたから、仏教とかかわりがある人たちかもしれません。

そして、B33「ドルフィンボトル」ですが、お釈迦様の言葉のなかには「イルカは人間より偉大だ。」というものがあり、いつも私はB33を見るたびにその言葉を思い出します。


このようにボトルのなかにさえ何本も仏教と直接関連するボトルがありながら、オーラソーマと仏教が密接にその背後にある信念としてつながるものがあるのだ、ということをもっと突き詰めて研究しているオーラソーマ関係者がいないのはなぜだろう?と改めて不思議になりました。(ひょっとしたら、私が知らないだけでいらっしゃるかもしれません。)

どうしても、このきれいなカラーボトルを見ていると、抹香くさいものと関連づけるよりもやはり同様に美しいイメージのある西洋占星術やタロット、クリスタル、天使などのほうに興味が向くのかなぁ。(事実、私がそうだったように)

そう考えたとき、あまのじゃくな私は、俄然、仏教についての興味が増してきました。

オーラソーマともつながる仏教の教えや精神について、オーラソーマをやっている人のなかでは誰よりも詳しくなってやろうかしらん、なんてことをひそかにたくらんでいる今日この頃です。





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朝のひとコマ

2012-07-27 09:08:00 | 身辺雑事

朝、バタバタとダーリンが仕事に出掛けていき、やれやれ、とほっと一息、自分のためにコーヒーを入れる。

と、そこへ、またまたピンポ~ン。

このピン、ピン、ピン、ピンポン、ピンポン、ピンポォ~ン!というせわしない鳴らし方はまたダーリンが忘れ物をして戻ってきたに違いない。

やれやれ。

ほんとに、ダーリンてば刹那的な行動が多いんだから。

だから忘れ物も多いんだよ。

そうして、どっこいしょ、と腰をあげながら不機嫌になるわたくし。

そりゃあ、ダーリンのことは大事だけれど、今日も1日出掛けていった、やれやれ、これからほんのしばし自分の時間だ、とコーヒーを入れてゆっくりとした時間を楽しもうと腰をすえたときにまた戻ってこられるというのは、シーズンを通して戦ってきたプロ野球選手やゴルファーがシーズンが終わり、やれやれ、と体をゆるめたとたん、「ごめん、ごめん、もう1試合残ってたわ。もう1回身体つくってくれる?」と協会側から言われ、急遽ゆるみきった身体をもう1度戦闘態勢に戻す、というくらいイヤだ。(たとえが長い!)


「今日は何!?」と不機嫌そうにドアを開けるわたくし。

すると、

「やぁ! もう1回お出かけのチューがしたくってさぁ、帰ってきたってわけよ。そうしたら、なんと、ついでに忘れていた携帯のことにも気付いてさぁ。あ、そこの携帯とってくれる?」とダーリン。

ここで私は我慢できずに爆笑。

このようにダーリンは、毎日、毎日小芝居を打ちます。

夜、テレビの前で寝てしまうとき。

「こら、そんなところで寝ちゃあ、だめでしょ。」と私が言うと、

「いや、寝てない。ちょっと目をつぶって、地球とハグしてただけ。」とかヌカします。

でも、それらのすべてが愛嬌があるので、つい私は笑ってしまって、それまでの不機嫌さも直ってしまう、ということがほとんど。

やっぱり、男は愛嬌だね。

この年になってつくづく私が男に求める条件はただ1つ、愛嬌。

あんまり真面目すぎる人だと息がつまっちゃうし、あまりにも生活力がある男でもこちらがダラけるか、向こうがその生活力を楯に上から目線になるかだろうし、ましてや容姿の見目麗しさなんてこっちが気が張るか自分は女なのに・・ってかえって落ち込むのが関の山。

でも、愛嬌はいいよ。

飽きないし。

そいで、女は根性だぁ~!

というわけで、ふたたびバタバタとダーリンが出掛けていったあと、今度こそ、と私はコーヒー片手にテレビの前に座りました。

「はなまるマーケット」をやっていました。

別にいつも見てるわけではありませんが、この日はたまたまぼーっとこれを見てました。

すると、若い男優の桐谷健太さんが「はなまるカフェ」のゲストでした。


桐谷さんには富山におばあちゃんがいて、90歳ながらすこぶる元気だそうです。

このおばあちゃんが、「勿体ない」を連発するのが「なんかいいなぁ。」とおっしゃるのです。

桐谷さんは、

「これ、富山の方言かなんか知りませんけれど・・」と言いながら、おばあちゃんが、

「例えば今日、雨の予報だったのにすごく晴れたとするでしょ。そうすると、『勿体ないことだのぉ。』とか言うんですよ。」という使い方なんだ、ということを教えてくれました。

これを聞いて、私は「あぁ。それは富山の方言でもなんでもないよ。ちょっと昔の人ってそういえばそういう使い方したよなぁ。」なんて感慨にふけりました。

この場合の、「勿体ない」とは、「自分の身に余る」というほどの意味だと思います。

もともと「勿体」とは、「重々しい」とか「威厳」を表す言葉です。

「もったいつけちゃって」とか使うときがありますよね。

それが「ない」わけですから、「それほどの重々しさに、私は(これは)該当しませんよ。」という意味ですね。

ですからちょっとへりくだったような意味で、「もったいない。」を使うお年寄りがいらっしゃるんです。

うちのおばあちゃんもそういえば昔、よく使ってたなぁ、と思い出しました。

何かをあげると、それがたいして価値のあるようなものでなくても、おばあちゃんは、「もったいない。もったいない。」と言いました。

それは、「いいや、これはたいそう価値のあるものだよ。その価値に私は見合うだろうか。ありがとう。」というような意味なのですよね。


これって単純に「ありがとう。」というよりも、意味深いかんじがしませんか?

どんなモノにも存在する意味があるし、その“存在の重さ”に対して、私はどうだろう?と常にわが身を振り返る謙虚さを感じます。

そして、それをいただくことに対する深い感謝。

古い使い方の日本語は失われていく傾向にあるのかもしれませんが、みんなが「良い言葉だなぁ。」と思うものは、その意味がわからなくったって、残っていくように思います。

げんに、お若い桐谷さんだって、そのおばあちゃんの使い方を「?」「どういう意味?」と思いながらも、「なんかそれっていいよなぁ。」と感じたわけです。

ちゃんと伝わっているんですね。


「勿体ない」という言葉自体は、最近では、ケニアのワンガリ・マータイさんが提唱した「無駄をなくそう」運動の精神をわかりやすく一言で言い表した言葉としてこの「勿体ない」をぜんぶローマ字表記とした「MOTTAINAI」のほうがもう有名になってしまったかもしれません。

でも、「まだ使えるのに、もったいない。」というときに使うばかりではなく、今日はこの桐谷さんのおばあちゃんのように元もとの意味である、「そんなことまでしていただいては、私には分不相応ではないでしょうか。ほんとに深く感謝いたします。」という使い方として、私もちょっとこの「もったいない」を意識的に使うようにしよう!と思いました。


一瞬、不機嫌になりかけた朝の1コマでしたが、ダーリンの愛嬌とこの「勿体ない」に救われて、気持ちよくスタートを切ることができました。

もったいない、もったいない。





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