ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

名前セラピー

2014-06-30 09:04:00 | 本と雑誌

 

人生が100倍楽しくなる 名前セラピー 人生が100倍楽しくなる 名前セラピー
価格:¥ 1,404(税込)
発売日:2009-07-24

「名前セラピー」という本を読みました。

 

この本のまえがきに書いてある言葉にドキッとしました。

 

そこにはこう書いてあったのです。

 

自分の名前が嫌いだという人の多くは、親を受け入れていませんでした。

 

そして、それは結局自分を受け容れていないということにつながっていたのです。』



私はずっと自分の「恵津子」という名前が嫌いでした。

 

小さい頃、

 

「あなたに名前をつけるとき、『真理子』にしようか、『恵津子』にしようか迷ったのよ。

 

でもほんとにあなたは生まれたときから真ん丸だったからねぇ・・

 

『真理子』って名前にしたら、丸いから真理子だったんだな、と思われると思って、恵津子にしたんだよ。」

 

と親から聞きました。

 

その話が出るたびに私は、

 

「なぁんだ。真理子のほうがよかったのに。」

 

と言いました。

 

『恵津子』よりは『真理子』のほうがまだ響きがいいと思ったからにすぎませんが、自分たちが考えに考えてつけた名前じゃないほうがよかった、と聞いて親は少なからずショックだったかもしれません。

 

今でこそもう何も感じなくなりましたが、それでももろ手をあげて自分の名前が「好き!」と言うにはいたっていません。

 

それは親を受け入れていないからか・・・

 

そしてそれは究極には自分を受け入れていないってことなのか・・

 




考えてみればこの世にわが子が誕生して、「この子には不幸になってほしい」と思って名前をつける親なんていません。

 

我が子に「幸せになってほしい」と思って名前を付けたに違いありません。

 

だから名前は親から最初にもらう最高のプレゼントだったんですよね。

 

そして名前に誇りを持って自分らしい生き方をすることこそ、究極の親孝行ではないか、とこの本には書いてあります。

 

自分の名前を受け入れるとは、親を受け入れること。

 

親を受け入れることは、親を通して何億年と脈々とつながってきた血とつながることになる。

 

つまり、自分の原点(ルーツ)を受け入れること。

 

心を受け入れると書いて「愛」と読みます。

 

受け容れたら、それは愛になる。

 

だから名前を好きになった瞬間から運命が変わる。

 

・・・・とまぁ、このようにこの本のまえがきには書いてあったのです。



どりゃ、一丁、この本を読んでみて私が自分の名前を好きになって、そして親を受け入れることができるようになるかどうか試してみようじゃないの、とこの本を手に入れたのでした。

 

読んでみてわかりましたが、この本は、自分の名前の「読み解き方」についてつらつらと説明してある本ではありません。

 

そして読み解いた結果、ほぅら、こう考えればそれがそのままセラピーになるでしょう? 癒されたでしょう? という書き方をしてある本でもありません。

 

ですので、それを期待なさった方は裏切られると思います。(あたしだよ)

 

名前につかわれている言葉の音韻には言霊が宿る。

 

その意味、働き、効果などが事例とともにあげられている、という本でした。

 

だから名前といっても、漢字は関係ないんですね。

 

あくまでも発音した場合の「音」です。

 




私の名前、「恵津子」の最初の字、「え」には、「枝」と言う意味があるそうです。

 

「枝」は枝分かれをしながらだんだんと広がっていくことから、「発展・成長・繁殖をあらわす。」とのこと。

 

これが最も人に影響を与える私の本質らしい。

 

ふぅ~ん、確かに私は全く何もないところから何かを創り出す、生みだすよりは既存のものに手を加えて改善していき、発展、成長させるほうが似合っていると自分でも自覚しています。

 

だから発展、成長はまだしも、「繁殖」なんて私の人生で最も縁がなかったことではねぇーの。

 

どうなっちゃってんだろ。



そして2番目の「津」は、花を咲かせる土台となる部分。

 

本人が幸せになる幸せポイントだ、とのこと。

 

この「津」はまさにこの漢字のまま、「津」という意味が宿っている。

 

これには「集う」とか「集まる」という意味があるそうで、「都」が由来だそうだ。

 

そして「つ」という言霊をもつ人が仲間に入ると、ものや人、情報が集まりやすくなるので、整理整頓と優先順位をつけることが大切、ということ。

 

何が必要で何が不要かを整理しないとせっかく集まったものをつぶすことになり、宝の持ち腐れになるそうです。

 




親はこういう意味を込めたくて、私に「津」という字を使ったんだろうか?

 

だとしたら自分たちにはないものを子どもに求めたんだな。

 

何と言っても私の親は両方とも人付き合いが苦手。わずらわしいもの、と思っているフシがある。

 

人と人との付き合いにはどうしてもお互い感情というものがあるから、自分だけのいいようにはできない。

 

なぁなぁ、とか要するにウエットな部分が出てきますね。

 

それがうちの親たちは大嫌い。大の苦手。

 

はっきりと思考で線引きしたいタイプ。

 

ドライに割り切ったほうがどれだけラクか、というタイプ。

 




1つ例をあげるならば、親はずっと大衆居酒屋をやっていますが、こういう商売をしているとたまに気のいいお客さんから、

 

「どう? 大将も一杯飲まないかい?」

 

とお酒をすすめられることがあります。(まぁ、今の世の中、めったになくなりましたけれどね。昔の居酒屋ではしょっちゅうありました。)

 

それをうちの父は受けたくないわけです。

 

どんなに喉が渇いていて、確かに今ビールコップ1杯飲んだら気持ちいいだろうなぁ、と思っても受けたくない。

 

人から施しは受けぬ。

 

飲みたいなら自分の金で飲む、ってタイプなんです。

 

それともう1つには、「この人」から受けたのなら、「あの人」のも受けねばならない、というケースになった場合困る、というのがあります。(もうそれ以上飲んだら酔っ払っちゃって仕事にならない、とかね。自分の許容量を超えちゃう、とか。)

 

「なに、俺の酒が飲めねぇ、っていうのか。」

 

って状況になったら困る、ってやつですね。

 

仕事中ですからそうそう何ハイも飲むわけにはいかないわけですけれど、受け時、断り時がわからない、ってやつです。

 

だったらハナから全部断っちゃえ、ってことなんです。



そういうことでうちの親が編み出したのは、

 

「すみません。下戸で飲めないんです。」

 

ってすべての人の申し出を断る、ってことでした。

 

これならば問題はない。

 

しかし、休日などどこかへ外食に行ってビールを飲んでいたりすると「ありゃ、しまった。うちのお客さんじゃないか。」と出会ってしまう、ということがありました。

 

だから外食時にも飲まない。

 

これは結構ストレスですよ。

 

それでも申し出を断るためならいとわないわけです。(もう、実は飲めるんだ、ってことをここでバラしちゃいましたけどね。まぁ、いいんです。もう今どきは、誰も「大将、一杯飲めよ。」って言わなくなりましたから。)



こういう人の周りには当然、人は集まりません。

 

どれだけ「空気読めないヤツ」と言われてもいい、「雰囲気壊すヤツ」と言われてもいい、とにかく割り切ってドライにいきたいんだ、って趣味を守り通すわけですからね。

 

しかし、子どもには「周りに人が集まってほしい」という名前をつけたんだ。

 

これ、どうよ。

 

自分はイヤだけれど、子どもにはそうなってほしい、って・・・

 




私自身、こういう親のもとで育てられたせいで、決していつも身の回りに人がわらわらいる、という状況が好きではありません。

 

一人っ子ですし、ひとりの状況に慣れてもいる。

 

先日も軽井沢に行ったという話を書きましたが、時折、「おひとりさま」で行動するととてつもなく浄化されたようなすがすがしさを味わうくらいです。

 

かといってとんでもなく無愛想でも孤独を好むわけでもないんですが「来る者は拒まず」なんて鷹揚な心は持ち合わせていません。

 

むしろ人の好き嫌いは激しいほうです。(これでも昔よりはずいぶん、いろんなタイプの人を受け入れられるようにはなりましたが)

 




そもそも自分の嫌いなことを子どもには押し付ける、ってどうなの?

 

小さい頃から育てる過程においても、

 

「私自身はそういうタイプではないし、あなたの周りにいつも人が集まってくるような育て方も出来ないけれど、あなたは勝手にそういう人に育ってほしい。」

 

ってことでしょう?

 

そんな虫のいい話はないわけで。

 

小さい頃に自分の周りにいる大人を見てそこから学ぶ子どもとしては、親がそういうタイプならやはりそうなるよね。

 




自分はやりたくない、そういう状況も嫌いだけれど、あんただけはやってね、そういう状況好きになってね、というそんな虫のいいことを私の名前に託したのでしょうか。

 

そう思ったら、名前の由来を知ることで親を受け入れるどころか、かえって拒絶する気持ちがまた湧いてきてしまったのでした。

 

しかしそうは言っても、この名前に私の課題が隠されているのかもしれません。

 

私が自分の周りに情報やものや人が集まってくることを受け容れられるようになったとき、あるいはそういう状況を作ることにポジティブに取り組めるようになったとき、本当の意味で親を受け入れ、自分を受け入れることができるようになるのかもしれませんね。

 

ひゃっ、いつになったら私は自分の名前が好きになれるのでしょうね・・・



メニュー、料金、オーラソーマってどういうもの?ということをもう少し詳しくお調べになりたい方は、「HP 些々羅」をクリックしていただき、「オーラソーマ」のナビゲーションから、お知りになりたい項目をご覧になってください。

そこに直接「予約フォーム」に入れる表記があります。

ブログ左肩の「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」をクリックしていただきますと、最新の「営業案内」を見ることができます。

ご予約はメールにて受け付けております。

「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」は、岐阜市中心街にあるサロンです。(岐阜市役所南庁舎すぐ近くです。)

些々羅では製品1品から全国送料無料にて承っております。(※製品の大きさによって通常郵便か宅配便になるかはこちらで決めさせていただきます。ご指定はできない場合がありますので、ご了承ください。)

 


お金の存在を手放す

2014-06-29 09:06:00 | 身辺雑事

 

うちの両親は79歳の母と87歳の父とで、まだ大衆食堂を営んでいます。

 

つまり、彼らにはまだ収入がある、ってことです。

 

しかもそのうえ年金も手に入る。

 

いずれ、別口で収入がある人には年金の支給を遅らすという時代になるでしょうが、彼らは年金については“最後の優雅な世代”になるかもしれない。

 

いずれにしてもダブルインカムということで(別に悪いことをして手に入れた不労所得ってわけでもなんでもないですけれどね。れっきとした収入なんですけれどね。)、彼らは結構リッチです。

 




そういうわけで、彼らはここ2年ほどですが毎年、年初めに私に何十万円かのおこずかいをくれるようになりました。

 

年金をとっておいたものの一部でしょうね。

 

相続税がかからないように、ちびちびと生前贈与しておこうということなんでしょう。

 

その意図をくみ取ってありがたくいただくものの、私はこのお金を使えない。

 

彼らの血と汗の結晶かと思うと使えない。



彼らにしてみればどう使おうとあげたもの、文句は言わないからいいよ、と言うでしょうが、実際にはたとえば、たとえばですよ、私がそのお金を競馬の1レースにぱぁ~っつとつぎこんじゃって一瞬にしてただの紙屑になったよ、アハハ、って言っても彼らは、

 

「そうか、そうか。あげたものなんだからどう使おうといいよ。」

 

ってニコニコしているだろうか。

 

そんなはずはない。

 

やはり心穏やかでないに違いない。

 

彼らはきっとこのお金を“とても有意義な使い方”で使ってほしいと思っていることだろう。



では“有意義な使い方”ってなんだろう・・?

 

きっとそれは、「そのお金がなくても別に十分にやっていけるし、使わなければ使わないで構わないんだけれども、そのお金を使うことによってもっとそのお金が増える可能性があるとか、私の人生が豊かになる」っていうことだろうな・・と私は考える。

 

それって具体的にはなんだ?

 

ただの定期預金じゃ利率があまりにも低いから、新規事業に投資するような株でも買うか?

 

飛鳥Ⅱで旅行に行こうなんてことになったとき、部屋をデラックススイートに格上げすることか?

 

なんかどれもピンとこないな・・

 




いずれにしても、彼らがせっせと汗水たらして貯めたお金を彼らはあくまでも“私の人生が豊かになるために”使ってほしいとは思っているだろうな、と私は想像するわけです。

 

決して、“ダーリン”や“娘”や“孫”のために、ではないだろう。

 

私の結婚があまりに遅かったために、きっと私の両親にとっては、相変わらずダーリンおよびダーリンのほうの血縁のもろもろの人々は、“赤の他人”に過ぎないことだろう。

 

その赤の他人に、自分の娘にやったつもりの金が結局回ってしまっている!となったら両親は面白くないことだろう。

 




そう思って私はこのお金の存在をダーリンには言わずにいます。

 

言ったら言ったで確かに男ってすぐに目先のラクなことに流れるってところがあるから、

 

「あ、そんなお金があるなら、今月の資金繰りにちょっと貸して。」

 

とか当てにされてしまいそうだから。

 

そんなものはもともとなかったと思って頑張ってもらわなくては。

 




そうして、私はそのお金をわかるように別通帳を作って入れたまま、手を付けていません。

 

ま、いずれどうしてもそのお金が必要になるときもあるかもしれないからそれまでは取っておこう。

 

いや、でも内心では両親の目の黒いうちは使えないな、と思ったりもしているんですが、ね。



それが、ある日ふと、

 

「あれ、本当に使う日がくるのか?」

 

と疑問に思ったんですね。

 

私は、“何か有意義なこと”の正体がひらめくまでは、とか、両親が諸手をあげて「そうだ! その使い方なら金も喜ぶだろう。やった甲斐があったというものだ。」というまでは、とか、両親が亡くなったら使っちゃお、とか思っていたわけだけれど、そんな日って本当に来るのか?と心底疑念を抱いたわけですね。

 

ここ2年ほど“有意義なこと”の正体がわからずにいるのに、それが今後わかるような日がくるというのか?

 

いいや、今わからないものは永遠にわからない、と思う。

 

両親が死んだらもう彼らに使い途のことであれこれ言われなくてすむだろうから(別に今だって言われないんでしょうけれど)、それからにしようったって、それから何に使うんだ?

 

もう両親の目が光ってない、と思ったときおまえはほんとうに屈託なくなんにでも使っちゃえるのか?

 

いいや、今使えないものは永遠に使えない、と思う。

 

・・・・んじゃ、結局使えないんじゃないか。



使えないものを持っていたって仕方がないから手放したい、と思いました。

 

少し前にこのブログでも紹介した、ゆるりまいさんの「わたしのウチにはなんにもない」という漫画では、彼女の捨てる基準は、「“今”の私に必要あるか?」でした。

 

私はこの基準に深く同調します。

 

去年かおととし流行った近藤麻里恵、通称コンマリさんの「人生がときめく片づけの魔法」では、捨てる基準を必要か必要でないかという合理性に求めず、「そのモノにときめくか、ときめかないか」で決めなさい、というものでした。

 

これは聞いたときには「なるほど! 新しい!」と思いましたが、すぐにこの基準じゃ結局何も捨てられない、と気付きました。

 

というのは、人というのは“思い出”にときめいてしまうからです。

 

「これ、今はもうときめかないけれど、買ったときにはすごくときめいたんだよなぁ。」という。

ほんとうなら、”今”ときめかないのなら、やはり捨てるべきなのでしょう。

けれど「ときめくかときめかないか」という基準だと、「かつてはときめいたんだよなぁ・・」という”思い出”にときめいてしまって捨てられない。

 

 

「この服、今はあまり着ないけれども、素材がすごくよくて素材にはときめくんだよなぁ。」なんて。

”ときめく”パーツを一生懸命探そうなんてしている自分に気付く。

 

だからあくまで基準は“いま”にしなくてはダメだ、と思いました。



そういうわけで“今”の私に必要ないお金はきっとずっと必要ないだろう。

 

かといってお金を「捨てる」わけにもいかないので、それはもうないもの、と思って私の頭のなかでは「手放す」ことにしました。

 

そうしたら、きっと「必要だ!」と思うときがもしきたら、その存在がアピールしてくることでしょう。

 

はぁ~

 

たかが何十万のお金のことだけれど、ものすごくこの存在、この落ち着きどころに対しては思考、その結果の時間を使わされたなぁ。

 

そのほうがよほどもったいない、って気がする。

 

だけれどそのおかげで気付きがあったんだから、ま、いっか。

みなさん、最近では子どものためにいくばくかのお金を残すということはせずに、死ぬまでにきれいさっぱり自分でぱぁ~っつと使っちゃいましょう、という気風になっているように思いますが、それは「子供の人生は子どもの人生、私がお金の面で気にかけてやる必要はない。」ということに端を発していると思います。

でも実際にはもう一歩さらに踏み込んで、「あげないほうが本人のため」なんだ、と思います。

どうやってこのお金を意義あるものとして使おう、と考えると人からもらったお金って使えないですよ、ほんとに。

使えないものをあげたって無駄になるだけだから本人のためにもならなければ、世間のためにもならない。

その存在が埋もれてしまうわけですから、大きな意味でいえば、まったく経済に貢献しない、ってことになります。

だからどんどん自分で使っちゃいましょう。








メニュー、料金、オーラソーマってどういうもの?ということをもう少し詳しくお調べになりたい方は、「HP 些々羅」をクリックしていただき、「オーラソーマ」のナビゲーションから、お知りになりたい項目をご覧になってください。

そこに直接「予約フォーム」に入れる表記があります。

ブログ左肩の「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」をクリックしていただきますと、最新の「営業案内」を見ることができます。

ご予約はメールにて受け付けております。

「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」は、岐阜市中心街にあるサロンです。(岐阜市役所南庁舎すぐ近くです。)

些々羅では製品1品から全国送料無料にて承っております。(※製品の大きさによって通常郵便か宅配便になるかはこちらで決めさせていただきます。ご指定はできない場合がありますので、ご了承ください。)

 

 

 


スポーツの世界で

2014-06-28 09:01:00 | スポーツ

W杯、日本がグループリーグで敗退してしまったせいもあって、私的にはもう全然盛り上がってないんですけど、それでも日本人はサッカー好きになったなぁ、とは思いますね。

今回のW杯を見ていて思ったのは、「世界ってすごいなぁ。」ってこと。

 

正直、キングカズぐらいしか有名ではなかった時代に比べたら、今の日本代表たちはみんなすごいと思います。

 

どんどんレベルも上がってきていると思います。

 

けれど、それでも予選突破ができないんだもんなぁ。

 

それに比べると2006年から行われた野球のW杯ともいえるワールドベースボールクラシックでは日本は2大会続けて優勝して「日本ってやっぱり強いんだなぁ!」なんて思ったけれど、それは野球がいかに世界各国でメジャーではないスポーツなのだ、という証明でもあるわけで・・

 

だって2006年のときなんて参加国がたかが13か国だもんねぇ。

 

もっともっと世界中で親しまれるサッカーのようなスポーツになったとき、日本がそこまで強いかどうかはびみょーになってくるのかもね。



さて、W杯を見ていて日本の選手たちにインタビューをすると、必ず出てくるセリフに次のようなものがあります。

 

「自分たちのプレーができなかった。」

 

これは勝ち負けそのものにこだわるよりも、「自分の本来持てる力が発揮できなかった」ことへの悔しさを語るものとしてよく使われます。

 




私はこのセリフを聞くたびに奇妙な感覚にとらわれました。

 

「??? そりゃ、負けたならそういうことでしょ。

 

そもそも勝つということは『相手のペースにさせない。』ということでしょうから。

 

相手のペースに持ち込ませず、自分たちのペースで試合運びができる、ということが勝つチームの条件だろうから、負けたチームが自分たちのプレーが出来なかったのは当たり前でしょ。」

 

と思いました。

それを「負けても、自分たちのプレーが出来たのなら、まだ満足も出来たんですけどねぇ。」っていうニュアンスで言われてもそもそも違うでしょ、って思ったんですよね。

 

だから、「なぜ、自分たちのプレーができなかったのか」、という分析を述べるならともかく、「自分たちのプレーができませんでした。」とだけ言われてもねぇ、そりゃそうでしょ、それはこっちも見てればわかるしぃ、みたいな感覚だったわけです。



まぁ確かにまれにはお互いのいいところを存分に出し合って、その結果、勝負は気まぐれな女神によって決まる、ということもあるでしょう。

 

でもたいていは「相手のペースにさせない」という試合運びこそがうまいチームのうまい所以ですよね。

 




そしてこういう言い方ってひょっとしたら日本人特有のものじゃないのかなぁ、という気がしました。

 

あるいは農耕民族に顕著にみられるものかな?

 

どんな手を使おうが相手を倒したほうが勝ちなんだ、という狩猟民族とは違って、「相手」ではなく、「おのれ」に打ち勝てたのかどうかを評価する、という人生観。

 

狩猟民族か農耕民族かじゃなくて、仏教観なのかなぁ。

 

でも私はこれが、スポーツのように明快に「勝負」を求められる場に持ち込むことに抵抗があって・・



そうしたら、つい先日、こんなことがあったんです。

 

先週の土曜日のこと、孫の保育園での運動会でした。

 

家族総出で見に行きました。

 

保育園って0歳児から6歳までいるからその体格の違いにはびっくりします。

 

へぇ、孫もすぐにこんなに大きくなってこんなこともできるようになるのかなぁ、なんて。(2歳児の今はとてもそんな気がしない・・)

 

小さい子のダンスの可愛いこと!

 




さて、それぞれの年齢別にかけっこがあったのですが(小さい子は保護者と一緒にとかちゃんと工夫されています。)、そのときに気になることがありました。

 

かけっこなどはっきりと「こっちの子のほうが速かった!」というように勝ち負けがはっきりするものであっても、「ハイ~! ○○ちゃんの勝ち~!」とか、「白組の勝ち~!」とかの放送はされません。

 

それは今どきの教育として聞いてはいました。

 

だから気にしてはいませんでしたが、かけっこを実況中継している保育士の先生の言い方が気になりました。

 

その方特有のものなのか、誰が実況中継してもそんな感じの保育園の方針なのかは知りませんが、かけっこで負けた子に対して、

 

○○ちゃんは練習ではもっと早かったよね。今日は、あがっちゃったかな~」とか「△△ちゃんはいつもはもっと出来るのに、お母さんのほうばかり見ちゃってたからそっちに気を取られちゃったんだね。」という言葉をかけていたんです。

 




つまり、

 

「この子の普段の力はこんなものではないんだよ。」というフォローのつもりみたいなんですが、これってフォローって言えるのか・・・?とちょっと私は疑問に感じたのでした。

 

「いつもはもっとできるのに」と言ったって、肝心の「運動会」という日にその力が発揮できなければ仕方がないではありませんか。

 

できていることを褒めてあげなければ意味がない、と思ったのでした。



保育園という2歳か3歳からこういうことを言われて育った子にとっては、もう産まれたときから「本番に弱い子」という刷り込みが行われているような気がしてなりません。

 

実際、オリンピックとか今回のW杯のような世界のひのき舞台で日本選手というのは日の丸背負ってしまうがゆえにあがってしまって本来の力を発揮できないことが多いと言われてきました。

 

それには幼いときからこういう教育を受けてきた、という背景があったのかも、と思いました。

 

私も含めて、ね。

 




だからひょっとするとスポーツ選手にとっての「己に打ち勝つ」や「自分のプレーに徹する」は、過去の「本番に弱い子」という刷り込みのトラウマをいかに追い払うか、ということなのかもしれません。





メニュー、料金、オーラソーマってどういうもの?ということをもう少し詳しくお調べになりたい方は、「HP 些々羅」をクリックしていただき、「オーラソーマ」のナビゲーションから、お知りになりたい項目をご覧になってください。

そこに直接「予約フォーム」に入れる表記があります。

ブログ左肩の「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」をクリックしていただきますと、最新の「営業案内」を見ることができます。

ご予約はメールにて受け付けております。

「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」は、岐阜市中心街にあるサロンです。(岐阜市役所南庁舎すぐ近くです。)

些々羅では製品1品から全国送料無料にて承っております。(※製品の大きさによって通常郵便か宅配便になるかはこちらで決めさせていただきます。ご指定はできない場合がありますので、ご了承ください。)

 


むくむくと片づけたい欲が湧きあがってきてます

2014-06-27 09:08:00 | 本と雑誌

 

なんとなぁく、ですがこの先自分が再出発(? なんでいったん線引きしなくてはいけないのか、自分でもよくわからないですが)するためには、家のなかを徹底的に片づけて整理して大掃除しなくちゃ!という気持ちになっていた私でした。

 

そんな大がかりなお片付け&掃除に取り組みたくなってムズムズするときが私の場合、1年に1、2回訪れます。

 

そして若いときのように1日か2日で一気に片づけるパワーはないので、せいぜい私はそれを「下半期の課題」と位置付けていました。

 

要するに年の瀬も押し迫ってから「大掃除しなくちゃ!」と焦るのではなくて、そのときには「へへん、余裕のよっちゃんだい。今年はもうすでにやっちゃったからね~、年末にはいつもと同じ掃除をちょいちょいとすればいいんだよん。」という状態にしていたい、ってことなんですね。



で、取り組もうとしてハタといつも戸惑うのは、

 

「いったいどの程度捨てればいいんだ?」

 

ってことです。

 

そんなこと他人に聞いてわかることでないのは百も承知のうえで、「いったい片づけ上手の人っていうのはどの程度捨ててるんだろう?」というのがずっと気になっていました。

 

捨てて後になってから「しまった~! やっぱりあれ必要だった。」と後悔することはないんだろうか?とか。



ちなみに私の場合は、洋服に関しては比較的捨てられるようになりましたが、それ以外のものとなるとあまり捨てていないなぁ。

 

「捨てられない人」だとは自分のことを思っていなかったけれど、例えば、ですが、お中元とかでもらった「洋食器セット」なんていうやつ。

 

あぁ、この大きさの器はすでにたんまりあるし、今のところ使わないなぁ、と思ってもまっさらのものを誰かもらってくれる人が見つかるなら別だけれど、その場でさっさとゴミ箱行き、なんて大胆なことは私にはできない。

 

で、棚の奥にしまいこむ。

 

また場所とるんだよなぁ、陶器って。

 

奥のほうにしまいこむから、その存在を忘れる・・

 

数年に1度、「あぁ、こんなところにこんなもの、あったなぁ。」と思うけれどそう思うだけでまた仕舞い込む。

 

こんな具合です。



そもそも私は、「お片付け」と「掃除」をこれまで切り離して考えていました。

 

片づけは片づけ、掃除は掃除、と。

 

だから片づけはヘタなほうかもしれないけれど、せめて掃除をもう少し好きな人になりたいものだ、と思ってここ1年くらいは努力してきたんですよね。

 

けれど、そうして掃除をしているうちに気付きます・・

 

いかに片づけができていないところを掃除するのが面倒なのか、ということに。

 

モノがあふれかえっていなければもっとこの場所、お掃除やる気も湧くのに・・と思う箇所がどれほどあることか・・!



そしてそんな私が次にとった行動というのが、モノは捨てずにそれをしまう収納を増やす、ということでした。

 

たとえばテレビのリモコン、エアコンのリモコン、携帯のバッテリーなどはついテーブルの上に散らばりがちですがまとめて収納BOXのようなものに入れておくと便利ですよね。

 

あぁいうたぐいのことを徹底的にやるというものです。

 

ダイニングテーブルの上にいつも出しっぱなしになりがちな調味料などは、エステ用のワゴンを買って収納する、とかね。(エステ用のワゴンは横にいろいろとオプションで引っ掛けることができるようになっているのでキッチン用のワゴンよりよほど便利なんですよ。下段を米びつとして使うとかね。)

 




こうするとモノの量は変わらなくても何となくすっきりはしますよね。

 

で、一時的には満足するんですが、やっぱりもっと掃除しやすくするためにはモノ自体を捨てなくちゃなぁ、というところに行きつくんです。

 

そんな私が出会ったこの本。

わたしのウチには、なんにもない。 「物を捨てたい病」を発症し、今現在に至ります わたしのウチには、なんにもない。 「物を捨てたい病」を発症し、今現在に至ります
価格:¥ 1,080(税込)
発売日:2013-02-28

 

ゆるりまいさんの漫画、「わたしのウチにはなんにもない」。

 

この人はすごかった・・

 

そして私のこれまでの「片づけ上手って言う人はいったいどの程度捨ててるんだろう・・?」という疑問にバシ~っと答えてくれました。

 

この人はご自分でもおっしゃっていますが、究極の「捨て王」ですからね。

 

この人以上はいない、と思ってこの本を見ていると、ふんふん、ここまではできないが、じゃあ、私も長年迷っていたアレを捨ててみようかな、なんて勉強になります。



この人の家はすごいです。

 

「ホテルみたい」を通り越して、著者の友人などもおっしゃってますが、「モデルルームみたい」です。

 

要するに、なんんnnnnっ~~~にもない。

生活感というものがかけらもない。

 

もう、ひたすらがら~んとした家。

 

ここまでモノがなくて生活できるのか?というような家。

 




著者がここまでになった理由としては、東日本大震災を経験し家が崩壊し、引っ越しをされた経験が大きいようです。

 

彼女の家はとても住めるような状態ではないほど歪んでしまったけれども「倒壊」したわけではないので、地震が落ち着いてから引っ越し先に持っていくモノを取りに帰ります。

 

そのとき、「えっと・・ あれはどこへしまったんだろう?」とどうしても見つからないものがあったり、必要最小限のものだけでいいや、と多くのものをあきらめました。

 

するとびっくりするくらい少しの荷物ですみ、「人ってこれだけで暮らしていけるんだ・・」という気付きがあった、ということです。



彼女の捨てっぷりはすさまじく、大物でいえば、ソファ(掃除のとき邪魔になるし、部屋が狭くなるから、という理由)、リビングのテーブル(そもそも、ん? なんであるんだ、と思ったらしい。ダイニングテーブルがあるんだから、食事をしたあとにさらにくつろぐときにはもう別のテーブルなんていらないだろう、ということのようです。)、ファンヒーター(エアコンで済むから。灯油買ったり、給油したりが面倒だから、という理由。)

 

小物類で言えば、卒業アルバム(これにはたいていの人が引くらしい。そりゃそうだよね~ でも見返すか?と言われれば確かにね・・)、ボウル・ざる類(1つあれば十分だ、ということで)、キッチンタイマー(携帯で代用できる)、etc.etc.



小物類では私もそう思う!とか、うちでもそう思ってハナからそれはないよ、というものもありました。

 

たとえば、熱い鍋をもつためのミトン。ふきんで代用できる、とハナからうちにもない。

 

洗い桶。少々水を使うことになるかもしれないが、貯めておいた水に漬けておく、というほど放っておかない、すぐに洗っちゃう。

 

計量スプーン。ふつうのカトラリーとしてのスプーンで十分。そこまできっちりとした計量が必要な料理やお菓子などは作らない。

 

・・・とまぁ、こんな具合です。



しかし、私は彼女ほどの家にあこがれるわけではありません。

 

さすがにモデルルームのような何もない家だとかえって落ち着かない、っていうほうのタイプです、私は。

 

けれど、掃除しやすいっていうのはいいなぁ、と思うし、私にはここまでだな、というボーダーラインもこの極端な人の話を読んでいてだいたいわかってきたし。

 

っていうことでこれからは長期戦覚悟でできるだけ捨てる生活に入ります。(・・ただね。不安なのは、多くの片づけ術の本を書いてる人が言うのは1週間ぐらいをメドにお片付けっていうものはいっとき集中してズドーンとやっちゃいなさい、って書いていること。長期戦だと確かにダレそうだなぁ・・)










メニュー、料金、オーラソーマってどういうもの?ということをもう少し詳しくお調べになりたい方は、「HP 些々羅」をクリックしていただき、「オーラソーマ」のナビゲーションから、お知りになりたい項目をご覧になってください。

そこに直接「予約フォーム」に入れる表記があります。

ブログ左肩の「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」をクリックしていただきますと、最新の「営業案内」を見ることができます。

ご予約はメールにて受け付けております。

「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」は、岐阜市中心街にあるサロンです。(岐阜市役所南庁舎すぐ近くです。)

些々羅では製品1品から全国送料無料にて承っております。(※製品の大きさによって通常郵便か宅配便になるかはこちらで決めさせていただきます。ご指定はできない場合がありますので、ご了承ください。)


使命なんて知らなくていいのかも

2014-06-26 09:03:00 | 精神世界

 

先日、クライアントさんとのコンサルテーションの途中に雑談ぽくなって「前世が・・」とか「使命が・・」という話になったときでした。

 

ふっと瞬間的に、

 

「そうか! そういうことなら私は使命になんて気付かなくったっていいぞ。」と思ったことがありました。



それはどんな瞬間だったかと言うと、そのクライアントさんが、

 

「自分の思ってることを、どう言ったらいいのかその表現が見つからないとき、ってあるじゃないですか。」とおっしゃったときのことです。

 

ふんふん、と聞きながらも私は内心では、(え、私は、ない。)と思ったのでした。

 

ここで表現してしまってもいいのか?というTPOを考えることはあっても、どうぞ、どうぞここではすべてをオープンにしていいんですよ、という場とタイミングで、ただ自分がそのときに感じていることを全部吐き出せていなくてもどかしい、と思ったことは私はないんです。

 

それが普通のことなのではなくて、多くの人が彼女と同じくどう表現していいのか、のほうで悩むことが多いんだ、ということを知ったとき、私に「待てよ、ひょっとして使命になんか気づかなくったっていいのかも・・」という気付きが瞬間的に訪れたのでした。



これまで私は、今生での自分の使命が知りたい、と思ってきました。

 

使命なのか、天命なのか、テーマなのか、それはどうでもよい。

 

ただ自分がこの世に生きている意味が知りたい、とそう思ってきました。

 

そのためのツールとしてオーラソーマを使っているんだ、とさえ思っていました。



この世に遣わされた意味というのはいろんなパターンがあるような気がします。

 

前世であと一歩だったというところで志半ばで果て・・・という「引き継ぎ」みたいなパターンもあれば、前世でどーしても出来なかったことをやりに来た、みたいな「前世の魂なぐさめパターン」もあるような気がします。

 

もし、私が後者のパターンで、前世、何らかの事情で圧力がかかり、自分が考えていること、感じていることなどを思うように世界に向けて叫べなかった人生を送ったとします。

 

それが心残りで、その魂は今生、「100%自分の内側にあるものを外側に開放してみたい。」ということを使命としてやってきたのだとします。

 

・・・だったらわたし、もうそこは十分にやっちゃってるじゃん。

 

このブログ1つとってみたところでそうです。

 

私は全部オープンにしている。

 

何か出し切っていない、と思うことはありません。

 

そりゃあ、自分の表現力というテクニックのなさの問題はあります。

 

けれど少なくとも自分が内側に抱えていたものを外側に取り出してみようとしたのに、何だかまだ四隅のあたりに残っているものがありそうだな、あー、出したいのに気分が悪い、という便秘のような気分になったことはないんです。

 

全部、書いている。



私は“使命”というと何かしらもっと崇高なものだと思っていたのかもしれません。

 

けれど、前世やれなかったことの反動がテーマになっている、というような場合、この程度の身近なことをテーマにしている、ということもありえますよね。

 

「言えなかった」ことを「言えるようになりたい」という程度の。

 

で、今生私はその程度のことはもうやっちゃってるじゃん、となったときどうするかと言えば、もう私は自殺しちゃうかもしれない、と思ったんです。

 

「え? なぁんだ。そんなことが私の使命だったんですか・・ それなら、もうとっくにやっちゃってますよ・・ では、このあとのまだ残された人生はどうしたらいいんで?」

 

と天に尋ねても「まぁ、おまけだと思ってのんびりとお過ごしなさい。」という返事でもかえってくるんでしょうか。

 

そうしたら私なら、もういいや、って死んじゃうかも、って思ったんです。

 

そう考えた時ぞっとしました。

 

だから「使命、知りたい、知りたい。」って知りたい病だったけれど、知らなくてもいいのかも・・ と思ったのです。

 

私たちは知っていたほうがいいことなら、天だってそんな意地悪せずに万人に生まれた時から教えてくれるように思います。

 

けれどはっきりとわからないまま生かされる、というのにはそれなりの意味があるのでしょう。

 

私のように教えたら、なぁ~んだ、ってことでその宿題をいち早くやっちゃって残りの人生死にたくなっちゃうような人があらわれてもいけないから、ってことで知らなくていいようにブロックされているのかもしれません。



そういうことだったのかぁ・・

 

なんだか私はいたく納得してぼーっとしていました。

 

そうしたらクライアントさんが、

 

「何かしら次の人生に持越しながら使命を私たちはやっているとしたら、どこかで完全にやりきった、というときは来るんでしょうかね?

 

もういいや、これで。完結編。終わり、ってときが。」

 

と言いました。

 

私は瞬時に、

 

「ないような気がする。」

 

と答えました。

 

「だから人間って何千回も何万回も何十万回も転生するんでしょうね。」と。



「でも・・ マスターっていうのは確かかつて人間だった魂が天に引き上げられたものなんですよね?」とさらにクライアントさん。

 

「あれは、もうやりきった人が天に引き上げられたんでしょうか? もう人間としてのテーマは完結しちゃったよ、という人が。」

 

ほんとだよねぇ。

 

でも、天だって嫌がる人間を無理やりに天に連れて行く、っていう無碍なことはしないように思う。

 

ちゃんと本人も納得するから連れて行くんだろうな~

 

ということは、何十万回か何百万回か知らないけれど転生するなかで「やりきった」という人はやっぱり出現するんだ。

 

よっぽどまれな人なんだろうな。

 

だからマスターなんだろうな。

 

そう思うとこれからマスターボトルを使う時や、クイントエッセンスをかぐときはもっと「ありがたい」って気持ちが沸き起こりそうだわ。

 




自分の使命の話に戻しますと、私たちは同じことを言われているときでもちょっとした表現の違いでそれに対する感覚が全然違ったりしますよね。

 

たとえば私は「自分の内側にある感情などを全部外側に向けて表現する」ことが今回の使命だ、と言われたら「もうやっちゃってる・・」という感じになるけれども、「思い切り表現すること」が今回のお前の使命だけれど、と言われたら、「まだやりきってないことがあるような気がする。」と答えることになります。

 

なぜやりきってないことがあるような気がするのか?

 

それは私にはわかりません。

 

それは私の魂が知っている。

 

私の魂が、「わたし」という人間とは別の人格を持っているかのように知っている。

 

だったら私はその魂の満足のためにやってあげなくちゃ、という自分自身の魂へ奉仕する、という気持ちが沸き起こりました。

 

そんな感覚ははじめてのことです。

 

でも「自分の魂のために奉仕する」という考え方のほうがピンとくるっていうか、私にとっては「やってあげなくちゃ」という気になるのでした。








メニュー、料金、オーラソーマってどういうもの?ということをもう少し詳しくお調べになりたい方は、「HP 些々羅」をクリックしていただき、「オーラソーマ」のナビゲーションから、お知りになりたい項目をご覧になってください。

そこに直接「予約フォーム」に入れる表記があります。

ブログ左肩の「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」をクリックしていただきますと、最新の「営業案内」を見ることができます。

ご予約はメールにて受け付けております。

「オーラソーマヒーリングサロン 些々羅」は、岐阜市中心街にあるサロンです。(岐阜市役所南庁舎すぐ近くです。)

些々羅では製品1品から全国送料無料にて承っております。(※製品の大きさによって通常郵便か宅配便になるかはこちらで決めさせていただきます。ご指定はできない場合がありますので、ご了承ください。)