ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

B14「ウィズダム・イン・ザ・ニューイーオン」 ~新たなる時代の叡智~

2011-03-31 09:09:00 | オーラソーマ

昨日は価値観のことだけで終わってしまいましたが、実は「おとうと」の金持ちの婿のことでは、もうひとつ、思ったことがあるのです。
娘が舞い戻り心配した吉永小百合演じる吟子がお婿さんである医者を病院に訪ねるシーンがあります。娘婿はお昼もこれだけだ、という菓子パンをロビーでかじりながら、ほんとに忙しそうです。

「あの、娘が話し合う時間もないって言ってたので・・・ もう少し、話し合ったらどうなの?」と言うと、

「話し合う、って何をです?」と言うのです。

「僕だって、話し合うべき内容を過剰書きにでもしてもらって見せてもらえば、あぁ、こういうことを話し合いたいんだ、ってわかりますよ。でも、ただ話し合うって言ったって何を話したらいいんだか・・」

これには吟子もびっくりしてしまって、言葉を失います。

しかし、わたし、この場面にもちょっとこの医者に同情するとこ、あるんですわ~

「箇条書きにして出せ」はあんまりにしても、彼も嫁とすれ違いが生じてなんだか関係がぎくしゃくしてしまっていることは認めるにやぶさかではないだろうけれど、それを「ちゃんと話し合ったら?」と言われても、何をどう話せばいいのかわからない、というのは本音でしょう。


心ある人は、そんなに難しく考えずにまずはお互いが向き合えばいいのだ、と言うでしょう。

同じテーブルにつくことが、大切なのだ、と。

けれど、いつも人を頼らずに生きてきた人ほど、自分で何もかもを決めてきたので、「話し合う」ということは苦手なのです。
「難しく考えずに向き合う」、と言うこと自体が一番難しいことだったりして・・

自分でこつこつと勉強を続けてきて、医者になったくらいですから頭のいい人であることは間違いないその彼は、自分がかつて問題を解決してきたときのやり方で、すべて解決してきたに違いありません。

きっとそれは「原因→課題の抽出→解決法の発見→行動に移す」という過程を経て、考えてきたものでしょう。

彼が、「話し合う、話し合うって言ったって、別に僕が浮気をしたとかそんなことじゃないし。僕はいたって普通ですよ。何もしたわけじゃない。なのに、何を話し合うんですか?」と言うところがありますが、彼にはまず最初の「原因の特定」ができていないのです。

だから、何も材料を揃えられないなかで同じテーブルについたって、何が始まるんだ? 時間の無駄なだけじゃないか、と思うのでしょう。

ほんとうは「何もしていない。」ということが一番問題なんですけどね・・

でも、私は学生のころ、何かと親に「おい、ちょっと話し合おう。」と自分の個室から引き出されました。

親はよく書きますように、長年串かつ屋をやっていて当時営業時間は夜の11時ぐらいまでだったように記憶していますので、引き出されるというのは店が終わって片付けが済んでからのそれからの時間です。

もうそろそろ寝ようかな、と心安らかでいるときに迷惑な話でした。

「何を話し合うの? 私には話し合うようなこと、何もないよ。」と言うのが私の常でした。

いつも一緒に食卓を囲めない、休みの日も月に1回ぐらいだから、そうそうどこかへレジャーに連れていってやれない、というのをうちの親は負い目に思っていたのでしょう。

それで自分たちの罪滅ぼしのためだけに子どもの事情も考えずに時々思い立ったように「話し合おう」なんて家族団らんを装うのはやめてほしい、といつも苦々しい思いでした。

おまけに私は一人っ子だったということもあり、たいていのことは誰にも相談せず、ひとりで決めてきました。

その自分の決断に対して、「あぁ、もっと親に話を聞いてからにすればよかった。」なんてなんら後悔することはなかったのです。

それを親は不満だったんでしょうね。

自分たちの人生の先輩としての話をしてやれば、もっと違った決断をしていたかもしれない娘に今からでも遅くない、自分たちならこう考える、という話をしたくてうずうずしていたのです。


でもそれを「話し合う」と名づけるのはやめてほしい、と思っていました。

一方的にそちらが「自分の胸の内を語りたい」だけなのです。

私はもうすでに決めている、って言ってるでしょーが、と私はいつも憮然としていました。

だからこの婿さんのお医者さんも自分が何も悪いことをした覚えはないのに(自分が原因をつくった、という自覚はないのに)、相手からは「話し合う」というまるで五分五分に発言しましょう的な顔をした言葉で言われているけれど、実は「私はずっとこういうことが不満だったのよ!」みたいな胸の内を聞かされるだけだろうな、ということがうすうすわかっており、それに抵抗感を示したのかもしれません。

そう思うと、自分の若いころとだぶり、同情の余地を禁じえないのでした。

でも、もちろん親と子の関係と夫婦の関係は違います。

親と子の間には、子が成人するまでは指導者と生徒みたいな関係の部分もありますから、自立しはじめた子どもとはどうしてもぶつかることもあるでしょう。

そしてぶつかりながらも、他人ではないので別れるということもないわけですが、けれど、夫婦は常にどちらかが上とか下とか指導者と生徒みたいな関係が生じているわけではないし、もともとが他人の関係なので、ここはオープンにいろいろと話すことができる環境をお互いが努力してつくりだす必要があると思います。

でも、それがこのお婿さんの場合、自分が生きていた中の杓子定規でしか考えられない。

それが「箇条書きにして出してでもくれれば・・」という発言につながったのでしょう。

そして吟子のほうとしてみれば、その瞬間が逆に(この人とはいくら話し合ったって無駄だわ・・)とその価値観の相違に愕然とし、言葉を失ったのでしょう。

お互い自分が生きていた“経験則”の中からだけ答えを見つけ出そうとすると、答えがみつからなかったり、相手を傷つけたり、価値観が違う、と感じてしまったりしますね。

経験は尊いものだけれど、その経験によってそのときに感じたこと、思いはいつまでも大事にしたいけれど、あまり「あのときはこうだったから」ということを別の機会に当てはめてすぎて「こうあるべきだ」と考えてもうまくいかないことがあるように思います。

今回の震災だって、阪神大震災を経験した日本人がどうしてもっとうまくやれないのか、と最初の頃やきもきしましたが、結局、被災したほとんどの地域が海岸沿いだ、ということで、被災地まで行くルートが確保できない、日本海側を大きく回っていくしかない、それには今回、ガソリンが足りてない、と言う問題などが生じて、阪神大震災のときの教訓がほとんど生かされないことになってしまったわけですもんね。

経験則に頼らない、人類としての知恵で勝負する時代がこれから幕を開けるのだ、と思います。

経験則に頼らない、ということは、一度、自分をクリアにすること。

せっかく蓄積してきた経験や知識は自分の財産ですから、それを一度手放してみる、ということはとても恐いものに違いありません。

しかし、それをこのボトルは教えてくれるような気がします。

108本あるボトルをだいたい1週間~10日に1本ずつコツコツとご紹介してきて、そろそろ残りの数も少なくなってきました。

え~と、あとは番号が若い順からご紹介するとなれば、何番になるのかな?と思ってみたときに、このボトルが残っていた、というのはなにやら、今の時期にとてもふさわしいような気がしました。

B14 B14
「ウィズダム・イン・ザ・ニューイーオン」~新しい時代の叡智~

「叡智へのクリアなチャンネルになる。」

アファメーションは、「恐れを手放していくほど、私は内なる真実に純粋になることに開いていきます。」

特項として、*ドリームワークを助ける。

    困難な問題に直面する勇気を与えてくれる。

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    過去世セラピーでは前世の心の痛手や傷を癒すのに役立つ。

    子どもの入学前の恐れを緩和。


あなたが今この時代に、ここにいる意味を考えて、一歩前に踏み出せない状態にいるのであれば、このボトルとワークしてみてはいかがでしょうか?

まっすぐと前を見つめる勇気を与えてくれるかもしれません。



「些々羅」では、ボトル1本、ポマンダー1本、クイントエッセンス1本から全国どこへでも送料無料にてお送りいたします。(代金のお支払いは振込みです。



振り込み手数料は申し訳ございませんが、お客様ご負担でお願いいたしております。そのほか、随時ご意見、ご希望などありましたら、下記メールアドレスへお気軽にどうぞ。

                                 

      
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価値観の相違

2011-03-30 09:16:00 | 映画

34日前にDVDで、吉永小百合と笑福亭鶴瓶の「おとうと」を見た、とチラ、と書きましたが、その映画のなかで実に印象深いシーンがあったので、今日はそのことを書きたいと思います。


吉永小百合演じる吟子の娘である小春(蒼井優)が、薬剤師である関係上、医者と知り合って結婚することになりました。

そのお相手の家はかなりの良いお家柄らしくて、結婚式には財界人やら著名人がくるほどでした。

そんなお金持ちの家にお嫁にいって小春は幸せね~と思って見ていると、ほどなくして、家に舞い戻ってきました。


「どうしたの? せめてここにいる、っていうことを言っておかなくていいの?」と心配そうに尋ねる吉永小百合に、

「いいの。どっちみち、メールで伝えるだけだから。忙しいらしくてほとんど会話なんてないし。」と娘は言います。

そして、「何があったの?」と重ねて尋ねる母に、

「この前運転免許とろうと思って、彼にお金ちょうだい、って言ったの。そうしたら、運転免許なんて嫁入り前に取っておくものだろう。実家に出してもらえ、って言って出してくれなかったの。歯医者に行くからお金ちょうだい、って言ったときも、歯なんて結婚前にちゃんと直しておくのが当たり前だろう、ってそれもお金出してくれなくて・・」と娘は言いました。

それに対して、加藤治子演じるおしゅうとめさんは、「お金持ちっていうのはケチだからねぇ。」と言いました。

ま、そういう感想が世の中でも一番多いのかな、と思いますが。

私は、よく言われる「価値観の相違」というもののことを思いました。

特にこの場面では、昔ブログに書いたことがありますが、うちの両親が私がまだ中学生か高校生ぐらいだったときに、しごくまじめな顔をして、「お父さんとお母さんは、結婚する前にお互いにきちんと健康診断をして、その診断書を取り交わしてから結婚した。お前もそれくらいのことはやれよ。」と言ったことを思い出したからです。

それを聞いたときには、どっちらけの気分となり、(それはあんたがたがお見合いだからだろーが。)と思ったものでした。

けれど、確かに結婚してみてすぐにどちらかに重大な病気が潜んでいる、ということがわかった場合、「そういうことは結婚前に調べておけよ。」という気持ちになるのもわからないではありません。

前もって調べたってわからない病気であれば仕方がありませんし、不慮の事故なんてことはさらにどうしようもありませんが、ゆっくりと進行し、1年に1度きちんと健康診断を受けていたらそれは発見できたものであろうに、という病気を抱えたまま、結婚直後にそれが発覚したとき、まだ二人の間にはともにそれを乗り越えようね、という絆が育っていないので、片割れのほうは、「ええっ! そんなぁ。貧乏くじ引いちゃった。」という気持ちが沸くかもしれませんね。

「貧乏くじを引いた」という言い方はちょっとひどいな、と思っても、このことを視点を変えてみれば、相手を思う気持ちがあればこそ、相手に迷惑がかかることがないように自分に出来ることのすべてをやっておいて結婚する、というふうに頭が回らなかったのか、ということは私のことをさほど大切に考えていないわけだな、という見方もできるからです。

だから「おとうと」に出てくるこの金持ちの医者が「どうしてそういうことは結婚前にしておかなかったんだ。」というのをひどい奴だ、と決め付けるのは違うかもしれない、と思ったのです。

それで結果的に「俺は金出してやらんぞ。」というのは、確かに「ケチ」と言いたくなりますが、彼の気持ちとしては、「俺は結婚前に健康チェックもしたし、結婚してから必要になりそうな資格とか準備があれば、それを考えてすべて万全だ、と思うような準備を整えた。それが、君に対する思いやりだと思うからだ。それをまったく思いもよらずしなかった、という君は俺のことをそれほど大切に思っていない、ってことだな。」というのが腹立たしかったのかもしれません。

結果的にそういうところまで気が回り、準備もきちんとする、ということが生活にゆとりのある金持ちの発想なんだよ、といえばそうかもしれませんが。

だから、この医者の彼が、同じように裕福な家庭の子女と出会い結婚していたら、同じことを言ったとしても、その子女なら、「あら、ほんとね。それは失礼しましたわ。私としたことが。それは私のお金から出しますわね。」と言うだけで、相手のことをひどい奴だ、と思うこともなくむしろ子女はわが身の至らなさを反省したかもしれません。

それだったら同じことを言われても実家に暗い顔して逃げ帰る、という問題もおきなかったわけで、そういうことが価値観の合う同士だ、ということでしょうか。

「価値観が合う」とか「合わない」とか、私たちは普段、それが恋愛に発展することになるかどうか、結婚する決め手になるか、あるいは別れるかどうかの基準などでよく語ります。

でも、この価値観が合う、合わない、ってやつは曲者で、元をたどると、「結局、経済状況が似ている者同士だと同じ価値観を持ってるってことだよね。」じゃんじゃん、で終わることになってしまいがちです。


悲しいことに現象面だけをたどるとそういう結論にいたることって往々にしてあります。

けれど、お金は「たかがお金、されどお金。」です。

ある日突然価値を失うものかもしれないし、今回の災害のように、その人が悪いわけでもなんでもないのにすべての財産を失うってことだってありえる。あるいはある日突然、自分の会社が倒産、ってことだってありえます。

だからたいしたもんじゃない、貯めこんでも仕方がない、というのはまた極論で、ある程度の備えは必要ですが、ようはお金にふりまわされないことが大切ですよね。


お金持ち同士だから価値観が合うわね、と思っていた同士が、どちらかがある日突然財産をなくしてしまったとき、それでもまだそこにある本当のその人自身がもつ価値観に気付き、合うな~と思えば本物だし、そうでなかったら、お金の価値観がその人たちの価値観でもある、と勘違いしていた証拠でしょうね。

本来、「価値観」とは、この世にある価値の変動があるものに対してはかられるものではなくて、もっと普遍のものに対してはかられるもののように思います。

“生活”に振り回されずに、その人が自分の、相手の、魂をみようとしたとき、その価値観が顔を出すのではないでしょうか。




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B54「セラピス・ベイ」とのワークが始まりました

2011-03-29 09:29:00 | オーラソーマ

Photo 数日前から、マスターボトルとのワークが5本目のB54「セラピス・ベイ」に突入いたしました~

正直、このボトルとワークするのはドキドキでした・・・

というのは、上下ともクリアで、まったく透明なこのボトルとワークした人たちが口を揃えて、「今までの自分の人生に起こった出来事を全部見せられるようで、辛い・・」「つらくて、つらくて、塗る気がしない。」「最後までワークできなくて、ほうってある。」とおっしゃるからです。


確かにオーラソーマにとって、この「クリア」という色は、“無色”なのではなくて、“すべての色を含んでいる”という解釈になります。

ですから、一見見た目には、まったく“無”に見えるこのボトルは、“すべての色”なのです。

それは、オーラソーマが光で作った色だから。

光で出来た色というのは、混色すればするほど、色が淡く、そして最後には、クリアになります。

逆に絵の具などで作る色は、混色すればするほど、濁って汚くなっていき、最後には黒になってしまいますね。

だから、この上下とも「クリア」のこの「セラピス・ベイ」がすべての色を表しているがゆえに、今までの自分の人生に起こったすべてをもう一度走馬灯のように見せられて辛くなる、というのもわからないではありません。

そんなことになったらどうしよう・・・

なかなか立ち上がれないほど落ち込んでしまったら嫌だなぁ・・・

いま、忙しいから落ち込んで何もする気にならなくなってしまったら仕事が滞ってしまうから、もうちょっとヒマになるときを見計らってからにしようかなぁ・・なんて今までうじうじと悩んできました。


でも、勇気を出して使ってみることにした初日。

まずは、シェイク、シェイク。お、混ざりやすいぞ。

Photo_2 透明な液体がシェイクされて乳化した色は、アイスキャンデーを思わせるようなホワイトで、何だかとても優しい気持ちになりました。

アイスキャンデー、知ってます?

ソフトクリームのように乳脂肪分が多く含まれているクリーミィなものではなくて、もっとカキ氷みたいにシャリシャリした感じ。

だから、色も気泡をいっぱい含んだ透明感のある白、って感じなんです。

この色に私はとても惹かれました。

そして、香り!

なんていい香りなんだろ!!

もともと私はクイントエッセンスの「セラピス・ベイ」の香りが大好きですが、その香りと同じ甘さのある、しかし爽やかな香り・・

う~ん、癒されるわぁ。

同じマスターのシリーズでもボトルの香りがクイントエッセンスの香りと同じとは限りません。むしろ、違っているもののほうがほとんど。

そんななかで、この「セラピス・ベイ」はクイントエッセンスの香りの再来でした。

ボトルにはそれぞれ一応、塗る場所の指定があります。

でも、絶対にそこに塗らなければいけない、というものではありません。

ほかからアプローチしても、じわじわと結果的に必要なところにもまわり、効果を発揮します。

このセラピスベイはそもそも身体のどこの部分に塗ってもOKというものですが、私はなんだか楽しくなっちゃって、もっと塗りたくて塗りたくて、全身にこれでもか、というぐらい塗りました。

このぶんじゃあ、過去最短でこのボトル、使い終わっちゃうかも・・・

あまりにも早い期間で使い終わってしまった場合、それでもちゃんと気付きは訪れるのかしら・・?

それはやはり、ちゃんと訪れるのだと思います。

気付きが訪れるタイミングというものにちょっとしたズレは生じるかもしれませんが、必ずやそれは訪れる、と思います。

人体には1日にボトルのエッセンスを受け入れられる許容量というものがあって、それ以上に塗ったって、取りすぎたビタミンCと同じように体外に排出されてしまうだけ、ということはないと思います。

それは、その人が自分の魂に正直になって、塗りたくて塗ったものであれば、必ず体の受け入れ態勢もあるはずだ、と思うからです。

私は必ず50mlのボトルとワークしますが、この前、ある講座でご一緒したプラクティショナーの方が、「私は、私の先生に、今はヴィッキーさんの時代と比べると時代の流れが早いから50mlでなくて、25mlのほうでも十分に気付きが得られる、って言われたわよ。」とおっしゃっていました。

へぇ、そういう考え方もあるんだ、と思いました。

私は昔、「ほんとうに気付きが得たいなら、50mlのボトルとワークしなきゃダメよ。」と言われましたが、確かに考えてみれば本当にそれじゃないとダメだ、とヴィッキーさんも考えたなら、25mlなんて発売しないはずですよね。これだと何にも気付きなんて起こりやしないわよ、と思いながら、ただ小さいサイズのほうがお値段的にも手が出やすいだろうから、ということだけで販売されているのだとしたら、こんなにお客様に失礼な話はありませんからね。

そんなはずはないので、25mlのボトルが出ている限り、それでも気付きは得られるのだろう、と思います。

でもね~

それを聞いてもね~

私にとってボトルとワークする、ということは気付きを得たいから、というのもありますが、単純にそのボトルをゆっくりと体に塗りながらすごすひととき、というものが好きなんですね。

だから、これからも個人的には50mlとのボトルでワークを続けます。

ビタミンBを摂取したい、というときに「あ、それならこのサプリメント飲めば十分よ。」と小さな錠剤を差し出され、確かにビタミンB摂取の目的だけならそれでもいいんだろうけれど、私は豚肉とほうれん草のしゃぶしゃぶを食べながらその食べるという行為そのものを楽しみたい、というのと同じって感じですかね。

ボトルがその人にもたらす気付きはそれはそれはさまざまなものだと思われます。

「セラピス・ベイ」には、すべてのものを見せられる気付きや、浄化という大きな意味がありますが、それだけではありません。

ほかにもいろんなメッセージを含んでいます。

誰が「セラピス・ベイ」とワークしても、同じメッセージがもたらされる、ということはまずありません。

いろんなメッセージがあるなかで、そのときのその人に必要なメッセージがもたらされます。

ですから、「今までの自分の人生を見せられる」ということに恐れおののいていた私ですが、今回の私にとっての「セラピス・ベイ」のメッセージはそういうものではないのかもしれません。

まだほんの23日ワークしただけなのでわかりませんが、今回の私にとっての「セラピス・ベイ」は、とてもすがすがしく楽しいものかもしれません。

でも、「イエロー」のメッセージがもたらすような浮き浮きとしたはしゃぐような楽しさとはちょっと違うなぁ、ということもすでにうすうす気付いてはいます。

ただひたすら自分が純粋な存在になっていく楽しみ、みたいな感じでしょうか。

すっと使い終わってしまう勢いなので、使っている間に「これだ!」という気付きが訪れるかどうかわかりませんが、また何か感じることがあったら、このブログでご報告しますね~




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うかない食事

2011-03-28 09:02:00 | 食・レシピ

日曜日、夕食にダーリンと街へ出かけました。

1週間のうち1日ぐらいは休みをくれ、ということで、私は日曜日はテコでも夕食をつくりません。えぇ、えぇ、テコでも(笑) 

だって、毎日朝から弁当まで作ってるんだからさぁ。1日ぐらい解放されたってバチは当たらんでしょ。

そいで、夕食を外食にしてもらっているのです。

私が楽をさせてもらうための外食であって、豪華な食事をすることが目的ではないので、だいたい庶民的なところにしか行きません。

とはいっても、私たちが住んでいるところは市役所のそばで、こういう日曜日が休みのお役所のそばのお店というのはたいてい役所の営業に合わせているので、同様に日曜日はお休みのお店が多いんですよねぇ。

あっちもこっちもお休みでいつもほんと、困っちゃう。

この日は、チェーン店(といっても、岐阜市内で34軒ほどあるだけかもしれない。)の鉄板焼きのお店に入りました。

鉄板焼きだけのお店かと思っていたら、外に「モツ鍋」のメニュー看板が出ていたので、「こういうのもやってたんだぁ。じゃあ、入ってみようか。」ということにあいなったわけでございます。


入ってみると、広い店内にお客は私たちだけでした。

3人いるホール係のアルバイトと思われる若い女性が手持ち無沙汰そうにしていましたが、入っていくと元気よく「いらっしゃいませ~!」と挨拶してくれました。

初志貫徹でモツ鍋と生ビールを注文すると、付きだしにもやしのナムルがきました。

どれどれ、と口にすると何という塩辛さ! マジ、イカの塩辛ぐらいの味つけです。何か間違えてるんじゃないの!?と思うほど。

このときから(これは期待できないな・・)という暗雲がたちこめはじめました。

そしてやってきたモツ鍋は写真とぜんぜん違う・・・

写真は、鍋の半分がたっぷりのモツで、半分がたっぷりのニラで上にたっぷりと唐辛子がかかっている、というような写真。

やってきた鍋はスライスしたごぼうやにんじんやキャベツなど、野菜の種類こそ写真より豊富だけれど、そのぶん、ボリュームはない。ホルモン自体も圧倒的に少ししかない。

ただ、これは文句を言うほどの代物ではない。

まぁ、野菜たっぷり食べられるし、と思いました。

けれど、あの写真との違いぶりはどうだ、という気持ちはやはりありましたけど・・・

途中、私はお手洗いに立ちました。

お手洗いの場所は、厨房のすぐ横。

厨房の手前にはホール係の女の子たちが調理ができたものをすぐに受け取れるように大きなカウンターがあります。

そしてその後ろには、トイレに行く人が厨房の様子が丸見えにならないようにとの配慮からか、長く大きな暖簾がかかっていました。

女の子たちはカウンターにひじをついて、厨房スタッフとなにやら談笑していました。

内容が筒抜けなのはもちろん、カウンターにひじをついている、というのも暖簾だから、わかってしまうんです。

私がすぐ後ろをトイレに行くために通っている、ということは彼女たちにも気配でわかっているはず。

でも、仲間うちでの談笑をやめようとはしませんし、その言葉遣いや声が席に注文を取りに来るときのものとはぜんぜん違う・・

(ふぅ~ん、普段はこういう言葉遣いと声の子たちなんだなぁ。)と思うといかにお客には営業用を駆使しているのか、というその二重人格ぶりにちょっとおののくほどです。

逆に言えば、すばらしい客あしらい。

私たちが食事をしている間に、玄関の自動ドアが開く音がしました。

あ、新しいお客さんが入ってきたのかな、と思いました。

すると、それはお店のスタッフでした。

お客さんか、と思って、「いらっしゃいませ~!」と言おうとして、カウンターから暖簾ごしに飛び出してきた女の子が、「いら・・」まで言うと、なんだ、あんたか、と言うような無表情な顔に変り、くるりときびすを返すとまた暖簾の向こうに去っていきました。


まぁ、お客さんが利用する玄関の一箇所しか出入りするところがない、というのはビルの構造上仕方が無いとしても、であれば、スタッフもそこから出入りすることになるんだから、そのたびに「いらっし・・・ ・・・なんだ、あんたか。」となるのはちょっと辛くないですか~と思ってしまいました。

出入りしたほうのスタッフも、声をかけようとしたほうのスタッフも・・・
こういうときのために、スタッフだった場合の符牒を決めておけばいいのに。

モツ鍋はホルモンが少なかったために、これだけでは絶対にダーリンはお腹がいっぱいにはなっていないだろうな、と思いました。

「なんか、他にも取る?」とメニューに手を伸ばそうとすると、

「いや、いい。」とダーリン。

「おや、珍しいわね。お腹いっぱいになった?」と聞くと、

「う~ん、なんか、この店ではもういい、って感じ。」と言いました。

やっぱり、ダーリンも感じてたんだ。この店のビミョーな感じ。

先ほども書きましたが、どこといって文句をつけるようなところはありません。

でも、あえて言えば、これが“使われている”っていう人たちばかりで運営されている店でなくて、“オーナーがやっている店”であったり、“任されている”ってことでもっと売上の責任も問われるような人がやっている店であれば、こうはならないだろうな、という微妙な投げやりさ、というか、お客様にちょっとでも気に入ってもらいたい、という努力を惜しまない、というところがないのです。

ただでさえ景気が悪いところへもってきて、東北・関東大震災が起きて、国民全部が自粛ムードのなか、余計に外食は控えるような傾向があるのでしょう。

こんな広い店をお客様が来る来ないにかかわらず光熱費を維持していくだけでもオーナーだったら頭が痛いに違いありません。

満席近くになったら必要になるであろう3人のホール係もいる。その子たちは言われたことは完璧にやるけれど、やはりこれほどヒマでは覇気があがらないのか手持ち無沙汰の様子。

これではいかん! この子たちがヒマなときにも仕事を作ってやらなくては、とか、これをいい機会に、お客さんがいらっしゃったときの対応の仕方、心構えなどを今だからこそ教えておこう、とするのがオーナー店長ではないでしょうか。


唯一いらしているお客さんのひとりがトイレに立った。

「あ、どうぞ。お手洗いですか? こちらでございます。」と案内をさせるとか、そこは通り道だから、私語はさせないようにするとか、カウンターには絶対ひじはつくな、とか、スタッフ同士の挨拶の言葉を決めておく、とか。

作り置いた料理の味見をみんなでするとか。

いくらでも指導することはあるように思うのですが。

そういった、ほんの少しのことが積もり積もって、「この店は、そつがないけれど、2度と来たい、という気にはならない。」という店になってしまうのです。

私にしてみれば、どのみちすごく豪奢で、最高のもてなしを受ける、というほどのことをダーリンとの日曜日の外食に期待しているわけではないですが、少なくともダーリンがうかない表情になり、「うちへ帰ってから、お茶漬けでも食べる。」と言われるようなことでは困るんです!

たとえお茶漬けいっぱいでも、そのお茶碗を洗わなくてはならない、私だけが台所と居間をちょこちょこ往復することになる、というのがもう許せないんです。せっかくの休みなのに完全に休んだ気になれなくて。

だから、私の休みを不完全なものにしてくれたわね、というこの店に対しての怒りがつのってきそうでした。

そんな気持ちになって、向こうからお代金を支払って「よく、うちなんかで食べてくださいました。」といわれるならともかく、庶民的な価格とはいえ、あたりまえですけれど、こちらがお金を支払っているわけです。

それで、ダーリンと私のお互いの間に流れる空気が気まずいような、浮かない気分になってしまっては元も子もない。

お店を経営するってほんとに難しいことだな、と思いました。

少し前なら、このくらいの店はおおいに流行った繁盛店だったかもしれません。

また、繁盛している間というものは、その店のアラが見えにくいものなんです。

でも本当の実力を見ることができるのは、ヒマになったときです。

これから、飲食店にかぎらず、いろんなお店の実力がわかる時代になりそうです。




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テレビというメディア

2011-03-27 08:59:00 | 身辺雑事

男友達とプロ野球開催について激論になってしまいました。

「開幕どう思う?」と言うから、

「私は選手会の言うことのほうがまともやと思う。」と言いました。

まったくの野球オンチの心優しきヒーラーの方々にちょいと説明しますと、プロ野球はいつを開幕日にするかでさんざもめたのです。

それがようやくセリーグ329日、パリーグ412日に落ち着いたと思ったら、今度はナイターについて当面ナイターはやらない、というパリーグと、照明を4割落としてやる、というセリーグに対して、文科省が、「ナイターについては自粛するように」というお達しをしたので、またまたセリーグはどうするんだ、ということになったわけですね。
ちなみにセリーグの選手会は、一貫してパリーグと同じ日程の開幕にあわせるようにと求めていました。

しかし、これも最初はストライキも辞さずか!?というような勢いだったのが、それはしない、決定であればそれに従う、というテンションになってきていました。

そんな折、消費担当大臣の蓮舫さんに直接自粛を求められたこともあって、さらに再考が重ねられ、結局すったもんだしたあげく、セリーグもパリーグと同じ開幕日程にする、ということでようやく落ち着きました。

さて選手会の会長は我が阪神タイガースの新井選手。

そして新井選手は、といえば、広島時代の先輩である金本選手の子分みたいなもの。

これは絶対、金本の意見に染まっているに違いない。

という見方をすれば、選手会がどうしてコミッショナーに反対して、「セパ開幕あわせろ。」と要求していたのかと言えば、被災地の被災者たちのことを思って、に違いない、と思ったからです。

そりゃあもちろん、開幕を遅らせれば遅らせるほど、シーズンの後のほうになって消化するのに大変だし、セリーグとパリーグとで開幕のずれが半月もあれば、両者がそれぞれのリーグで戦い終わって日本シリーズ、となったときにどちらかはすごく待たされてもう調子狂っちゃうわ、ということになるでしょうし、続けてすぐに日本シリーズというほうも体がしんどい、ぜんぜん休みがない、というなかでの強硬スケジュールですからそれはそれで大変でしょう。だからその理由ももちろんあるとは思いますけれど、それ以上に、金本選手は、

「今はまだ、野球で被災者の人たちを励ます、というレベルじゃないでしょう。食料は足りてない、水は足りてない、トイレは満足な状況じゃない、というライフラインが整っていないなかで、野球をがんばってやる姿を見て、励まされるなんてこと感じませんよ。まだそれは復興の次の段階に進んでからですよ。」と言っていたのです。

しごくごもっともな意見だと思います。

それをその巨人ファンの野郎は、

「いや、やるべきだ。戦時中だって野球はやっていた。どんな避難生活をしていたってそこにある程度の楽しみは必要だ。」と言うので、

「だって、まだ行方不明者とか、一家離散でどこの避難所に家族がいるのかわかってない人たちだってたくさんいるんだよ。少しでもそういう人たち写してあげたほうが1人でも多く、家族が見つかるんじゃない?」と言うと、

「それは極論だ。そういう番組ばっかり24時間流すわけじゃないし、大丈夫だ。いまだに津波の映像なんか写している暇があったら、野球はやれるはずだ。」と譲りません。

「しかしね~ 私ら野球好きだから、そういう気持ちになるだけで、いろんな娯楽を知った今の日本人は、プロ野球選手が一生懸命プレーする姿で癒される、って一律にそうは思わないと思うけどね~ ちょっとの息抜きや安らぎが必要だっていうんなら、私は歌番組のほうがいいわ、いや、俺は、旅番組がいい、とか映画のほうがいいとかいろんな意見があるんじゃないのぉ。少なくとも私なら、もし自分の家族とばらばらになってる状態だったら、野球見たいとは思わないね。」と言いました。

でも、とふと思いました。

テレビはしょせん、スイッチひとつでオン、オフが出来るわけです。

嫌だったら、見なければいいだけではないか、とそんな単純なところに気づきました。

楽しみにしている人も多い、と思われるなら、やるだけやって、見たくない人は見なければいいだけのことではないか、と。

あーでもない、こーでもない、とテレビの番組について傍からああだ、こうだと言うこと自体が余計なおせっかいなだけだわね、と思ったのです。

そう言うと、その男友達も急に風船がしぼんだようになり、

「そうだよな。」と言いました。

でもしばらくして、ちょっと待てよ、やっぱりほんとうにそうかな、という気になりました。

テレビは本当に茶の間の人間に選択の権利がある情報機器なのかな、と。

昔はそうだったかもしれません。

昔というのは、私が幼いころ。「オールウェイズ3丁目の夕日」の世界。

そのころ、「テレビ」がある家は“お大尽”でした。(お金持ちってことです。)

テレビのブラウン管の前にはゴブラン織りの仰々しいカーテンのような垂れ幕がかけられて、見ないときには必ずそれでブラウン管を覆っており、家電などではなく、重厚なインテリアでした。

そして力道山の試合のように国民的に関心を集めているスポーツの試合などの場合は、近所中の人がそのテレビがあるお宅に集まって、まるで映画館のようにきちんとテレビの前に正座して見ていたのでした。

あちこちで思い思いにくつろいでせんべいでもかじりながら、なんてことはありません。テレビ様さまだったのです。

こんな時代であれば、情報の取捨選択も見る側のほうに確かにあるでしょう。

しかし、今やテレビはBGMならぬBGL(バック・グラウンド・ランドスケープ)なのではないかと思えます。

とりあえず、つけておく。とりあえず、そこにある、というだけの家具。

そんなテレビからは情報はダダ漏れの垂れ流し状態です。

普段は見るともなく見ていて、誰もその存在の重要性に気づきません。しかしちゃーんと「これは真剣に聞かなくては・・!」という情報のときだけは耳に入ってくるようになっている。地獄耳ってやつですね。

そして、町のいたるところにテレビはあふれている。

銀行や役場のロビー。

病院や駅の待合室。

スーパーや家電量販店のテレビ売り場ともなれば、10数台のテレビがつけたままの状態になってけたたましく私たちに向かって、何かを叫んでいます。

こんな環境の中で、果たして「見ない」という意志を通すことができるのか・・?

できないとしたら、やはりプロ野球をやるのかやらないのか、やるとしたらいつからやるのか、どんな時間帯に?ということはそれを“見たくない人”も必死になって議論に参加しないといけないことになるのかもしれません。

今は、心無いCMを流すべきではない、ということで、非常に偏った一部のCMだけが流されていますね。だから、同じCMばかりを何度も何度も見ることになります。

そのなかで、仁科明子さん親娘が登場する「子宮頸がんの検査を定期的に受けましょう。」というものがあります。

そのCMについて、仁科さん親娘の元に直接、「大量に流しすぎだ。」「見ていて不愉快だ。」「検査をすすめるCMなんて、今のご時勢に合わない。」という苦情が多々寄せられているそうです。

それに対して、仁科さん親娘は自身のブログで、「心を痛めているけれど、私たちにはどうしようもない。」と綴っているということです。

・・・そりゃそうだろー。

仁科さん親娘はCMに“起用”されただけだもんね。

まさかテレビを見ている人たちの中に、「あれは仁科さんが自分でCMを出したのだろう。」と思ってる人はいないと思うんですが・・・

それでも、出演している本人に訴えたほうが話が早いだろうと思って、直接ご本人にそういうことを言うんですかね。

信じられない。

こういうのこそ、仁科さん親娘にとってみれば、“風評被害”って言うんじゃないのぉ。

しかし、テレビというメディアがあまりにも私たちにとって身近なものであるだけにすでに「見たくなければ見なければいいだけ。」という選択の余地があるメディアではなくなっている証拠でしょうね。

つまり、余計なおせっかいにならないと生きていけないわけですね。

へんな世の中だなぁ。と思います。

昭和30年代ごろのほうが、人間がちゃんと主役で、選択権を行使しながらテレビのスイッチをコントロールしていたような気がする。

今は、テレビのほうが主役になってしまったかのように、流されることでみんながやいのやいの「これは流すべきだ。」「いや、流さないべきだ。」と言わなくてはならないのです。

まずは、そのことに声を上げること自体が本当に必要なことなのかどうか、からちょっと考えてみたいと思いました。




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