読んでいた本のコラムに、人間の欲が実によくあらわれている小話だなぁ、というものが載っていました。
紹介しますね。
あるとき、一休さんのもとに1人の老人がやってきました。
「私はもう80歳になりました。死が近づいたようで落ち着きません。もう少し長生きできるようなご祈祷をしていただけませんか?」と言います。
そこで一休さんは、老人にどのくらい長生きしたいのか尋ねました。
すると、老人は、
「そうですね。100歳までぐらいお願いできませんか?」と言いました。
一休さんは、「あなたは欲が少ない方ですねぇ。100まででいいんですか!」と言うと、老人はさらに欲が出てきたようで、
「もっと生きられればなお良いんですが。」と言い出しました。
「それなら、何歳までにしますか?」と一休さんが再び尋ねると、
「では、150歳にしておいてください。」と言います。
そこで一休さんはさらに、
「あなたは今80歳なんでしょう。これから150歳になるには、70年だから、これまで生きてきたぶんほどもないんですよ。そんなんでいいんですか?」と言うと、老人は黙って考え込んだあと、ポツリと、
「人間というのはいったいいつまで生きたら満足できるものなんでしょう・・」と言いました。
そして一休さんに質問をしました。
「禅師さま、あなたはいくつまで生きるおつもりですか?」と。
すると一休さんは、「私たち坊主は死なないことになっています。」と答えました。
老人が驚いて、「そんなご祈祷があるのですか。」と言うと、
「ありますとも。お釈迦さまのご説法はそれすべてが祈祷です。これにより私たちは法身になるのです。そうなれば、肉体は死にますが、法身は死にません。お釈迦さまは亡くなられることを少しも嘆かず、むしろ法身になることを喜んでおられました。あなたも自分を法身にしてしまえば、150歳で終わりということはなくなりますよ。」と一休さんは老人に説いたのでした。
そして老人は、般若心経を毎日となえることを日課とし、安楽に往生できましたとさ、という小話です。
これは、ほんとうにこういうことがあった、というよりは真言である般若心経を毎日唱えるだけで、果てしない欲望からおさらばできますよ、という作られた小話のように思えます。
だって、一休さんの伝記を読むかぎり、一休さん自身が死ぬ間際はかなり往生際悪く、もっと生きたいという苦しみを味わったようですから・・
お釈迦様はこの世は苦しみだと言い、その苦しみの源は“無明”(むみょう)から来る、と言っています。
その無明のことを私はどこかで「無知」のことだ、と聞いたようにずっと思っていました。
つまり、すべての苦しみは、物事の本質を理解しようとしない智恵のなさから来るのだと。
だから人間学ぶことが大切だ、というように思っていたのです。
しかし、般若心経のことが書かれた本には、無明のことをお釈迦さまは別の言葉で、「渇愛」とおっしゃっています、と記されていました。
渇愛とは、宇宙的な欲望とでもいうべきもので、その巨大な欲望の力が、私たち1人1人の奥底に、私たちの日常の意識が届かない深い深い奥底にごうごうと流れているらしいのです。
そしてこの無明という渇愛があるからこそ、私たちは、永遠に生まれては死に、死んでは生まれる輪廻のあり方を続けなければならず、お釈迦様はそのような世界のあり方を苦しみであるとおっしゃった、ということです。
私はまだ仏教のここがよく理解できません。
これまで仏教に惹かれ、学んでみたい!と思わなかったのも、せっかく日々楽しく生きているところを「この世は苦しみだ」などと言われたくなかった、という単純な気持ちがあります。
そしてその苦しみが、少しばかり勉強したら、「あぁ、私たちが日ごろ使っている意味の苦しみではないんだな。」とおぼろげながらでもわかるような気がすればまだ仏教を学ぼうという気持ちが起こるかもしれないのに、と思っていました。
しかし、相変わらずこの説明では納得できません。
私は、魂は常に成長を続けたがる存在であり、しかし、成長を続けるためには体験や経験を通してしかそれがなされず、ということは肉体という箱がないと体験や経験はできない、ということから魂と肉体は常に一体の存在であり、魂だけの存在となって天にいつまでもたゆたうばかりがいいわけでもないんだな、人間としてこの世に肉がある存在として生まれてきたことは尊いことなんだな、とわかったばかりです。
なのに、渇愛という欲望がある限り、この世は苦しみだ、しかも苦しみの意味は、それがあるかぎり輪廻しなくてはならないから、というのでは、生まれてきてまた転生することを「おぉ、可哀そうに・・」と哀れんでもらっているようでどうも気分がよろしくないです。
そこにこそ、誇りを持っているというのに。
それよりも私はこの“渇愛”という言葉を激しい欲望のことだ、と解釈せずに、文字通り、渇き、飢えるほどに求めてしまう愛情のことだ、と考えたほうが理解しやすい、と思いました。
人はこの世に生まれてきて、愛すること、愛されることをやめることはできません。
そのことで傷ついても、傷ついても求めてしまう・・
しかも、これだけあればもう十分、というようにはならない。
もっと、もっとと砂漠で渇いた土壌がどんどん水を吸収するようにどれだけでも愛情を求めてしまう。
その姿は醜いときもあるし、それがゆえに美しいときもある。
自身の身を削っても求めたり、与えたりする愛のときもあるだろうし、人から見れば十分に持っているように見えるのに、本人はまだまだ渇いている、という場合もある。
それって業(ごう)よのぉ、というように捉えたほうが無明を言い表している気がするんですけれどね。
そして、だからこそこの世は苦しみだ、という理由も愛あればこそ、と考えたほうが何となくわかるような気がする・・
もちろん、愛も欲望のかたちをかえたひとつの姿ですけれどね。
どうなんでしょう・・・
まぁ、いま私は性急にこの答えが欲しいとは思っていません。
オーラソーマにしても仏教にしても、「その答えはこうだよ。」と人からポンと与えられて、すぐにわかったような気になったり、満足するようなものではないと思うから。
自分の人生を歩みながら、その過程のなかで「あ、あのとき疑問に思ったこと、こういうことかな。」と気付いていくものだと思うから。
これから私が徐々に仏教のことを学んでいこうとするなかで、行く先の楽しみをもらった、というふうに思っていましょう。
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