ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

危険領域を侵す人

2011-08-31 09:18:00 | 身辺雑事

1つだけ、なんて言いながら、今日も昨日の続きで、島田紳助さんについて、です。

私の人生には別に影響ないしぃ~とか言いながら、結局結構わたし、彼の引退のことについては考えさせられてるじゃないの。


私は島田紳助さんという人物をテレビで見ていた限りにおいては、別に好きでも嫌いでもありません。

でも、「何も感じない人」ではありませんでした。

「う~ん、今のたとえは面白~い!」とその発言に喝采したくなるほどのときと、「なんかイヤな感じ!」と嫌悪感を抱くときが激しく交錯し、ならすと「好きでも嫌いでもない」というふうにしか言いようがない、という感じでした。

もし、彼のような人が一般人として自分の身近に存在していたら、決して親友にはなりたくないけれど、何か結束してやるときとかグループのなかの1人としてはああいう人がいても面白いかも、という感じかな。

しかし、好き嫌いとは別に彼の性格のある部分が自分とかぶってとっても愛おしいなぁ、と思うところがあるんです。

今日はそれについてのお話です。

彼は会見で、元プロボクサーで今は、被告と呼ばれる存在となった渡辺二郎さんのことを「20代前半からずっと友人です。」と言いました。

けれどいまやその友人は、暴力団組織の一員となり、刑事事件を起こすような人となってしまいました。

それでも紳助さんは友人を止めなかったんですね。

暴力団や刑事事件はいけないことだとしながらも、いいところもいっぱいある人だし、それで友人を止めるということは人として違う、と彼は思ったんでしょうね。

芸能人だから彼と付き合うのがルール違反だと言われるなら、芸能人であることのほうをやめるわ、というのが彼の生き方なんでしょう。


私も、そういうところがあるんです。

世間が一様にダメだしをするならば、むしろその逆をいってやろう、とわざとそうするようなところが。

なぜかフライング気味の正義感を発揮してしまうんです。

あれは小学校5年生のときでした。

私には同じクラスで親友と呼べる友人がいました。

あるとき突然担任の教師に呼び出され、「あいつとあまり親しく付き合うのはやめろ。お前のためにならん。お前のためを思って言ってやっているんだぞ。」と言われました。

教師がそう言う理由は単に成績だけのことでした。

当時私は成績のよい児童で、彼女は普通って感じでした。

教師は、もっと成績の良い○○や△△と友達になったらどうだ、と言うのです。

子どもながらに(この教師はおかしなことを言っている)と思いました。

そして、その場こそ教師には反発しませんでしたが、全くそんなことには聞く耳を持ちませんでした。

彼女と友達をやめるくらいなら、その教師の覚えが悪くなって結構、と思いました。

時は経過して中学2年生のとき。

同じことが起こりました。

小学生のときとは別の友人のことですが、クラスでもちょっと浮いている感じのあった子で、でも話してみるといいところもあるな、という子がいました。

以来、私はその子とほかの子と分け隔てなく仲良くしていました。

すると担任の教師にまた呼び出されました。

「あの子は危険だから、あまり付き合わないほうがいい。あなたにはふさわしくない子よ。」と。


そのとたん、胸のなかで、(だったら誰なら彼女にふさわしいんだよ。あの子はひとりぼっちにしとけよ、とでも言うのかよ。)と毒づく私がいました。

確かに彼女がクラスのなかでちょっと浮き気味だったのも、本人は悪戯のつもりでやったことが度を越しているだろー、それでは誰も笑って許すわけにはいかんだろーということがままあったからです。

でも、それは受け容れられないからついとってしまう行動であったり、家庭の複雑さがなせることであったりしたわけで、こちらが偏見なく付き合えば普通の子だったのです。

このときは、その場で反抗心むきだしにしました。

「ふさわしいとかふさわしくないとかって成績がつりあうかつりあわないか、ってことで言ってるんですか? 友人てそういうことで決めるんですか?」

教師は適切な回答ができませんでした。

それみたことか、と私はその教師が見ている前では、わざと彼女と仲良くするようになりました。

高校2年ではこんなこともありました。

普段から態度が悪く、成績も悪い男子生徒が授業中になにやら明らかに先生の話を聞いていない、というほかごとをしていました。

すると普段は穏やかなその先生がよほど腹に据えかねたのか、いきなり最前列の席だったその男子に歩み寄り、彼が首にしていたネックレスに手をかけ、

「何をやっとるんだぁ! おまえは。学校にそんなネックレスなんかしてきて! そもそも男だろう。男のくせに!」(男のくせに、というこの怒り方そのものが時代錯誤ですよねぇ・・・)と言いながらそれを外させようとしたのか、引きちぎろうとしたのか強く引っ張りました。

そうしたら、ネックレスが切れて、床にバラバラと珠が散らばりました。

それはネックレスではなく、首に出来るサイズの数珠で、彼の亡くなったお母さんの形見だったのです。

そのとたん、ものすごい鬼のような形相になったその男の子は泣きながら教師に食って掛かり、「拾えよ!」と言いました。


教室は水を打ったようにシーンと静まり返りました。

教師はしまった、そうだったのか、という顔をしました。

生徒たちはみな、悪いもん見ちゃったなぁ、これは完全に教師のやりすぎっつーかミステイクだったぜ、居心地悪いだろうなぁ、どこ見てりゃいいんだよ、という困った顔をして、うつむいていました。


「拾えったら、拾えよ!」ともう一度その男子生徒は、先ほどよりさらに声を荒げました。

そのとたん、自分がやりすぎて悪かったけれど、教師としての最低限のプライドを保つためにはどうしたらいいのかに頭をめぐらせた教師は、

「・・・みんな、拾ってやってくれ。」と言いました。


それを聞いて、さっと最前列と2番目に座っていた女子生徒は全員珠を拾い集め始めました。

最前列で、その男の子の隣の席だった私だけが立ち上がりませんでした。

なんか違う、って思っていました。

私たちも手伝ってもいいけれど、教師は拾わずにふんぞりかえっていてもいい、ってわけはないだろう。引きちぎった本人はお前なんだから。それを何をえらそうに自分だけは相変わらず高い教壇の位置から一歩も踏み出そうとしないんだよ。


そう思ったとたん、私の体は怒りで硬直してしまったのです。

そして、じっとその教師と眼を合わさないようにしてうつむいた子たちばかりの教室のなかでただひとり顔をあげて教師を見つめました。

もしそのとき教師と目があって、「何だ、お前。何か言いたいことでもあるのか。」と言われれば私は「お前も拾えよ。」と言ってやると思っていました。


しかし幸か不幸か教師はまっすぐ自分を見ている私と目を合わそうとはしませんでした。

だから私の人生で教師に対して最低の暴言を吐く、というエピソードにはならずにすみました。

このときも青くさい正義感に駆られていたのでした。


女子生徒が「先生、これ。」と球を手渡すと何事もなかったかのように、

「さ、じゃあ、これ返すからな。これからは学校にそういうものを身に着けてきちゃいかんぞ。・・・授業に戻るぞ。」と教師は言い、授業が再開されました。


長々といくつものエピソードを紹介してしまいましたが、私は小さい頃から親や教師や世間という得たいの知れない化け物のような強大な力には屈しまい!というような、する必要もない戦いをひとり挑んではシャドーボクシングしていたような子どもでした。

それが良いか悪いかは自分で決める、と思っていたし、実際そうしてきました。

今はさすがに無駄な戦いは挑まなくなりましたし(笑)、あまりにも青臭い一本気さも影をひそめてきましたが、それでも自分で考えて出した結論でもないのにただ大勢に流されるという風潮が世間で流れていると思ったときにはむかむかしてきたりします。

そして、世の中には「ここから先は危険」とわかれば、何もすき好んでその先の領域に踏み入る必要なんてないじゃないか、という人間と「危険な匂いはするが、それは自分で判断した結果NGまでではない。」と思えば、あえてその領域を侵そうとする人間がいるのだよなぁ、と思いました。

たいていの人は前者でしょう。

確かにそんな必要ないですもん。

必要あるかどうかを考えたら明らかに「ない」んだったら、そこから先そのイエローゾーンがレッドゾーンかどうかを確かめる作業をするのは自分じゃないでしょう、と思いますわな。

むしろしゃしゃり出て、当事者でもないのに自分でレッドゾーンかどうかを確かめる人がバカに見えるでしょうね。


でも、私は後者のタイプの人間なんだよなぁ。

まだイエローゾーンなら、そこに踏み込まないのは、それをもうレッドゾーンと決め付けたことになる。

それはイヤだ。

それならばはっきりとレッドゾーンと決まるまではあえてイエローゾーンには踏み込もう、と思ってしまう。

先日も、「荒々しい感情」という記事のなかで、自分は元々大きな振幅幅のある感情を持っているほうだった。それが良いとは思わないけれど、少なくとも昔はその大きな揺れに耐えられるだけの精神力が備わっていた、今はただ鈍くなっただけのような気がしてどうもいかん、というようなことを書きました。

そんな気持ちを抱いていたところだったので、世間に対して、「俺はこんなこと自分で判断した結果、いかんとも何とも思っとらんかったんじゃ。それの何が悪い。」と風当たりが強くなることはわかっていながら最後まで自分の基準だけを優先し、青臭い一本気を50歳過ぎても通している島田紳助という人間と、昔の自分が重なり、なんだか愛おしい人間くさいやっちゃのう、と思ったのでした。(※ しかしその後、法律違反までではないのかもしれませんが、芸能人としても一般人としても明らかに暴力団との付き合い方としてはレッドゾーンだろう、それ、という付き合い方をしていた、ということが次々と出てきてしまいましたがね。最初の会見のときの十数年で何通かメールをやりとりしただけ、というのとは大きく違ってきているようです。)




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救ってくれる存在

2011-08-30 09:11:00 | 精神世界

もう1週間ほど経ちましたかねぇ、いきなり島田紳助さんが引退というニュースが流れたときには世間並みにびっくりしました。

でもま、私の人生にとって大きな岐路になってしまう、ということではないので、「へぇ~、何で?」とそこまでだったんですが、初日の理由だけでは釈然としないとマスコミは思ったのかその後になってもチョロチョロと「あの真相!」とか「裏側」とか情報が小出しにされていますね。

まぁ、真相は知るよしもありませんし、これ以上暴き立ててもらわなくてもいいんですが、1つだけ私が思ったのは、「日本の会社組織は恥を知れ」でした。

紳助さんが言っていることからしか判断できないのですが、そもそも事の発端は、彼が10数年前にテレビで何かまずい発言をしてしまって、それによって窮地に陥ったとき、テレビ局にも相談したし、吉本にも相談したけれど、それでも解決できなかった、誰も助けてくれなかったときにAさん(元ボクサーの渡辺二郎さんのことらしい、と後日から放送されてますが)を介して暴力団のBさんが助けてくれた、ということでしたよね。


彼の窮地がどのようなもので、テレビ局や吉本が彼から相談を受けてどの程度親身になって動いたかはわかりませんが、少なくとも解決はせず、紳助さんはひとりでその事態を抱え込まなくてはならなかったわけですよね。

そこへ暴力団のB氏が介入しただけで、さーっと潮が引くように簡単に手打ち、というのはどういうことなんでしょう・・・?

まともに正面から行ってもにっちもさっちも解決できなかったものが、暴力団に頼むと霧が晴れたかのように一気に解決ってこれいかに?

そんなにも日本の会社とか大きな組織は暴力団の脅しに弱いんでしょうか?(後日、彼のこのときの問題は右翼団体だ、とわかったみたいですが、その右翼団体の抗議行動を収めることは吉本もテレビ局も警察でさえもできなかったわけでしょう。)

自らも叩けば埃の出る身なんでしょうか?

持ちつ持たれつでないとやっていけないんでしょうか?

警察が暴力団撲滅に力を入れるようになったと言っていますが、こんなんで本当に暴力団を壊滅させることができるんでしょうかねぇ。

自分ではどうにもならないような窮地に追い込まれて誰も助けてくれず、死にたいようなどん底にいるとき、それ、暴力団ならすぐに解決してくれるよ、ということなら、紳助さんでなくても私でも暴力団に駆け込みたくなるわ。

人間いちばん弱ったときにいちばん温かい場所が暴力団だった、なんてのが日本だとしたら、こんなに脆弱な社会はないでしょう。

これに対して私は憤懣やるかたない思いを抱いたのでした。

こんなことを思ったのも、つい先日友人がサロンに遊びに来てくれたときのことです。

何がきっかけだったか忘れましたが、私が「わたし、昔、エホバの証人の教えを受けたことがある。」と言いました。(エホバの証人になったわけではないです。)

そうしたらその友人は「昔、私の友人にエホバの証人の子がいた。」と言いました。


当時彼女はご主人のDVに悩んでいました。

それに対してエホバの証人の友人は、「それでも何があってもご主人はご主人だから、決して離婚や逃げることは考えてはならない。」と言ったそうです。

多少なりともエホバの証人の教えを受けたことがある私には、彼らがそう言うだろう、いや、そうしか言わないだろうことは十分にわかりました。

友人はこう言いました。

「だけど、私はこのままその家に居たとしたら、次の日にはもうあの男に殺されていたのかもしれないんだよ。それでも主人は主人とあがめて離婚を考えてはいけない、なんてよく言うわ、と思ったわ。助けてはくれないんだね、と思った。」と。


確かに命あってのものだねですからね~

エホバの証人の教えのなかには、「緊急を要する場合はその説にあらず」とかの注釈はないんでしょうかね。

ないだろうな~


自分が変わることによってしか相手を変えることはできない。

だから現状に不満をぶちまけるよりも、家庭内暴力をふるわれたくなかったら、ひたすら耐えつつ、自分の言動をあらためつつ、いつも愛をもって接せよ。

それが理屈では正しいってわかりますよ。

けれど、腫れ上がった顔で、失明するかもしれない恐怖のなかで誰が微笑めますか、ってーの。

あまりに現実離れした教えを説かれても・・・って思います。

だから私は彼女に言いました。

「キリスト並みのことを私たちにもやれ、って言われたって無理だよね。」と。

結局宗教というのは人を救ってくれる存在ではないということなのでしょうか。

そもそも宗教を救いの存在として見て、だから信仰する、という考えそのものが不遜なのかもしれません。

より豊かな人生を送るためにそっと横に置いておくガイドラインぐらいにしておいたほうがいいのかもしれません。

でも、そうすると「信仰」というほどの深い気持ちを抱くことはないだろうなぁ。

私は別にそれでいいけれど。


むかし、日本でも「ええじゃないか」という信仰の運動が広まったときがあったはずです。

それはそれまでの宗教では救われない、と思った民衆に「この宗教なら、ええじゃないか、と唱えるだけでいい。」という訓えで、このシンプルさと直接すぐに救われる感で大流行したみたいです。

これは確か映画にもなりましたね。

昔私は、この映画を見て、「私は救われたから、その宗教を信じるとかその宗教こそが正しいとかそういう基準で選びたくない。」となぜか思いました。

「救われる、救われない」でどの宗教を信仰するかを決めるのは何か違う、というような感覚がしたのです。


私がそもそもその昔、エホバの証人の人の訪問にあい、「そういうあなたはそもそもどうしてエホバの証人になられたのですか?」と尋ねたとき、品の良いその老婦人は、

「私は、やはり聖書に書かれている預言が次々に当たっていることを知ったときです。」とおっしゃいました。

その答えを聞いたときも「当たったから信じる、とか当たってないからこれはダメ、とか言うのはなんか違うな~」と思い、その感覚のズレは結局最後まで埋まらず、私はエホバの証人の教えになじむことはできませんでした。


エホバの証人の人は暴力を受けている彼女にそれくらいのことが言えるのは、なんだかんだいっても同じ大人だからでしょうか?

例えば、両親から虐待を受けている子どもに対しても、十分に物心ついている年齢の子どもに対してだったら、「どれだけ痛くても、親は親だからね。逃げるとか考えちゃだめだよ。家族として一緒にやっていかなくちゃ。」とか言えるんでしょうか?
・・・つい、激昂してしまいました。

結局、人間には「痛み」を感じる肉体や心があるのですから、精神論だけで正論を囁いてくる宗教はほんとに助けてほしいときに何の助けにもなってくれない、という気がします。

では、いったい何が私たちを救ってくれるのでしょう・・・?

究極は、自分で自分を守るしかないのだ、という気がします。

ハートの真実を辿る修行を続けていき、愛に開けば、どんなことが起こってもハートの真ん中ではいつもすーっと穏やかな自分でいられるようになることでしょう。

けれど、その修行にいったいゴール地点というものはあるのでしょうか?

コツコツと以前の自分よりは開けた、という実感があったとしても、そこに自分の力ではどうにもならないような事態がふりかかってきてどうにも苦しくて耐えられない状況になったとき、一番速やかに解決してくれるのが暴力団だったら、やっぱり暴力団に頼ってしまいそうな気がします。(実際は頼りたくても暴力団の知り合いがいないし、どうツテをたどればいいのかもわからない・・)

テレビの司会者たちは「それでも何があっても暴力団に頼ることはいけないし、自分だってしない。」というような発言をしていましたが、ほんとかよ、と思ってしまいました。

それとも、ハートを開くすべては愛でつながっているという修行をしている人は、そんな事態を招きいれるような波長とは合わないはずだから、そんなことには陥るはずはないのでしょうか・・・?

確かに波長の法則は信頼していますが、でもあまりにそれにとらわれると、窮地に陥っている人を見ても「あの人は、自分であの事態を招きいれているからしょうがないんだよ。」と冷ややかに見てしまい、救いの手を差し伸べてあげられない人間になってしまいそうでイヤです。

自分がもしそういう窮地に陥ったとき、人からは「ほうっておけ。あいつは自分でそういうものに波長を合わせたんだから、仕方がないんだよ。」と決め付けられてはそれは寂しい思いをするでしょうから・・・

自分がそれはイヤだ、と感じるなら人にだってやはりそういうときには手を差し伸べてあげられる人でいたいと思います。

結局、人間はどうしたってこうしたって完全な存在となんてなり得ようがないんだよ、という現実を突きつけられたような気がします。

だからこそ常に自分を戒め、周囲に感謝し、「ごめんなさい。」「ありがとう。」を繰り返しながらその場その場を一生懸命生きて行かなくてはしょうがないのでしょうね。

完全ではないのだから、とふてくされて「どうせ」という態度で生きて行くのか、どれだけ誠実に生きていても災難に見舞われることもあるし、完全でないことを知りながらも愛の存在であることには疑いを差し挟まず生かされていることに感謝しながら謙虚に生きて行くか、では魂の学びとしても大きな差がつくように思います。

そしてそんな不完全な存在である我々だからこそ創造主は私たちの存在を愛おしいものだ、と思ってくれている気もするのですが・・・




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ヒーラーズ・カフェ

2011-08-29 09:15:00 | ヒーリング

シータ・ヒーリングとアニマル・コミュニケーションのヒーリングを受けたのは、知多半田の駅前にある「クラ・シティ」というビルのなかにある「ヒーラーズ・カフェ」というところでした。

ここは、さして大きくないスペースですが、小さく区切られたブースが15ほどもあります。

そしてタイ古式マッサージやら、ハワイアン・ロミロミやらのボディトリートメント系、シータ・ヒーリング、エンジェルカードなどの心のヒーリング系、そしてパワーストーンやヒーリング雑貨を置いてあるスペースなどがひしめいています。

そういえば意外にも最もオーソドックスな星占いや手相といった、世に広く「それは占いね。」と認識されているものがなかったな。

私の究極の望みは、こういったいろんな選択肢のヒーリング系がひしめいているような「ヒーリング・ヴィレッジ」を運営したい、というものです。

いつも頭に浮かぶヴィジュアルは、真ん中にプールがあって、その周りを取り囲むようにテーブルと椅子が配置されたテラスがあって、ここで自由に飲み物を注文できます。

そして、ぐるりと壁面にはいろんなヒーリング系があって、1日いても飽きない、っていう場所です。

私の悪いところは、一度理想を描いてしまうと、「究極のヴィジュアルはそれとして、今はその第一歩としてこういうレベルから始めればいいんじゃない?」というものを一切受け付けないんです。

最初はヴィレッジまで行かなくても数件集まっているレベルでもいいんじゃない? ダメ、10個以上よりどりみどり、ってぐらい集まっていないと意味がない。

最初はイベントでまずはやってみては? ダメ、それはそれでいいけれど、全く別物。ヴィレッジの行方を占うものにはならない。イベントはあくまでイベントにすぎない。

最初は小さなスペースで、プールとかカフェとかなくてもいいんじゃない? ダメ、そういう遊休スペースこそが大切なんであって、ヒーリング系のショップばかりがひしめいているのって息がつまっちゃう。

・・・・という具合です。

こうでなくてはいけない、こうでないと意味がない、0か100か、みたいな気持ちが強すぎるんですね~

そんな私が自分の理想郷とは違うけれど、この「ヒーラーズ・カフェ」はいいな、と思ったのです。

どこがよかったか、と言うと・・・

まず、予約の時間より早めの時間に着いた私は、先に場所を確認しておこうとヒーラーズ・カフェの前に行きました。

すると、ガラス面の前面にはいろんな張り紙がしてありました。

それを読んでいると、中の受付カウンターに居た女の子が出てきて、

「何かご興味があるものがあれば、ご説明させていただきましょうか?」と言いました。

そのときは、「あ、いいえ、結構です。わたし、もう予約してあるんです。」と答えましたが、その女の子の声掛けは実にスムースで嫌味のないものでした。
アパレルショップなどにありがちな売らんかな、の姿勢でぜひともこの人をつかまえて客にしてみせる、のようなプレッシャーを与えるものではありませんでした。

本当に心から何かわからないことがあれば、お手伝いしますよ、という感じでした。

占いとかヒーリング系が出店しているところというのは、どこか薄暗いようなイメージがするところが多いのが難点です。

この世界のことを知らない人は結構、わかっている人しか来なくて上等、みたいな向こうから壁をたててしまって最初から拒絶反応をあらわにしているようなところさえあります。

確かにお気軽に朝のワイドショーのエンディングで「今日の占い」とかテロップで出てくる程度のお手軽なものに対して、本気で自己探求をしたいと思ってやってきたディープ派の人は「一緒にされたくないわ。」と拒絶反応を抱くのかもしれません。

だから、あまりにオープンな感じで出店していると“本気”の人が来なくなってしまう、という懸念があるかもしれません。

でもやっぱり、明るいイメージで誰でも気軽に出入りできる、って感じのほうがいいしねぇ・・・

さて、「ヒーラーズ・カフェ」では、入り口を入ると3,4つほど椅子と机があり、そこでカフェできるようになっています。

入り口からも見える、デンと大きなカウンターには常に人がいて、まずはここで300円のドリンクチケットを購入します。

私は何も受けないけれどここでお茶だけしています、という人は普通の喫茶店に行くだろうから、そういう人はまず来ないだろうと思うけれど、もしそうであれば、ここで300円払えばお茶だけして帰っても自由、ということなんだと思います。

でも実際には、15ほどあるブースのヒーリングメニューを何か1つでも受ければ帰る際に再びドリンクチケットを提示すれば、300円は戻ってきます。

つまり、無料でドリンクは飲めるわけですね。

インスタントのコーヒー、紅茶、日本茶というレベルではなくて、かなり本格的でおいしいドリンクがいただけますよ。

予約の時間に再びここを訪れた私に、「こんにちは。初めまして。」とシータヒーリングのヒーラーの方が現れました。

すぐに自分のブースに連れて行かれるのかと思いきや、

「まず、ここにはどんなほかのメニューがあるのかを一通りご説明させていただきますね。」と15ほどあるブースのすべてを説明しながら見せてくれました。

これもいいな、と思いました。

どうせ来たならほかのものもちょっと受けてみたいな・・・と興味をもったところへタイミングよくこうした説明を受けると「あら、これもやってみようかしら。」となります。

+α販売ってやつです。

消費が冷え込むなか、新たな顧客をつかもうとするのは大変ですが、すでにお客様としていらしている人にもう1品、もう1事薦めてみるほうが可能性が高いですから。

それをこのなかに時間貸しで入店している各ヒーラーの方がたがそれぞれほかの人のために行っている、というのが素晴らしいと思いました。

自分だけよければいい、じゃなくて、この「ヒーラーズ・カフェ」全体が潤うことが自分のためでもあるんだ、とちゃんと認識している、ということです。

全部を説明するためにはお客様からどんな質問が飛び出すかわからないわけですから、ある程度の知識を仕入れておく必要もあります。

そうしたら新たなヒーリングを知って、自分の勉強にもなるかもしれないですしね。

各ブースは時間貸しでありながら、それぞれの人たちはかなり長期にわたって自分のスペースとされている方が多いようにお見受けしました。

というのは、殺風景なブースは全然なかったからです。

それぞれ自分のヒーリングメニューにふさわしいように“小さな自分のお城”というような感じで飾りつけが施されていました。

そして、かなり狭いスペースをベニヤ板か何かで区切っているだけですから隣や裏側にお客様が来ていたら、自分の話が丸聞こえになっちゃうんじゃないか、と思いましたが、思ったほどでもありませんでした。

誰かがいるな、ぐらいはわかりますが、よほど壁に耳を寄せて盗み聞きしてやれ、とリキ入れないと内容までは聞き取れない程度でしょう。

もうひとつ、きちんとしているなと思ったのが、各ヒーラーの方たちは、中には居るのだろうけれど今予約は入っていない、という時間でも、決してカウンターから外、カフェのほうには出てこないのです。

私はアニマルコミュニケーションに興味をもったときに受付の方に「これって携帯の写真でも大丈夫ですか?」と尋ねました。

すると受付の方が、「ヒーラーの方にちょっと確認してまいりますね。」と奥へ消えました。

大丈夫だ、という返事を持って再び姿を現したとき、また私にはひとつの質問が思い浮かびました。

「これは単純に1匹につきおいくら、っていうお値段設定になっているんでしょうか?」


するとまた、受付の方が「それもちょっと聞いてまいりますね。」と奥へ消えました。

決して、直接話してもらったほうが早いから呼んで来ますね、とはおっしゃいません。

というのは、直接話してしまうと、質問内容が一般的な質問からその人固有のものとなっていき、だったらそれもうセッションが始まっているのと同じじゃないの、料金が発生しなくていいの?という境界線があいまいなことになってしまうのを避けるためだ、と思いました。

なるほどなぁ、と思うと同時に、こういうことはとりあえずこういうお店を始めてしまってから今日こういうことがあったからその点についてはみんなで話し合って改善していこう、と積み上げてきたものなのか、最初から考えられうる事態を想定して、マニュアルとか約定のようなものが存在するのか。

たぶん、前者だろうなぁ。


しかし、こういうときも私だったら、後者のほうをとるべきだ、っていう行動を起こすんだろうなぁ。

そして、いくら考えられうる事態を想定したって、事実はそれを上回るに違いないから、最初にガチガチに決めちゃったがゆえにかえって後からそれをご破算にして考え直すということが難しくなってしまう、というややこしい事態を引き起こしたりするんだろうなぁ、などとぼんやりと頭で考えている自分がいました。


ま、今はそんなこと考える必要なんてないよ、と頭からその考えを振り払い、私はシータ・ヒーリングのブースに入っていったのでした。

ここにはまた来て、別のヒーリングも受けてみたいなぁ、と思いました。




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アニマル・コミュニケーションを受けて

2011-08-28 09:23:00 | ヒーリング

実は、シータ・ヒーリングを受けたところで、アニマル・コミュニケーションも受けました。

最初に、シータ・ヒーリングを検索したのは「名古屋」と「岐阜」でしてみたのですが、「よし、この人にお願いしよう。」と思った方が予約を入れてみないとどこでセッションを受けられるのかがわからなかったので、予約を入れてしまってから、それは名古屋ではなくて、「半田」だということがわかりました。

「半田!? 遠いなぁ。」と思いましたが、まぁ、ぶらぶらと出かけてみることにしました。

しかし、電車に乗ってしまえば、名古屋から約40分、たいして遠い、ということもありません。

しかもその場所は、駅から直接ぺデストリアンデッキで隣接している「クラ・シティ」という建物のなかの一角、「ヒーラーズ・カフェ」というお店のなか。

そこには15ほどの小さく区切られたブースがあって、たまたま予約が入っていなければ空いている方のヒーリングを受けることができるのでした。

「どれか気になるものがあればどうぞ、試してみてください。」とお店の人にも薦められて、15のブースを見回したところ、「アニマル・コミュニケーション」がありました。

「これって・・・?」と尋ねると、

「あの~、テレビの『志村どうぶつ園』ってご存知ですか?」

知ってますとも!!

まさにアレなのね。

「やりたい、やりたい。」とすぐに言っていました。

私が聞きたかったことは、今後チャワンテとアクアは仲良くなれるのかどうか、ということ。

問題としては二匹の関係性だけれど、セッションは1匹の魂をおろしてきてその仔に聞いていく、というように行われるので、どちらか一方に絞ってください、と言われました。


そこで、私はチャワンテ側からどんなつもりなのかを聞いてもらうことにしました。

見ていても、アクアは小さいからただなんの悪意もなくじゃれにいっているだけのように見える。

それに対してチャワンテが「フーッツ!」とすごく怒るのでなかなか仲良くなれないように見えているからです。

シートに、ペットの名前と年齢、オスかメスかだけを記入して、携帯で撮影したチャワンテの写メを見せてセッションスタート。

最初は、受付の人には「携帯だとちょっと伝わるのが弱くて無理みたいです。プリントアウトした写真でないと。」と言われたのですが、あきらめきれずにもう一度聞いてもらうと、携帯の写真でもOKだとのこと。

セッションリーダーである「和美心」(わびごころ)さんは、「それではチャワンテちゃんに降りてきてもらいますね。」と言って、手を合わせ、目を閉じました。

ほんの数秒すると、「あ、きました、きました。前は楽しかったなぁ、と言ってます。」と言われました。

この一言だけで、不覚にももう涙があふれてきてしまいました。

だって、「今はつまんないな。」ではなくて、「前は楽しかったなぁ。」なんですよ。

動物って絶対に「今の不満」をもらすのではなく、「楽しかったときのこと」形で話すんだなぁ、と思って。

そして、「前は~」なんて、すごおく過去のことみたいに、そしてこれからもう楽しいことは訪れなくてあきらめているかのように言うなんて・・・

それにチャワンテは割とひとりでほうっておいて欲しいタイプのように見えたので、おもちゃを買って一緒に遊んでやったり、というような付き合い方はしていません。

なのに、それでも「楽しかった」んだな、彼女は、と思うと・・・

なんだかいろんな思いがこみ上げてきて自然に涙があふれてきてしまったのです。

そして、アクアとの関係については、「アクアがあまりにも甘え上手なんでうらやましいって言ってますよ。私はああいうことはできないんだけど、したいなぁ、って気持ちはあります。でも、小さい頃のことを思うとどうしてもなかなか勇気が出ないんです、ですって。」

私は、和美心さんにチャワンテが捨て猫だったことは言っていません。

けれど、このあと和美心さんの口から出てきた思わぬチャワンテの生い立ちにまたまた涙。

私は以前の会社があった名古屋のマンションの駐輪場でチャワンテを見つけました。

そのマンションは引越しの多い、人の出入りが激しいマンションだったので、てっきり私はチャワンテがそれまでは人によって飼われていたのだけれど、引越しによって置き捨てにされた猫だ、と思っていました。

産まれてしまったから子猫を捨てよう、というには生後6~7ヶ月たっている体格でしたし。

けれど、和美心さんはこう言いました。


「うぅん、最初から野良猫だったみたいよ。なんかの拍子に親兄弟と離れてしまって、光のあるほうへ、光のあるほうへと出て行くと、あのマンションの下に出たんだって。それからは恐くて、あまり動かなかった、って言っているわ。

・・・・でも、この仔、それまでに結構虐待に遭っているみたい。男の人がこの仔を蹴っているのが見えます。それも、ちょっとどけよ、って程度のこづき方ではなくて、ぽぉん、と体がはねあがるほどのひどい蹴り方。ほかにもいろんな虐待を受けたみたいです。」

そうだったの!!・・・・

そんなひどい目に遭っていたの・・・  可哀そうなチャワンテ・・・

もうこの時点で号泣です。

「この仔、泥だらけで血がついていましたか?」と尋ねられました。

「あ、はい。泥だらけってほどではなかったですけれど、あるとき、体じゅうが引っかき傷で血が出ているのを見て、なんか皮膚病かと思って医者に連れて行ったんです。そうしたら、何らかのストレスを感じると自分で自分を傷つけてしまう自傷行為をする猫がいるんですよ、とのことでチャワンテはそれでした。皮膚病などではありませんでした。」と言うと、

「それね、この仔が自殺しようとしたんですよ。ほかのときにもちょっと高いところから飛び降りて自殺しようとしたけど、ダメだった。そんな程度のことでは死ねなかった、って。」

!!!!!

そんなにも辛い過去を背負っていたなんて。

自殺をするのは人間だけかと思っていたけれど、動物でもするんだね。っていうか、魂としてはそういうことも考えるってことか。

「あのマンションの駐輪場にいたときには、ママ以外にも何人か、よくしてくれる人はいたけれど、どうしても恐い気持ちが消えなくてついてはいけなかった、って。だけどママだけは両手を差し伸べておいで、って言ってくれたとき、その手が黄金色に見えて恐い気持ちもあったけれど、この人ならついていってもいいかな、って思ったんだよ、って言ってます。だからどうしてもまだ恐くて抱っこは好きじゃないけど、背中を撫でてもらうのは大好き。でも最近は、あまり撫でてもらってないなぁ、って。」

「何人かよくしてくれた人はいたけれど」って言うのは、わかっていた。

その人たちが誰かは私も知らないけれど、いつもチャワンテの傍らにはドライフードが落ちていたもの。

だから、あぁ、この仔、誰かから餌はもらってるんだな、こんなに残しているくらいだから結構野良なりにいい暮らししているのかも、ってたいして大変な境遇だとは思いやってみることはなかった。

ごめんね、チャワンテ。

そして、よく来てくれたね。

「それからはほんとに毎日楽しかったな、って。今、アクアと仲良くできないのも、あの仔が嫌いだからじゃないの。そういう昔の恐い気持ちがいまだに消えない、っていう自分の問題だから大丈夫、いつかはちゃんと仲良くしてみせるから、って言ってますよ。」

この部分のフレーズさえ聞けば、私の今回の相談内容には答えた、ということになるはずです。

けれど、正直、チャワンテの生い立ちから知ることになる、こんなに深いものだとは思わなかった。

「志村どうぶつ園」にときどき出るハイジさんは、やはりテレビに出演するだけのことはあって、世界中にごまんといるアニマル・コミュニケーターのなかでも特にスゴイ人なんだろうな、と思っていました。

だから、正直和美心さんにあのレベルを期待していたわけではなかった。

だけど、何らハイジさんと比べても遜色のない、すごいアニマル・コミュニケーターでした。

チャワンテがアクアが嫌いだから、ってわけじゃない、っていうのは何となく普段の様子をみていたらわかっていたことでした。

でも、そんな過去の問題を抱えていたなんて・・・

トラウマは相当深いものなんだね。

そしてこのあと、和美心さんはまたびっくりのことをおっしゃいました。

くすっと笑って、「あ、チャワンテちゃんが、『だけど奴はどこから来るかわかんないからなぁ。』って言ってますよ。」

どぉ~してそんなことがわかるのぉ!?

確かにアクアはいろんな角度からチャワンテに飛びつく。

後ろから、横から、前から、隠れていきなり。

一番びっくりしたのは、飛びつくぞぉ~という前触れもなくひょこひょこ正面から歩いてきたか、と思ったらいきなりチャワンテの鼻にかぷっとかぶりついたときのことです。

あれにはチャワンテも腰を抜かすほどびっくりしたらしく、「うひゃああ~」というような奇声を発して、そのあと、怒りまくってました・・・

アクアがどんな様子でチャワンテにじゃれていくのかなんて、もちろん私は和美心さんに何も話していません。

そして、そしてさらに。

「最後になりますが、チャワンテちゃんが、1つだけママにお願いがあります、って言ってます。」

「はい? なんでしょう。」鼻をぐずぐず言わせ、ハンカチで涙をぬぐいながら聞き返すと、

「何のことか私にはよくわからないんですが・・・ 『あのスープのご飯がまた食べたいな。』ですって。」

!!!!!!

ひえええ~っつ!

ど、ど、どぉ~して、そんなことがわかるのぉ!

チャワンテには、お医者さんで買ってくる尿路疾患用のドライフードしか与えてはいけないことになっていました。

しかし、あまりに来る日も来る日も単一の味では人生(猫生?)つまらないんじゃないか、と思ってお医者さんに相談すると、

「もともとあの尿路疾患用のドライフードも、喉が渇いて水をたくさん飲むことによってたくさんおしっこをさせるように作ってあるものなので、汁気が多いようなウエットフードでしたら、少しならおやつにあげてもいいですよ。」とのことでした。

そういう感じのおやつ用のスープフードって売っているので、色々と味を変えながら、毎日チャワンテにあげていたのです。

けれど、アクアがやってきてからは、それをチャワンテの前に置いてあげてもアクアのほうが食べてしまうので、どうせアクアが食べてしまうだけならもうあげなくてもいいや、と止めてしまっていました。

止めてからは今度はチャワンテがアクアの餌を少し拝借にきたりして結構満足な食生活を送っているように見えたので、あのスープごはんのことはもう忘れてしまっていました。

でも、あれが食べたかったんだ!

「はい、すぐに買ってきてあげます。」と言いました。

すると、チャワンテの奴、結構食いさがり、「いつ?って聞いてますけど。」と言われました。

「今日は無理だけど、明日には必ず、って伝えてください。」と言いました。

この一事をしても、このアニマル・コミュニケーションを受けた意味はありました。

だって、私はこの日これを受けなかったら、ずっともうスープごはんのことは忘れてしまっていて、チャワンテがそれほど食べたがっていることも知らずに一生を終わらせてしまっていたことでしょう。

「チャワンテちゃんがこれだけは絶対ママに言っておいてね、って言ってます。

私を拾ってくれて本当にありがとう、ですって。」と言われて、また号泣・・・

もう、ホントにどれだけ私を泣かせれば気が済むの。

どうやってコミュニケーションするのかわかりませんが、ほんとにこのアニマル・コミュニケーションはすごかった。

是非ペットを飼ってらっしゃる方は、一度受けてみるといいですよ。

しつけのこととか別にうちは相談しなくちゃならないようなことは何もないから・・と思っていても、絶対ペットから「知らなかった!」というようなメッセージを受け取れると思います。

例えばこちらから伝えなければならないことがあって、納得してもらうためなんかにもいいんじゃないでしょうか。

うちの前に亡くなった猫のことで言えば、最期の6年間は腎臓をわずらって毎日点滴をしなくてはいけませんでした。

そのときに私が懸念したのは「どうしてこんな痛い目に遭わせられるんだ!? もうママのこと嫌い。」って思われないかな~ということでした。

途中からはこれをやると楽になる、ということが自分でもわかっておとなくしくしていましたが、最初の頃は私が点滴の準備をはじめると逃げ回っていましたもの。

こういうときにあらかじめ、「これはあなたの治療のためなんだよ。決して意地悪やいじめでやっているんじゃないんだよ。」と最初から本人(?)に納得してもらって始めたらもっとスムーズに行えたかもしれません。

あ~  あの頃、このアニマル・コミュニケーションの存在を知ってたらな~

もっと有効にお願いできたのに、と思いますもん。




私はこの日、家に帰るとドアを開けるなり、「チャワンテ!」と駆け寄り、いっぱいいっぱい背中を撫でてあげました。

チャワンテは最初のうちこそ喜んでいるようでしたが、飽きてきたのか、尻尾の付け根のあたりはいやだったのか、急に私の手をかみ、「そこはイヤって言ってるでしょ!」と言わんばかりにぷいっと隣の部屋に行ってしまいました。

・・・しょうがないよなぁ。

今日降りてきて会話したのは魂のチャワンテだもんなぁ。

実物のチャワンテはまだまだちょっと素っ気ないようです・・・

それでもアニマル・コミュニケーションを受けて、確実にまた愛情が深まりました。

一生、大事にするからね。




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シータ・ヒーリングを受けて

2011-08-27 09:17:00 | ヒーリング

シータヒーリングを受けてみました。

いきなり、なんでシータヒーリングなんだ、って?

それはですね~

お盆のときに東京の友人がオーラソーマを受けにサロンに来てくれたんですが、そのときに彼女が「つい先日シータヒーリングってもの、受けたのよ。」とポロッと言ったのです。

なぜか最近流行の兆しでもあるのか、シータヒーリングという言葉だけは耳にする機会が多かった私は、それに反応しました。

「へ~、それ、どんなものなの?」と尋ねました。

すると彼女は、「私も友人のそのまた友人の紹介で、あれよあれよっていう間にそこへ連れて行かれちゃった、って感じなのよ。自分でシータヒーリングに最初から興味もってて調べて、自分の足で行ったわけじゃない。だから、私を施術してくれた人がシータヒーリングのやり方をどの程度忠実に基本どおりやっている人なのか、その人のオリジナルなものがかなり入っているのか、が判別できないんだけど・・・」という前置きで、

「なんかね~、いっぱい聞かれたよ。それにひとつひとつ答えていくと、彼女がそばにおいてあるホワイトボードに記入していくの。そしてまた別の質問。そうしていくうちに、前の質問と矛盾してきたり、言葉が重複するところがある。そうすると、これはおかしいですよね。あなたの潜在意識がどこかで嘘をついてる、ってことですよね、ってことでまた前の質問に戻って繰り返し同じことをやったりとか、重複している言葉については、この言葉がキーワードになっていますね、ってそこから掘り下げていく、って感じ。」と言いました。

私はこの手法が気になりました。

以前にこのブログで書いたことがありますが、私はオーラソーマのレベル3の資格をとってから、オーラソーマが数々のほかのヒーリングやセラピーなどとも関連していることが気になり、自ら1年程度はオーラソーマ以外のいろんなセラピーを受けにいってみることを自分に許しました。

決してオーラソーマから離れることはすまい、一番源としているものはオーラソーマなんだ、と自分に言い聞かせて。

実際には1年ではすまなかったわけですが、今年に入ってからそれにもようやく自ら終了宣言を出しました。

もう、いい。お腹いっぱいになったはずでしょう、って。

いいかげん、本業のオーラソーマに集中するわ、と。


だから、いろんなセラピーに興味を持ってあちこちにフラフラする病気がまた出てきた、ということではないんです。

彼女の体験を信じるならば、ツールを使わないセラピーのなかでは、その手法はまるでクライアントが研修を受けているかのようなやり方なんだな、と思ったことに興味を持ったのです。

そして、オーラソーマではなくて、文字通り研修(私のもう1つの顔である自己啓発やセールストレーニングなどの研修)で生かしたり何か参考にできることがあれば、という気持ちでした。

東京まで受けに行くことはできないので、すぐさまネットで検索し、名古屋でシータヒーリングを行っている方を探し出し出かけていった、というわけです。

シータヒーリングとは、シータ波という脳波の状態になって心身を癒すセラピーのことです。

リラックスした状態をつくりだす脳波としてα波は広く一般の方にも認知されたものとなりましたが、θ波とはそのもうひとつ上をいくとても深くリラックスしたときに現れる脳波です。

催眠術で利用される状態のことです。

これはほとんど熟睡に近いような状態であり、通常起きている状態では、ほかの脳波がもっと邪魔をして入ってきてしまうはずだから、θ波だけを使ったセラピーなどは無理だ、とあきらめられていたようです。

しかし、シータヒーリングの創始者であるアメリカのヴァイア・スタイバル女史は、無理だ、と言われると猛然とやる気になるタイプらしくて(こういう人、好きです。)、それを乗り越え、シータ・ヒーリングのプログラムを作り上げた方だそうです。

そして、シータ波の状態になって、その人が潜在意識内で土台を形成してしまっている変えたほうがよい思い込みのブロックを解放し、土台をプラスに変換して癒していく、というのがシータ・ヒーリングみたいです。

とまぁ、この程度の予備知識は仕入れていった私でしたが、行われたセッションは、私が想像したようなものではありませんでした。

なにか私は最初に、「さぁ、それではまずあなたの脳波をθ波になるように調整しますね~」というプログラムが行われるのか、と思っていたのです。

そのプログラムがバイオフィードバックなど、機械を使うものでないだろうことはうすうす想像していましたが、あんまり魔女の儀式みたいなんだったらやだな~とか思っていました。

しかし、一切そのような事前準備は行われませんでした。

そして、東京の友人が話してくれたような、逆に非常に理論的な、言葉から入るような研修風でもありませんでした。

しかし、ここで私は不思議な感覚を味わい、非常に癒されたことは確かでした。

そもそも私は現在、人に悩みを相談して解決したいような案件を持っているわけではないので、メニューにあった「豊かさのワーク」というものをお願いしていました。

「豊かさのワーク」とは何かというと、お金に対して潜在意識でブロックしている思い込みを解放してあげる、というものです。

それは例えば、「お金は汚いものだ。」とか「お金儲けは恥ずべきことだ。」というような、そんなふうに思わなくてもいいような考えがその人の潜在意識に存在しているようなら、そういうものをこつこつとひとつずつまるでピンセットでゴミを拾い上げ、ひょいひょいと反対側にあるゴミ箱に投げ捨てていくような地道な作業でした。

まず最初に「何でもいいですから、お金について漠然と抱いている気持ちとか、話したいエピソードとか、何かあればおっしゃってください。」と言われました。

それが、セッションのスタートでした。

少し考えたあと、私は、

「両親がお金に関しては非常に堅実な考えの持ち主なので、小さい頃からそれに対して反発してきました。何せ両親は、カードだって借金のことだ、といっさいカードも作らないような人たちでしたから。欲しいもの、必要なものは、そのためのお金を貯めてから買え、というのが教えでした。私は当然、そこまでできるか、とクレジットカードも作り、普通の生活をしてきましたが、心のどこかで、1本100円の串ものを売りながら、1文なしの状態から家を借り、まずはその家の立っている下の土地を買い、そして上モノの家を買い、その家を建て直し、さらに別の土地付の家を買い、とひとつずつしかし確実に進歩を遂げてきた両親にかなわない、と唸りながらもどうしても自分は更にその上をいくような業績を残さなくてはいけないのだろうけれどできない、というジレンマによるプレッシャーを受け続けてきました。」と言いました。

それを聞いたヒーラーの方は、「ふ~ん・・・ あなたのお金に対する思いには前世が関係しているかもしれないわね。」と言って、「あなたの前世をみてもいいですか?」と確認をとってこられました。

どうぞ、と言うとしばらく私は手を軽くにぎられていました。

するとなぜかわからないけれど、どうしても上手に仲良くなれない母のことが思い浮かんで、泣きたいほど悲しくなってきました。

これは、「何かを頭で考えて、それが悲しいことだったから泣きたくなった。」というよりも「理由もなく泣きたい、という感情が先にこみあげてきて、そのあとに母の映像がついてきた。」という感じでした。

この間じゅう、ずっと指先はピリピリとしたものを感じていました。

セッションリーダーの方は目を閉じていましたが、目を開けると「う~ん、なにやら前世は穏やかではないものだったみたいね。」と言われました。

なんと私の前世では、父親が母親を殺したそうです。

そして私も殺されそうになったけれど、首に手をかけたすんでのところで父親は思いとどまったそうな。

なんでそんなことをしたかと言うと「貧しさゆえの一家心中」だったそうです。

なんとまぁ、それは悲惨な。


自分の過去の人生にそんな悲惨なことがあったとは驚きでした。

「前世っていくつもある、って言いますが、それがどのくらいの前世のことなのかはわかりませんか?」と尋ねると、

「日本であることは間違いない。そして・・・ ほかの人のなかには洋服を着ている人もいる。でも多くの人は着物姿。そんな時代。」と言われました。


ということは文明開化の頃かしら。

どちらにしてもそんなに前の話じゃない。1つ前程度の前世かな?

下手したら、もう亡くなったけれど、私もよく知っている祖母が子どもの頃、ぐらいの話じゃないの。

私の前世は祖母と姉妹、あるいは祖母の近くにいた者?

だから私はいつもおばあちゃんのことが気になるのかな。

お墓参りに行ってもいつも「もう帰っちゃうのかい?」って言われてるような気がするし。

なんだかそう思うとドキドキしてきました。

そして、ヒーラーの方のリーディングは、「私がそういった前世を経験しているがために、辛いことや大変なことは自分にとって勉強になることだ。そこにこそ学びがある、と考えている。」ということでした。

「逆に言えば、すらすらすいすいと楽しいことばかりで何の苦労もないと不安になっちゃうっていうかな、こんなことではいけないんじゃないか、こんなにラクでは豊かになれなくて当然だ、っていうふうに考えちゃうみたい。」

なるほど。


確かにそういうところは、あります。

だから、私は自分でそのことを本能的に知っていて、1年ほど前、「私は楽しいことしかやらなくていいんです。自分が楽しく思うことをやることが周りの人も幸せにすることです。」というアファメーションを自分で作り、折に触れてはそのアファメーションを書いたメッセージカードが貼られたコルクボードを見上げているのでしょう。

しかし、それほどまでにしていても、まだ私の潜在意識では本当にそれを受け容れていなかったのか・・・

そして、「あなたがそう思っていることを解放させてあげていいですか?」と聞かれました。

もちろんですとも。

また、再び手を握られました。

そうすると今度はまた不思議なことに笑顔の母の映像ばかりが出てくるのです。

私を産んでうれしそうな母・・・ 小学校の入学式に向かう母と私の写真を誰かが撮ってくれて、それが何かの写真展で入選したらしくてどこかの銀行に少しの間飾ってあったよなぁ、あのとき、母は本当に心からの笑顔で私を見つめていてくれたなぁ、と思い出しました。

そうすると、今度はすーっと先ほどのわけもなく悲しくて泣きたくて仕方がなかった気持ちはどこへやら、とても穏やかで平和な愛に包まれた気持ちになりました。

そして、手を握られながら、そのようにしてただ感情がくるくる入れ替わることが不思議でしかたがありませんでした。

「あれ? なんで? どうしてなんだろう?」と首をひねっている自分がいました。


それからもセッションは盛りだくさんな言葉と盛りだくさんなヒーリングによって進み、あまりにも沢山のものを受け取った私は、内心で、(こりゃあ、ほとんど覚えていられないだろうなぁ。)と思いました。

実際にその場でもすぐにもう左から右へと川の流れのようにさらさらと流れていってしまう言葉たちがあるのがわかりました。


けれど、オーラソーマでも1週間たち、1ヶ月たち、それでもまだ自分のなかに残っているものが本当にその人にとって必要なものだったんだから、それでいいのだ、と言うのと同じように、このシータ・ヒーリングでも多分、忘れていってもいいのでしょう。

意識せずとも覚えているものだけを大切にすれば。

これから私はお金に関する手放してもいい思い込みを手放せて、どんどん豊かになっていくんでしょうか?

それは疑問です。

自分で、自分に問いかけなおしても、まだまだ私には手放せていない、ブロックされている思いが山ほどあるような気がします。

これはじわじわと効果があるものなんでしょうか?

それともオセロの黒が白に変わるようにパタンとその場で変わるはずのことはもう変わっていなければいけないんでしょうか?

よくわかりません・・・


でも私の中にまだまだこのヒーリングに対する疑い自体があるような気がしています。

「辛く苦しい経験こそが勉強」という思いも、高度成長期に生まれ、スポ根漫画のように頑張れば頑張っただけ報われる、という時代に育った人たちは多かれ少なかれみんな抱いている思いではないだろうか、という気もいたします。

そして、やはりエピソードの威力というものはすごいものでして、本題にとってはさほど重要じゃないような気がする前世がどんなだったか、ということのほうがまざまざと記憶にインプットされてしまっている状態です。

自分で身を持って体験したことによって、これは研修やコンサルテーションに生かそうと思いました。


よく、例え話が上手な方がみえます。

それをうらやましいな、とか自分でもなるべくわかりやすい例えが出来るようになろう、とか、自分の身に起こったエピソードをできるだけ話してあげよう、とか思っていたんですが、それは威力が強いために、受講者の方にそこしか残らない、ということがありえるな~と思いました。

それでもいいのかなぁ・・・


いろんなことを考えながら、でも考えずに理屈ではなく非常に癒されましたし、

受けたあともシータ・ヒーリングのことが気になっています。

逆にもう少し詳しく知りたいな、という知識欲が沸いてきました。




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