ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

ターコイズの裏面

2010-04-30 07:47:00 | オーラソーマ

いよいよ事業仕分けの第二弾が始まりました。

先日、テレビで、民主党の蓮舫議員がその下見のために対象となっている法人を視察しているところを見ました。

蓮舫さん、頑張ってますね~

彼女に対しては賛否両論あるようですが、スパコンの「世界一を目指されるんですね。世界第二位ではなぜいけないんですか?」など、その発言の逐一を取り上げて、あれはよくないだの批判する以前に、私は単純に自分の私利私欲のためにやってるわけじゃないんだから、頑張ってるな~という姿勢だけで、好きです。

事業仕分けだって、目指した金額にはほど遠いから何やってんだ、とその非難の矛先を枝野さんや蓮舫さんに向けるのは違うんじゃないの?と思ってしまいます。

目標額というのは、内閣の決議で決めたはずですからね。

それより、事業仕分けをしなかったら、ただの1円も削減できなかったものを何億も削減することができた、というほうに眼を向けるべきじゃないでしょうか。

ま、政治的なネタはいいとして。

で、その日彼女が向かったのは、農業試験場のようなところでした。(ちょっと法人の名前は覚えてないんです。あしからず。)

そこでは、農村の風景を3Dシアターで映し出してみることができるドームがあります。

建設費1億3000万円なり。

なんでも、日本人の原体験をなす農村の風景を見て、それが人のマインドに与える影響を考察していくセンターなんだ、とか。

なんじゃ、それ。

それ、どうやって数値化してはかることができるんだよ。

もう、このコンセプト聞いただけでアヤシイじゃないですか。

で、テレビでもチラとその農村風景とやらの3D映像が「こんな感じの」ってふうに一部公開されてたけど、これをなんでまた3Dにして映像化しなければいけなかったのか、よくわからないという代物でした。ほんとどこにでもある田畑の映像。そこいらに職員が出かけていってビデオに収めたもの、ってレベル。

で、これを視察して出てきた蓮舫、さぁ、どういう感想を語るか?とずずいっとテレビに膝乗り出して見ちゃいました。

舌鋒するどい蓮舫議員なら「話になりませんわね。ここ、切ります。」なんて言うのかぁ、すわ!と思ったら、

「うん、3Dの映像としては大変よく出来ていると思いました。しかし、一歩外へ出れば同じ風景がいくらでもありますからね。」と語ったのみでした。

う~ん、できるな蓮舫。

あんなん、もし私が税金を払う国民の声を背負ってる、っていう意識で見たら、はらわた煮えくりかえっちゃって、もうボロクソに言いそうだよ。

でも、ここでそんな喧嘩売るようなものの言い方するのも、熱弁ふるうのも得策じゃない、ってことをちゃんと蓮舫さんはわかってるんだろうね。

勝負は、本割で、ってところでしょうか。するりと交わした。

でも、「一歩外へ出れば同じ風景がいくらでもありますからね。」とそれで私の胸中は察しろよ、ときたもんだ。

これを聞いて、真正面にストレートな物言いをするばかりが脳じゃないよね、そりゃ、そうだ、と改めて思いました。

ちょっとからめ手から絡んで、顔はおたふく顔で、みたいな。

すると、ふっと気付いたことがあったのです。

それは私のターコイズの性質、というものについて。

「ターコイズ」は私の大好きな色であり、ターコイズがどこかに入っているボトルをよく選ぶということもあり、自分は「ターコイズ」というカラーが持つ性質を多く持っているだろうなぁ、ということは前から思っていたのですが、その性質が一度歯車がかみ合わなくなったりしたときにはどういうふうに現れるのか、ということについては考えてみたことがなかった。

だから、それはまた他の色の資質であったり、色からだけは言えない私の部分なのだろう、と思っていました。

ちなみに、ターコイズの資質としてまず挙げられるものとしては、「流れに乗る」ということがあるのですが、この「流れに乗る」と言うことに対して、私は「人生の定められた宿命の波に逆らわずに、比較的その波のとおりに生きていかれる人」というイメージを持っていました。

事実、以前に四柱推命で占ってもらったときに、今まで、偶然にも私は自分の宿命にさほど逆らわずに生きてきたのだな、ということがわかったのです。

それまで占いと言う占いはほとんどみてもらったことなどなかったので、自分の人生の波というものを意識したことなどなく、ほんとたまたまそうだなぁ、ということがわかったのですけれど。

その占い師にも言われました。

「ごく自然に自分の運気を捕まえられる人は、さほど苦労することなく人生を泳いでいけるけれど、こういう波に無意識だけれど逆らって、逆らって生きている、っていう方もいらっしゃるの。そういう人にはやはり辛いことが多いわね。」と。


で、自分は「一度波に乗ると、その流れに身を任せることが得意なほうなんだあ。」とは思いましたが、じゃあ、それを反対から、というか、蓮舫議員の含みを持たせた言い方じゃないですが流れを断ち切ったときにはどうなるのか、ということは考えてみたことがなかった。

そう考えてみると、人生論的なことではなく、細かいちょっとした日常のなかのことでも私は「流れを断ち切る」ということにすごく弱い、ということに気がつきました。

たとえば、学生の頃には体育の時間に「持久走」という授業がありました。

ただ、一定のペースを保って長距離を淡々と走り続けるだけなら私は平気なほうでした。だけど、いったん、「はい、ペースをあげてみて~!」とか、逆に「落としてみて~」とやられると途端に全くついていけなくなってしまうんです。

テレビでマラソン中継を見ていても、「揺さぶる」とか言いますでしょ。あんなことされたら私ならひとたまりもないし、自分のペースだけ守って42キロを走らなければならないのではなく、「勝負」として考えたとき、こういうペースの上げ下げをわざとするんだ、と思うととてもとても私には不向きなスポーツだといえます。

つい、先日はこんなことがありました。

休日にダーリンとゴルフに行ったのですが、午後からのスループレーで、「お昼はどこで食べる?」ということが問題となりました。

最初はSAで食べよう、ということになっていたんです。

でもクルマを走らせるうちに、ダーリンが、「でも、ゴルフ場のメニューにも興味あるなぁ。あそこはどんなランチがあるんだろう? やっぱり、ゴルフ場に行ってからにしようか。そのほうが、時間も安心だし。」と言い出したのです。

ええっ!と声をあげ、私はヤダ、SAにする、と言い張りました。

その私の強固な意志に驚いた様子のダーリンは、「そんなにムキにならなくてもいいじゃん。わかったよ。SAにするよ。」と言いました。

このときも、すでにあそこのSAで食べるということは、今から15分もすればお昼だな、という腹積もりになっているところをゴルフ場についてからだとゆうに1時間は超えてからになるわけか、と思った時点でもうダメなんです。私って。おなかの減り具合に関係なく。

いったんそういう腹積もりになっていた流れを変えられる、ということにすごぉく弱い。

こういう食欲とか生理的欲求ということにかけてはとくに弱い(笑)

このことを今までは肉体的な特徴とだけ思っていましたが、「ターコイズ」としての「流れに乗る」の裏面の特徴と思ったほうが、私的にはとても合点がいくことでした。


これ、ターコイズの特質の裏面?と思うことはまだまだいっぱいあります。

例えば、私は小さい頃から写真を撮られるのが大嫌いでした。

特に「ハイ、笑って~」と言われて表情をつくってからやたらにシャッターまでが長いともうその人に憎しみを覚えるほどです(笑)

楽しくおしゃべりしていてアハハと笑っている瞬間などに「はい、写真撮るよ~」と言われても、舌打ちしたいほどがっかりです。

どうしてせっかく今、このときが楽しくて笑っていたのに、その流れを断ち切ってまで写真って撮らなきゃいけないこと?って気持ちでした。

でも、うちの父親もご他聞にもれず旅行に行くとやたらカメラを構えたがり、旅行に来たかったのか、写真を撮るためには旅行に出かけざるを得なかったのかわからない、というほどでした。

前にも書いたことがありますが、うちの両親はクルマの運転免許をもっていないので、旅行といえば、家族だけでマイカーで出かける、ということではなく、団体旅行に参加する、ということでしたので、「はい、こちらで15分の休憩となります。」のようにやたら名所旧跡で写真を撮るためだけの休憩が告げられるたびに(またかよ。)と鼻白み、ちっとも楽しいと思ったことはありませんでした。

これらは、私は「流れを断ち切られるのが嫌い」なのだ、というふうに考えればすべて説明がつきます。

それから、私には蓮舫さんのように曲がったことが嫌いで、正義に反することをしている人を見たりすると思い切り糾弾したくなるところがありますが、そんな私が意外にも、そういう人と直接知り合ったとすると何とかその人の良いところを見つけて、その人の意に添うようにしてあげたい、というところもあるのです。これを「私って意外と争いごとが嫌いなのかしら?」なんて思っていましたが、これも単にターコイズの裏面とみれば、「流されてしまう」ところがあり、たとえ「ん? ちょっとおかしいな。」と思うことでもそちらの流れを断ち切りたくない、というところがあるからなのでしょう。

こんなことを考えたりするのも、ゴールデンスレッドでの1本目、B24「ニューメッセージ」を使い始めたからかもしれません。

このボトルの下部はターコイズです。

潜在意識下に眠っていたターコイズが頭をもたげてきたのかしらん。

ターコイズのボトルは今まで、B93「ヘンゼル」、B62「マハコハン」、B107「大天使ツァフキエル」と使いましたが、どれも皆、肌荒れを起こしました。

でも、今回不思議とこのB24「ニューメッセージ」だけは今のところ、肌荒れを起こしません。

これは私が、ターコイズを塗ることに慣れてきたのか・・・

慣れてきた、ということはつまり、ターコイズのメッセージに気付いてきたからなのか。

理由はさだかではありませんが、当分、いろんな角度からのターコイズ性質に気付いていけたら楽しいな、と思っています。




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B84「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」(風の中のキャンドル)

2010-04-29 07:53:00 | オーラソーマ

いや、別に日曜日と祝祭日をボトルの紹介の日にしよう、って決めたわけじゃないんですけどね。なんとなく。

B84 「風のなかのキャンドル」と言われたとき、皆さんならどういうイメージを抱きますか?

私は、ゆらゆらと今にも消えそうに右に、左に、とゆらめきながらも決して消えることのないキャンドル、つまり、「柳に腕おれなし」という言葉をイメージします。

か弱そうにみえるけれど、実は芯がしっかりとしていて最後の最後は自分の力ですっくと立っている、と言うような女性。


事実、このピンクとレッドの色合いはとても女性的なものを感じさせます。

そして、これは私だけでしょうか。ピンクとレッドの組み合わせ、というのは意外に大胆な感じも受けます。

ファッションなどでピンクのお洋服を着たとき、それにさらに何か小物を合わせようと考えるとき、レッドを選ぶ人がどれほどいるでしょうか。たいていはピンクをさらに華やかでさわやかに見せる、パステル系のペールブルーなどを思うのではないでしょうか。

ピンクにレッドをもってこよう、と思いつく人というのは、かなり大胆で、ちょっと変わり者っていう感じがします。

またその逆にレッドのお洋服を着たとき、それに何を合わせるかと考えたとき、やはりピンクを選ぶという人は少ないのではないでしょうか。

レッドを選んだ時点ですでにパワフルでやる気マンマン、「今日はなんだかイケイケの気分なのよ!」という感じでしょうから、それに合わせるのはヴィヴィドやストロングなイエローだったり、ブラックでさらにレッドを強調したかったりなどではないでしょうか。

ここで合わせる色としてピンクを思いつく人というのは、イケイケでありながらも自分が女性であることを忘れない人なのでしょう。

あるいは、レッドにピンクを合わせることで強くなりすぎる印象を和らげるという効果を狙っての案外策略家かもしれません。

どちらにしても一筋縄ではいかないぞ感を漂わせますよね。

そしてまた私は、なぜかこの色の組み合わせを見ていると「和風」なものを感じます。

ちりめんの着物と帯。

和紙の柄。

女の子の結った日本髪に挿すかんざしや櫛。

そんなものたちをなぜか想起するのです。

それは明治~昭和初期なテイスト。

その時代というのは女性が非常にがんばった時代ではないでしょうか。「明治の女性は強かった。」と言いますが、うちの亡くなったおばあちゃんもそうでした。

肝っ玉かあさん、というか、細腕繁盛記(わかんないですよね・・)というか。

というわけで、このピンクとレッドの色の組み合わせは私にしてみれば、女性的なんだけれど、ものすごくしっかりしている人のようだ、という感じだったんですね。

・・・とまぁ、このような個人的なイメージから、最初に戻りますが、私はこのボトルをずっと「柳に腕折れなし的意味ボトル」だとばかり思っていたのです。

しかし、あるとき「新・ネーミング・オブ・ザ・ボトル」で確かめてみてびっくり仰天。

ちょっと違うじゃありませんか。

そこにはこう記してありました。このボトルは「女性像の傷つきやすさをあらわしている。」と。

エルトン・ジョンがマリリン・モンローのことを歌った同じタイトルの歌があるそうです。マリリン・モンローは当時セックス・シンボルのように扱われていました。実際のマリリンは違うのに。幾度もの結婚を経て、そしてついには自殺と思われる孤独な謎の死をとげます。歌詞では、女性像を偶像化することがいかに女性を傷つけるか、ということが歌われています。

最近ではこの歌が書き直されて、ダイアナ妃のお葬式でも歌われたそうです。ダイアナ妃もまた、時代を背負い、あるべき女性像を背負わされた、とても傷ついた女性でした。

だから、このボトルは女性性のか弱さの象徴のようなのです。

しかし、この後、「新・ネーミング・オブ・ザ・ボトル」にはとても意味深なこんな説明がされています。

『キャンドルが燃えるにはある程度の空気の流れが必要です。しかし、空気がありすぎるとまたキャンドルは消えてしまいます。キャンドルは光の源であり、配慮と暖かさの多くの側面を象徴しています。風は変化のシンボルです。この側面がこのボトルの理解の要点を示しています。』

ね~。

相変わらず、持って廻ったような、ただでさえ理解しがたいことをより難しい言い回しにして、それでもついてこれる人しかわからなくて結構よ、と突き放したような表現でしょ~

要するに、「キャンドルが燃えるには空気が必要だけれど、あまりに強く吹く風のようなかたちでそれが提供されると消えてしまいます。キャンドルは光の源であり、それは配慮と暖かさを意味します。そして風は変化を表わします。そのふたつの関係を考えるとき、このボトルの意味がみえてくるでしょう。」とこんでいいわけでしょ。

キャンドルには空気が必要。でもそれもあまりに多いと逆に消えてしまう・・・

このように私たちには絶対的に必要だ、と思われるものでもあまりに多く取り込みすぎたり、依存しすぎたりすると、そちらに飲み込まれてしまって自分自身をなくしてしまうものがありますよ、という教訓でしょうか。

たとえば男女関係。

パートナーはいたほうがいいし、必要だけれど、相手にあまりに多くを期待しすぎたり、もたれかかったりすると、自分という存在のありかがわからなくなってしまったり、あるいは相手を失ってしまうことになる。

しかし、風が変化であることを考えると、あまりにそれを怖れすぎてもいけない。もともとが「関係性」とは変化するものなのであるから。

あるいは、相手は何時までも変わらずにいてくれる、と思っているけれど、それを相手だけに望むのは間違っている。自分が常に変わり続けるのと同じように相手もまた変わっていくものなのだから。

これは、このボトルがタロットでいうと「恋人たち」(Lovers)のリターンジャーニー(学びを終えて帰ってくる道。学びをシェアしあう道)であることを考えても、この解釈はそんなに間違ってはいない、と思います。

私たち一人ひとりの人間のなかには、たとえその人が女性であろうと男性であろうと、女性性と男性性というものが存在します。

それがうまく統合された状態でその人にとっての一番良いバランスで発揮されると良いのですが、女性性に傾きすぎると傷つきやすい状況に置かれたりしますよ、ということでもありましょう。

B84
「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」(風のなかのキャンドル)

「気配りの欲求、内なる情熱のための思いやり」

キーノートは、「傷つきやすい感覚。より高い目的に向かう強さ。」

アファメーションは、「私が愛の力に自分自身を開く以前に過ぎ去ったことを手放します。」

特項として、*性エネルギーをスピリチュアルなエネルギーに変えるタントラのワークを助ける。

    貧血の症状を和らげる。

    ホルモンのバランスを整える。

    性的課題の援助。


もしあなたが今、パートナーとの関係のバランスが悪いな~と感じているなら、あるいは、自分自身のなかにある女っぽい部分、男っぽい部分のバランスが悪いな~と感じていることがあるなら、是非このボトルとワークしてみてはいかがでしょう。自分にとっての心地よいポジションにボトルが運んでくれるかもしれませんよ。

「オーラソーマヒーリングサロン些々羅」では、全国どこへでもボトル1本から無料でお送りいたします。

詳しいお問い合わせ、ご質問はchakra@aura-soma.nameまで。




オーラソーマヒーリングサロン「些々羅」では、メールにてコンサルテーションのご予約を受け付けております。営業受付時間は月~土(AM10:00~PM4:30)です。

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本を出版!?

2010-04-28 07:50:00 | 身辺雑事

ある日、いつものようにメールチェックをしていたら、見知らぬ方からのメールが・・

なんとなく直感ですぐに出版社だ、とわかりました。

内容を開いてみると、ビンゴ。


そこには、この夏に刊行する、ある本の出版に向けて、ぜひ私にも参加してもらえませんか?と書かれていました。

テーマは「悩み」だそうです。

何で私が???と思いましたが、そこには担当編集者と名乗る方が、「いろいろとサイトを調べているうちに些々羅さまのものに行き当たり、こういう人の心をわかる方に是非参加していただきたい、と思い・・」と書かれていました。

その方があまたある癒し関係のサイトのなかでわざわざ私のものに行き当たったときに何かを感じ、「これだ!」と思っていただけたのはありがたいことですが、わたしがどんなコンサルテーションをするのかもご存知でないでしょうに、そんな簡単に「本に載りませんか?」って誘いをかけてもいいものなの?とも思います。

そして、「出版に際しては協力費というかたちで若干の費用が必要となりますが・・」とありました。

ふぅむ。

これは、体のいい自費出版めいたもののお誘いなのだろうか?
“若干の費用”というのはどれくらいのものなのだろう?

こんなもの、単なる営業だよ、こういうものにいちいち関わっていたらキリないよとまったく反応せずにうっちゃっておく、という方も大勢いらっしゃるのでしょうが、なぜか私は、その本そのものよりもそのメールを下さった担当編集者と言う方の気持ちはウソ偽りがあるものではない、とその志が真摯なものであると思われたので、ひとまずネットでその出版社のことを調べて見ることにしました。

そうしたら、確かにその出版社は「癒し」関係の本を多く出版している実在のところのようです。

メールの最後には「ご興味がおありでしたら、資料をお送りいたしますので返信ください。」とありました。

興味はあります。

わたしの夢のひとつは、「本を出したい」なんです。

だけど、それには自分に科している条件がありました。

「人に乞われて出すこと」。

それは、とにかく「本というかたちのあるものとして残すこと」をメインの目的にするわけではないので、自分から原稿を書き溜めて自費出版というかたちで本にすることならしない、という意味です。

私がどうしても目の前のかた、マン・ツー・マンという方法だと伝えられることに限界があると痛切に感じ始め、あなたの言うこと、考えていることはもっと大勢の人が必要としている、と人から乞われて初めて出そう、と心に決めていたのでした。

・・・しかし、今回のこれは「乞われている」ことになるのだろうか?と自問自答しました。

人から「あなたの書いたものを見て是非に」と言われた、という意味では「乞われた」ことになりそうです。

しかし、「若干の協力費が必要」というのは自費出版ぽいのでは・・?


ま、この時点では「興味はある」のだから、資料をいただくまではしてみましょ、と思い、その旨を伝えると「早速お送りします。」とまた返事がきました。


で、届いたものを見てみると・・・

「ちなみに昨年わが社が出版した同様の趣旨の本を同封します。」とあり、その本を見てみると、日本全国から70人弱の方が掲載されていました。

それはお一人の方につき、大体8ページから12ページに及ぶもので、その方のセッションについてだけではなく、生い立ちから「なぜ、この世界に目覚めたか」などから書かれているかなりストーリー仕立てのものでした。


ひゃあ。

これだけのページがひとりひとりに割かれていて、“若干”とは・・?と資料のほうをみると、やはり・・・ とんでもないお値段でした。

そこには1/2ページからの値段が記載されているのですが、本を見る限り、全員8ページとか12ページ割かれています。こんななかに急に1/2ページだなんてあまりにお粗末でありえません。

1/2ページのお値段ならまぁ、確かに“若干”かも、というものでしたが、8ページ、12ページとなったら、今の私にはとてもそれは“若干”というものではありませんでした。

これはもう、自分の意志で、自分のサロンをPRしたい、という方が広告代わりに出すような出版物でしょうね。

となると、私の唯一、「本を出す」夢に対して科した「乞われて出す」には該当しないな、と思い、あきらめることにしました。

資料の冒頭に担当編集者の方が直筆で添えられた文章がありました。

それは私がメールで資料をください、と返信したときに「数あるサイトのなかからなにがお眼にとまったのかわかりませんが~」と書いたものに対する返答でした。

「それは、私がもし、悩める人間だったとしたら、些々羅さんのような人にみてもらいたいな、と思ったからにほかなりません。」と記されていました。

私よりはうんと若い女性とみられる、多少丸文字が入ったような字。

忙しいなかそれでも自筆でどうしてもこれだけは書き足しておきたい、と急いで、そのなかで一生懸命丁寧に書こうとしたような字。

今回の話はご縁がありませんでしたが、その言葉が今回の突然の振って沸いたようなエピソードに対する私へのギフトだったな、と思いました。

「あんたってほんとにおめでたいわね。そんなことぐらい誰にだって言うでしょうに。」

「大体、断られることも想定して70人を載せるなら、その10倍も20倍もの人に同じメール送ってるでしょうよ。」

こんな声が聞こえてきそうです。

そのとおりかもしれません。

でもたとえ、「誰にだって言う」ことであっても、日本国中12000万人に言うわけではないでしょう。

70人の10倍、20倍であったとしても、全国にはそれ以上の癒し系のサロンがあるでしょう。

そう思うと、やはりこれも1つの出会いだったはずだ、と思えるのです。

そして、その担当編集者の言葉は心からのものだ、と信じられるのです。

そんなことがあった次の日。

Photo_4 またまたボトルが割れました。

今度はB57「パラスアテナ&アイオロス」です。

今年に入って、「クツミ」についで早や2本目。

また、祝福を受けました!

しかも、パラスアテナということは、「芸術面でのヴィーナス」じゃないの!

なんか創作活動に関係してるんじゃないのぉ!

そして、私が毎晩夜な夜なクイントエッセンスで願いごとを唱えながら香りをかいでお世話になっているマスターのボトル。

何かまた願いが叶うのでしょうか?

・・・っていうか、これ、ひょっとしてすでに願いが叶ったということかもしれない。

というのは、今、私はB107「大天使ツァフキエル」を塗り終わり、ようやく今年の最初に選んだボトルのゴールデンスレッド通りに使い始めたところなのです。

その記念すべき1本目がB24「ニューメッセージ」。

確かにニューメッセージが届いたわけです。

そして、この上部がパープル、下部がターコイズのボトルの意味は、「“個”としてどうあるべきか、を奉仕のなかで見出す。」です。

私が「いずれは本を出したい」という“個”としての夢を、奉仕のなかでかなえなさい、ということであれば、やはり今回の出版は奉仕のなかで、ということではなかったから断って正解だったのだ、という気がします。

でも、それによって私はずいぶん考えました。


仮に本を出したとしても、それが全国の書店に並んだとして、北海道や沖縄から岐阜くんだりまでお客様が増えるとは思えません。

だから、たとえば私がこの本に載ったとして「あぁ、この人のサロンに行ってみたいのに遠いからとても行けないわ。」と思ってくださった方のために、私ができることはないだろうか、とメニューについてああでもない、こうでもない、と考えたりするシミュレーションの機会に恵まれました。

そしてアイデアが沸いたりしました。

これはすでに願いが叶った、という意味なのではないでしょうか、と思った次第です。

・・・でも、もう、いいよ。割れるのは。

ボトルたち、ひそかに祝福してくれたまえ。私も生活かかってるからね。




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イエローのポマンダー

2010-04-27 07:51:00 | オーラソーマ

イエローのポマンダーは、かいだ途端に柑橘系そのもののさわやかなレモンの香りがします。

グレープフルーツとかレモンとか柑橘系の香りはダイエット効果があると言われていますからその関連かもしれませんが、イエローポマンダーは「食べ過ぎなどで胃の調子が悪いとき」に良い、と言われていて、私もそういうときはお世話になりますが、逆にそれ以外の精神的、感情的な面でお世話になることはほとんどありません。

でも、イエローにはもちろん、そんな精神的、感情的な面からのフォローの意味があります。

イエローは「オレンジのポマンダー」のときにチラっと書いたのですが、“神経を表わす色”です。

神経を張り巡らせる人、というのは知性を有します。


例えば、「オーラソーマって何だろう?」と思って「オーラソーマ」というキーワードを打ち込んでネットで検索したとします。

そうすると、カラーセラピーだということがわかって、検索を続けるうちに「パーソナルカラー診断」のほうのサイトへ行くかもしれない。

そこでまた、へぇ、人の顔色などを見てその人に似合った色を見つけていくのは四季の理論っていうんだぁ、と知識を広げることになる。


また、イギリス発祥ということを知って、イギリスってどうしてそういう土壌があるんだろう?と言うことが気になり、イギリスの国民性、歴史、伝統、風土などを調べてみる人もいるかもしれない。

あるいは、オーラソーマがカバラや数秘などとも関連していることを知り、そちらを調べてみる人もいるかもしれない。

いずれにしても神経は脳細胞をつなぐシナプスのように、ひとつのことに興味や関心をもったりするとプチプチとそれぞれの小路がつながって、太い動脈につながっていくように知識を増やし、自分のものとしていくので、知性と関係している色、ということになるのです。

智恵の働きを活性化するので、おこさんの勉強の前後などに使用するのも効果的です。


だから、イエローのポマンダーをかいでいると、新しい情報を得ることや学ことがとっても楽しくなってくるかもしれません。

また反対に、本当の知識とは何だろう?と考えるとき、「知識と智恵は違う」ということに行き当たります。

イエローは人体のチャクラと照らし合わせると、おへそのあたり、インカネーショナルスター(受肉の星)があるところに対応しています。

私たちは、そこに生まれもっての智恵を授かっているといいます。

知識をほんとうに自分のものとしていくと俗に「腹に落ちる」という言い方がありますが、文字通りそれはインカネーショナルスターに集まり、イエローからゴールドの輝きを帯び、自分自身のほんとうの智恵となるのでしょう。


知識を本当に自分のものとしていくためには、机上の勉強だけでは無理です。

それを自分の体験とし、経験をつむことによって智恵となっていきます。

だから、「イエローの人」(イエローが好きでよく選ぶ人、というほどの意味合いです)は、上から理屈抜きでガンと押さえつけられるような指導や命令を受けるのが嫌いです。反発を感じます。

たとえそれが信頼している上司や愛する家族からのものであっても。

自分が神経を張り巡らせてたくわえた知識、そしてそれを経験や体験によって培った智恵があるので、イエローの人はそれらを自分の内から取り出すことができるのです。

逆に言えば、それらと照らし合わせてしか物事を判断したくないので、自分の内に持っているものと照らし合わせようがないように理由や意味を明白にされないまま、「うるさい。とにかく俺の言うとおりにすればいいんだ。」というような命令には拒否反応を感じてしまうのです。いわば、体育会系とは真逆な感じですね。

でもいったん「考えすぎ」というスパイラルにはまると、なかなかそこから抜け出すことができないのも「イエローの人」です。

細やかに神経を張り巡らせるがゆえにそれがこんがらがってしまうと、修復が難しいのです。

そして1つずつ丁寧にほぐしていくことがもはや難しいとなると、最後には全部の神経をバッサリと切ってしまえばいいんだ、というような乱暴な手段を選びがちです。すなわち、「あぁ、どうせ全部私が悪いんでしょ。」「私が悪者になればいいんでしょ。」ってやつです。

こうなるともうタチが悪くて手のつけようがありません。

いったん、ナーバスになってしまった「イエローの人」は最後、自分を傷つけることによって物事の決着をつけようとします。

それは自滅的な破壊行為にすぎないので、そんな状態におちいったら、とにかくこのイエローのポマンダーです。

わけがわからないもやもやとした不安感、混乱、ナーバスになってしまったとき、悲観的になっているときに喜びのエネルギーを取り戻させてくれます。

というのは、イエローはまた「子どもらしい無邪気さ」を表わす色でもあるからです。

幼稚園児のバッグや帽子などはイエローであることが多いですよね。

あれはまた小さくていきなり道路に飛び出したり、どんな動きをするかわからない子どもに周りが注意を喚起するように、という意味だと思ってらっしゃった方が多いと思うんですが、もちろんそういう意味もあると思いますが、もともと「くちばしが黄色い」などと言うようにイエローは幼子の純粋な楽しさ、喜び、無邪気さをあらわすんです。

だから、イエローのポマンダーをかぐとただただこどもらしく単純に無邪気さを楽しめるようにもなると思います。

理由もなく自分を痛めつけるようなことがあるのも「イエローの人」ならば、また無邪気に何も考えず、ただただ純粋に楽しめるのも「イエローの人」なのです。
昔はやった「動物占い」でいうと、「ペガサスの人」みたいな感じでしょうかね。

お気に入りのアーティストのコンサートがある、となると後先考えず、日本国中どこのホールで開催されようがすぐにふわっと行っちゃう、みたいな。

イエローのポマンダーには、主成分のハーブとしては、シトロネル、サンダルウッド、レモングラスなどが入っています。

主なクリスタルとしては、琥珀、フローライト、シトリン、トパーズです。


この記事を読んで、イエローポマンダーが使ってみたくなった人は、是非「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」までご一報ください。

1本 \3800(税込み\3990)です。

1日2,3回の使用なら、1年以上もちますので、とてもお値打ちですよ。

お問い合わせ・ご注文は、chakra@aura-soma.nameまで。

全国どこへでも1本から無料配送。




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バカンス

2010-04-26 07:56:00 | 身辺雑事

今年もまたゴールデンウィークが近づいてまいりましたが、皆さんは今年の予定はもう立っておられますか?

お泊りの旅行ならば、この時期ならすでにホテルの予約とかしていないと厳しいでしょうから、前々から計画だててらっしゃるのでしょうね。

わたしは、といいますと、実は本日の時点でまだな~んにも予定がありません。

確か去年もおととしも、ゴールデンウィークはダーリンが何日か「午前中だけは仕事が入っちゃった」とか「今日は1日ダメになった。」とかの日があって、ふたりそろっての休日といえば何日かはあったでしょうけれど、“ゴールデンウィーク”というように、ウィークとして休暇を楽しんだ、ということはありませんでした。

そもそも、暦どおりにしか休めない会社勤めの人であれば、真ん中あたりで1日でも平日があればもはや「ウィーク」にはなりませんからね。

ウィークとして休めるのは大企業にお勤めの方か、工場のようなところにお勤めで、ちびちびラインを動かしていては大変効率が悪く不経済なので一斉に休んでもらうよ、ということかどちらかでしょう。

中小企業や自営業の方はなかなかゴールデンウィークといってもその意味に十分には対応できないのが現状ではないか、と思います。

今年は5月にはいると私は、自分が受けるための研修が目白押しでして、まずはゴールデンウィークが終わった次の日の平日、6日から楽しみにしていたラハシャ博士の「カウンセリングスキルコース」があります。

なので、5日まで遊び呆けたとしたら、6日からまた家をあけることになってしまうのでなんとなく気が引ける、というのもあります。

このように、日本人というのはまじめなんでしょうね~

遊ぶときでさえ、遊んでいない人のことを思って気が引けたり、思い切り楽しめなかったりする。

ま、そういう国民だからこそ、こういった足並み揃えて国で制定したような休暇週間が必要だった、ということもあるのかもしれませんが。

結局、日本列島で休暇をズラしながら取る、というのも今年は採択されませんでしたものね。

反対していた人たちは、その理由がみな、仕事に関するものばかりだったですもんね~

「ウチが休んだって、ウチの取引先はこの地方じゃないから、仕事の電話はバンバンかかってきてしまうから意味がない。」とか、「家族で実家に行こうとしても、実家の地域がゴールデンウィークじゃなくて仕事をしてたら行けなくなる。」とか。

全部ごもっともなんですが、ひとりひとりが本当に“個人として”休みをとる、ということだけに前向きに取り組んで考えたら、そういうことってどうにかなっていくもんじゃないの、って思いましたが、しかし実際にはバッサバッサ、「そういうことならハイ、だめ~」「反対~」とダメになっていった。

なんだか日本っぽいな~と思いました。

そもそも、「バカンス」って「vacancy(空白)っていう意味からきてるんじゃないの?(いいかげんに調べもせず、言ってますが・・・ ほんとかいな)

だとしたら、「な~んにもしない」「予定を空っぽにする」ということがバカンスなんじゃないでしょうか。

この意味を欧米の人たちはちゃんとわきまえていて、「なにもしない、ということが一番の贅沢」ということをよく知っているような気がします。

だから、バカンスというと、それは名所旧跡を駆け足で廻るような旅ではなくて、ひとところにずっくりと腰を落ち着けて海辺で寝転んで日暮れるまでただ本を読んだり、ぼんやりしたりしている。

でも、日本人は「何も予定がない」「なにもしない」ということを極度に嫌がる、怖れる。

さすがに全員が名前のプレートを首から下げさせられ、ガイドさんが旗をふって「はい、こちらですよ~」という団体旅行にはもう今の若い人たちは見向きもせず、そんな旅行の仕方はばかばかしい、ということに気付きはじめたようですが、そんな彼らでさえ日程だけはゆったりとっているものの、せっかく普段自分が住んでいるところとは違う風景を有した現地に着いてもやることといったら、ゲームであったり、いつまでもテレビを見ていたり、と所詮デジタルや電波を操る人たちに踊らされている。

な~んも自分を空っぽにしていない。

でもかくえらそうに言う私も一度、何冊もの本を抱えて旅に出たことがありましたが、しょせん、形ばかりの「欧米かぁ」でした。

買っておいてあるのにいつまでも読めないでいる本、一気にその世界に入ってなかなか出てこられなくても構わない長編などを持ち込んだだけで、それらに共通するテーマは何もなく、バラバラのジャンルのものばかりでしたから、「私は暇つぶしをしている。」という感じがしてきてしまったのでした。


でも、本当の意味の「自分を空っぽにする」とはそういうことではないのでしょう。

それがようやく最近わかってきました。

自分を空っぽにする、というのは普段の生活のなかで身についてしまった垢を落とし、いったん自分が思い込んでいることや何も考えずそうしてしまっているようなことを全部手放し、奥の、奥の、奥のほうにある本当の素の自分とじっくり向き合うことではないでしょうか。


だから、長編時代小説だの、サスペンスものだの読んでもその世界観に面白くて引きずり込まれるだけで、何も自分と向き合うことにはなりません。(まぁ、読後にそれが自分だったら、などと深く考えてみるならば別ですが)

あくまで自分と向き合うことができるツールとなりえる本を持っていくべきだったのです。(別に本じゃなくてもいいですけれどね。とにかく空っぽになった自分と向き合えるためのツール)

いったん空っぽになると何がいいのか?

自分が浄化できます。

お部屋の大掃除と同じで、きれいにした自分にはいろんなものの置き場所が改めてわかったり、模様替えをしたり、新たなものが入ってきたりします。

そうすると、最高のものを入れるための器としての自分が実感でき、最高のものがやってくるのを期待できるようになるのです。


こんな本当の意味のぜいたくなバカンスを今年こそ送ってみたい・・・ いや、自分の意志で送れるはず・・・ 送らねば・・・とまた気負いすぎてしまう「ブルー」の私なのでした。




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